なべさんぽ

ちょっと横道に逸れて散歩しましょう。

カラオケが苦手な貴方へー誰のための歌会か?ー

 新型コロナウイルスによる自粛が終わりを迎えつつあるこの頃ですが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか?「大勢で集まるのはよくない」ということで飲み会が開き辛かったり、スポーツ観戦や観劇にも行き辛かったりしましたが、そろそろ制限が完全に撤廃されそうです。またコロナ以前の生活に戻りそうですね。

 

 自粛中の制限に関しては「大声を出すのはよくない」というものもございましたから、これが撤廃されますと、今後他人とカラオケに行く機会が増えてくるかと存じます。これはカラオケが苦手な方にとっては困ったことと存じます。嫌だと言っても誘ってくる友人や同僚がいて、あんまり断るのもよくないかと思って付いていく、歌を聴いても歌っても面白くない、そのうち慣れるかと思って何度か行ってはみたが、いつになっても面白くならない、あーあ、嫌だなあ、でもいい大人だからこういうことも我慢しなくちゃ行けないんだろうな、うぅ、ツラい、コロナ前からこんな風に思っていた方はコロナの制限がかえって好都合だったかもしれません。

 

 今回は「なぜカラオケが苦手なのか?」ということについてお話しし、カラオケが苦手な方のカラオケボックスにおける居心地の悪さを少しでも緩和してみたいと思います。

 

 

  1. 技術の問題
  2. 距離の問題
  3. 礼儀の問題

 

1.技術の問題

 「カラオケが苦手」と申しますと「歌うのが苦手」だという方が多いかと思いますが、「聴くのが苦手」という面もございます。自分が歌うのがイヤな方は見落としがちですが、他人の歌を聴いているのだって居心地が悪い思いをするものです。この記事では歌う時・聴く時の両面についてお話しします。

 

 さて、歌を歌うといいますとまず問題になるのが歌の「技術」です。音程・リズム・強弱・響き・感情など、歌を評価する客観的基準というものがございます。それが歌の技術ですが、真面目な方は「人前で歌を披露するのなら、それなりの技術を身に付けなければならない」と考えます。もし、真面目な方が「自分の歌の技術は未熟だ」と考えていたら、人前で歌う時に「こんな下手な歌を人前で歌うなんて恥ずかしい」と思うでしょう。また反対に、真面目な方が他人の下手くそな歌を聴かされたら「下手だな、つまらない」とお感じになるでしょう。歌の技術にこだわってしまう真面目な方は自分や他人の歌の技術が未熟なためにカラオケに苦手意識を持ちます。

 

 しかし、そんなに真面目な方はあまりいないのではないでしょうか。と申しますのもカラオケは素人が歌を歌う場ですから、そもそもヘタクソであることが前提です。そんな場で自分や他人の歌に対して「歌が下手だな」なんて言うのはおかしなことです。

「シロート相手に何言ってるんだよ、オレたちはプロじゃないんだぞ。下手でもいいじゃねえか、愉快にやろうぜぇ」

です。

 

 もし、「カラオケは素人が下手な歌を披露する場である」という前提を知っていて、それでもカラオケを苦手に感じる方がいるとしたら、それはその方が他の参加者との間に感じる「距離」にあるでしょう。

 

2.距離の問題

 この「距離」とは、もちろん物理的な距離ではなく気持ちの話です。この文章をお読みになっている皆さんは職場の上司・同僚たちとのカラオケや、あまり仲がよいわけではない友人たちとのカラオケを想定していることでしょう。それというのも初めに私が「カラオケが苦手だという方の話をする」と申し上げて、皆さんはカラオケが「苦手だ」と感じる状況として「そんなに仲良しではない人たちとのカラオケ」を思い浮かべたからです。皆さんは家族や仲のよい友だちとのカラオケでは「苦手だ」とあまり感じないでしょう。

 

 家族や仲のよい友だちは個人的な付き合いが長いため皆さんのことをよくご存じです。音楽の趣味も知っています。皆さんが歌うと「ああ、あいつの好きなあの曲か」と歌を聴く側の人たちは思います。あなたが好きな曲がどういった曲か、どんなときにあなたがその曲を聴いていたか、実際に知っていたり、想像して理解したりして分かってくれます。反対に皆さんも他の人が歌っている時に「ああ、あいつの好きなあの曲か」と分かります。お互いに歌を受け止めることが出来るのですね。

 

 ところが職場の上司・同僚は皆さんの個人的な生活をよく知りません。あまり仲がよいわけではない友人たちもそうですし、皆さんも相手の個人的な生活を知りません。ですから皆さんは歌を歌うときに「私の歌は果たしてこの人たちに受け止められるのだろうか?」と大変不安になるわけです。反対に皆さんは他の人が歌っているのを聴いても「ふーん」としか思えず、どう受け止めたらよいかが分かりません。知らない曲は言うまでもなく、知っている曲を歌われても、「この人は一体何を思って私にこの曲を聴かせるの?」と困惑します。これではカラオケで居心地が悪くなるのも当然です。

 

3.礼儀の問題

 カラオケで困惑する人もいれば全く困らず愉快に歌っている人もいます。カラオケが苦手な方からすると愉快に歌っている人は不思議に見えます。「なんで平気で歌えるんだ?何を考えているんだろう?」という疑問符が沸いてきます。愉快に歌っている人は何も考えていません。ただギャーギャー喚いていられればそれでよいのです。

 

 カラオケが苦手な方は、「よく知らない相手に対して、相手が分からないような歌を歌ってはいけない」と考えます。大人同士の付き合いですから、相手を無視してギャーギャー喚くことなんて出来ません。1人で勝手によろめいてうっとりして気持ちよくなって歌っていたら恥ずかしいです。相手が分からないような歌は歌えない、かといって相手が分かる歌も分からない、だから何も歌えない、こういうことになります。反対に相手の歌を聴く時も、自分に分からない歌を歌われたら不快です。自分が軽く扱われている気がして嫌です。「そんなに歌いたいんなら友だちとカラオケ行けよ!オレを誘うな!」です。

 

 カラオケに誘ってくる相手に足りないのは「礼儀」です。「自分とは違う相手がいて、その相手も楽しめるような場を用意しないといけない」こういった意識を持って歌会を開催しないと、不快を催す方が出てしまいます。自分とは違う他人に対する礼儀はカラオケという緩い場にも適用することが必要です。カラオケは一部の人のための場ではなく、その場にいる全員のための場です。主催者にはそこのところをよく考えて欲しいものですね。

 

 

 最後に私が実践しているカラオケにおける礼儀を紹介したいと思います。

 1つ目は歌の説明をすることです。今から自分が歌う曲はどんな曲か、その曲にどんな気持ちをのせて歌うのか、自分はどんなときにその曲を聴いていたのか、といったことを語ってから歌うと、よく知らない他人にも楽しんでもらえます。初めは難しいですが慣れてしまえば簡単です。

 2つ目は季節の歌を歌うことです。春に春の歌を歌えば、聴く相手は「ああ、そういえば春だな」と納得して聴いてくれます。とても簡単なことなので、歌の説明よりこちらの方がオススメです。季節の他にも年中行事や花の歌も歌いやすいです。

 参考にしていただければ幸いです。

 

 

 

 

 今回はここまでです。カラオケが苦手な方は、ご自分がカラオケに苦手意識を抱いている理由がお分かりになったでしょうか?反対に、カラオケに苦手意識を全く持っていない方は、他人に対しての礼儀をわきまえる大切さをご理解いただけたでしょうか?歌は人同士が気持ちを通わせるためのものです。歌会は居心地の悪い場ではなく気持ちのよい場にしたいものです。

 それでは。

猫又は存在する!?ー吉田兼好の逃げー

 皆さんこんにちは。「『もののけ姫』がわからない」の途中で申し訳ありませんが、また別のブログを挟みます。次の記事がなかなか書き上がらないため書きかけで放置してあった記事を急いで仕上げました。ほんのつなぎですので楽にお読みいただきたいと思います。

 

 

 夏でもありませんが怪談です。怪談というとオバケの話で、オバケというと現代ではもはや馬鹿馬鹿しくてまともに取り上げられない話題ではあります。しかしそれは今に始まったことではなく、鎌倉時代というずいぶん昔からオバケは馬鹿馬鹿しいものと考えられて来ました。それでも今なおオバケが生き残っているのはなぜなのか、古文を題材にしてそんなお話をしようと思います。

 

  1. 『猫又』の怪談
  2. バカが嫌いな兼好法師
  3. 「オバケ」に対処出来ないと無能になる

1.『猫又』の怪談

今回取り上げたいのは『奥山に猫またといふものありて』です。

 

 これは吉田兼好の随筆『徒然草』に書かれた文章で、題名からわかる通り古文です。年を取った猫は猫又という妖怪になると言われていて、尻尾が二又に分かれていることから猫又と呼ばれます。この猫又に関する小話が『徒然草』にはあるのですが、数年前の教科書改訂により一部の中学校国語教科書に載るようになりました。興味深い内容なのでご紹介したいと思います。

 

まずは本文です。

 

「奥山に、猫またといふものありて、人を食らふなる」

と人の言ひけるに、

「山ならねども、これらにも、猫の経(へ)あがりて、猫またになりて、人とることはあなるものを」

と言ふ者ありけるを、何阿弥陀仏(なにあみだぶつ)とかや、連歌しける法師の、行願寺(ぎやうぐわんじ)の辺にありけるが聞きて、ひとり歩かん身は心すべきことにこそと思ひけるころ、下(しも)なる所にて夜更くるまで連歌して、ただひとり帰りけるに、小川(こがわ)の端にて、音に聞きし猫また、あやまたず、足もとへふと寄り来て、やがてかきつくままに、頸(くび)のほどを食はんとす。肝心(きもこころ)も失せて、防かんとするに力もなく足も立たず、小川へ転び入りて、

「助けよや、猫またよや、猫またよや」

と叫べば、家々より松どもともして走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。

「こは如何に」

とて、川の中より抱き起こしたれば、連歌の賭物(かけもの)取りて、扇・小箱など懐に持ちたりけるも、水に入りぬ。希有(けう)にして助かりたるさまにて、はふはふ家に入りにけり。

 飼ひける犬の、暗けれど主を知りて、飛び付きたりけるとぞ。

(『新版 徒然草』、著者:兼好法師、訳注:小川剛正、角川ソフィア文庫、令和4年33版、92~93ページ)

※括弧内の読み仮名は必要なものだけを渡辺が書き写しました

※読みやすさを考えて何ヵ所か改行しました

 

 やさしい古文ではありますが、現代語訳を付けたいと思います。

 

 昔ある時「山奥に猫又っていう化け物がいて、人を食べるらしいよ」と巷で噂になっていたが、

「山だけじゃなくてこの辺りの街中でも猫が歳を取ったら猫又になって人を食べることはあるんだから、のんきにしてはいられないぜ」と訳知り顔の人が言ってもいた。なんとか阿弥陀仏という連歌師行願寺の辺りに住んでいた人が、街中に猫又が出るというこの噂を聞いて、「夜に1人で出歩くことが多いから気を付けなくっちゃ」と思っていた。ある時この連歌師は下京にあるお屋敷で催された連歌の会に参加し、それが終わって夜更けにただ1人歩いて帰っていた。小川のほとりにさしかかったとき、かねて噂に聞いていた猫又が足下にそっと忍び寄ってきて、連歌師に素早く飛び付き首の辺りに噛みつこうとした。驚いた連歌師は逃れようとしたが、肝を潰して足が言うことを聞かず、よろめいて小川へ落っこちてしまった。

 その時分、近所の人々は皆寝静まっていたが、

「助けてくれ!猫又だぁ!猫又だぁ!」

と叫び声が聞こえたので、松明を灯して駆け付けると、この辺りでは知られていた僧形の連歌師が川で溺れていた。ご近所さんが「どうしたんだ」と言って川の中から連歌師を助け起こしたところ、懐にもっていた連歌会の景品である扇や小箱などは水浸しになっていた。何とか助かったようで、連歌師はやっとこさっとこ家に入っていった。

 連歌師は猫又だなんぞと騒いでいたが、ご近所さんが見たところでは、連歌師が飼っていた犬が暗闇の中でも飼い主が帰ってきたと分かって喜んで飛び付いただけのことだったそうだ。

 

 

 「現代語訳」を付けると申し上げましたが、私がかなり自由に表現を変え、情報を付け加えもしましたので、渡辺語訳だと思ってください。試験で「現代語訳をせよ」と言われて渡辺語訳を書くと減点される恐れがありますので、学生さんは注意しましょう。

 

2.バカが嫌いな兼好法師

 さて、『奥山に猫またといふものありて』は作者の兼好法師が人から聞いた猫又にまつわるお話を書いた文章で、猫又に襲われたと勘違いして溺れかけた連歌師の間抜けな姿が描かれています。

 

 文章の前半は連歌師の視点となっていて、猫又を警戒していたら本当に猫又が現れたという怪談になっています。「助けよや、猫またよや、猫またよや」からの後半は視点が切り替わり近所の人々から見た連歌師が描かれていて、連歌師が飼い犬を猫又と勘違いしていたことが明らかになります。飼い犬に驚いて川で溺れかける連歌師の姿は間抜けで、この文章を書いた兼好法師連歌師をバカにしているんじゃないかと思えます。「浮わついたヤツが飼い犬を猫又と勘違いして大騒ぎしたらしい。遊んでばかりいるからそんなことになるんだ、バカめ」この文章は兼好法師のそんな声が聞こえてきそうな書きぶりです。

 

 現代人である我々の多くは

「昔の人はオバケを信じていたけど、オバケは作り話や勘違いだということが明らかになった今では、まともなヤツはオバケを信じない」

と考えると思います。「昔」とはいつかというと「現代より前」です。しかし自分の生きている時代を「現代だ」と考えるのは昔の人だって同じです。兼好法師鎌倉時代後期の人ですが、兼好法師も自分の生きている時代を現代だと考えていて、「現代より前」である鎌倉前期や平安時代を「昔」だと考えていました。そして兼好法師も「昔の人はオバケを信じていたけど、オバケは作り話や勘違いだということが明らかになった今では、まともなヤツはオバケを信じない」と考えていました。

 

 これは現代人からすると意外かもしれません。我々現代人はうっかりすると「昔の人は神仏や霊や妖怪・オバケ・幽霊や呪いなどを素朴に信じていた」と考えて「昔の人」をひと括りにしがちです。ですが、よく考えたらこれは雑な把握のしかたです。周囲の人々のことを考えてみますと、神仏や霊などを本気で信じている人もいれば全然信じていない人もおり、半信半疑の人もいれば「私は信じていないけど、信じている人が多いから、外では『信じている』と言っておこう」という人もいますし、その逆で「私は信じているけど、信じていない人が多いから、外では『信じていない』と言っておこう」という人もいることが簡単に想定出来ます。それと同じで昔の人もいろいろです。兼好法師はオバケを信じない人でした。

 

 一般的に、現実的な人はオバケを信じません。現実を支配する力は大抵の場合、個人の想いを汲まないもので、その現実を支配する力を持っている人や、その力を認めている人は個人の想いを「無意味なもの」と考える傾向があります。兼好法師の出自はハッキリとはしていませんが、彼は貴族社会を生きていた文化人です。貴族の家や宮中に出入りしていて歌を読んだり随筆を書いたりしていますから、貴族社会の中で文化的な生活をしていた人です。彼は貴族的な文化が好きな人物でしたが、時は鎌倉時代です。支配者層は鎌倉幕府を代表する武士達で、貴族は武士達に押さえ付けられて暮らしていました。鎌倉幕府兼好法師存命中に滅亡しますが、それにとって変わった室町幕府もまた武士の作る組織です。貴族の文化は滅びてはおらず、武士達からそれなりの敬意を向けられてもいますが、文化は現実を支配する力とはならず、現実は武力によって支配されています。

 

 兼好法師はそんな現実のことをキチンと分かっていて、現実に対してあまり影響を与えられない貴族文化が「無意味なもの」言われかねない状況にあることを知っていました。それでも貴族文化が好きな彼は、貴族文化を価値あるものとして保たんとして歌を詠んだり文章を書いたりしていました。そんな兼好法師からしたら「オバケ怖い」と言っている連歌師なんてバカです。現実は武力を持つ武士達に支配されていて、人の心が生み出す文化は非力で「無意味なもの」と言われそうになっている、その現状を踏まえて自分は貴族文化の価値を守ろうとしているのに、連歌師はオバケなどという幼稚なものに怯えて死にかけているのですから、兼好法師連歌師のバカっぷりが気に入らなかったでしょう。

 

 連歌師とは連歌の師匠で、連歌の会を催す時に呼ばれるものでした。連歌は57577の和歌を詠み繋いでいく文芸です。ある人が上の句の575をよんだら別の人が77の下の句を詠み、それを受けてまた別の人が575を詠んで、さらにまた下の句が別の人に詠まれる、これを繰り返してどこまでも詠み繋いでいきます。素人だけでは上手くいかないので連歌の会では連歌師が入って手を貸すことが多かったようです。

 

 連歌師は文化の担い手です。その文化の担い手がバカだと、「やっぱり歌なんて詠んでいるヤツはみんな現実を知らないバカなんだ」と他人から思われてしまうかもしれません。兼好法師は「文化人がみんなこんなバカと一緒にされちゃ困るな」と思ったのでしょうか。『奥山に猫またといふものありて』で連歌師の間抜けさが強調されているのは「この連歌師は文化人の私から見てもバカですよ。文化人が全員バカな訳ではありませんからね」と兼好法師が言いたかったからかもしれません。

 

 

3.オバケに対処できないと無能になる

 さて、昔も「まともな人はオバケを信じない」と考えられていましたが、「まともな人」は「オバケなんかいない!」と言っていればそれでよいのでしょうか?

 

 私は以前オバケに関するブログを書き、その中で「頭がいい人はオバケがわからないから孤独と虚無に陥る」ということを言いました。

オバケが「わからない」ー頭がいい人の孤独と虚無ー

 

 「頭がいい人」は感情を抑えて論理的に物事を考える訓練を積んだため頭がよくなったが、その代償として自分の感情を封印する羽目になった、だから感情豊かに暮らしている人を前にして孤独を感じるし、自分の感情がないから生きていて虚しくなる、こういう記事でした。オバケは感情の世界に属するものであるため「頭がいい人」にはオバケが「わからなく」なるのですが、この「頭がいい人」は兼好法師のような「まともな人」と同じです。「まともな人」も現実的に物事を考えるため、個人的な感情に想いを馳せることがあまりなくなっています。したがって自分の感情だけで生きていて「オバケ怖い!」と言って大騒ぎをしている連歌師のような人のことを理解できなくなっています。

 

 別にオバケを怖がっている人のことを理解できなくてもいいじゃないか、そう考える方が多いとは思いますが、ここに問題が2つあります。

 

 1つ目は、オバケを怖がっている人と向き合わねばならない立場に立たされた時に「まともな人」「頭がいい人」は対処が出来ないことです。世の中には頭を使わずにほとんど感情だけで生きている人が大勢います。子供や若者はもちろんですが、大人でもそういう人は意外に多いです。ですから一般社会で生きていれば必ずそういう人と関わらねばなりません。「まともな人」「頭がいい人」は感情だけで生きている人と向き合った時に「理解不能」に陥ります。自分の感情を封印してしまった人からすれば、感情から生まれる言葉や行動は訳がわからないものになるからです。

 

 何も相手の感情を理解しろだとか受け止めろだとか言うわけではありません。感情とはワガママなもので、理解しろ受け止めろと迫ってくるくせに理解しないことや受け止めないことが正解ということがままあります。ただ相手の感情を「無視」すると上手くいかないことがほとんどです。感情に対して「理解不能」や「訳がわからない」という態度をとるとそれは「無視」と同じです。ですから「まともな人」「頭がいい人」は感情を振り撒く相手に対処する場面で無能をさらけ出してしまいます。これが問題点の1つ目です。

 

 問題の2つ目は、得意なことばかりやって苦手なことから逃げるのはどうなのか、ということです。「まともな人」「頭がいい人」は現実に対処するのが得意という点で優れています。反面、人の感情に関することは苦手です。得意なことはいくらでもやりたいけれど苦手なことはやりたくないというのは当たり前のことですが、それでは済まないのが世の中です。先ほども申し上げましたが現実を無視して感情だけで生きている人が世の中には大勢いるため、そんな人たちに対処する必要があります。「そんなバカどものことを考えたくない!」と言ったって、存在してしまう以上、考えないわけにはいかないでしょう。感情だけで生きている人を無視して「いないこと」してしまうのは、「自分には苦手なことがある」という自覚からの逃げです。「まともな人」「頭がいい人」はそれでいいのでしょうか?それで誇りをもって生きることが出来るのでしょうか?

 

 「自分は逃げている」という感覚は消えるものではなく、一生付きまといます。逃げきれるものではありません。ですから「自分は感情に関することが苦手なんだな」という自覚を持って自分に向き合うことが大切です。大体ですね、自分が直接対処する必要はないんですよ。人の感情に関することが得意な人に「オレは苦手だから頼むよ」と頭を下げればよいのですから。得意な人を引っ張ってくる、これも「対処」の1つです。

 

 そして「まともな人」「頭がいい人」は「感情だけで生きているヤツに対処できないなんて情けない」と自分を責めがちになりますが、反対に「感情だけで生きている人だってもうちょっと頭を鍛えろよな」という文句を言ったっていいんです。バカがバカのままでいてよいはずはありません。「感情を封印した人」と「感情だけで生きている人」のどちらもお互いの力が必要だ、こういうことですね。

 

 

 

 今回はここまでです。皆さんは兼好法師のような「まともな人」でしょうか、それとも連歌師のような「感情だけで生きている人」でしょうか?いずれにしても得意なことと不得意なことのどちらも生きていく上で必要なことなのだとご納得いただけたら幸いです。

それでは。

【本編④】『もののけ姫』がわからないー呪いー

 皆さんこんにちは。「『もののけ姫』がわからない」の第5回目です。ヘンなブログを間に挟んで中断しましたが、続きを書いていきたいと存じます。

 映画『もののけ姫』の中でアシタカはタタリ神を倒した際に呪いを受けました。このアシタカを死に至らしめる呪いは物語の中で重要な役割を担っていますが、「呪い」と言われてもピンとこない方が多かろうと思います。そこで今回は「呪い」なんてものが本当に存在するのか、その正体は何なのかということについて考えていきたいと思います。

 

  1. 呪い
  2. 通り魔
  3. 神々の凋落

 

1.呪い

 「呪い」というと藁人形の胸に五寸釘を打ち込む丑の刻参りや坊さんに呪いの祈祷をさせる呪詛、または魔法使いの魔法、神や妖怪や死者の怨念で呪われるといったことが知られているでしょう。これらは本・マンガ・アニメ・映画などの物語作品や怪談・都市伝説といった人の噂話で語られるようなことです。ですから呪いは作り話や単なる噂と考えられがちで、科学の発達した現代ではまともに取り上げられないものです。

 

 しかし【本編②】でお話ししたタタリ同様に、呪いは現代でも存在するものです。

【本編②】『もののけ姫がわからない』ー祟り神を祀るのはなぜか?ー

 「存在する」と申し上げましたが、「物理的に存在する」のではなく、「人の気持ちとして存在する」です。化学や物理学といった自然科学は基本的には人の気持ちを扱いません。ですから気持ちの問題である呪いを自然科学の範囲で理解しようとすると「呪いなんか存在しない」ということになります。呪いをきちんと人の気持ちとして扱えば理解可能なものになります。ここでは呪いを人の気持ちの問題として捉えた上で、アシタカにかけられた呪いとは何かを考えたいと思います。

 

 結論から言ってしまうと、呪いとは「通り魔に遭って覚えた恐怖が怒りに変わったもの」です。

 

 

 さて、注目したいのはアシタカがタタリ神に呪われた場面です。物語冒頭で蝦夷の村がタタリ神に襲われた場面については【本編②】で既に詳しくお話ししましたが、またこの場面を取り上げます。タタリ神の襲撃は、何の落ち度もない蝦夷の村とアシタカが襲われ呪われるという理不尽な出来事でした。この場面を見るとアシタカは村を襲ったタタリ神を倒したために不思議な力によって呪われたように思えますが、実はこの呪いは不思議でも何でもありません。「他人から理不尽な仕打ちを受けた時の人の気持ち」を考えてみるとそれが分かります。

 

 

2.通り魔

 例えばあなたが道を歩いていて知らない人から急に殴られたとします。こんな目に遭ったらまずあなたは驚くでしょう。驚いたあなたは何が起こったかはよく分からないものの、とにかく相手の拳を避けたり相手と距離をとったりして防御をします。相手の攻撃を防いで少し落ち着いたあなたは今度は何が起きたのかを知ろうとします。あなたは「いてえな!」とか「なんだよ!」とか「誰だ!」とか相手に向かって言い、相手が誰かということや殴ってきた理由を探ろうとします。ところが相手はなにも言わずに逃げてしまいました。通り魔だったのです。

 

 知らない相手から理由も分からず殴られたとしたらどう感じるでしょうか?まず怖いと感じます。通常、人は他人から攻撃されることを想定せずに日々を過ごしています。当然ですが、「自分は攻撃を受けるかもしれない」と考える動機がなければそんな想定はしないものです。「自分は攻撃を受けるかもしれない」と考えることがあるとすれば、他人から恨みを買っていたり、争い事に巻き込まれていたり、住んでいる地域の治安が悪いと感じていたり、そういった具体的な状況がある場合です。普通は「縁もゆかりもない他人から何の理由もなく攻撃されることがある」と考えませんし、そんなことはそうそう起きるものではありません。

 

 ところが、実際に「縁もゆかりもない他人から何の理由もなく攻撃される」という事態が起きてしまった。これは怖いです。自分が他人から攻撃を受けそうな状況にいることが分かっていたら備えることも出来ますが、想定外の攻撃は無防備なところを不意打ちされるようなものです。なすすべなく賊の凶行を許すことになってしまいます。「縁もゆかりもない他人から何の理由もなく攻撃されることがある」と考えて日々を過ごすことは「自分は無防備で、他人からの攻撃に対してなすすべがない」と考えて生きることと同じです。一度通り魔に遭ったら、恐怖に震えながら日常生活を送ることになるでしょう。

 

 

 通り魔という理不尽に出会って「怖い」という気持ちが生じる、その恐怖が高じると今度は反対に攻撃的な怒りが生まれます。

 

 ただの「怖い」だったら、今後は怖い目に遭わないように自分で対策をたてたり、周囲の協力を得て対処をしたりします。他人から恨みを買う・争いに巻き込まれることが原因で怖い目に遭ったら、恨みを買わないように普段の振る舞いに気を付けたり、自分を守ってくれる仲間を作っておいたり、争っている相手と話し合いをするなどして対処出来ます。治安の悪い地域に住んでいたために怖い目に遭ったら、治安のよい地域に引っ越す、地域住民や自治体と協力して治安の改善に取り組む、などといった対策がとれます。対策や対処が可能なら安心です。また、具体的な状況があると周囲の人からの理解が得やすいため、「怖かったね、気の毒に」という慰めの言葉もかけてもらえます。ですから怖い目に遭ったあなたは「そうなの!本当にひどい目に遭ったんだから!」と嘆きの声を受け止めてもらえて、気持ちも落ち着きます。

 

 しかし通り魔という理不尽に遭ったら、先ほど申し上げたように対策のしようがありません。せいぜいお巡りさんに巡回の回数を増やしてもらうか、人目のないところを歩かないよう気を付けるくらいが関の山です。これでは安心して暮らすことが出来ません。そしてもっと悪いことに、その「怖い」という気持ちは周囲の人から受け止めてもらえません。それというのも通り魔に遭った人は「怖い」ことを他人に言えなくなってしまうからです。

 

 「『縁もゆかりもない他人から何の理由もなく攻撃されることがある』と考えて日々を過ごすことは『自分は無防備で、他人からの攻撃に対してなすすべがない』と考えて生きることと同じ」

「一度通り魔に遭ったら、恐怖に震えながら日常生活を送ることになる」

先ほどこのように申し上げましたが、これはあまりにも怖くて普通の人にはなかなか耐えられるものではありません。怖さに支配されて日常生活を円滑に営めなくなるかもしれません。そのためほとんどの人が「怖い」ことを意識しないで生きることを選びます。通り魔に遭ったことを無かったことにして怖さを忘れてしまえば、怖さに捉えられることはありません。「無かったことにする」という技を使えば表面的には気持ちを切り替えることが出来るのです。ところが意識はしなくても胸の内に怖さは残っています。通り魔に遭ったことを意識の上で「無かったこと」にしても、その恐怖は胸の中から消すことも出来ないし、吐き出すことも出来ません。どうしようもない恐怖を1人で抱えることになります。しばらくはなんともありませんが、時間が経つにつれてだんだんと耐えられなくなり

「なんで私だけがこんな目に遭わなくちゃいけないんだ!」

という怒りをもって周囲に当たり散らすことになります。怒りはその原因となった相手にぶつけるべきものですが、通り魔は特定することが困難でそれは叶いません。そして理不尽な目に遭って理不尽に苦しめられている人は判断が鈍ります。だから周囲に八つ当たりをするのです。

 

 

3.神々の凋落

 説明が長くなったので何の話だったか忘れかけている方もいるかと存じますが、アシタカにかけられた呪いの話です。アシタカは自分の村が襲われるという体験をしました。襲ってきた相手であるタタリ神は倒しましたが、タタリ神は何か正当な理由があって村を襲ったのではありません。どこかで何かが起こったためにタタリ神が生まれ、貧乏くじを引いたアシタカの村が襲われたのでした。この場合、「どこかで起きた何か」が通り魔です。タタリ神が通り魔にも思えますが、違います。タタリ神は通り魔の拳で、理不尽を引き起こした張本人は「何か」であって、その正体は不明です。なんでそうなるかというと、タタリ神自体は倒してしまえばそれまでですが、「何か」がある限りまたタタリ神は生まれ得るものだからです。アシタカと村人は第2・第3のタタリ神に襲われる可能性があり、「縁もゆかりもない他人から何の理由もなく攻撃されることがある」という恐怖に震える「通り魔の被害者」と同じです。特にアシタカは大きな被害を受けました。

 

 蝦夷の一族は自然と共に生きており、大猪のような神々は恐れ敬うべき存在と考えて暮らしていました。この神々は人間のためにある「正しい神」などではなく、災害を引き起こしたり村を襲ったり生け贄を要求したりするような恐ろしい神々です。人間に対して理不尽なことをする神々ですが、蝦夷の人々からは尊敬されていました。人は美しいものを尊敬します。自分にとって都合がよいかどうかを抜きにして、「誇りを持って生きる者」を人は美しいと思い、称え敬います。ですから神々はその気高く美しい佇まいによって人々の尊敬を受けていました。蝦夷の人々は

「美しい神々が支配し統制する世界の中で人は慎ましく生きる」

という世界観・人生観でいたのです。

 

 ところがタタリ神の発生によってその世界観・人生観が崩れます。タタリ神は美しくない神です。誇りや気高さとは無縁の卑しさが全身に満ち、その姿も異形です。そんな神が生まれてしまったら、神々に対する尊敬の念は人々の中から消えてしまいます。

 

 アシタカは神を敬う少年であるため、初めは荒ぶるタタリ神を落ち着かせようと呼びかけました。神は一時の気の迷いによって卑しくなっているだけで、元に戻ることが出来るはず、そう考えたのでしょう。しかし神は鎮まらず、誇りを完全に捨て去った卑しい存在に成り果てていました。そのためアシタカは神を倒す決意をするのです。ここでアシタカが神を倒すことは、アシタカが「美しい神々が支配し統制する世界の中で人は慎ましく生きる」という世界観・人生観を捨てることを意味します。そうするともう神に頼ることはできなくなります。「人間は神に頼りきらず、自分たちの力で生きるものである」こういう考えでもって生きなければなりません。

 

 神が支配する世界の中でなら、何が起きても最終的な責任は神が取ってくれるから楽です。豊作だったら神のお陰、災害が起きたら神の怒り、疫病の蔓延は神の気まぐれなどと考えれば、良いことは勝手にやって来るし、悪いことはじっと耐えて過ぎ去るのを待つだけです。人間は何も考えなくて良いです。

 

 しかし神に頼りきらず自分たち人間も頭を使わなくてはならないとなると大変です。稲作や畑作が上手くいくよう用水の確保・肥料の工夫・品種改良などに精を出さなくてはなりません。地震や洪水対策に家の建築方法を工夫したり、堤防を作ったりしなくてはいけません。疫病対策に上下水道の整備や街の清掃、医療の充実を図らなくてはなりません。

 

 人間の力で良いことが生まれればそれは大変嬉しいことでしょう。「神のお陰」ではなくて「自分の力」で良いことを起こせたら誇りを持てますから。ところが悪いことが起きたときは「神の怒り」や「神の気まぐれ」のせいには出来ません。飢饉や地震・洪水、疫病の蔓延などが起きたら、「美しい神の振る舞いに振り回される人間」という立場はもはやとれません。「自然に翻弄される無力な人間」というミジメな立場に落とされます。ミジメな存在でいることは嫌ですから、無力感を埋めるために人間は知恵を絞って厳しい現実に対抗していくようになります。努力の結果、力をつけて無力感を払拭出来れば良いでしょう。神がいなくなっても今度は自分たちが誇りをもった美しい存在になれますから。しかしその道は長く不安なもので、歩き始めた当初は無力感を払拭している未来が見えてはいません。何の保証もなく辛く厳しい道を歩まねばならないのです。

 

 アシタカは今まで平和に生きてきたのにタタリ神の襲撃のせいで急な世界観の転換を余儀無くされます。そんなアシタカは通り魔に遭った人と同じです。神々の支配する平和な世界から自分の力であらゆる物事に対処しなければならない不安な世界に投げ込まれたのですから、大変心細く怖いと思っています。アシタカは自分だけで物事に対処できるだけの身体能力と心の強さを持ってはいますが、先行きは見通せず、怖さは胸に残ります。

 

 アシタカはそのままでいたら怖さが「なんで自分だけがこんな辛い世界観で生きなければならないんだ!」という怒りに変わってしまうでしょう。怒りが理不尽を行った相手に向けばよいですが、相手は「どこかで起きた何か」という実態の無い通り魔です。ぶつけるべき相手が見つからず、行き先を失った感情は八つ当たりをすることでしょう。また、怖さを誰かと共有できれば怒りが生じることはありませんが、それも難しいでしょう。アシタカは何が起こったのかを頭では理解しておらず、自分が胸に恐怖を抱えていることすら自覚できていません。自覚していなければ怖さを誰かと共有する必要性を感じず、したがってアシタカの恐怖が怒りに変わることは止められません。アシタカはこのままでいるとやり場の無い怒りを抱えることになり、怒りを押さえ込めなくなったときには理不尽な八つ当たりをするタタリ神になってしまいます。

 

 アシタカにかけられた呪いとは「新たなタタリ神になる呪い」であり、その仕組みは「通り魔に遭って覚えた恐怖が怒りに変わり、その怒りを本人も押さえ込めなくなる」というものなのでした。

 

 

 アシタカが蝦夷の村を出て戦に巻き込まれた序盤の場面に八つ当たりの萌芽が見られます。村を通過しようとしたアシタカに侍が攻撃を仕掛け、アシタカは矢を放って反撃します。本来なら刺さるだけであるはずの矢は1人の両腕を切り落とし、もう1人の首を弾き飛ばしています。必要以上の力を持って侍二人を倒したアシタカは既に怒りに捉えられています。

 

 中盤、タタラ場で烏帽子御前と共に石火矢開発小屋に赴いた場面では呪いがもっと強く現れます。烏帽子御前がモノノケや地侍・大名と戦うために新型の石火矢を開発していること、烏帽子御前に倒されたナゴの神がタタリ神となって蝦夷の村を襲ったことを知ったアシタカは烏帽子御前を斬ろうとします。この時アシタカの頭は冷静ですが、腕が勝手に暴れて刀を抜こうとしてしまいます。烏帽子御前は蝦夷の村がタタリ神に襲われる原因を作った人物のため怒りをぶつける相手であっても良さそうですが、烏帽子御前もタタラ場の人々も理不尽な世の中によって今の生活に追いやられています。彼らもまた「どこかで起きた何か」の犠牲者です。烏帽子御前やタタラ場の人々に怒りをぶつけることには正当性がないでしょう。アシタカもそのことを分かっていますから頭は冷静で、暴れる腕を押さえ込みます。

 

 

 

 やり場の無い感情を胸の内に抱えたアシタカには、「この気持ちをを誰かが受け止めてくれる」という希望がありません。もし絶望に囚われたら無差別に周囲に怨念を振り撒くタタリ神となることでしょう。果たしてアシタカに救いはあるのでしょうか?次回に続きます。

【暴論】ハゲは甘え

 春にしては暑い日が続き、かと思えば寒さが戻ることもあるこの頃ですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか?続き物のブログ「『もののけ姫』がわからない」の途中ですが次の記事がなかなか書き上がらないため、つなぎとして「ハゲは甘え」という題の記事をお書きしたいと思います。

 

 私はずいぶん前にインターネット上の掲示板で「ハゲは甘え」という書き込みをたびたび目にすることがありました。その頃の私は「おかしな暴言だ」ぐらいに思っていましたが、最近になって「一理ある」と感じるようになりました。そこで今回はその「一理」を明らかにしようと思います。ある男の演説という形でお書きしますが、なにぶん話題がバカバカしく、やっつけ仕事で完成度も低いので、テキトーに読んでいただきたいと存じます。

 

  1. 講演冒頭
  2. 事件と犯人
  3. 犯行の手口
  4. 犯行動機

 

 

1.講演冒頭

(男が登壇する。一礼すると拍手が起こる)

 皆さん、本日はお忙しいところ本講演にお越しい下さり誠にありがとうございます。本日私はお話ししたいことがたくさんございますが、ご多忙である皆さんを『ハゲは甘え』などというふざけた題の講演に長時間お付き合いさせるわけには参りません(聴衆からかすかな笑いが聞こえる)。手短にお話ししますので、どうか最後までお聞きくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。

(男がまた礼をすると拍手が起きる)

 

 さて、話題は「ハゲ」ですが、一般的にハゲたオジサンは劣ったものであり嘲笑の的となる、そういうことになっております。昔からお笑いの世界ではハゲたオジサンをバカにする対象としており、他人からハゲを指摘されては恥ずかしがったり卑屈になったり、反対に怒ったりしてはその反応が面白がられてきました。ところが最近ではハゲたオジサンを嘲笑することはお笑いの世界を越えて世間一般にも浸透し、お笑い芸人気取りの小中学生がハゲたオジサンをバカにし、バカにされたオジサンの方も恥ずかしがったり怒ったりして笑われる、こういったことが起きています。

 皆さんはきっと「ハゲがバカにされるのは当たり前だ」と考えていらっしゃって、何の疑問も感じてはいないでしょう。そしてハゲがバカにされたり笑われたりするのを見たら、皆と一緒になってハゲを嘲笑していることでしょう。

 

 皆さん、いけません!近代社会の市民がそんなことではどうします!皆さんはならず者に騙され、正しき筋をねじ曲げられ、そしてその事に気付かないことでならず者を甘やかしているのです!

(聴衆、ややざわつく)

 

 失敬、いきなりこのように申し上げても皆さんを困惑させるだけでしょう。ひとつひとつ順を追ってご説明いたします。

 

2.事件と犯人

 まず皆さんが知るべきことはハゲは嘘つきであり、皆さんはハゲに騙されているという事実です。

(聴衆、ざわつく。笑いも混じる)

 

 皆さん、皆さん、皆さんは私がふざけているとお考えですね。とんでもない、私は至って真面目です。とにかくまあ、続きを聴いてください。

 皆さんの周囲にはハゲたオジサンがいらっしゃると思います。(数人がキョロキョロする)ああ、この場のことではないですよ、普段、普段の話です。皆さんは日常生活を送るなかで様々なハゲたオジサンをご覧になっていると思います。ご自身の日常を思い浮かべてみて下さい。ご家族やご親族、ご近所さんや道端で見かける知らない人、あるいはテレビやインターネット上の動画サイトで見る映像、はたまた新聞や雑誌の写真、皆さんはいろいろな場所・媒体でハゲたオジサンを目撃したり、お付き合いしたりしていらっしゃるはずです。

 

 ところで、皆さんは日常でハゲたオジサンを目にしたときにどう感じるでしょうか?相手を劣った存在だと感じたり、こいつをバカにしてやろうと考えたり、いちいちそんなことをしているでしょうか?思い出してください、あなたの日常にいるハゲオジサンのことを、そしてそのオジサンを見てあなたが何を感じるのかを。よくです、よーく思い出してみるのです。

 

 おそらく皆さんはハゲたオジサンを目撃したときにはまず「あ、ハゲたオジサンがいる」と思うはずです。そしてそれが知らない他人だったら次の瞬間にはその人のことを忘れてしまうでしょう。それがお店の人だったら「あのハゲた八百屋さんはいい人だな」「あのハゲたレジ打ちは感じが悪いな」「あのハゲた警備員は丁寧に話すな」など、ハゲはただの身体的特徴でしかないでしょう。それが知人だったら「あ、山田さんだ」「あ、佐藤先生だ」「あ、タカシおじちゃんだ」という固有名が思い浮かび、ハゲはもはやどこかへ行ってしまいます。

 

 そう、皆さんはハゲたオジサンを見ていちいちバカにしてはいないし、面白がったりしてはいません。ハゲたオジサンを見たら「あ、ハゲたオジサンがいる」と思うだけです。ハゲはそれ自体では面白くともなんともないのでそれが当然です(聴衆の中のハゲたオジサンたちが何度かうなづく)。それなのに皆さんは先ほど「ハゲがバカにされるのは当たり前だ」という考えに同意し、ハゲが嘲笑されることに何の異議を差し挟むこともしませんでした。皆さんは日常生活においてはハゲたオジサンに対して何も感じないのに、この場では「ハゲたオジサンは劣っていて他人から笑われるものだ」と考えてしまっている。これはおかしくはないでしょうか?(ハゲ以外も何人かうなづく)一方には「ハゲなんかどうでもよい」と考えている皆さんがいて、もう一方には「ハゲたオジサンは劣っていて他人から笑われるものだ」と考えている皆さんがいる。この矛盾は一体何なのでしょうか?

 

 実は皆さんは「ハゲたオジサンは劣っていて他人から笑われるものだ」と思い込まされている、そう、騙されている

 皆さんはハゲなんかちっとも面白くないと思っている。それなのに皆さんがハゲは面白いと思っているのなら、それは錯覚です。皆さんの思考に何者かが介入し、まるで皆さんが自身の感性によってハゲを面白がっているかのような錯覚を引き起こしているのです。

(一同ざわつく、時折クスクス笑う声)

 

 皆さん、もっともです。皆さんが戸惑うのも当然です。なぜと申しますと、まず第一に皆さんには「思考に介入する」などということが可能だとは思わないからです。第二には、仮に思考に介入できる人間がいたとして、その人間が皆さんに「ハゲは面白い」と思い込ませなければならない理由がわからないからです。ごもっともです。一体、誰が、何のためにそんなバカバカしいことをするというのでしょうか?そんなヤツはいない、まともな頭をした皆さんでしたらそう考えるでしょう。

 

 しかし、私は知っている。皆さんの思考に介入した犯人を!犯行の手口を!そして犯行動機を!私は皆さんの前でその犯人を明らかにし、証拠を挙げて追求し、愚行をやめさせる、それを今日のこの講演の目的としたい!

(一同、ざわつく、続いてパラパラと拍手が起きる)

 

 ありがとう、皆さんありがとう…

 さて、探偵もののドラマは通常、犯行の手口、犯人、動機の順に明らかにされるものですが、ことの性質上、まずは犯人の名を明らかにしたい。その犯人はきっと皆さんにとって意外な人物です。皆さんの身近にいて、思考に介入するなどという器用な芸当が出来そうになく、そしてもっともそれをしそうにない人物なのですから。またそれだからこそ今日までバレることなく犯行を続けることが出来たのです。その犯人は、今この場にもいます。皆さん、お教えしましょう、犯人の名を。皆さんに「ハゲは面白い」と思い込ませた人物、それは他ならぬハゲたオジサンその人なのです!

(一同、どよめく、ハゲたオジサンたちが目を円くする)

 

3.犯行の手口

 みなさん、みなさん、お静かに、お静かに、落ち着いてください。皆さんが驚くのももっともで、にわかには私の言葉を信じられないのも当然です。通常、ハゲたオジサンは「ハゲたオジサンは劣っていて他人から笑われるものだ」という考え方によって損を被るものだと考えられています。バカにされて笑われてしまうオジサンたちは被害者であれこそすれ、加害者などではない、こう考えるのが一般的です。しかし、ハゲたオジサンが犯人であるという証拠があります。この証拠は彼らの犯行の手口の中に隠されてます。

 

 私は先ほど「ハゲはそれ自体では面白くともなんともない」と申し上げましたが、ではなぜ皆さんはハゲたオジサンを面白いと思ったのでしょうか?皆さんが「面白い」と思ったのは一体なんだったでしょうか?私はこの講演の冒頭で既にその答えを提出しております。私は冒頭で「ハゲたオジサンは他人からハゲを指摘されては恥ずかしがったり卑屈になったり、反対に怒ったりしてはその反応が面白がられてきました」と申しあげました。そう、皆さんが面白がっていたのはハゲたオジサンの「反応」なのです。そしてこの「恥ずかしがったり卑屈になったり怒ったり」というオジサンの反応には作為があります。

 

 皆さんが「ハゲそれ自体では面白くともなんともない」と考えるように、ハゲたオジサンも「ハゲそれ自体では面白くともなんともない」と考えます。だからハゲを指摘されてバカにされても平気です。ハゲとは若くない証ではありますが、オジサンは年寄りなので、「おいハゲ、お前はもう若くはないんだぞ」と指摘されたところで痛くも痒くもありません。「え、ああ、そうだね」でおしまいです。若さだけに特別な価値を見いだしている人ならいざ知らず、普通のオジサンはむしろ歳を取っていることを誇ります。歳を取っていることは人生経験を積んでいるということであり、他人から頼りにされるということでもあり、それは大人の男としては誇らしいことです。そしてハゲは歳を取っている証であり、また、人生という長い旅路で経験してきた苦労の象徴でもあります。つまり戦場で受けた傷の跡、すなわち「名誉の負傷」であります。ハゲは誇りこそすれ、卑下するものではないのです。

(ハゲたちからため息が漏れる)

 

 それゆえ、ハゲを指摘されて恥ずかしがったり卑屈になったり怒ったりするオジサンの反応は作為的、わざとやっていることなのです。皆さんはこの作為を見抜くことが出来ずにまんまとオジサンたちの策略に嵌まってしまいました。被害者の立場を取って周囲の目をくらまし、気付かれないように人々の思考を誘導する、なんと巧妙で狡猾な手口でしょうか!これが私がハゲは嘘つきと申し上げたゆえんです。皆さん、どうか目を覚まして奴らの張った罠から抜け出して下さい!

(パラパラと拍手)

 

4.犯行動機

 ありがとう、ありがとう。さて、次に皆さんが知るべきこと、それはハゲは卑怯だということです。これは犯行動機に関わってきますから大変重要です。

 

 ここまでの話をお聞きになった皆さんには犯人と犯行の手口をご理解いただけたことと存じます。皆さんに「ハゲは面白い」と思い込ませた犯人はハゲその人であり、ハゲを指摘されたときに作為的な反応を見せることで皆さんの思考に介入していました。ところで、なぜハゲたオジサンはそんなことをせねばならないのでしょうか?理由がわかりません。皆さんも考えてみてください、オジサンがなぜ罪を犯すことになったのかを。お隣の方と話し合っても結構ですよ(聴衆、首を捻ったり、相談したりする)。

 

…はい、どうでしょうか?

 うん、うん、はい、意見が出ました。まず1つ目、他人からバカにされるのが好きだった、これが挙げられます。世の中には他人から嫌な目で見られたり罵倒されるのがたまらなく好きだという人間が一定数います。マゾヒストと言われる人々ですね。マゾヒストの中にハゲがいて、ハゲを口実に罵られようとした、あり得ます。あり得ることです。

 

 他はどうでしょうか?はい、そこのあなた。はい、はい、なるほど、2つ目の意見ですが、どんな形であれ他人からかまってほしかった、こういうことも考えられます。家族や職場であまり他人から相手にされずに寂しさを抱えたオジサンがいる、そんなオジサンの中にハゲがいて、ハゲを指摘された時だけ輝くことができる彼は、ハゲが面白がられるように仕向けた。うん、これもありそうですね。

 

 他にはどうでしょうか?意見のある方はいませんか?…どうやら出尽くしたようですね。

 今挙げられた2つの候補、実はどちらも正解です。いじめられるのが好きなオジサンとかまって欲しがっているオジサンのどちらも存在していて、ハゲを口実にその目的を達成しようとした、犯行動機としては充分です。私は皆さんの慧眼に感服いたします。

 

 ただ、ただですよ、みなさん、皆さんは感性豊かで文学的素養がございますから、今の話だけで犯行動機を理解できるかもしれません。ところが「罵られたい」だとか「かまってほしかった」だとかいった気持ちは一般的には犯行動機とみなされません。善良なる一般市民からしてみれば「ええ、そんな理由でやったのか?」という驚きを引き起こすような言い分で、理解は難しいものです、残念ながら。我々だけがハゲたオジサンの犯行動機を知っているのでは心もとない。もっと多くの方に、善良なる一般市民の方々にハゲたオジサンのことをご理解いただく必要があります。そうしないとオジサンに対する監視の目が社会の隅々に行き渡らず、オジサンの凶行を止めることはできず、今後も犠牲者を出し続けることでしょう。そこで私は「罵られたい」「かまってほしい」という動機の奥に潜む、もっと一般的で普遍的な「真の犯行動機」をお話ししたい。(聴衆、どよめく)

 

 ハゲたオジサンたちを凶行に駆り立てた真の犯行動機、それは「マトモな大人になれていない自分を隠したかった」これです。(ため息を漏らす声が聞こえる)

 

 人には「役割」というものがあります。それは職場でなら一職業人や先輩として、学校でなら生徒や先生として、家庭でならよき父母やよき子供として、地域でならよき隣人として、場所によって異なる様々な役割を求められます。特に年長者である大人は共同体の中心として責任があり、子供や後輩たちから頼られるべき存在です。ですから大人が自分の役割を果たすことが職場・学校・家庭・地域の安定にとって重要です。大人の役割は責任が重く、かなり難しい仕事ではありますが、その仕事を全うしたあかつきに得られるものは人々の尊敬であり、また自らの胸に宿る誇りです。この尊敬と誇りがあるがために大人は大人として自らを成り立たせることが出来るのです。

 

 ところが誰も彼もがうまく大人になれるわけではありません。若者から大人になるべき時期に怖じ気づいて大人の役割から逃げ出してしまう、大人になる必要性のない環境に身をおいているためにずっと若者のままで成長出来ない、大人であることの誇りが感じられないほど貧弱な感性しか持ち合わせていない、様々な原因によって大人になれず歳ばかり取ってしまった、そういった不幸な方々がいます。またあるいは大人としての役割をこなしている方の中でも、周囲からの尊敬が得られず、したがって自分の果たしている役割に誇りを持つことが出来ない、そういった大変気の毒な方もいます。

 

 これら大人になれなかった方々、誇りを持てない方々は、自分の現状に満足していません。それはそうでしょう、誰しも周囲から尊敬され、誇りに満ちた大人になりたいのですから、それが叶わなければ不満です。「それならば誇りを持つための努力をすればよい」皆さんはそうお考えになると思いますが、ことはそう簡単ではありません。彼らは努力したのです。彼らだって足掻いたのです。彼らは努力した上で周囲から敬意を向けられなかった。また彼らは努力して立派に役割を果たしているにもかかわらず人々から尊敬されていない他人を目撃してしまった。そして絶望した。諦めてしまった。彼らはもう足掻くことをせず、緩やかに死んでいくことを選んだ。なるべく痛みを感じることなく、人生をやり過ごしていくことにした。

 

 そんな彼らにとって一番の痛みは「大人になれていない自分を自覚すること」です。彼らにとって一番のつまづきであるこの事実は直視したら目が潰れてしまいそうなほどの痛みを引き起こします。だから彼らは「大人になれていない自分」を直視しません。直視はしませんが、当然、胸の中にモヤモヤしたものは残って「お前はダメだ」と自分を責める声を発し続けます。「お前はダメだ」と自らを苛むこのモヤモヤから逃れる術はないものか。そこで考え出された方法が「ハゲのせいにすること」です。

 

 「自分はなぜダメなんだろう?分からないな……ああそっか、ハゲているからだ。原因が分かってスッキリしたよ、ハゲじゃあ仕方がないな、うん、仕方がない」自分が大人としての誇りを持てないという事実から目をそらし、それでも残ってしまった胸の痛みを誤魔化すために、オジサンたちは全てをハゲのせいにしてしまった。そして「自分はハゲだからダメなんだ」との思い込みを強化するため、皆さんの思考に介入し、自分だけでなく周囲の人々にも「ハゲはダメだ」と思い込ませた。ああ、なんと卑怯な手を使うのでしょうか?ああ、そしてなんと哀れなのでしょう!(ハゲたオジサンたちが深いため息をつく、老婦人らは涙ぐむ)

 

 哀れです。あまりにも哀れです。私は彼らが哀れなあまりに、世間に対してこの事実を伏せておこうと考えもしました。真実を暴露しても彼らに余計な痛みを思い出させるだけなのではないか?そんなことをして一体何になる?私の自己満足ではないか?私は何様なんだ?と。

 

 しかし、真実を隠しておくことは、絶望にうちひしがれた彼らを見捨てることになる、痛みに耐えかねて逃げを打った彼らを甘やかすことになる、甘やかしは希望が無いことを裏打ちすることになる、私は考え直しました。だからこそ私は声を大にして皆さんに告発したい!ハゲは嘘つきだ、ハゲは卑怯だ、ハゲは甘えだ!

(聴衆、歓声を上げる)

 

 ありがとう、皆さん、ありがとう、今日この日以降、皆さんもハゲの嘘を見破り、卑怯な企みを打ち砕き、決してハゲを甘やかさないようにして下さい。そして絶望に覆われた彼らの目が一筋の光を、希望の光を見出ださんことを共に祈りましょう。

(拍手が起きる)

 

 最後にハゲ諸君、今日以降君たちの甘えは許されなくなる。したがって君たちは以前経験したことのある痛み、あの痛みに身をさらすことになるだろう。それは辛い、とても辛いことだ。だが諸君、思い出してみてくれ、諸君らの人生は辛いことばかりだったろうか?よく思い出すんだ…どうだい?それなりにいいこともあったんじゃないのか?夕方帰り際に友と追いかけた赤トンボ、鼻を垂らして帰った君らに祖母が用意したほうじ茶、弟ともぐりっこして母に叱られた長風呂、寝床でグズる妹をいつも照らしていた月影、どうだい、思い出したかい。それが光だ、希望だ。過去の思い出は未来へ続く道を照らすだろう。もし、よく思い出せなくても大丈夫だ。もうすぐ春本番、多くの草花や木々が街を彩る。その彩りを眺めながら、人生に前向きだったあの頃の気持ちを思い出してほしい。それが出来てこその人生だ。

 

それでは諸君、健闘を祈る。

(拍手が起きる、いつまでも続く)

【本編③】『もののけ姫』がわからないー烏帽子御前はなぜ笑ったのか?ー

 皆さんこんにちは。続き物ブログ「『もののけ姫』がわからない」の第4回目となりますが、副題は「烏帽子御前はなぜアシタカを笑ったのか?」です。

 

 『もののけ姫』にはタタラ場の人々から「エボシ様」と呼ばれる烏帽子御前(えぼしごぜん)が登場します。この烏帽子御前はアシタカを尋問している途中で急に笑い出しますが、その理由がよくわからなかった方がいらっしゃると思います。今回は烏帽子御前がアシタカを笑った理由をお話していきたいと思います。理不尽、タタリという暗い話題が続きましたので、軽い話を挟んで少し休憩しましょう。

 

  1. 問題の場面
  2. エボシのイジワル
  3. さゆみちゃんは笑われる

1.問題の場面 

 蝦夷の村を出たアシタカは西に向かって旅をする内に、戦乱や災害で世の中が大いに乱れていることを知ります。道連れとなった僧形のジコ坊からシシ神の森のことを聞き、更に西へと進むアシタカは途中で重傷の男二人を拾います。二人は牛飼いのコーロクと石火矢衆の男で、タタラ場の人々が港で鉄を売って食糧の買い出しをした帰りに山犬神ともののけ姫の襲撃を受け、手傷を負って川を流されてきたのでした。アシタカはシシ神の森を抜け二人をタタラ場に送り届けます。タタラ場でアシタカは歓待を受けますが、異形の旅人に警戒した部下の進言を受けて、烏帽子御前はアシタカを尋問するのでした。

 

 アシタカが蝦夷の村を出てからタタラ場にたどり着くまでの流れは大体以上のようなものでした。途中で山犬神・もののけ姫やシシ神との出会いもありますが、それを書くと煩雑になりますので省略しました。

 

 さて、烏帽子御前によるアシタカへの尋問は次の通りです。

 

エボシ「そなたを侍どもかモノノケの手先と疑う者がいるのだ。このタタラ場を狙う者はたくさんいてね。旅のわけを聞かせてくれぬか。」

アシタカ(腕のアザを見せ、同時に石火矢の弾丸も見せる)

「このツブテに覚えがあるはず。巨大な猪神の骨を砕き肉を腐らせてタタリ神にしたツブテです。このアザはその猪にトドメをさした時に受けたもの。死に至る呪いです。」

エボシ「そなたの国は?見慣れぬシシに乗っていたな。」

アシタカ「東と北の間より。それ以上は言えない。」

ゴンザ「きさまぁー!正直に答えぬと叩っ斬るぞ!」

エボシ「そのツブテの秘密を調べてなんとする?」

アシタカ「曇りなき眼(まなこ)で見定め、決める」

エボシ「曇りなき眼?…アッハッハッハ…わかった、私の秘密を見せよう。来なさい」

 

2.エボシのイジワル 

 初めに烏帽子御前(面倒なので以下エボシ)は「そなたを侍どもかモノノケの手先と疑う者がいるのだ。このタタラ場を狙う者はたくさんいてね。」とアシタカを尋問する理由を語ります。アシタカはコーロクと石火矢衆の男を助けた恩人です。見慣れぬ怪しいヤツだからといってその恩人をいきなり取り調べたら失礼です。そのためエボシはタタラ場が外部から狙われていること、旅人や客人などを警戒しなくてはならないこと、恩人であっても例外ではないことをまず伝えました。

 

 旅のわけを聞かれたアシタカは腕のアザと石火矢の弾丸を見せます。するとエボシは少し表情と声と話し方が険しくなります。警護のゴンザはもっと露骨で、刀を構えてエボシとアシタカの間に割って入り、アシタカを睨み付けます。アシタカが軍事機密である石火矢について尋ねたからです。

 この時点でアシタカはものすごく怪しいヤツです。旅人がタタラ場の男二人を救助して送り届けてくれたのなら、それはただの親切です。しかし、その親切な旅人が軍事機密について尋ねてきたら、これはスパイが旅人をよそおってタタラ場の内情を探りに来たとしか思えません。エボシとゴンザが警戒して厳しい態度を取るのも当然でしょう。

 

 今私は「厳しい態度を取るのも当然」とお書きしましたが、これはタタラ場側の人間にとっての「当然」です。アシタカとここまでの経緯を全て見てきた観客にとっては「当然」ではありません。アシタカと観客はこの時点で、蝦夷の村がタタリ神に襲われてアシタカが呪いを受けることになったのはエボシたちがナゴの神を追い払ったせいだということがわかっています。ですからエボシたちから謝罪があってしかるべきだし、呪いを解くことへの協力があってもいいと考えています。それなのにエボシたちは厳しい態度をとってきましたから、アシタカと観客は「てめえらのせいでこんなことになってるんだぞ!詫びぐらい入れんかあ!」と怒りたいでしょう。エボシたちの態度はアシタカと観客にしたら意地悪です。

 怒りたいところですが、アシタカの目的を考えなくてはなりません。アシタカの目的は呪いを解いて生き延びることです。その目的のためにはタタラ場の人間たちと敵対するより協力関係を結んでおいた方がよいでしょう。タタラ場の人間たちはアシタカの事情を知らないために厳しい態度を取っていますから、ここでは冷静に事情を話して信用させ、警戒を解くことが大事です。目的を見誤って感情のまま怒鳴り散らしてはいけません。怒らないアシタカは偉いです。

 

 アシタカは警戒されながらもツブテが猪神の身体に入っていたこと、その猪神を倒した時に呪いを受けたことを語ります。それに対してエボシは「そなたの国は?見慣れぬシシに乗っていたな。」と尋ねます。また意地悪です。アシタカの事情をある程度理解したエボシではありますが、警戒は解かずに身元確認をしてきました。もののけ地侍や帝としのぎを削っているエボシは簡単に人を信用しません。いずれかの勢力が若者にスパイ活動をさせているかもしれませんし、新たな勢力がタタラ場を狙い初めて偵察に来たのかもしれません。現時点ではアシタカを信用するための材料が少ないのです。

 そしてまたアシタカもエボシを信用してはいません。身元を尋ねたエボシに対して「東と北の間より。それ以上は言えない。」と答えます。蝦夷の村はタタラ場からは遠いでしょうから、村の場所を明かしても良さそうなものです。しかし、タタラ場に来たばかりのアシタカはエボシのことをよく知りませんから簡単には情報を渡せません。また蝦夷一族は大昔に朝廷と戦って敗れたという歴史を背負っています。朝廷の勢力範囲内である西国にいるアシタカもまた簡単に知らない人を信用するわけにはいかないのです。実際、エボシは朝廷とつながりがありましたしね。

 

 エボシは一見するとイジワルなヤなヤツですが、よく知らない相手を簡単には信用せずに警戒しているだけの普通の人なのでした。

 

3.さゆみちゃんは笑われる

 アシタカを尋問するエボシでしたが、双方が警戒をして話が進まないため、警護のゴンザはしびれを切らし「きさまぁー!正直に答えぬと叩っ斬るぞ!」と恫喝します。エボシも「そのツブテの秘密を調べてなんとする?」と詰問します。それに対してアシタカは「曇りなき眼(まなこ)で見定め、決める」と答えました。この答えを聞いたエボシは大笑いして、石火矢を開発している小屋へアシタカを誘うのです。ここです。今回の話題はこの話でした。エボシはなぜアシタカを笑ったのか、そしてなぜ石火矢開発の現場をアシタカに見せる気になったのか、これが不思議な点です。

 

 重要なのはアシタカのセリフ「曇りなき眼(まなこ)で見定め、決める」です。

 死に至る呪いを受けているアシタカは、残された時間を自分はどのようにして過ごすべきなのかと考えています。アシタカは呪いが解けて生き延びることができたらそれが一番よいと考えてはいますが、呪いを解くすべを知りません。ですから基本的には死を受け入れようとしています。そんなアシタカは自分に呪いをもたらした原因を探り、それに対して何らかの関わりをもつことで、自分が納得出来るような死に方をしたいと思っています。それで石火矢のことを知ろうとしています。

 ですから「曇りなき眼(まなこ)で見定め、決める」とは、自分はなぜ死にゆく運命であるのか、その理由をきちんと見極め、運命に従って生きる道を決めるということです。大変立派なことですね。

 

 立派なアシタカではありますが、このセリフはちょっとおかしいです。2つの述語「見定め、決める」の主語はアシタカで、「曇りなき眼」は誰の目かというと「アシタカの」です。つまり「私はこの私の曇りなき眼で真実を見定め、進む道を決める」と言っているのですね。どうです、ヘンでしょう?

 普通は自分の目を「曇りなき眼」なんて言いません。「曇りなき眼」とは「雑念に惑わされず真実を見極める目」を意味し、心の強い者しか持てない優れた目です。また「曇りなき」ですから、その目は澄んで輝く美しい目でしょう。自分で自分の目を「美しく優れた目だ」なんて褒める人はヘンな人です。

 

 アイドルグループ「モーニング娘。」の元メンバーで「道重さゆみ」という方がいます。この方はかつて自分のことを褒めるヘンな娘さんとして売り出していました。テレビのバラエティー番組に出演しては「私ってとってもカワイイと思いませんか?」などと言って共演者から笑われていました。実際にかわいらしい娘さんなのですが、やたらと自賛するのはおかしなことです。今のアシタカはさゆみちゃんと同じです。自分で自分の目を「美しく優れた目だ」と言っているのですからね。だからエボシは初めはアシタカの言葉が理解が出来ずに少し戸惑い、理解した後に大笑いをしたのです。

 

 さゆみちゃんになってしまったアシタカですが、アシタカは自分の目を「美しく優れた目だ」と思っていたわけではありません。アシタカは蝦夷の村でタタリ神の呪いを受けた直後、巫女のヒイ様から「曇りなき眼で見定めるなら、あるいはその呪いも解けるかもしれん」と告げられました。若いアシタカはこの時にヒイ様から言われた「曇りなき眼」が大事な言葉だということは分かりましたが、意味がよく分かってはいませんでした。だからそのままエボシに言ってしまったのです。大人から言われたことをそのまま話してしまう子供と同じです。エボシは警戒していた相手が子供だと分かって安心し、それで大笑いをしました。相手が子供だと分かればもう警戒する必要はありません。エボシは仲間を助けてくれたアシタカに借りを返すため、知りたがっている石火矢のことを教えてやろうとアシタカを小屋に案内しました。エボシがアシタカを笑い、秘密を教えてやる気になったのはこんなわけだったのですね。

 

 

 今回はここまでです。この場面がよく分からなかった方が「へー、そうだったのか」とご納得下されば幸いです。この場面をもともとよく分かっていた方にとって新たな発見はなかったかと思います。ですが、「そうそう、そうだよなー」と改めて確認していただけたのなら幸いです。当たり前のことを確認して他人と共有することは大事なことですから。

それでは。

【本編②】『もののけ姫』がわからないータタリ神を祀るのはなぜか?ー

皆さん、こんにちは。

今回も続き物のブログ「『もののけ姫』がわからない」をお送りしたいと思います。

 前回、物語の冒頭で主人公アシタカは「理不尽」に襲われているというお話をしました。話の続きをしていきたいと存じますが、先に進む前に、物語冒頭の不思議な点をもう1つだけお話ししたいと存じます。

 

 

 それは「タタリ神を祀(まつ)るのはなぜか?」ということについてです。

  1. タタリはあるのか?
  2. 「死者の霊」は祟らない
  3. 敵を崇め祀る

 

1.タタリはあるのか?

 『もののけ姫』冒頭でアシタカがタタリ神を倒した直後の場面です。巫女のヒイ様は息を引き取らんとするタタリ神に向かって言います。

「いずこよりいまし荒ぶる神とは存ぜぬも、かしこみかしこみ申す。この地に塚を設け、あなたの御霊(みたま)をお祀りします。」

 この場面は不思議です。なぜ村を襲った化物のために塚を作ってあげないといけないのでしょうか。しかも神様として祀(まつ)るそうです。これはヘンでしょう。皆さんはどう思いましたか?「気にならなかった」という方や「別にいいんじゃないの?」という方が多いかと存じますが、「ヘンだ」と感じた方も一定数いらっしゃると思います。

 

 村を襲ったタタリ神は村人からしたら敵です。しかもひどい敵です。村人が何かをしたわけでもないのにタタリ神は一方的に襲撃してきましたし、八つ当たりでアシタカに呪いをかけられたせいで村人たちは村の将来を担う少年を追放する羽目に陥りました。村人はタタリ神を恨みこそすれ、神様として崇(あが)め祀ってやる義理などありません。それなのになぜ村人はタタリ神の塚を築いて祀らなくてはならないのでしょうか?

 

 こういうことを言うと大抵の場合は歴史学者民俗学者社会学者の先生方が

「日本には古来深い恨みを抱いて死んだ者を神として祀る風習があり、これは死者の霊を慰め、その怒りを鎮め、タタリを防ぐためのものである」

なんてことをおっしゃいます。この説明を聞いて「そうか、そうだったのか、なるほどなー」と納得されるかたは少数派かと存じます。普通は「ふーん、そうなんだ」と流すか「うーん…」と困ってしまうか「何わけわかんねえこと言ってんだよ!」と怒ってしまうかのどれかでしょう。

 

 確かに日本には深い恨みを抱いて死んだ者を神として祀る風習があります。菅原道真(すがわらのみちざね)や平将門(たいらのまさかど)、崇徳院(すとくいん)などがその例です。歴史上の人物が権力闘争に敗れて失意の内に死に、その後関係者が死んだり災害が起きたり疫病が蔓延したりすると、人々は怨霊のタタリだと恐れました。人々は怨霊を神として祀り、怒りを鎮めようとしてきました。上記の三人は「日本三大怨霊」と呼ばれているらしく、日本では怨霊のタタリが昔から恐れられてきました。

 

 しかしそれは単なる昔の記録です。科学の発達した現代では「タタリ」や「怨霊」などは「大昔の作り話」とされていて、今私たちが生きている現実とは関係ないと思われています。「タタリ」「怨霊」についての説明とは、それらが単なる大昔の作り話ではなく今私たちが生きている現実と関係があると納得できる形でなされて初めて「説明」になります。それなのに「日本は昔からこうだった」という記録だけを並べたって「説明」にはなりませんし、現代人には何も響きません。

 

「タタリが起きる仕組みってどんなものなの?」

「タタリで人が死ぬなんてことがあるかなぁ…」

「タタリで災害が起きたり疫病が蔓延したりするとは思えないんだけど…」

「タタリがあるにせよ、神として祀るとどうして怒りが鎮まるの?」

 

といった数々の疑問に対して、先生方は現代人の生きるこの現実と矛盾しない形で説明してくれたことなど1度もないのです。

 

 それもそのはずで先生方の仕事は昔の出来事をきちんと記録しておくことや残された記録を発掘・整理することなのです。歴史の記録は大事ですからいい加減な仕事は許されず、正確さが求められ、大変な手間と時間がかかります。先生方の専門は「説明」ではなく「記録の整理」でしかも忙しい、そんな先生方に本来の仕事ではない「説明」を求めるのはお門違いです。文句をいうのだったら「説明」の専門家に言うべきです。それではと専門家を探してみても、そんな人はどこにもいません。

 

 誰か説明してくれないかと私は長年待っておりましたが、いつまでたっても誰もやってくれません。鬱憤がたまって「いい加減にしろよぉ!」と怒っていたのですが、相手もなしに1人でブー垂れていても何にもなりません。ですから仕方なく私が自分で説明する羽目になりました。

 

 

2.「死者の霊」は祟らない

 さて「タタリ神を祀るのはなぜか?」について文句を言ってきましたが、整理すると問題点は2つです。1つ目はタタリが起きる仕組みがわからない点、2つ目はわざわざ敵を弔う理由がわからない点です。順を追ってお話したいと思います。

 

 

 まず「タタリが起きる仕組み」です。タタリに関しては先日「人を弔うということー蛭子能収の自嘲ー」でもお話しましたね。

 

人を弔うということー蛭子能収の自嘲ー

 

 タタリについて重要なことはタタリは「生者の不安」によって引き起こされるという点です。

 

 一般的にタタリはこの世に恨みを抱いて死んだ「死者の霊」なるものが不思議な力を使ってこの世に災厄をもたらすことだと考えられています。しかし科学の発展した現代を生きている私たちには死者の「霊」や「魂」などは理解しがたいものです。科学が扱わない「霊」や「魂」は「よくわからないもの」で、そのためにタタリは恐れられたり、反対に非科学的で馬鹿馬鹿しい「大昔の作り話」と考えられたりしてきました。子どもの頃には霊や魂やタタリについて考えて不思議に思ったり恐れたりしたけれど、大人になったら馬鹿馬鹿しいと思ったり気にならなくなったりしていった、そんな方が多くいらっしゃると思います。

 

 ところがタタリの原因を「生者の不安」と捉えると、タタリが現実味を帯びてきます。小中学校にはいつも誰かと一緒にいて1人ではお便所にも行けない女子たちがいました。彼女らは少しでも人の目がないと不安なため決して1人にはなりません。彼女らは「1人でお便所に行ったらそのまま一生1人で過ごさなければならなくなる!」と大袈裟なことを考えていて、だからお便所に1人で行くことができないのです。通常は他人はそんなことを知らないし、知ったとしても「何を馬鹿なことを言っているんだ?」と思われて放置されます。彼女らが大人になってその極端な不安が解消されていればよいのですが、解消されなかった場合は胸の内に大きな不安を抱えたまま生きていくことになります。そんな彼女らが死者が粗末に扱われている様を目撃したら「死んだらずっと1人で過ごさなければならなくなるんだ!」とパニックを起こします。そのパニックのせいで体調が悪くなったり周囲の人々に悪影響を及ぼしたりする、これがタタリなのでした。

 上の記事ではタタリについてもう少し詳しく書いておきましたので、ご参照いただきたいと存じます。

 

 人間の死者ではなくタタリ神が死んだ場合も同様です。この世に恨みを抱いて死んだタタリ神を放置した場合、それを見た連れション女子が「死んだらずっと1人で過ごさなければならなくなるんだ!」とパニックを起こします。そうすると女子の体調が悪くなったり周囲の人々に悪影響を与えたりして、病気が流行ったり死者が出たり災害が起こったりする、こういった仕組みでタタリが引き起こされるのです。

 

 「災害が起こる」は少しわかりにくいかと思いますが、正確には「気持ちが災害に負けやすくなる」です。「タタリ神の怨念」という霊的な何かが地震や火事や洪水や落雷といった物理的現象を引き起こすことはありません。これらの災害は人や神の気持ちとは関係なく起こるもので、中小規模の災害は毎年全国各地で起きていますし、大規模なものも何年かに1度は定期的に起きています。だから災害はいつも起こっていることです。人が気持ちを強く持っているときは、どこかで起きた災害を耳にして「ああ、気の毒だなあ、頑張って復興してほしいものだなあ」と罹災者に同情し、自身が災害に見舞われたら「ああ、辛いなあ、なんとか元の生活に戻りたいなあ」と思って後片付けや生活の建て直しに奔走します。反対に気持ちが弱っているときは、どこかで災害が起きたと耳にすると「ああ、最近は災害がおおいなぁ、この世の終わりが近づいているんじゃないのか?」と怯え、自身が災害に見舞われたら「もうだめだ、もう元の生活には戻れないんだ」と絶望します。気持ちが弱り、いつも起きている災害が前代未聞の大災害に思えてしまって立ち向かう気力を失う、これがタタリで「災害が起こる」と言われていることの真実です。

 

 

3.敵を崇め祀る

 タタリが起こる仕組みがわかると、「なぜわざわざ敵を祀らなくてはならないのか?」という疑問への答えも出てきます。

 

 タタリが起こる仕組みは連れション女子がパニックになって本人や周囲の人々が不調になるというものです。死者を弔ってやると連れション女子は落ち着きますので、死者が出たときには手厚く葬ってやり、タタリを予防することが必要です。

 

 『もののけ姫』冒頭ではアシタカによってタタリ神が倒されましたが、死んだタタリ神を放置しておくと村人の中にいる連れション女子がパニックになり、村全体に悪影響を及ぼす恐れがあります。だから理不尽に襲いかかってきた敵であろうとタタリを防ぐために塚を築くのです。これがわざわざ敵を祀る理由です。蝦夷の村人たちはタタリ神に利するためではなく、自分たちの村を守るためにタタリ神を祀ろうとしたのですね。

 

 

 

 今回はここまでです。タタリの起きる仕組みをご理解いただき、敵を祀る理由をご納得いただけていれば幸いです。

 

 それではまた次回お会いしましょう。

【本編①】『もののけ姫』がわからないー少年を襲う理不尽ー

皆さま、こんにちは。

 前回は予告を無視して別のブログ記事を挟みましたが、今回から映画『もののけ姫』について語って参りたいと存じます。副題は「少年を襲う理不尽」です。まずはこの映画をご覧になっていない方、ご覧にはなったのだけれどもどんな映画かを忘れてしまった方のために粗筋をお話しします。

 

  1. あらすじ
  2. 理不尽に襲われる少年
  3. やり場のない怒り

 

1.あらすじ

古来の権威は地に堕ち各地を武人らが群雄割拠する戦国時代、戦、自然災害の頻発、疫病の蔓延で世は大いに乱れておりました。そんな時、東北蝦夷一族の少年アシタカは村を襲った祟り神を倒したため死に至る呪いを受け、呪いを解くための手掛かりを得ようと西へ旅立ちます。旅するうちにたどり着いたタタラ場でアシタカは、タタラ場の人びとが砂鉄を得ようと山を切り開いたこと、そのため山の神々と人間との戦いが起きていること、その戦いに人間でありながら神々の側に立つ少女サンが加わっていることを知ります。人間と神との狭間で苦悩するサンを見てアシタカは人間と神々の衝突を食い止めようと奮闘しますが、生活のため山を切り開かざるを得ないタタラ場、自分たちの山を守らんとする山犬神やイノシシ神たち、神々の中心にいて神聖な森に鎮座するシシ神、たたら場の鉄を狙う地侍、シシ神の首を得ようとする帝とその手先、それら人びとと神々は止めようのない運命に導かれて激突することになるのでした。

 

 2時間の映画をかなり省略してまとめましたが、各場面はそのときそのときで描写して参ります。粗筋で映画の雰囲気だけでもつかんでいただけたら幸いです。

 

 

 今回私が語りたいのは少年アシタカを襲う「理不尽」です。ボンヤリ映画を見ていたら素通りしてしまいますが、この映画は主人公アシタカにとって理不尽な出来事から始まり、そしてそれはとてもヘンなのです。

 

 

2.理不尽に襲われる少年

 アシタカは東北地方の村に暮らす蝦夷一族の少年です。大昔にヤマト(朝廷)との戦に敗れて以来、蝦夷一族は都から遠く離れた東北の地でひっそりと暮らしています。ここには文明的なものはあまり見られないものの、豊かな自然の中で人びとが平和に暮らしています。ある日の昼間、異変を察知した村の巫女が人びとを村へ呼び戻す間、アシタカは仕事に出ている村人たちに異変を知らせて回ります。アシタカが物見櫓で見張りのジージと森の様子を伺っていたところ、全身に赤黒い触手をまとった大猪のタタリ神が森から姿を現し、村に向かって一目散に駆け出します。アシタカはタタリ神を追いかけて怒りを鎮めるように呼び掛けますがその声は届かず、逃げ遅れた村娘たちを守るためにやむなく矢を放ってタタリ神を倒します。その際にアシタカは呪いを受けてしまいますが、巫女からこの呪いはアシタカを死に至らしめるものだと言われます。タタリ神が生まれた原因を探って呪いを解くことに希望を見いだしたアシタカは村を出て、西国に旅立つのでした。

 

 

 通常、「たたり」と聞くと、自分または自分に近しい者が神や他人に良からぬことをしてしまったために恨まれ祟られる、そう考えるのではないでしょうか。現代人は

「他人から憎まれるのは自分に何か落ち度があったからだ」

と考えています。自分が悪いことをなにもしていなければ恨まれず、何かしたからこそ憎まれるのだ、この考え方が基本となっています。ですから、自分が何かをした覚えがないのに憎まれたり攻撃されたりすることに困惑します。

 

 もちろん現代人といっても単純バカではないので、

「自分は自分には落ち度がなくても憎まれたり攻撃されたりすることがあるかもしれない」

と考えます。そのため恨みを買ったり攻撃されたりしないように普段の自分の振る舞いに気を付けはします。

 

 ただ現代人は

「攻撃されるにしても、相手は世間一般の理解が得られるような筋を通して攻撃してくるはずだ」

と思っています。「気に入らないから」とか「ムカつく」とかいった動機による攻撃は人びとの理解が得られませんから、攻撃をした人が世間から責められることになります。そのため攻撃をする人は、まるで攻撃される人に非があるかのような体裁を整えて攻撃します。「あいつがオレの悪口を吹聴している」とか「金を騙し取られた」とかいった「攻撃する正当なる理由」を掲げます。この「理由」は本当にその通りであることもあるし、小さなことを大袈裟に誇張していることもあるし、勘違いであることもあるし、真っ赤な嘘であることもあるしと様々で、そのいずれであるかを見抜くことは大変です。ですからこのように体裁を整えられると攻撃された人は反撃しづらく、世間も非難をしにくくなります。少しでも知恵があったら普通は世間一般の理解が得られるような自己正当化をしてから攻撃するものです。

 

 そんな現代人の我々にとって、映画冒頭の祟り神襲来は意味不明の事態です。まず蝦夷の村が襲われる理由が分かりません。そしてアシタカが呪われなければならない道理もありません。そしてそこには嘘の大義すら掲げられていません。

 

 もし、村の子供たちが神様の木に登って木の実を食べてしまい怒った神様が村を襲う、というのならば分かります。子供の行動が原因で神様を怒らせて村が襲われるという結果になるのですから、村が神様から攻撃を受けることに納得出来ます。

 

 また、アシタカがうっかり神域に入り込んで神の怒りを買ったために呪われた、これでも話は分かります。アシタカが神域に侵入したことが原因で怒った神様に呪われるという結果になるのですから、筋が通っています。

 

 このように、襲われる理由や呪われる理由がはっきりしていれば映画を見る人も納得して鑑賞していられるでしょう。しかるに『もののけ姫』はアシタカや村の人びとに全く落ち度がないのに村が祟り神に襲われた上アシタカが死に至る呪いを受けるという理不尽極まりない話なのです。そしてタタリ神は何の自己正当化もせず、世間一般の理解を得ようともせず、荒ぶる感情を撒き散らして無辜の民を残虐に痛ぶるだけなのです。「神様だって体裁ぐらい整えろよなー」です。

 

 アシタカの活躍によって村は助かりましたが、アシタカを襲う理不尽はこれにとどまりません。先ほど私は「アシタカは村を出て、西国に旅立つのでした」とお書きしましたが、実はアシタカは村を追放されています。巫女のヒイ様から「呪いを受けた者は村に置いておけない」と言われて追い出されたのです。ひどい。

 まあ、村に留まっていたとしても呪いはどうにもならないし、家畜(ヤックル)と金子(砂金)をそれなりにもらって送り出されたのですから、追放の件については目をつぶりましょう。仕方ありません。

 

 

 それよりもっとひどいのは、アシタカが旅をしていくなかで、アシタカは全く関係ないのに呪われたことが分かっていくことです。

 

 

3.やり場のない怒り

 タタリ神は元々はナゴの神という名の山の神様でした。鉄の原料となる砂鉄と木を得るためにタタラ場の人びとが山を切り開くため、山を守ろうとナゴの神はタタラ場の人びとと戦っていました。そこに石火矢衆を率いる烏帽子御前が現れ、ナゴの神に石火矢を打ち込みます。大怪我を負ったナゴの神は走りはしって逃げる内に恨みをつのらせタタリ神へと変貌し、蝦夷の村を襲ってアシタカに倒されたのでした。なんとアシタカが呪われた理由は単なる八つ当たりだったのです。ひどい。道理で体裁を整えて大義名分を掲げて攻撃してこなかったわけです。整えようがありませんものね。

 

 それでも、タタリ神が発生した原因はタタラ場にあるため、アシタカは呪いを受けた怒りをタタラ場の連中にぶつけることができます。「お前たちのせいだ!」と言ってスッキリしちゃえばよいのですね。しかしそれも叶いません。なぜならタタラ場もまた理不尽な世の中によって生み出された場所だからです。

 

 タタラ場は鉄を生産して売って得たお金で食糧や必要物資を賄っています。鉄の原料である砂鉄と燃料の薪は山から得なければなりません。タタラ場で働く人びとは売られた娘や没落した農工民、元武士や癩病(ハンセン氏病)、棟梁の烏帽子御前はおそらく没落した貴族なのでしょう、タタラ場は戦乱・災害・伝染病で生活の糧を失った人びとが生きていくために作り上げた生活の場です。しかも鉄生産で得た利益を地侍に狙われていたり、武力である石火矢衆は帝から借り受けているものであったり、その存立は非常に不安定です。世の理不尽を受けて追い詰められた人びとが生活のために山を切り開くことをどうして責められましょうか。アシタカはタタラ場に怒りをぶつけることもできません。

 

 

 アシタカは理不尽に呪われ、理不尽に追い出され、怒りのやり場もない状態です。なんてひどい話なのでしょうね。

 

 

 

 今回はここまでです。少年アシタカが旅立つきっかけはひどい理不尽に襲われたことだったのです。次回以降、かわいそうなアシタカを見守っていきましょう。