なべさんぽ

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猫又は存在する!?ー吉田兼好の逃げー

 皆さんこんにちは。「『もののけ姫』がわからない」の途中で申し訳ありませんが、また別のブログを挟みます。次の記事がなかなか書き上がらないため書きかけで放置してあった記事を急いで仕上げました。ほんのつなぎですので楽にお読みいただきたいと思います。

 

 

 夏でもありませんが怪談です。怪談というとオバケの話で、オバケというと現代ではもはや馬鹿馬鹿しくてまともに取り上げられない話題ではあります。しかしそれは今に始まったことではなく、鎌倉時代というずいぶん昔からオバケは馬鹿馬鹿しいものと考えられて来ました。それでも今なおオバケが生き残っているのはなぜなのか、古文を題材にしてそんなお話をしようと思います。

 

  1. 『猫又』の怪談
  2. バカが嫌いな兼好法師
  3. 「オバケ」に対処出来ないと無能になる

1.『猫又』の怪談

今回取り上げたいのは『奥山に猫またといふものありて』です。

 

 これは吉田兼好の随筆『徒然草』に書かれた文章で、題名からわかる通り古文です。年を取った猫は猫又という妖怪になると言われていて、尻尾が二又に分かれていることから猫又と呼ばれます。この猫又に関する小話が『徒然草』にはあるのですが、数年前の教科書改訂により一部の中学校国語教科書に載るようになりました。興味深い内容なのでご紹介したいと思います。

 

まずは本文です。

 

「奥山に、猫またといふものありて、人を食らふなる」

と人の言ひけるに、

「山ならねども、これらにも、猫の経(へ)あがりて、猫またになりて、人とることはあなるものを」

と言ふ者ありけるを、何阿弥陀仏(なにあみだぶつ)とかや、連歌しける法師の、行願寺(ぎやうぐわんじ)の辺にありけるが聞きて、ひとり歩かん身は心すべきことにこそと思ひけるころ、下(しも)なる所にて夜更くるまで連歌して、ただひとり帰りけるに、小川(こがわ)の端にて、音に聞きし猫また、あやまたず、足もとへふと寄り来て、やがてかきつくままに、頸(くび)のほどを食はんとす。肝心(きもこころ)も失せて、防かんとするに力もなく足も立たず、小川へ転び入りて、

「助けよや、猫またよや、猫またよや」

と叫べば、家々より松どもともして走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。

「こは如何に」

とて、川の中より抱き起こしたれば、連歌の賭物(かけもの)取りて、扇・小箱など懐に持ちたりけるも、水に入りぬ。希有(けう)にして助かりたるさまにて、はふはふ家に入りにけり。

 飼ひける犬の、暗けれど主を知りて、飛び付きたりけるとぞ。

(『新版 徒然草』、著者:兼好法師、訳注:小川剛正、角川ソフィア文庫、令和4年33版、92~93ページ)

※括弧内の読み仮名は必要なものだけを渡辺が書き写しました

※読みやすさを考えて何ヵ所か改行しました

 

 やさしい古文ではありますが、現代語訳を付けたいと思います。

 

 昔ある時「山奥に猫又っていう化け物がいて、人を食べるらしいよ」と巷で噂になっていたが、

「山だけじゃなくてこの辺りの街中でも猫が歳を取ったら猫又になって人を食べることはあるんだから、のんきにしてはいられないぜ」と訳知り顔の人が言ってもいた。なんとか阿弥陀仏という連歌師行願寺の辺りに住んでいた人が、街中に猫又が出るというこの噂を聞いて、「夜に1人で出歩くことが多いから気を付けなくっちゃ」と思っていた。ある時この連歌師は下京にあるお屋敷で催された連歌の会に参加し、それが終わって夜更けにただ1人歩いて帰っていた。小川のほとりにさしかかったとき、かねて噂に聞いていた猫又が足下にそっと忍び寄ってきて、連歌師に素早く飛び付き首の辺りに噛みつこうとした。驚いた連歌師は逃れようとしたが、肝を潰して足が言うことを聞かず、よろめいて小川へ落っこちてしまった。

 その時分、近所の人々は皆寝静まっていたが、

「助けてくれ!猫又だぁ!猫又だぁ!」

と叫び声が聞こえたので、松明を灯して駆け付けると、この辺りでは知られていた僧形の連歌師が川で溺れていた。ご近所さんが「どうしたんだ」と言って川の中から連歌師を助け起こしたところ、懐にもっていた連歌会の景品である扇や小箱などは水浸しになっていた。何とか助かったようで、連歌師はやっとこさっとこ家に入っていった。

 連歌師は猫又だなんぞと騒いでいたが、ご近所さんが見たところでは、連歌師が飼っていた犬が暗闇の中でも飼い主が帰ってきたと分かって喜んで飛び付いただけのことだったそうだ。

 

 

 「現代語訳」を付けると申し上げましたが、私がかなり自由に表現を変え、情報を付け加えもしましたので、渡辺語訳だと思ってください。試験で「現代語訳をせよ」と言われて渡辺語訳を書くと減点される恐れがありますので、学生さんは注意しましょう。

 

2.バカが嫌いな兼好法師

 さて、『奥山に猫またといふものありて』は作者の兼好法師が人から聞いた猫又にまつわるお話を書いた文章で、猫又に襲われたと勘違いして溺れかけた連歌師の間抜けな姿が描かれています。

 

 文章の前半は連歌師の視点となっていて、猫又を警戒していたら本当に猫又が現れたという怪談になっています。「助けよや、猫またよや、猫またよや」からの後半は視点が切り替わり近所の人々から見た連歌師が描かれていて、連歌師が飼い犬を猫又と勘違いしていたことが明らかになります。飼い犬に驚いて川で溺れかける連歌師の姿は間抜けで、この文章を書いた兼好法師連歌師をバカにしているんじゃないかと思えます。「浮わついたヤツが飼い犬を猫又と勘違いして大騒ぎしたらしい。遊んでばかりいるからそんなことになるんだ、バカめ」この文章は兼好法師のそんな声が聞こえてきそうな書きぶりです。

 

 現代人である我々の多くは

「昔の人はオバケを信じていたけど、オバケは作り話や勘違いだということが明らかになった今では、まともなヤツはオバケを信じない」

と考えると思います。「昔」とはいつかというと「現代より前」です。しかし自分の生きている時代を「現代だ」と考えるのは昔の人だって同じです。兼好法師鎌倉時代後期の人ですが、兼好法師も自分の生きている時代を現代だと考えていて、「現代より前」である鎌倉前期や平安時代を「昔」だと考えていました。そして兼好法師も「昔の人はオバケを信じていたけど、オバケは作り話や勘違いだということが明らかになった今では、まともなヤツはオバケを信じない」と考えていました。

 

 これは現代人からすると意外かもしれません。我々現代人はうっかりすると「昔の人は神仏や霊や妖怪・オバケ・幽霊や呪いなどを素朴に信じていた」と考えて「昔の人」をひと括りにしがちです。ですが、よく考えたらこれは雑な把握のしかたです。周囲の人々のことを考えてみますと、神仏や霊などを本気で信じている人もいれば全然信じていない人もおり、半信半疑の人もいれば「私は信じていないけど、信じている人が多いから、外では『信じている』と言っておこう」という人もいますし、その逆で「私は信じているけど、信じていない人が多いから、外では『信じていない』と言っておこう」という人もいることが簡単に想定出来ます。それと同じで昔の人もいろいろです。兼好法師はオバケを信じない人でした。

 

 一般的に、現実的な人はオバケを信じません。現実を支配する力は大抵の場合、個人の想いを汲まないもので、その現実を支配する力を持っている人や、その力を認めている人は個人の想いを「無意味なもの」と考える傾向があります。兼好法師の出自はハッキリとはしていませんが、彼は貴族社会を生きていた文化人です。貴族の家や宮中に出入りしていて歌を読んだり随筆を書いたりしていますから、貴族社会の中で文化的な生活をしていた人です。彼は貴族的な文化が好きな人物でしたが、時は鎌倉時代です。支配者層は鎌倉幕府を代表する武士達で、貴族は武士達に押さえ付けられて暮らしていました。鎌倉幕府兼好法師存命中に滅亡しますが、それにとって変わった室町幕府もまた武士の作る組織です。貴族の文化は滅びてはおらず、武士達からそれなりの敬意を向けられてもいますが、文化は現実を支配する力とはならず、現実は武力によって支配されています。

 

 兼好法師はそんな現実のことをキチンと分かっていて、現実に対してあまり影響を与えられない貴族文化が「無意味なもの」言われかねない状況にあることを知っていました。それでも貴族文化が好きな彼は、貴族文化を価値あるものとして保たんとして歌を詠んだり文章を書いたりしていました。そんな兼好法師からしたら「オバケ怖い」と言っている連歌師なんてバカです。現実は武力を持つ武士達に支配されていて、人の心が生み出す文化は非力で「無意味なもの」と言われそうになっている、その現状を踏まえて自分は貴族文化の価値を守ろうとしているのに、連歌師はオバケなどという幼稚なものに怯えて死にかけているのですから、兼好法師連歌師のバカっぷりが気に入らなかったでしょう。

 

 連歌師とは連歌の師匠で、連歌の会を催す時に呼ばれるものでした。連歌は57577の和歌を詠み繋いでいく文芸です。ある人が上の句の575をよんだら別の人が77の下の句を詠み、それを受けてまた別の人が575を詠んで、さらにまた下の句が別の人に詠まれる、これを繰り返してどこまでも詠み繋いでいきます。素人だけでは上手くいかないので連歌の会では連歌師が入って手を貸すことが多かったようです。

 

 連歌師は文化の担い手です。その文化の担い手がバカだと、「やっぱり歌なんて詠んでいるヤツはみんな現実を知らないバカなんだ」と他人から思われてしまうかもしれません。兼好法師は「文化人がみんなこんなバカと一緒にされちゃ困るな」と思ったのでしょうか。『奥山に猫またといふものありて』で連歌師の間抜けさが強調されているのは「この連歌師は文化人の私から見てもバカですよ。文化人が全員バカな訳ではありませんからね」と兼好法師が言いたかったからかもしれません。

 

 

3.オバケに対処できないと無能になる

 さて、昔も「まともな人はオバケを信じない」と考えられていましたが、「まともな人」は「オバケなんかいない!」と言っていればそれでよいのでしょうか?

 

 私は以前オバケに関するブログを書き、その中で「頭がいい人はオバケがわからないから孤独と虚無に陥る」ということを言いました。

オバケが「わからない」ー頭がいい人の孤独と虚無ー

 

 「頭がいい人」は感情を抑えて論理的に物事を考える訓練を積んだため頭がよくなったが、その代償として自分の感情を封印する羽目になった、だから感情豊かに暮らしている人を前にして孤独を感じるし、自分の感情がないから生きていて虚しくなる、こういう記事でした。オバケは感情の世界に属するものであるため「頭がいい人」にはオバケが「わからなく」なるのですが、この「頭がいい人」は兼好法師のような「まともな人」と同じです。「まともな人」も現実的に物事を考えるため、個人的な感情に想いを馳せることがあまりなくなっています。したがって自分の感情だけで生きていて「オバケ怖い!」と言って大騒ぎをしている連歌師のような人のことを理解できなくなっています。

 

 別にオバケを怖がっている人のことを理解できなくてもいいじゃないか、そう考える方が多いとは思いますが、ここに問題が2つあります。

 

 1つ目は、オバケを怖がっている人と向き合わねばならない立場に立たされた時に「まともな人」「頭がいい人」は対処が出来ないことです。世の中には頭を使わずにほとんど感情だけで生きている人が大勢います。子供や若者はもちろんですが、大人でもそういう人は意外に多いです。ですから一般社会で生きていれば必ずそういう人と関わらねばなりません。「まともな人」「頭がいい人」は感情だけで生きている人と向き合った時に「理解不能」に陥ります。自分の感情を封印してしまった人からすれば、感情から生まれる言葉や行動は訳がわからないものになるからです。

 

 何も相手の感情を理解しろだとか受け止めろだとか言うわけではありません。感情とはワガママなもので、理解しろ受け止めろと迫ってくるくせに理解しないことや受け止めないことが正解ということがままあります。ただ相手の感情を「無視」すると上手くいかないことがほとんどです。感情に対して「理解不能」や「訳がわからない」という態度をとるとそれは「無視」と同じです。ですから「まともな人」「頭がいい人」は感情を振り撒く相手に対処する場面で無能をさらけ出してしまいます。これが問題点の1つ目です。

 

 問題の2つ目は、得意なことばかりやって苦手なことから逃げるのはどうなのか、ということです。「まともな人」「頭がいい人」は現実に対処するのが得意という点で優れています。反面、人の感情に関することは苦手です。得意なことはいくらでもやりたいけれど苦手なことはやりたくないというのは当たり前のことですが、それでは済まないのが世の中です。先ほども申し上げましたが現実を無視して感情だけで生きている人が世の中には大勢いるため、そんな人たちに対処する必要があります。「そんなバカどものことを考えたくない!」と言ったって、存在してしまう以上、考えないわけにはいかないでしょう。感情だけで生きている人を無視して「いないこと」してしまうのは、「自分には苦手なことがある」という自覚からの逃げです。「まともな人」「頭がいい人」はそれでいいのでしょうか?それで誇りをもって生きることが出来るのでしょうか?

 

 「自分は逃げている」という感覚は消えるものではなく、一生付きまといます。逃げきれるものではありません。ですから「自分は感情に関することが苦手なんだな」という自覚を持って自分に向き合うことが大切です。大体ですね、自分が直接対処する必要はないんですよ。人の感情に関することが得意な人に「オレは苦手だから頼むよ」と頭を下げればよいのですから。得意な人を引っ張ってくる、これも「対処」の1つです。

 

 そして「まともな人」「頭がいい人」は「感情だけで生きているヤツに対処できないなんて情けない」と自分を責めがちになりますが、反対に「感情だけで生きている人だってもうちょっと頭を鍛えろよな」という文句を言ったっていいんです。バカがバカのままでいてよいはずはありません。「感情を封印した人」と「感情だけで生きている人」のどちらもお互いの力が必要だ、こういうことですね。

 

 

 

 今回はここまでです。皆さんは兼好法師のような「まともな人」でしょうか、それとも連歌師のような「感情だけで生きている人」でしょうか?いずれにしても得意なことと不得意なことのどちらも生きていく上で必要なことなのだとご納得いただけたら幸いです。

それでは。