なべさんぽ

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『紅の豚』は何故ブタになったのか?

 最近実写版『耳をすませば』が公開されましたが、今回の話題はジブリつながりということで「『紅の豚』はなぜブタになったのか?」です。

 

 前回のブログで扱った『シン・ゴジラ』は6年前公開の映画でしたが、『紅の豚』は30年前の1992年公開というもっと古い映画です。このブログの読者の中には当時子供だった方やまだ産まれていなかった方もいらっしゃると思いますが、テレビで何度も放映されている映画ですから、ご存知の方も多いでしょう。

 この映画を観た方の中にはきっと「『紅の豚』の主人公はなぜブタの姿をしているんだ?」という疑問を抱いた方もいるかと存じます。私もそのうちの一人で、長年疑問を胸に抱いてきましたが、公開から30年たった今日まで誰も明確な回答を与えてくれていません。そこでもうガマンが出来なくなった私がこの問題にケリを付けようというわけです。

 

 結論から先に申し上げますと、「ブタとは『役に立たない人間』のことであり、役に立つ人間であることを拒否したからブタになった」です。

 

  • 映画の概要
  • ブタとは何か?
  • ポルコ・ロッソはなにゆえ役立たずなのか?
  • 「正しい教え」に関する難しい話
  • ポルコの歩む道

 

 

映画の概要

 観たことがない人と内容を忘れてしまった人のためにまずは映画の概要をお書きします。

 

 1992年公開の『紅の豚』は宮崎駿監督率いるスタジオジブリ制作のアニメーション映画で、アドリア海を舞台に飛行艇乗りのブタが己の誇りを懸けて闘う活劇です。

 

 主人公ポルコ・ロッソは飛行艇乗りのブタで、アドリア海を荒らす海賊ならぬ空賊相手に賞金稼ぎをしていました。ポルコは第一次世界大戦の英雄で腕のよい飛行艇乗りでしたが、戦争で仲間を失い絶望を味わったため前向きに生きることが出来ません。想い人であるホテルアドリアーノのおかみマダム・ジーナに対しても態度を決めかね、のらりくらりと誤魔化すばかりです。ある時ブタが邪魔で仕方なくなった空賊たちはアメリカ人の飛行艇乗りミスターカーチスを雇ってブタを倒そうと画策します。ポルコは不調の飛行艇を修理しようとミラノへ飛んでいる最中にカーチスの襲撃を受け、撃墜されてしまいます。無事に生きていたポルコは昔馴染みを頼ってミラノへ行き、そこでかつて同じ部隊に所属していたピッコロの娘フィオの設計によって飛行艇を修復します。国家に非協力的なポルコはミラノで秘密警察に目を付けられて逮捕されそうになりますが、戦友でイタリア空軍少佐フェラーリンの協力で難を逃れ、フィオを伴いミラノを脱出することに成功します。アドリア海に戻ったポルコはカーチスに再戦を挑み、見事撃破してアドリア海飛行艇乗りの誇りを取り戻すのでした。

 

 この映画の不思議なところは主人公のブタがまるで人間であるかのように振る舞っていて、登場人物の誰もがそのことを不思議がらずに受け入れている点です。ブタが服を着て2本足で歩いて人間の言葉を話していたら普通は驚きます。しかるに、映画の中で言葉を話すブタに対して誰も驚かないし疑問を抱いていない。これはかなりおかしいことです。

 

 こういうことを書くと「お話なんだからそういうものでしょ?まったく、野暮なこと言うなよなー」と誰かが言ってきそうですが、まあ、そうですね。私は空想のお話に対して「現実的じゃない!」と文句を付けているのですから、野暮というか、大人げないというか、少なくとも粋ではありません。じゃあこのブログを書くことをやめちゃおうかとも思いますが、「『紅の豚』の主人公はなぜブタの姿をしているんだ?」という疑問を抱いてしまった時点でもう手遅れで、私は野暮天であることが確定しています。私と同じ疑問を抱いてしまったそこのあなたも、残念ながら私と同じ野暮天仲間です。諦めましょう。野暮だの粋だのを気にして何もしないより、疑問を解消するためにあれこれ考えてみた方がよいでしょう。疑問が解消すればお話を素直に楽しめるようになり、野暮を克服できるかもしれませんからね。

 

 

 ブタとは何か?

 この映画の主人公の歩いてしゃべるブタですが、このブタはポルコ・ロッソ(マルコ・パゴット)という名前の人間です。人間なので歩いてしゃべるのは当たり前ですが、じゃあなんで見た目がブタなのかというと、魔法だか呪いだかでブタの姿になったそうです。

 

 人間を物理的にブタの姿に変える方法など現実にはないので、この「魔法」だか「呪い」だかは心理的なものです。つまりポルコ・ロッソは実際にブタの姿をしているのではなく、

 

自分のことをブタ野郎だと思っているから映画ではそれがブタの姿として表現されている

 

ということになります。

 

 このように申し上げてもピンとこないと思いますので、ちょっと映画から離れて、

ブタとは一体何を表現するものか

について考えたいと思います。

 

 豚は四足歩行の哺乳類で、イノシシを改良して産み出された食肉用の家畜です。ピンクで体毛が薄く、体型はずんぐりしていて、「豚鼻」と呼ばれる上を向いた鼻が特徴的です。

 この豚ですが、人を罵るときに「このブタ野郎!」というように遣われることがある言葉です。つまり悪口ですが、この悪口は一般的に人の容姿についての悪口だと思われていて、豚のように太っていたり顔が潰れて鼻が上を向いていたりすると「ブタ」と言われてしまいます。

 しかしこれは間違いです。豚が太っていて鼻が上を向いているからといってそれがそのまま悪口になるとは限りません。太っているのなら牛やカバやトドだってそうです。鼻が上を向いていたって、場合によっては「愛嬌がある」と言われることもあり、豚のことを「かわいい」という人だっています。豚の見た目が特段醜いわけではありません。

 

 「このブタ野郎!」が相手の外見ではなく何を罵っているのかと申しますと、「役立たず」であることです。

 

 豚は家畜ですが、家畜には豚以外にも牛、鶏、馬、ロバ、羊、ヤギなどがいます。「家畜」というと「エサをもらって他人に従うだけで自分がないヤツ」という悪口にも遣われ、それ自体で蔑まれるべき存在です。それにも関わらずブタだけが特段蔑まれるというのは、これら家畜の中で豚だけが仕事をしていないからです。牛はお乳を出し、土を耕すのに使われ、荷物運びもします。鶏は卵を産み、鳴き声で人々に朝が来たことを告げ知らせます。馬は平地で素早く、ロバは険しい山道で荷物を運びます。羊は毛が糸の材料になり、ヤギもお乳を出します。皆何か役に立つ仕事をしています。

 しかるに、豚だけが仕事をしません。豚はエサを食べてブクブク太って食肉になるしかなく、役立たずです。だから「このブタ野郎!」は「この役立たず!」という意味になります。

 

 ポルコ・ロッソは自分のことを豚と同じ「役立たず」だと考えているため、物語の語り手の視点であるアニメの映像ではポルコが豚の姿で描かれています。また、ポルコ本人にも、物理的には自分が人間として見えていますが、気持ちの上では自分がブタに見えています。そして周囲の人々の目にもポルコは人間として映っていますが、「オレはブタ野郎だ…」というポルコの卑屈さがその表情に現れているため、彼のことをブタと呼んでいるのです。

 

 

ポルコ・ロッソはなにゆえ役立たずなのか?

 自分のことを「オレはブタ野郎だ…」と考えて卑屈になっているからポルコ・ロッソはブタの姿で描かれていることが分かりました。これで「『紅の豚』の主人公はなぜブタの姿をしているんだ?」という疑問は解決しました。しかし、こう考えると更なる疑問が浮上してきます。それは

ポルコはなぜ自分のことをブタ野郎=役立たずだと思っているのか?

です。

 

 ポルコ・ロッソは賞金稼ぎをして生活しています。飛行艇の操縦技術は随一で、空賊たちやイタリア空軍からは一目置かれています。無人島で孤独に暮らしていますが、友人や仲間に恵まれていて、女にもモテます。時々は街へ出て買い物をしたり飛行艇のローンを支払っていたりします。こういう生活の様子を見ていると、ポルコ・ロッソが「役立たず」だとは思えません。むしろ有能でカッコいい男です。それなのになぜポルコは自分のことを「役立たず」だと思っているのでしょうか?それはポルコが

「役に立つ」人間であることを拒否している

からです。

 

 『紅の豚』は世界恐慌の起こった1929年頃のお話です。不景気のただ中でみな不安から何かにすがりたくなっており、台頭してきたファシズムが国家のために生きるべきだという「正しい教え」を広めている、そういう時代です。「国家のために生きる」とは農業で食料を生産することや商工業で国を経済的に豊かにすること、あるいは植民地獲得戦争に兵隊として参加すること、または文化・芸術で国の威信を高めることなどですが、これらの仕事に従事して国家の役に立つことこそ人としての正しいあり方なのだと政府は喧伝していました。ポルコの仕事は賞金稼ぎのため、上のどれにも当てはまりません。空賊と戦うことは面白い見世物で「文化・芸術」に当てはまりそうですが、ポルコは別に国家の威信を高めるために戦っているわけではありませんから該当しません。第一次世界大戦に従軍した英雄であり今も賞金稼ぎとして名を売っているポルコに対してイタリア政府としては国家に協力してほしいと思います。しかしポルコはそれに応じません。そのためポルコはお尋ね者になってしまい、フェラーリン少佐いわく「反国家非協力罪、密出入国、退廃思想、ハレンチで怠惰なブタでいる罪、猥褻物陳列」で逮捕状が出され秘密警察に追われることになります。「気を付けろ、奴らはブタを裁判にかける気はないぞ」とのことなので、捕まったら拷問を受けて殺されてしまうのでしょう。

 

 「そんなに危険な目に遇うくらいなら国家に協力すればよいのに…」と普通なら考えますが、ポルコには出来ないわけがあります。第一次世界大戦最後の夏、25歳前後のポルコは部隊で偵察飛行中に敵と遭遇し戦闘になります。戦闘機はどんどん撃墜され大勢の兵が死に、ポルコも三機に追われて必死で逃げ回り死の恐怖を味わいます。なんとか生き残ったポルコでしたが、その戦闘で共に従軍した友人メルリーニを失うことになります。メルリーニは戦闘の二日前にジーナと結婚したばかりでした。戦争に参加したって誰も幸せにならないことを悟ったポルコは国家の広めている「正しい教え」なんか信じませんし、戦争を遂行する国家に協力することなんて出来ません。ですから「役立たず」としてお尋ね者になったとしても、国家の定義する「役に立つ」人間であることを拒否するのです。

 

 

「正しい教え」に関する難しい話

※ここは『紅の豚』本編には直接は関係のない少し面倒な話になります。難しい話が嫌な方は飛ばして下さい。

 

 『紅の豚』の世界では国家という「正しい教え」がありましたが、それは物語の中や遠い過去にだけ存在するものではありません。映画が公開されたのは1992年、旧ソビエト連邦が崩壊した後であり日本のバブル景気が弾けている時期でしたが、これらは「正しい教え」が終わってしまったことに対応して起こった出来事です。

 

 それまでヨーロッパ世界では社会主義を掲げる旧ソビエト連邦率いる東欧と資本主義を掲げるアメリカ率いる西欧が対立する冷戦が起きていました。社会主義

「国家が経済活動を管理し、財産は国民で共有し富は平等に分配すべきだ」

という考え方のことで、資本主義は

「個人が自由に経済活動を行い、得た富の私有を認めるべきだ」

という考え方のことです。

 社会主義国家は、国家が農工商業を管理して働く人に平等に給料を払うという経済体制でした。これは人びとが飢えに苦しむような貧乏な時代にはある程度うまくいきました。しかしだんだん東欧が豊かになってくると、もっと豊かになることを目指せない経済のもと人びとの頑張る気が起きなくなります。そしてその生産性の低さから経済が破綻して、東欧諸国は次々に社会主義を放棄、ソビエト連邦も1991年に消滅し構成国がそれぞれ独立しました。

 東欧に対抗する西欧は資本主義によって経済を発展させてきました。個人が財産を増やせることは大変魅力的だったため経済は盛んになり、西欧と同じく資本主義の日本でも国民総中流と言われるほど国民がお金持ちとなりました。日本はヨーロッパではありませんが、西欧諸国と貿易して当時は世界経済の覇権を取っていて、資本主義世界の裏のボスでした。しかしお金余りから投機が加熱、バブル景気が起きて弾け、経済に深刻な傷を負いました。日本人は「儲けたお金をどう使うか」ということを考えられず、儲けたお金を使って「もっと儲ける」という金儲けの自己目的化に陥りました。しかし日本経済に拡大の余地はもうなくなっていて、無理に株や土地に投機し、経済に破綻を招いたのです。資本主義世界の裏の覇者日本もソビエト連邦同様に倒れてしまったのです。

 

 冷戦は政治・経済の考え方の違いによって起きていた対立ですが、社会主義・資本主義の「◯◯主義」とは「正しい教え」のことです。「正しい教え」を信奉していると、教えの通りに行動すればよいだけなので非常に楽です。自分で感じ・考え・行動するという人間にとって当たり前の義務は、当たり前だけどけっこう難しく、達成が困難なものなので、やらなくてすむものならばやりたくないものです。しかしポルコもソビエト連邦も日本も1992年の時点で「正しい教え」には無理があることがわかってしまいました。こうなったらもう我々は「自分で感じ・考え・行動する」という人間にとって当たり前の義務を履行するしかありません。

 

 ポルコがブタであるのは、正しく人間たらんとして一般人の信奉する「正しい教え」を拒否したからなのです。人が奉じるべき教えを信じなかったらその人は人間以下の扱いを受けます。それが「役立たず」の「ブタ野郎」で、ポルコはブタであることによって「自分で感じ・考え・行動する」ことを選んだのです。

 

 

ポルコの歩む道

 「正しい教え」の説く「役に立つ」人間であることを拒否したポルコですが、そんなポルコは「思い出」を大事にして生きようとしました。

 

 ポルコには友だちと一緒に空を飛んだ思い出があります。劇中にはジーナと若い男4人で撮った写真が出てきます。この写真のポルコの顔は黒ペンで消されてしまっていて、更に残りの3人の男は全員死んでしまっています。昔を知っているのはもうポルコとジーナだけです。老人ならばそれも当たり前で諦めも付くでしょうが、ポルコの年齢は36歳くらいです。その若さで友人のほとんどに死なれてしまうとは悲惨です。

 そんなポルコがお尋ね者になってまで自由に空を飛ぼうとするのは不思議ですが、ポルコは思い出を忘れないために飛んでいるのです。かつて友だちと一緒にアドリア海を飛んで「気持ちいいね、キレイだね」と言い合った、その事こそが生きる上で大事なことなんだと言いたいのです。そしてもし機会があったら「気持ちいいね、キレイだね」と言い合える人にまた新たに出会えたら、若い娘フィオを前にして人間に戻ってしまうポルコはそんなステキな未来を夢見ていたかもしれません。

 

 「正しい教え」ではなく「ステキな思い出」を生きる指針にする、これがポルコの生き方です。「正しい教え」が終わってしまった現代に生きる私たちもポルコの生き方を参考にしたいものです。

 

 

 

 今回はここまでです。皆さんの抱いた「『紅の豚』はなぜブタになったのか?」という疑問が解消されていたら嬉しく存じます。

 ありのまま人として生きることはなかなか困難なもので、時代や状況からブタとして生きるしかなくなってしまうこともあります。私や皆さんがブタになってしまうかもしれませんし、もしかしたら既にブタになっている方がいらっしゃるかもしれません。でも心配はいりません。例えブタなってしまったとしても、人知れず胸の内に赤い火を灯し続ける「紅の豚」として生きる道をポルコがもう示してくれているのですから。

 

それでは。