なべさんぽ

ちょっと横道に逸れて散歩しましょう。

なぜ少女が泣くと雨が降るのか?

冬のはじめのこの時期、みなさまいかがお過ごしでしょうか?
新型コロナウイルスの流行で思うように外出できず、ご自宅でお過ごしの方も多いかと存じます。そんなときには映画やドラマのDVDを見たり、マンガや小説を読んだりする機会も多いかと思いますが、鑑賞した作品が「よくわからない」と思われたことはありませんか?

 
 鑑賞した作品の全体あるいは一部によくわからない表現がある、また別の作品を鑑賞してもよくわからないところが、そしてまた別の作品をみてもやっぱり・・・
 「わからない」が重なって「自分には物語を理解するだけのセンスがないのではないか?」と思って落ち込んでしまう、そんな経験はありませんか?

 こういった方は男性に多いです。男性は物事を「感情」ではなく「論理」で捉えがちのため、「感情」の領域にある物語を捉えることが苦手なのです。
 苦手ではありますが、男性だって物語を楽しみたいと思っていますから、鑑賞した作品に「わからない」ところが多いと、「わかりたくてもわかることができない」という悔しい思いをします。



 今回は「自分には物語を理解するだけのセンスがないのではないか?」と思っている方に向けて、その「センス」を磨く方法をお話ししようと思います。



(※今回は長いので時間のあるときにお読みください)




方法は3つです。
①「論理」に自信をもつこと
②因果関係を見誤らないこと
③人を疑うこと



ここでは「少女が泣くと雨が降る」というシーンに沿って3つの方法を説明します。



 

 冬のはじめの寒い日、少女が街外れの一本杉の下に1人で立っていました。杉の幹に寄りかかっている少女は浮かない顔です。
 両親は仲が悪くいつも喧嘩ばかりしています。そのせいで少女はあまり笑わない子供になってしまい、暗すぎる彼女には学校で友達ができません。唯一優しくしてくれたおばあちゃんは今年の夏に死んでしまいました。
 今日も休日だというのに両親は朝から大喧嘩、たまらず家を飛び出したはよいものの、行くアテもなく、あっちをフラフラこっちをフラフラ、行き着いた先がこの一本杉でした。少女はもう生きるのが嫌になっていましたが、そんな嘆きを受け止めてくれる人はおらず、ただ一人仏頂面をするしかないのでした。そんな少女の気持ちを知ってか、空は灰色の雲であふれ、暗く沈痛な面持ちです。痛いほどに冷たい風も吹き付けてきます。
 ふと、少女が街の方に目をやると、クリスマスに向けて飾り立てられた商店街とそこを行き交う人々の様子が見えました。きらびやかな街の中を家族連れや恋人たちが幸せを見せつけながら歩いています。それを見て少女は思います、どうして自分だけが幸せではないのだろう、自分は不幸なのにどうして誰も優しく声を掛けてはくれないのだろう、と。そう思った途端にホロリホロリと涙が止まらなくなりました。止めようとしても涙はあとからあとから溢れてきます。悲しみが天にまで届いたか、ポツリポツリと雨が降りだし、やがてザーザー本降りとなりました。雨はしばらくやみそうにもないのでした・・・



 

 
 この後の展開が気になる方もいらっしゃるかもしれませんが、少女マンガだと王子さまが現れて二人であらゆる困難を乗り越え幸せになることになっていますから、少女の先行きは大丈夫です。人の心配より今は「センス」を磨く方法に専念しましょう。


 

まずは
①「論理」に自信をもつこと
です。
 
 
 上のお話しの中で問題となる部分は
「悲しみが天にまで届いたか、ポツリポツリと雨が降りだし、やがてザーザー本降りとなりました。」
の箇所です。ここを読んだあなたはどう思ったでしょうか?

「ふーん」とさして気にもせずに流してしまったか、「人1人の気分で天候が変わってたまるか!」と怒ってしまったか、「人1人の気分で天候が変わるわけはないのだけれど、それはこのお話を書いている人にも当然わかっているだろうし…きっとみんなにはわかるけれどボクのセンスでは理解できない何かがあるんだ、ああ、どうしよう」とオロオロしてしまったか、どれかでしょう。多分最後の「ああ、どうしよう」ではありませんか?


いけません!そんなことでどうします?
人の気分で天候などという物理的な現実がどうこうできるはずないじゃありませんか!
非論理に付け入る隙を与えてはなりません!

まずあなたに必要なのは
「人1人の気分で天候が変わってたまるか!」
と怒ることです。論理的である自分に自信を持ってください。



と、叱咤激励をしたところで、
②因果関係を見誤らないこと
です。

 
 あなたがオロオロしてしまう原因は2つあります。1つは「少女が泣く→雨が降る」という間違った因果関係を発見してしまったこと、もう1つは、その因果関係を「みんな」が認めていると思い込んだことです。

 
 お訊きしますが、少女が泣いたことが原因で雨が降るということがあるでしょうか?ありえませんね?まず、認めましょう、少女が泣いたことが原因で雨が降るということはありませんね?いいですね?
 
 それではあなたが気になっていることにいきますよ。あなたは
「でも『悲しみが天にまで届いたか、ポツリポツリと雨が降りだし』って書いてあるよ。この書き方だと『少女の悲しみが雨を降らせた』以外に考えようがないじゃないか。そりゃあボクだってそんなこと現実にはないってことぐらい知ってるよ?でもこれはお話だしさ、物理的な現実を持ち出すのは野暮なのかもしれないし、きっとボクにセンスがないのがいけないんだよ…」
と言いたいのでしょう?違いますか?


バカッ!
トンマ!
意気地無し!
「お話」がなんです!この現実と関係のない夢の国を描いただけの「お話」なんかに存在意義はありません!全ての「お話」はこの現実に関係あるべきなんです!だから「お話」の方が「現実とは関係ありませんよ?」って顔をしていたら、「ウソだ!」と言って現実に引き込めばいいんです。ビビるんじゃないよ!



 また叱咤激励したところで説明です。
 上のお話を読むと「少女が泣く→雨が降りだす」という因果関係を読み取ってしまいそうになりますが、これは間違いで、「雨が降りそうな天候→少女が泣く」の順序が正しいのです。


 センスに自信のないみなさんも、天気がよいと気分がよいし天気が悪いと気分がよくない、ということはわかりますね。で、天気が悪くて気分がよくない、そんなときには普段は抑えていた「悲しみ」や「さみしさ」といった負の感情が溢れて泣いてしまう、これもおかしくないですね。幸せそうな人々を見ちゃってもいたし。そしてもともと少女はつらい日々を送っていたから、いつ泣き出してもおかしくはなかった、これもわかりますね?つまり、


「少女はいつ泣いてもおかしくない状態だった」(原因)
+「悪い天候」&「街の光景」(きっかけ)
→「少女が泣く」(結果)
「そのうちに雨も降ってきた」(悪い天候に付随する出来事)


なのです。「雨が降る」ことは実は少女が泣くこととあまり関係ないのです。わかりましたか?



「理屈はわかったよ?理屈は。でも、でも『悲しみが天にまで届いたか、ポツリポツリと雨が降りだし』って書いてあるよ。少女は悲しかったかもしれないけど、このお話の書き手は冷静なはずでしょ?少女を客観的に見てこのお話を書いているんだよね?それなら変なこと書かないはずだよ。やっぱり『少女の悲しみが雨を降らせた』んだよ。きっとボクにはわからないだけでみんなはこれが正しいってことがわかってるんだよ。だいたい『少女が泣くから雨が降るなんておかしい』なんてこと言っている野暮なやつはボクしかいないし…」


ああ、もう、やだっ!しつこいっ!そんなんだからお前は野暮って言われるんだよ!
「みんな」って誰?その「みんな」はそんなに正しいの?お前が正しくて「みんな」が間違っているかもしれないじゃないか?「みんな」に自分の考えを話したの?話してないでしょ?やっぱり…結局お前は「みんなと違うことを言うと笑われるかも、嫌われるかも」ってビクビクオドオドしている事無かれ主義の意気地無しなんだよ!



と、勝手に盛り上がったところで
③人を疑うこと
です。誰のことを疑うのかというと「みんな」と「書き手」のことをです。
先程私はこう言いました。


・・・あなたがオロオロしてしまう原因は2つあります。1つは「少女が泣く→雨が降る」という間違った因果関係を発見してしまったこと、もう1つは、その因果関係を「みんな」が認めていると思い込んだことです。・・・


前半についてはもう説明しましたが、後半がまだです。


お訊きしますが、あなたは「少女が泣くから雨が降るなんておかしい」と考えはしたと思いますが、その疑問を誰かに話して明快な回答を得られたことが一度でもありましたか?おそらく誰にも話したことがないか、話したことがあったとしても「そんなこと誰も考えないよ。君は考えすぎなんだよ」なんて言われてションボリしてしまったかのどちらかでしょう?違いますか?あっているでしょう?

 もしそうだったらあなたの「少女が泣くから雨が降るなんておかしい」という考えはまだ間違っていると決まってはいません。それなのに自分は間違っていると決めつけてしまう、これはおかしいです。
 あなたは「そんなこと誰も考えないよ。君は考えすぎなんだよ」と答えた相手(おそらく女)を追及すべきだったんです。「考えすぎなんかじゃない。やっぱりおかしいもの。君はどう思うんだ?教えてくれ。」と。でもしなかった、なぜなら「そんな暑苦しいこと言ったら嫌われちゃうかも」と思ったからですね。だから私はあなたのことを「事無かれ主義の意気地無し」と言ったのです。


 さて、問題の「みんな」です。まず「みんな」とは誰のことでしょう?「たかし」でもなく「よしこ」でもなく、「みんな」です。
 結論から言うと「みんな」なんていません。あなたが頭の中で作り出したオバケです。
 
 先程も言いましたがあなたは「少女が泣くから雨が降るなんておかしい」というあなたの考えを人に話していません。そこであなたはこの考えを「よしこ」に話すことにしました。なぜあなたは「よしこ」を選んだのかと言いますと、「自分よりセンスがよいはずだ」とセンスに関しては「よしこ」を信頼しているからです。
 あなたは「よしこ」にあなたの考えを話す、すると「そんなこと誰も考えないよ。君は考えすぎなんだよ」という答えが返ってきた。そしてあなたは「ああやっぱり、ボクはセンスが悪いんだ」と思ってショックを受けてしまった。ただ、「よしこ」一人の意見だけで自分のセンスのなさを決めてしまうのは根拠に乏しいと考えたあなたは、他の人にも聞こうと思いました。しかし、「よしこ」に自分のセンスの悪さをさらけ出してしまったときのショックが忘れられず、他の人に聞くのが怖くなってしまった。「じゃあ、もう『みんな』がボクのセンスの悪さを知っているということにしてしまおう」と思ったあなたは「みんな」という存在しないオバケを産み出した。これが「みんな」の正体です。


 「みんな」は便利です。あなたが何かを人に尋ねて確認しなくてはならないとき、特に人に聞きづらいことを聞かなくてはならないときに、この「みんな」はあらかじめ「お前は間違っている」と言ってくれます。あなたは「みんな」が「間違っている」と言うのをいいことに、実際に人に尋ねることをしない。そしてあなたは自分のセンスのなさを人にさらけ出す危険を犯すこと無く「自分が間違っている」という結論を出して安心していられます。
 あなたのセンスが悪く、物語を理解することができなかったのはこれが原因です。この「みんな」というオバケをやっつけないことにはあなたのセンスはよくなることがありません。



 それではどうしたらこのオバケをやっつけられるのかと言いますと、「『よしこ』は大したことがないのかもしれない」と考えて「よしこ」ともっとよく話し合えばよいのです。「よしこ」を疑うのです。
 「そんなことできない」とお思いですか?「『よしこ』のセンスが自分より上だということは確かなのだから、『よしこ』のセンスを疑うなんて思い上がった行為だ」と思いますか?
 私はなにも「よしこ」の「センス」を疑え、なんて言っていないのです。「よしこ」の「親切さ」を疑え、と言っているのです。



 「よしこ」のセンスは確実にあなたより上でしょう。なにしろあなたがセンスを信頼しているのですから。そこは正しい。
 しかしあなたはお人好しのため、「よしこ」を始めとする他人は「親切」だと思っている。他人というものは自分が困っていたらこちらからの詳しい説明もなしに勝手になにもかも察してくれて的確な答えを与えてくれる、もしくは力になれないのなら「力になれない」とハッキリ言ってくれる、そう思っている。そこが間違っているのです。
 

 他人はなにもかも察してくれるほど能力が高くもなければ、あなたになにもかも説明してくれるほど親切でもありません。だから自分の考えを人に話すときには「わかってるのかな?」と疑って、しつこく確認をする必要がありますし、相手の話によくわからないところがあったら「それはどういうことなの?」と尋ねなくてはなりません。これは相手に失礼なことでもなんでもありません。世の中では当たり前に行われていることですから、どんどんやっちゃって平気です。今度からは確認を徹底していきましょう。
 ただし、きちんと自分の考えを話せるようになるには時間がかかりますし、相手に的確な質問をすることも難しいので、うまくいかない期間があります。年単位であります。この我慢の時間には耐えるしかありません。
しかし耐えて力をつけた暁には「みんな」というオバケは消えていますので、頑張ってください。



 最後に「みんな」の真ん中にデンと居座っている「お話の書き手」をやっつけちゃいましょう。
 「書き手(作り手)」はあなたにとって権威です。小説やマンガのように本の形になって出版されたもの、あるいは映画館で上映される映画やテレビで放映されるドラマ、または劇場で上演される演劇といったものは、「きちんとしたもの」に見えます。「きちんとしたもの」は正しいもので、まともな頭を持っている人に理解できるように作られているはずだ、あなたはそのように思っています。


 しかし私のこれまでの話からわかったことと思いますが、そんなわけありません。

 
 人は自分の欲に従って生きているものですから、お話の「書き手(作り手)」だって作りたいものを作りたいように作っています。だから「お話」はわかる人がわかるようにしか作られていないのです。「書き手(作り手)」は「よしこ」と同じでそんなに能力が高くもなければ親切でもないのです。「見る人全員が理解できるように作ろう」なんて立派なこと考えて作っている人なんていません。断言します。一人もいません。


 ですから作者の意向なんか気にせず、こっちだって勝手に見ればよいのです。「このシーンでヒロインが何を考えているのかわからない」とか「あの衣装はハデだな」とか「あの俳優の目付きがこわい」とか「主題歌がステキ」とか、自分の感想を持てばよいのです。そういったことを重ねていけば自然とセンスは身に付きます。
 「わからない」があっても、その「わからない」を気にしながら生活していけば、そのうち「わかった!」という時が来ます。なにしろお話は人の「感情」に関するもので、「論理的」なあなたにもきちんと感情はあるのですから。




今回は長くなってしまいましたが、これでおしまいです。みなさんが「論理的」であることを崩さず、それでいて豊かな「感情」をもつ、そんな人間になれることをお祈り申し上げます。

ここまで読んでくださりありがとうございました。