なべさんぽ

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【本編④】『もののけ姫』がわからないー呪いー

 皆さんこんにちは。「『もののけ姫』がわからない」の第5回目です。ヘンなブログを間に挟んで中断しましたが、続きを書いていきたいと存じます。

 映画『もののけ姫』の中でアシタカはタタリ神を倒した際に呪いを受けました。このアシタカを死に至らしめる呪いは物語の中で重要な役割を担っていますが、「呪い」と言われてもピンとこない方が多かろうと思います。そこで今回は「呪い」なんてものが本当に存在するのか、その正体は何なのかということについて考えていきたいと思います。

 

  1. 呪い
  2. 通り魔
  3. 神々の凋落

 

1.呪い

 「呪い」というと藁人形の胸に五寸釘を打ち込む丑の刻参りや坊さんに呪いの祈祷をさせる呪詛、または魔法使いの魔法、神や妖怪や死者の怨念で呪われるといったことが知られているでしょう。これらは本・マンガ・アニメ・映画などの物語作品や怪談・都市伝説といった人の噂話で語られるようなことです。ですから呪いは作り話や単なる噂と考えられがちで、科学の発達した現代ではまともに取り上げられないものです。

 

 しかし【本編②】でお話ししたタタリ同様に、呪いは現代でも存在するものです。

【本編②】『もののけ姫がわからない』ー祟り神を祀るのはなぜか?ー

 「存在する」と申し上げましたが、「物理的に存在する」のではなく、「人の気持ちとして存在する」です。化学や物理学といった自然科学は基本的には人の気持ちを扱いません。ですから気持ちの問題である呪いを自然科学の範囲で理解しようとすると「呪いなんか存在しない」ということになります。呪いをきちんと人の気持ちとして扱えば理解可能なものになります。ここでは呪いを人の気持ちの問題として捉えた上で、アシタカにかけられた呪いとは何かを考えたいと思います。

 

 結論から言ってしまうと、呪いとは「通り魔に遭って覚えた恐怖が怒りに変わったもの」です。

 

 

 さて、注目したいのはアシタカがタタリ神に呪われた場面です。物語冒頭で蝦夷の村がタタリ神に襲われた場面については【本編②】で既に詳しくお話ししましたが、またこの場面を取り上げます。タタリ神の襲撃は、何の落ち度もない蝦夷の村とアシタカが襲われ呪われるという理不尽な出来事でした。この場面を見るとアシタカは村を襲ったタタリ神を倒したために不思議な力によって呪われたように思えますが、実はこの呪いは不思議でも何でもありません。「他人から理不尽な仕打ちを受けた時の人の気持ち」を考えてみるとそれが分かります。

 

 

2.通り魔

 例えばあなたが道を歩いていて知らない人から急に殴られたとします。こんな目に遭ったらまずあなたは驚くでしょう。驚いたあなたは何が起こったかはよく分からないものの、とにかく相手の拳を避けたり相手と距離をとったりして防御をします。相手の攻撃を防いで少し落ち着いたあなたは今度は何が起きたのかを知ろうとします。あなたは「いてえな!」とか「なんだよ!」とか「誰だ!」とか相手に向かって言い、相手が誰かということや殴ってきた理由を探ろうとします。ところが相手はなにも言わずに逃げてしまいました。通り魔だったのです。

 

 知らない相手から理由も分からず殴られたとしたらどう感じるでしょうか?まず怖いと感じます。通常、人は他人から攻撃されることを想定せずに日々を過ごしています。当然ですが、「自分は攻撃を受けるかもしれない」と考える動機がなければそんな想定はしないものです。「自分は攻撃を受けるかもしれない」と考えることがあるとすれば、他人から恨みを買っていたり、争い事に巻き込まれていたり、住んでいる地域の治安が悪いと感じていたり、そういった具体的な状況がある場合です。普通は「縁もゆかりもない他人から何の理由もなく攻撃されることがある」と考えませんし、そんなことはそうそう起きるものではありません。

 

 ところが、実際に「縁もゆかりもない他人から何の理由もなく攻撃される」という事態が起きてしまった。これは怖いです。自分が他人から攻撃を受けそうな状況にいることが分かっていたら備えることも出来ますが、想定外の攻撃は無防備なところを不意打ちされるようなものです。なすすべなく賊の凶行を許すことになってしまいます。「縁もゆかりもない他人から何の理由もなく攻撃されることがある」と考えて日々を過ごすことは「自分は無防備で、他人からの攻撃に対してなすすべがない」と考えて生きることと同じです。一度通り魔に遭ったら、恐怖に震えながら日常生活を送ることになるでしょう。

 

 

 通り魔という理不尽に出会って「怖い」という気持ちが生じる、その恐怖が高じると今度は反対に攻撃的な怒りが生まれます。

 

 ただの「怖い」だったら、今後は怖い目に遭わないように自分で対策をたてたり、周囲の協力を得て対処をしたりします。他人から恨みを買う・争いに巻き込まれることが原因で怖い目に遭ったら、恨みを買わないように普段の振る舞いに気を付けたり、自分を守ってくれる仲間を作っておいたり、争っている相手と話し合いをするなどして対処出来ます。治安の悪い地域に住んでいたために怖い目に遭ったら、治安のよい地域に引っ越す、地域住民や自治体と協力して治安の改善に取り組む、などといった対策がとれます。対策や対処が可能なら安心です。また、具体的な状況があると周囲の人からの理解が得やすいため、「怖かったね、気の毒に」という慰めの言葉もかけてもらえます。ですから怖い目に遭ったあなたは「そうなの!本当にひどい目に遭ったんだから!」と嘆きの声を受け止めてもらえて、気持ちも落ち着きます。

 

 しかし通り魔という理不尽に遭ったら、先ほど申し上げたように対策のしようがありません。せいぜいお巡りさんに巡回の回数を増やしてもらうか、人目のないところを歩かないよう気を付けるくらいが関の山です。これでは安心して暮らすことが出来ません。そしてもっと悪いことに、その「怖い」という気持ちは周囲の人から受け止めてもらえません。それというのも通り魔に遭った人は「怖い」ことを他人に言えなくなってしまうからです。

 

 「『縁もゆかりもない他人から何の理由もなく攻撃されることがある』と考えて日々を過ごすことは『自分は無防備で、他人からの攻撃に対してなすすべがない』と考えて生きることと同じ」

「一度通り魔に遭ったら、恐怖に震えながら日常生活を送ることになる」

先ほどこのように申し上げましたが、これはあまりにも怖くて普通の人にはなかなか耐えられるものではありません。怖さに支配されて日常生活を円滑に営めなくなるかもしれません。そのためほとんどの人が「怖い」ことを意識しないで生きることを選びます。通り魔に遭ったことを無かったことにして怖さを忘れてしまえば、怖さに捉えられることはありません。「無かったことにする」という技を使えば表面的には気持ちを切り替えることが出来るのです。ところが意識はしなくても胸の内に怖さは残っています。通り魔に遭ったことを意識の上で「無かったこと」にしても、その恐怖は胸の中から消すことも出来ないし、吐き出すことも出来ません。どうしようもない恐怖を1人で抱えることになります。しばらくはなんともありませんが、時間が経つにつれてだんだんと耐えられなくなり

「なんで私だけがこんな目に遭わなくちゃいけないんだ!」

という怒りをもって周囲に当たり散らすことになります。怒りはその原因となった相手にぶつけるべきものですが、通り魔は特定することが困難でそれは叶いません。そして理不尽な目に遭って理不尽に苦しめられている人は判断が鈍ります。だから周囲に八つ当たりをするのです。

 

 

3.神々の凋落

 説明が長くなったので何の話だったか忘れかけている方もいるかと存じますが、アシタカにかけられた呪いの話です。アシタカは自分の村が襲われるという体験をしました。襲ってきた相手であるタタリ神は倒しましたが、タタリ神は何か正当な理由があって村を襲ったのではありません。どこかで何かが起こったためにタタリ神が生まれ、貧乏くじを引いたアシタカの村が襲われたのでした。この場合、「どこかで起きた何か」が通り魔です。タタリ神が通り魔にも思えますが、違います。タタリ神は通り魔の拳で、理不尽を引き起こした張本人は「何か」であって、その正体は不明です。なんでそうなるかというと、タタリ神自体は倒してしまえばそれまでですが、「何か」がある限りまたタタリ神は生まれ得るものだからです。アシタカと村人は第2・第3のタタリ神に襲われる可能性があり、「縁もゆかりもない他人から何の理由もなく攻撃されることがある」という恐怖に震える「通り魔の被害者」と同じです。特にアシタカは大きな被害を受けました。

 

 蝦夷の一族は自然と共に生きており、大猪のような神々は恐れ敬うべき存在と考えて暮らしていました。この神々は人間のためにある「正しい神」などではなく、災害を引き起こしたり村を襲ったり生け贄を要求したりするような恐ろしい神々です。人間に対して理不尽なことをする神々ですが、蝦夷の人々からは尊敬されていました。人は美しいものを尊敬します。自分にとって都合がよいかどうかを抜きにして、「誇りを持って生きる者」を人は美しいと思い、称え敬います。ですから神々はその気高く美しい佇まいによって人々の尊敬を受けていました。蝦夷の人々は

「美しい神々が支配し統制する世界の中で人は慎ましく生きる」

という世界観・人生観でいたのです。

 

 ところがタタリ神の発生によってその世界観・人生観が崩れます。タタリ神は美しくない神です。誇りや気高さとは無縁の卑しさが全身に満ち、その姿も異形です。そんな神が生まれてしまったら、神々に対する尊敬の念は人々の中から消えてしまいます。

 

 アシタカは神を敬う少年であるため、初めは荒ぶるタタリ神を落ち着かせようと呼びかけました。神は一時の気の迷いによって卑しくなっているだけで、元に戻ることが出来るはず、そう考えたのでしょう。しかし神は鎮まらず、誇りを完全に捨て去った卑しい存在に成り果てていました。そのためアシタカは神を倒す決意をするのです。ここでアシタカが神を倒すことは、アシタカが「美しい神々が支配し統制する世界の中で人は慎ましく生きる」という世界観・人生観を捨てることを意味します。そうするともう神に頼ることはできなくなります。「人間は神に頼りきらず、自分たちの力で生きるものである」こういう考えでもって生きなければなりません。

 

 神が支配する世界の中でなら、何が起きても最終的な責任は神が取ってくれるから楽です。豊作だったら神のお陰、災害が起きたら神の怒り、疫病の蔓延は神の気まぐれなどと考えれば、良いことは勝手にやって来るし、悪いことはじっと耐えて過ぎ去るのを待つだけです。人間は何も考えなくて良いです。

 

 しかし神に頼りきらず自分たち人間も頭を使わなくてはならないとなると大変です。稲作や畑作が上手くいくよう用水の確保・肥料の工夫・品種改良などに精を出さなくてはなりません。地震や洪水対策に家の建築方法を工夫したり、堤防を作ったりしなくてはいけません。疫病対策に上下水道の整備や街の清掃、医療の充実を図らなくてはなりません。

 

 人間の力で良いことが生まれればそれは大変嬉しいことでしょう。「神のお陰」ではなくて「自分の力」で良いことを起こせたら誇りを持てますから。ところが悪いことが起きたときは「神の怒り」や「神の気まぐれ」のせいには出来ません。飢饉や地震・洪水、疫病の蔓延などが起きたら、「美しい神の振る舞いに振り回される人間」という立場はもはやとれません。「自然に翻弄される無力な人間」というミジメな立場に落とされます。ミジメな存在でいることは嫌ですから、無力感を埋めるために人間は知恵を絞って厳しい現実に対抗していくようになります。努力の結果、力をつけて無力感を払拭出来れば良いでしょう。神がいなくなっても今度は自分たちが誇りをもった美しい存在になれますから。しかしその道は長く不安なもので、歩き始めた当初は無力感を払拭している未来が見えてはいません。何の保証もなく辛く厳しい道を歩まねばならないのです。

 

 アシタカは今まで平和に生きてきたのにタタリ神の襲撃のせいで急な世界観の転換を余儀無くされます。そんなアシタカは通り魔に遭った人と同じです。神々の支配する平和な世界から自分の力であらゆる物事に対処しなければならない不安な世界に投げ込まれたのですから、大変心細く怖いと思っています。アシタカは自分だけで物事に対処できるだけの身体能力と心の強さを持ってはいますが、先行きは見通せず、怖さは胸に残ります。

 

 アシタカはそのままでいたら怖さが「なんで自分だけがこんな辛い世界観で生きなければならないんだ!」という怒りに変わってしまうでしょう。怒りが理不尽を行った相手に向けばよいですが、相手は「どこかで起きた何か」という実態の無い通り魔です。ぶつけるべき相手が見つからず、行き先を失った感情は八つ当たりをすることでしょう。また、怖さを誰かと共有できれば怒りが生じることはありませんが、それも難しいでしょう。アシタカは何が起こったのかを頭では理解しておらず、自分が胸に恐怖を抱えていることすら自覚できていません。自覚していなければ怖さを誰かと共有する必要性を感じず、したがってアシタカの恐怖が怒りに変わることは止められません。アシタカはこのままでいるとやり場の無い怒りを抱えることになり、怒りを押さえ込めなくなったときには理不尽な八つ当たりをするタタリ神になってしまいます。

 

 アシタカにかけられた呪いとは「新たなタタリ神になる呪い」であり、その仕組みは「通り魔に遭って覚えた恐怖が怒りに変わり、その怒りを本人も押さえ込めなくなる」というものなのでした。

 

 

 アシタカが蝦夷の村を出て戦に巻き込まれた序盤の場面に八つ当たりの萌芽が見られます。村を通過しようとしたアシタカに侍が攻撃を仕掛け、アシタカは矢を放って反撃します。本来なら刺さるだけであるはずの矢は1人の両腕を切り落とし、もう1人の首を弾き飛ばしています。必要以上の力を持って侍二人を倒したアシタカは既に怒りに捉えられています。

 

 中盤、タタラ場で烏帽子御前と共に石火矢開発小屋に赴いた場面では呪いがもっと強く現れます。烏帽子御前がモノノケや地侍・大名と戦うために新型の石火矢を開発していること、烏帽子御前に倒されたナゴの神がタタリ神となって蝦夷の村を襲ったことを知ったアシタカは烏帽子御前を斬ろうとします。この時アシタカの頭は冷静ですが、腕が勝手に暴れて刀を抜こうとしてしまいます。烏帽子御前は蝦夷の村がタタリ神に襲われる原因を作った人物のため怒りをぶつける相手であっても良さそうですが、烏帽子御前もタタラ場の人々も理不尽な世の中によって今の生活に追いやられています。彼らもまた「どこかで起きた何か」の犠牲者です。烏帽子御前やタタラ場の人々に怒りをぶつけることには正当性がないでしょう。アシタカもそのことを分かっていますから頭は冷静で、暴れる腕を押さえ込みます。

 

 

 

 やり場の無い感情を胸の内に抱えたアシタカには、「この気持ちをを誰かが受け止めてくれる」という希望がありません。もし絶望に囚われたら無差別に周囲に怨念を振り撒くタタリ神となることでしょう。果たしてアシタカに救いはあるのでしょうか?次回に続きます。