なべさんぽ

ちょっと横道に逸れて散歩しましょう。

【本編⑦】詩的表現が『わかる』ーお姫さまの親切ー

 お正月から始めたこの「詩的表現が『わかる』」という続き物のブログですが、もう桜が散る時期になってしまいました。更新に時間がかかりましたが、ようやく【本編⑦】です。前回で「美醜の問題」は終わり、今回からは完全に『カエルの王さま』に戻りたいと思います。

 『カエルの王さま』をどこまで読んでいたのかと申しますと、なんとまだ物語の冒頭です。「お姫様と『カエルのような風貌の醜い男』との会話には問題がある」と私が申し上げて、そこから全く先へ進んではいないのでした。それというのも「問題」の大前提となる「カエルのような風貌の醜い男」という表現に皆さんが引っ掛かってしまい、この表現を飲み込んでもらうために【本編②】から【本編⑥】まで使って「美醜の問題」を私が語っていたからでした。皆さんはもう「美醜について語ること」と「美醜について判断を下すこと」にためらいはなく、カエルのような風貌の男が「醜い」ということを受け入れることができたと思います。もしかしたら、まだ完全に納得していない方がいらっしゃるかもしれません。個人個人で納得の度合いに差はあることと存じますが、皆さんが私の話に納得したという前提で話を進めたいと思います。

 

 さて、お姫様と男の会話には問題があります。私は「気持ち悪い」だとか「イヤだ」とか申し上げましたが、これだけではなんのことかよくわからないでしょう。何が問題なのか、具体的にご説明したいと思います。

 
 まず、男の要求は過大です。
 男が女に「俺の女になれよ」と言うこと自体は問題ではありません。いい女がいたら近づきたくなるもので、自分のものにしようとすること自体は変ではありませんし、悪いことでもありません。しかしその近づき方には気を付けなくてはなりません。
 「カエルのような風貌の醜い男」はまりを取って来る代わりに「俺の女になれよ」と言っていて、お姫さまに取引を持ちかけています。取引とはお互いに等価の物を交換することですから、男は「まりを取って来る」ことと「俺の女にな」ることとを等価だと考えている、そういうことになります。人と人との関係は大体取引ですから、男女関係が取引であってもおかしくはありませんが、ここで考えたいのは「俺の女になること」と「まりを取ってくること」は果たして等価なのか、ということです。
 まりは童話の中に「金のまり」と書かれていて、確かに高価なものです。しかしお姫さまは王さまの娘でお金持ちですから、まりをなくして困るということはありません。なくしたらまた買えばよいものです。しかも男は「いい男」ではなく「醜い男」ですから、男の彼女になったところでお姫さまに利点はありません。だから「まりを取ってもらう」ことと「男の彼女になること」はお姫さまにとって等価ではなく、過大な要求です。身の程を知らずに「金のまり」と「俺の女になること」を等価だと考えている男のありようは見ていて気持ちのよいものではありません。私が「気持ち悪い」とか「イヤだ」とか申し上げたのはまずこの点です。


 

 次に考えたいのは、なぜかお姫さまが男の要求を飲んでしまった点です。今申し上げたように、「金のまり」と「俺の女になること」は明らかに等価ではありません。この取引はお姫さまにとって損で、こんな取引をしたらバカです。それなのにお姫さまは男と取引する約束を交わしてしまいます。これはおかしいです。一体なぜお姫さまは男との取引に応じてしまったのでしょうか?
 実はお姫さまが男の要求を飲んだ理由はけっこう簡単でして、お話の中のお姫さまのセリフでわかります。
「蛙のおばかさんが、なにをべちゃくちゃいうことやら。かえるはかえるどうし、水のなかにかたまって、オレキレキ・アナタガタってないてるんじゃないの。人間のおなかまいりなんか、できやしないわ」(同上、19ページ)
 お姫さまは「カエルのような風貌の醜い男」の要求を受け入れる気なんかさらさらなかったのですね。まりをもらったら要求は無視してしまって、それでなんとかなると考えていたのです。お姫さまはたかがまりのために自分を差し出すほどバカではなく、取引のなんたるかをきちんと知っていたようです。


「じゃあ初めから約束なんかしなきゃいいじゃないか。約束したのに、相手を見下しているからといってその約束を破るなんて、お姫さまはひどい。『カエルのような風貌の醜い男』がかわいそうじゃないか。」

 こうお感じになった方はいらっしゃるでしょうか?ここまでの私の文章を読んで来て、まともな感性を持った方なら、ある程度そう考えるかもしれません。実際このあとお姫さまは王さまにカエルとの約束を果たすことを命じられ、窮地に陥ります。カエルの要求が過大だからといって、約束を反故にしてよいわけがない、王さまはそう考える人なのですね。「そりゃそうだ」と王さまに共感する方は多いでしょう。
 

 こう書いてくると「男の要求は過大だが、男を騙したお姫さまも悪い」というように見えますが、そう言いきってしまう前に考えてみたいことがあります。それは、「お姫さまの言動がヘンだ」ということです。
 
 お姫さまは王さまの娘なのでお金持ちです。金のまりは高価ですが、なくしたらまた買えばよいほどのものでしかありません。お姫さまは男の彼女になることを約束してまりを取ってきてもらわなくてもよいのです。もし、なくしたまりがどうしても惜しいのならば、お城にいる家来に言い付けてまりを取ってこさせればよいでしょう。しかもお姫さまは若くて美しく、ずっと格下の醜い男と関わらなければいけない理由なんかありません。無視してもよいし、格下の癖に対等な取引を持ちかける身の程知らずの男に激怒したっていいのです。それにも関わらずお姫さまはわざわざ男の彼女になることを約束して金のまりを取ってきてもらい、わざわざその約束を破るという手間をかけて、男と関わろうとしています。お姫さまの行動は明らかにヘンです。これは一体どういうことでしょうか?

 

 実はお姫さまは「親切」だから男を相手にして「あげた」のです。
 普通の人間なら自分よりずっと格下の醜い男と関わろうとしません。人は美しいものが好きですから、醜いものは視界にも入れたくはなく、醜いものが近付いてきたら距離をとります。ましてや、醜いくせに対等な口を利こうとする身の程知らずの男なんかがいたら、不愉快極まりないです。また、醜い人間と関わるとその醜さが自分に感染してしまうのではないか、という恐れもあります。人は付き合う人間から影響を受けてしまうもので、よい影響も悪い影響も受けます。特に悪い影響は簡単に感染しますから、警戒せねばなりません。そのため普通の人は醜い男がいたら距離を取り、関わりを持とうとはしません。

 

 しかしお姫さまは醜い男と関わっても平気です。お姫さまは若くて美しいので、その美しさを犯すことのできる醜さなどありません。つまりお姫さまは無敵です。だからお姫さまは醜い男と関わって平気なのです。無敵のお姫さまは自分の感性に正直に行動しました。お姫さまは「この男は自分の醜さが分からないんだ」と思い、「醜いこの人にイジワルをして身の程を分からせてやろう」と考えた、だからわざわざ男にまりを取ってきてもらい、わざわざ約束を破り、「おまえなんか、その程度の扱いしか受けられないほど醜いんだぞ」と教えてあげたのです。なんと親切なのでしょう。
 「カエルのような風貌の醜い男」はタダでお姫さまにイジメていただけて幸せです。まともな人間だったらここで改心することでしょう。
「ああ、僕はお姫さまにまともに相手をしてもらえる身分ではないのだなあ……悲しいなあ…つらいなあ…悔しいなあ……でも、そのことをわざわざ教えてくれたお姫さまって、とても親切だなあ…………よし、今はダメな男だけど、僕はいつかお姫さまにまともに相手をしてもらえるような男になるぞ!」
と、自分の現在の立ち位置を確認し、いい男になるための修行を始める、通常ならばそういうハッピーエンドを迎えるところです。

 
 ところがどうでしょう?男はお姫さまの親切に感謝するどころか、「約束を守れ!」とお城に押し掛けてくるのです。親切でイジメテもらったのに、男はその恩を仇で返したのです。なんと恥知らずなのでしょう!そんなんだから他人からまともに相手にされないのです。他人からまともに相手にされないくせに、親切な人が相手をしてくれたらその親切な人を踏みつけて優越感に浸ろうとするとは、極めて薄汚い、卑劣な人間です。「てめえ、立場わかってんのか!!」です。世の中にはわざわざお金を払ってまで女王様にムチでおケツをぶっ叩いてもらっている哀れな男もいるというのに、男はお姫さまにタダでイジメてもらったことを感謝もせず、あろうことか逆ギレしたのです。正気の沙汰ではありません。
 

 かなり感情的になってしまって何が何やらよくわからなくなってしまったので、簡単にまとめます。

 『カエルの王さま』物語冒頭のお姫さまと「カエルのような風貌の醜い男」とのやり取りにおける問題点とは、「美しいお姫さまが親切にも男に醜さを自覚させ、美しくなるための道さえ示してくれたにも関わらず、醜い男が逆ギレした」ことです。この事に対して私は「気持ち悪い」とか「イヤだ」とか言っていたのです。
 
 
 

 今回はここまでです。物語冒頭の問題点が分かったところで、次回はお話を先に進めていきたいと思います。

【本編⑥】詩的表現が『わかる』ー和田アキ子の怯えー

寒い日と暖かい日が交互に続き、三寒四温という言葉が実感されるこの頃ですが、皆さまいかがお過ごしでしょうか?

 前回は『カエルの王さま』を読みながら「美醜の問題」をお話ししましたが、今回はその続きです。

 「カエルのような風貌の醜い男」の「醜い」は容姿のことですが、その容姿とは「生まれもった容姿」ではなく「外見に現れた男のあり方」を指していました。男のあり方に問題があり、それが服装や肌や表情といった外見に醜く現れているのですね。
 今回は現実における「醜い男」の一例を挙げて、醜いあり方とはどういうものかを具体的に想像していただこうと思います。

 その具体例とは稲田直樹です。
 


②-c和田アキ子の怯え

 稲田直樹とは吉本興業所属のお笑い芸人です。同じく吉本興業所属の河井ゆずると二人で「アインシュタイン」というお笑いコンビを組んで漫才をしています。私は「アインシュタイン」の漫才を観たことがないので面白いのかどうかよくわかりませんが、数々の賞を受賞しているらしいので、それなりに面白いのだと思われます。
 私がなぜよくわからないお笑い芸人を取り上げたのかと申しますと、この稲田直樹が「ブサイク芸人」として有名だからです。実際、稲田直樹は「吉本ブサイク芸人ランキング」(及び上方漫才協会大賞ブサイク芸人ランキング)で何度も1位を獲得している人で、大変特徴的な外見をしています。極端にしゃくれた顎、並びが悪くボロボロの歯、色の暗い肌、薄い頭髪などを持ち、1度見たら忘れられない顔です。   
 しかし、私は稲田直樹が特徴的な顔だから「醜い男」の例に挙げたのではありません。
 皆さんは稲田直樹のような特徴的な顔を持つ人にあまり会ったことがないかもしれませんが、「あまりない」だけであって、何人か特徴的な顔の人に会った経験はあるでしょう。特徴的な顔の人に対して、会った当初は「変わった顔だな」と思って驚いたと思います。人は自分の知らないものに驚いたり、知らないことを怖がったりするものです。それでも何度か会って相手の人となりが分かってきたら、見た目にだんだん驚かなくなり、怖くもなくなります。見慣れたら驚きませんし、分かれば怖くないからです。このように顔面の造形が特徴的だと見慣れないから驚くことや分からないから怖がることはありますが、「顔面の造形が特徴的」=「醜い」にはなりません。
 それではなぜ私が稲田直樹を「醜い男」の例に挙げたのかと申しますと、稲田直樹は「ブサイク芸人」として有名で、「ブサイク」を名乗る芸人のあり方に醜さが隠れているためです。
 

 
 そもそも芸人とは芸を売り物にする職業のことです。お笑い芸人とは漫才をする漫才師やコントをするコメディアンのことですが、通常、お笑い芸人の顔面の造形は細工がよかろうが悪かろうが問題とされません。客が芸人に求めるのは「芸」であって「顔面の造形」ではないからです。客は芸人がいかに見事な芸を見せてくれるかを期待して劇場に足を運びます。客は舞台で芸人の見せる芸が面白ければ喜び、つまらなければガッカリしますが、芸人の顔面の造形なんかどうでもよいと思っています。客が「顔面の造形」を求めるとしたら美男や美女の役を演じる俳優です。だから二枚目俳優を見たい人はテレビドラマや映画や演劇の舞台を見ます。
 ところが、お笑い芸人たちやその周囲の人間たちは何かを勘違いしていて、「お笑い芸人には二枚目俳優や美女役の俳優と同じような顔面の造形が求められているはずだ」と考えているようなのです。
 「吉本ブサイク芸人ランキング」で稲田直樹は1位を何度も獲得していると先ほど申し上げましたが、吉本興業のランキングものは他にもあって、それは「吉本男前芸人ランキング」です。こちらのランキングには稲田直樹の相方である河井ゆずるが上位入賞を果たしておりますが、そもそもお笑い芸人の顔面の造形をあれこれ言うランキングの存在はヘンです。顔面の造形が求められるのは二枚目俳優や美女役の俳優のはずです。俳優の「美男ランキング」や「美女ランキング」が存在するのなら分かります。また、芸人に求められるのは芸の見事さなので、「芸人おもしろランキング」や「漫才上手ランキング」が存在するのなら、これもわかります。しかし芸人の「ブサイクランキング」と「男前ランキング」の存在は意味不明です。芸人に顔面の造形など求められていないにも関わらず、まるで顔面の造形が求められているかのようにランク付けをする企画はヘンです。ヘンですが、実際に存在してしまっています。こんなランキングが存在する理由は、お笑い芸人たちやその周囲の人間が「お笑い芸人には二枚目俳優や美女役の俳優と同じような顔面の造形が求められているはずだ」と考えている、それしかありません。まるで自意識過剰な中学生の発想ですが、ヘンなランキングが存在する以上、そういうことになってしまいます。
 
 
 「ブサイク芸人」は「お笑い芸人には二枚目俳優や美女役の俳優と同じような顔面の造形が求められているはずだ」ということを前提に存在することが分かりましたが、これで困ってしまうのは客で、芸人の過剰な自意識に巻き込まれて嫌な思いをすることになります。
 例えば、皆さんがお笑い芸人の漫才を観に行って、そこに「ブサイク芸人」なるものが登場したとします。この「ブサイク芸人」は自分の顔が醜いと言って嘆いています。皆さんはそれを聞いて「あんたの顔面なんて、別にどうでもいい」と思って、ただ「おもしろい漫才が観たい」と思って観ています。漫才をみていると、芸人はそこここに自分の顔に対する嘆き節を入れてきます。「これは一体なんだろう?」と皆さんは困惑して「ブサイク芸人」の顔を見てみますと、なんだか目付きが悪いです。その顔はなんだかよく分からないけど怖いです。皆さんは「いやだなあ」と思いますが、なぜ芸人がそんな目付きをしているのかよくわからないので「もしかしたら、あの顔付きは漫才の一環で、しばらく観ていたら嫌な顔付きの理由がわかるのかも」と考えて静観します。しかし、嫌な顔付きの謎が解けないまま漫才は終わってしまい、「なんだったんだ?」と釈然としないまま帰ることになります。
 「ブサイク芸人」は「お笑い芸人には二枚目俳優や美女役の俳優と同じような顔面の造形が求められているはずだ」ということを前提に存在しているため「客は俺のことを醜いと思っているはずだ」と考えて防御の姿勢をとります。それが自分の顔に対する嘆き節です。さらに「俺のことを一方的に醜いと思いやがって、このやろう!」という客に対する敵意が生まれ、目付きが悪くなります。
 それに対して客はお笑い芸人の顔面の造形なんてどうでもよくて、おもしろい芸が観たいだけです。客は「お笑い芸人には二枚目俳優や美女役の俳優と同じような顔面の造形が求められているはずだ」と考えている「ブサイク芸人」の胸のうちなんか知りません。客は勝手な前提を作られて、勝手に嘆かれて、勝手に睨まれるのです。たまったものではありません。
 稲田直樹の醜い点は、相手のことを考えずに勝手な前提を作って一方的に相手に敵意を抱き、歪んだ顔を向けている、その点です。これが「外見に表れた男のあり方」が醜い例です。
 
 

 この過剰な自意識の被害者も例に挙げておきましょう。それは和田アキ子です。
 
 私が以前日曜日のお昼にテレビを見ていると、『アッコにおまかせ』にアインシュタインの二人が出演していました。『アッコにおまかせ』は歌手の和田アキ子が司会を務めるお笑い系ニュース番組なのですが、その放送のなかで和田アキ子稲田直樹に向かってこんなことを言っていました。

「おまえ、初めて見たときはビックリしたけど、慣れるとなかなかかわいく見えるな」

 この和田アキ子の発言は、顔面の造形が特徴的だと見慣れないから驚くけど、相手の人となりが分かってくればもう驚かない、ということを意味します。
 しかし、和田アキ子の発言が意味することはそれだけでしょうか?長年芸能界で生きてきた和田アキ子は顔面の造形が特徴的な人には何度も会って慣れているはずですから、そうそう驚かないし怖がらないはずです。その和田アキ子が自分よりずっと年下の稲田直樹に「ビックリした」理由は「顔面の造形が特徴的だから」という単純なものではないでしょう。そして稲田直樹は「ブサイク芸人」を名乗るヘンな芸人です。「ブサイク芸人」は過剰な自意識で他人に敵意を向ける困った存在です。これらの事実を合わせて考えると、和田アキ子は「『ブサイク芸人』に勝手な敵意を向けられて、その理由が分からず怯えた」、それが「ビックリした」という発言に表れたのでしょう。

 


 物事の筋目を見誤ると、女番長を怯えさせるほどの醜さを産み出しかねない、今回はこのことを覚えておいていただけたらと思います。
 
 そして今回で「美醜の問題」は終わりです。次回からは『カエルの王さま』をまた読んでいきます。




 終わりに、稲田直樹について書き足したいと思います。

 稲田直樹は芸人になるまで自分の顔面の造形が特徴的だということに気付かなかったそうです。それも当然で、稲田直樹は二枚目俳優をやっていたわけではないので、誰からも整った顔面の造形を要求されなかったからですね。そして、芸人になって自分の顔について嘆いたら客が喜んだため「ブサイク芸人」になったそうです。おそらく客が「喜んだ」のは見慣れぬものに対する不安を稲田直樹が解消してくれたからでしょう。最後に、稲田直樹は漫才の中で自分の顔を嘆くことを減らしているそうです。客が芸人の過剰な自意識を嫌がり、面白い芸を見たがっているだけだということがわかったからでしょうね。
 
 もう「ブサイク芸人稲田直樹」はいないようです。稲田直樹には今後も芸人たちのつまらない自意識に巻き込まれず、芸に精進していって欲しいものです。

【本編⑤】詩的表現が『わかる』ー再び『カエルの王さま』ー

 東京・千葉は暖かくなり、20度を越える日もございましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか?

 
 この続き物のブログも六回目になりましたが、そろそろ皆さんはお疲れかと存じます。と申しますのも、このブログの題名は「詩的表現が『わかる』」で、グリム童話『カエルの王さま』に書かれている詩的表現を一般人に分かるように読み解いていく、という趣旨だったはずなのに、いつの間にか人の内面を分析する抽象的な話になっているのです。疲れるはずです。正直なところ、私も疲れて嫌になってきました。

 そこで今回からは『カエルの王さま』の読み解きに戻りたいと思います。まだ「美醜の問題」のうちの「美醜の判断」のお話が終わっておりませんから、中途半端だという印象を受けるかもしれません。しかし「美醜の判断力」をつけるには実践が1番よい方法です。『カエルの王さま』を読み解きながら、「美醜の判断」についてお話ししていきたいと思います。

 以下に「美醜の問題」の項目を再掲します。


①美醜の語りづらさ
 A.生活優先
 B.「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳
 C.中学生の横暴
 D.怠け者の理屈とズルい取引
②美醜の判断
 a.「頭がよい」人
 b.「容姿」は生まれつき
 c.和田アキ子の怯え



②-b「容姿」は生まれつき
 さて、『カエルの王さま』の読み解きを進めたいと思いますが、みなさんは話の内容をもうとっくにお忘れかと存じます。なにしろ2ヶ月も前のことですからね。以下に粗筋を再びお書きしますので、それを読んで思い出していただきたいと思います。

 

 昔あるところに1人の王さまが住んでいました。王さまにはお姫さまがたくさんいましたが、末のお姫さまはとても美しい方でした。
 このお姫さまはお城近くの森でまりつき遊びをすることを好んでいましたが、あるときこのまりが泉の中に落っこちてしまいました。お気に入りのまりを失ってお姫様がしくしく泣いているとカエルが現れ、まりを取ってきてくれると言いました。お姫さまはカエルのお友達になること、一緒の食卓で同じ食器で食事をすること、一緒の床で寝ることを条件にカエルにまりを取って来てもらいました。ところがお姫さまは約束を破り、カエルを置いて帰ってしまいました。
 明くる日、カエルはお城まで追いかけてきてお姫さまに約束を果たすよう言いました。お姫さまは嫌がりましたが、事情を聞いた王さまはお姫さまに約束を守るよう言いつけました。お姫さまは仕方なくガマンしてカエルと一緒に食事をしましたが、一緒に寝るときになってお姫様はガマンしきれなくなり、カエルを壁に叩きつけました。するとカエルは人間の王子さまになりました。実はカエルは悪い魔女の魔法にかけられていた王子さまだったのでした。二人は結婚して王子さまの国で幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。

(参考図書:「完訳 グリム童話集1」金田鬼一訳 岩波文庫 1979年改訂)


 
 粗筋は以上です。そうです、こんな話でした。
 粗筋を思い出したのはよいのですが、どこまで読み進めたのかということは覚えておいででしょうか?粗筋を忘れているくらいですから、どこまで読んでいたのかもお忘れのことと存じます。そこで、私が【本編①】詩的表現が『分かる』ーカエルの王さまー の中でお話ししたことも短くまとめます。
 
 
 初めに、『カエルの王さま』の冒頭でお姫様がカエルとごく自然に会話していることに注目し、「現実でカエルが口を利くことはない」という当たり前の事実を確認しました。詩人の常識外れの言動に惑わされないように、当たり前の事実を確認して我々一般人の結束を固めたわけです。「現実でカエルが口を利くことはない」という事実から、お姫様はカエルと話していたのではなく「カエルのような風貌の醜い男」と話していると考えるのが妥当だということになりました。
 次に、お姫様と「カエルのような風貌の醜い男」との会話の内容が問題になりました。『カエルの王さま』の中でカエルは金のまりを取ってくる代わりに、お姫様に対して「お友達になること、一緒の食卓で同じ食器で食事をすること、一緒の床で寝ること」を要求していました。カエルを「醜い男」だと考えると、この要求は「デートしろよ、飯行こうぜ、寝ようぜ」すなわち「俺の女になれよ」になりました。この事に対して、私は以下のように書きました。


……「カエルのような風貌の醜い男」がお姫さまに「俺の女になれよ」などと言っているのです。ギョッとします。醜い男が若くてきれいな女の子に男女の仲を迫るという状況は、想像するだにおぞましいです。普通なら「気持ち悪い」だとか「嫌だ」とか嫌悪感を覚えます。「ちょっと嫌だけど…」どころではなく「心底嫌だ」です。『カエルの王さま』は童話なのに冒頭から恐ろしい場面を描いていたのですね……


 私は男に対して「醜い」だとか「気持ち悪い」だとか「おぞましい」だとか散々悪口を書いております。そのため皆さんは「そんなこと言ってしまって大丈夫なの?」と怖じ気づき、二の足を踏んでしまった。しかし『カエルの王さま』は「美しきものは善であり、醜きものは悪である」という精神に貫かれたお話であり、美醜の判断ができないと読み解けません。だから私が皆さんに「美醜の問題」を話すことになった、そういう経緯でした。
 思い出していただけましたか?「ああ、そうだった」という方はこのまま読み進めてください。「そうだったっけ?」と思い出せない方は、もう一度【本編①】をお読み下さい。このブログの更新はゆっくりですから、時間はたっぷりとございます。焦らずに戻って読み返してみましょう。
 
 

 さて、ここまでブログを読んできた皆さんは、人を「醜い」と判断することに対して抵抗感が減っていると思います。もう「カエルのような風貌の醜い男」の醜さを直視することもできましょう。それではこの男の見た目について考えていきましょう。
 
 皆さんは「カエルのような見た目」と言われて、それがどんなものか想像できるでしょうか?一口に「カエル」と申しましても様々な種類があって、アマガエル、トノサマガエル、ウシガエル、アカガエルなどございますから、どのカエルを思い浮かべればよいのか迷うでしょう。ですが「醜い」といったらヒキガエルです。この男はヒキガエルのような見た目をしていると考えられます。
 
 なぜヒキガエルかと申しますと、まずはその神秘性です。謎のカエルである「ガマガエル」の正体がヒキガエルではないかと言われていて、そのためヒキガエルには神秘的な色がまとわりついています。
 「ガマガエル」とは日本や中国で昔から名前が知られているカエルのことです。落語「ガマの油」にその名が現れるので、ご存知の方も多いかと存じます。「ガマの油」とはガマガエルの体液から作られる万能薬です。万能薬の材料になるのですから、とても不思議な生き物です。ところが、ガマガエルはその存在が不確かです。私はてっきり「ガマガエル」という種類のカエルがいるものだと思っていたのですが、調べてみてもそんなカエルは見つかりませんでした。どうやらガマガエルは龍や河童や天狗のような伝説の存在のようです。
 ただ、このガマガエルはヒキガエルのことではないかと言われています。根拠もよくわからない説ですが、もしガマガエルのモデルがヒキガエルなのだとすると、ヒキガエルには昔の物語に出てくる幻の生き物の神秘性がまとわりついてきます。グリム童話も昔の物語ですから、そこに登場する謎のカエルはきっとヒキガエルでしょう。
 
 次にその見た目です。ヒキガエルの皮膚は茶色に黒のまだら模様です。粘液に覆われてヌルヌルしており、ブツブツとイボもついています。そんな見た目の生き物には近づきたくないし、触りたくもないという方が多いのではないでしょうか。「ヌルヌルイボイボの両生類なんていくらでもいるぞ」と思う方や、反対に「カエルなんてみんな気持ち悪いよ」と思う方などは、ヒキガエルを醜いカエル代表扱いすることに異論があるかもしれません。しかし、ヒキガエルが我々に親しみを抱かせる見た目ではないことにはご同意いただけるかと思います。大事なのは次です。
  
 ヒキガエルが醜いと言われる3つ目の理由は、人間に似ていることです。
 ヒキガエルの顔は、への字に結ばれた大きな口と細い黒目が特徴的です。への字に結ばれた大きな口は、なにかに不満を抱いていて不機嫌であることを表しています。眼球は大きくて目立つのに黒目の部分が細いので、まるで目を細くしてにらんでいるように見えます。この細い黒目とへの字の口許から、ヒキガエルは何かこちらに対して良からぬことを考えているのではないかという恐い印象を受けます。そして体型はずんぐりむっくりしているため、太った小男のようです。
 まだらでヌルヌルイボイボした肌の太った小男が不機嫌そうな顔でこちらをにらんでいる、しかも正体の分からない怪しい男である、ヒキガエルはこのように人間に似ているのです。人間とはかけ離れた動物だったら「醜い」とは言われません。通常、人は自分とは関係のないものに対して美醜を言うことがありません。関係のないものにはあまり興味が持てず、美醜の判断をしようという気が起こりませんからね。それに対してヒキガエルは人間に似ているため、関係のあるものとして人に迫ってきます。だから人に「醜い」と言わせるほどの興味をかきたてるのです。



 『カエルの王さま』に出てくる「カエルのような風貌の醜い男」はヒキガエルのような見た目で、「まだらでヌルヌルイボイボした肌を持つ太った小男」で、「不機嫌そうな顔でこちらをにらんでいる」、しかも「正体の分からない怪しい男」であることがわかりました。そんな男が若く美しいお姫様に「俺の女になれよ」と言ったのですから、私が「嫌だ」とか「気持ち悪い」とか「おぞましい」とか言っていた訳が分かっていただけたでしょうか?


 
「うーん、でもやっぱり見た目で人を差別しちゃいけないんじゃあ……」
 まだそんな風に考えている方はいらっしゃいますか?いらっしゃいませんか?きっとまだいらっしゃるでしょうねぇ……
 仕方がありません。ではここから「カエルのような風貌の醜い男」の何がいけないのかを書き立てていき、みなさんのためらいを払拭したいと思います。
 
 
 まずはその服装です。
 ヒキガエルは茶色に黒のまだら模様をした皮膚をしていますが、これをそのまま男の皮膚の状態とすることは出来ません。ヒキガエルは裸のため全身の皮膚がむき出しですが、男は人間のため、服を着ているからです。したがって「茶色に黒のまだら模様」なのは男の皮膚ではなく服装なのです。では、茶色に黒のまだら模様をした服とはどんな服かと申しますと、汚れた服です。この男は性格が暗いため、暗めの色、目立たない模様の服を着ています。それは「茶色」の服です。そして身なりを気にしないため、服を洗っていません。そのため服は汚れて「黒のまだら模様」が付きました。汚ないですね。きっと風呂にも入っていないでしょうから、顔や手といった皮膚がむき出しになっている箇所も「茶色に黒のまだら模様」に汚れているかもしれません。
 
 次にその肌です。今申し上げましたが、この男は風呂に入っていないため肌が汚れて黒ずんでいる箇所があります。それだけでなく、脂でベトベトしております。いえ、ベトベトを通り越してヌルヌルです。
肌が脂まみれだったらニキビもできます。そのためイボイボがあります。
 
 そして性格です。この男は自分の服装や衛生状態に無頓着です。ダサくてばっちいヤツですが、自分が他人からどう見られているかということを気にしていないため、本人は全く気にしておりません。なんで他人の目を気にしないかというと、この男は「他人」が分からないからです。この男にとって、世界に存在する人間は自分ただひとりであり、「他人」が存在しないのです。たとえ他人のようなものがいたとして、それは背景の書き割りか小道具のようなもので、その他人を人間だと思っていません。人間ではない背景や小道具から見つめられたり「汚い」と言われたりしたところで平気です。だからこの男は自分がダサくてばっちくても平気なのです。
 
 他人を人間とは認めていない正体不明の男が不機嫌そうな顔でこちらをにらんでいると考えると、大変恐ろしいです。何をたくらんでいるのか、良からぬことをするつもりなのではないか、周囲の人間はそう考えて怯えます。そんな風に周囲の人間を怯えさせていて平気でいられるダサくてばっちいヤツは「醜い」と言われてしかるべきでしょう。以上が、私が「カエルのような風貌の醜い男」のことをケチョンケチョンに言っていた理由なのです。


 

 ついでに、ここで皆さんが男の容姿を「醜い」と判断することをためらった理由もお話ししたいと思います。皆さんは「『容姿』は生まれつき」と思っていて、「人が生まれもった外見を『醜い』なんて言ったらかわいそうだ」と考えていたのです。
 皆さんは「努力」を重視しています。性格、運動能力、服装、化粧の仕方などの努力次第である程度なんとかなるものは努力によって磨くべきだとお考えです。性格、運動能力、服装、化粧の仕方などを向上させようとしない「努力嫌い」の人に対しては、非難の目を向けることにためらいはないでしょう。
 反対に、皆さんは努力によってはどうにもならないことに文句をつけはしません。努力によってどうにもならないことの一例が「生まれもった容姿」です。人の顔や体型は骨格によって決まっています。「顎が出ている」「鼻が低い」「顔が大きい」「足が短い」「背が低い」といった、一般的によしとされない容姿の特徴は、栄養状態にもよりますが、ほとんど生まれつきのものです。皆さんはまさか「努力が足りないから背が低いのだ」とか「努力が足りないから顔が大きいんだ」とか、おっしゃることはないでしょう。一般的によしとされない容姿は生まれつきのものであるため、その容姿を持っている人を「努力が足りない」と非難することなど出来ないでしょう。
 皆さんは、私が「カエルのような風貌の醜い男」のことを「生まれもった容姿が醜い」と言っていると考えていたと思います。だから私に対して「それはひどいんじゃないの?」と考え、男の容姿が「醜い」と判断することをためらったのです。
 
 しかし、上でお話ししたように、私が「醜い」と言っていたのは「外見に現れた男のあり方」でした。これは生まれもった容姿とは関係がありません。性格や感性や価値観といった「男のあり方」がまだらの服装やヌルヌルイボイボした肌となって外見に現れている、こういうことでしたら皆さんも男を「醜い」と断じることができるでしょう。
 
 私が「醜い」と言うのは「外見に現れた男のあり方」です。このことをよく覚えておいていただきたいと思います。

 


今回はここまでです。
次回、最後に残った②-c「和田アキ子の怯え」をやっつけてしまいます。やっつけてしまう程度の内容で申し訳ありませんが、「美醜の問題」にもう少しお付き合い願いたいと存じます。

【本編④】詩的表現が『わかる』ー頭がよい人ー

 今回も前回の続きです。

 『カエルの王さま』を読み解いている途中で美醜の判断を皆さんに下してもらう必要が生まれましたが、それはなかなか難しいことでした。そのため、先に「美醜の問題」を片付けてしまおうということで前回まで「美醜の語りづらさ」の原因を説明して参りました。

 ①-Aでは皆さんが生活を優先するあまり美醜についてよく考えてこなかったことが原因のひとつだとお話しし、①-BとCでは「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳の存在が原因の2つ目だとお話ししました。①-Dでは「他人の醜いところを指摘しない代わりに自分の醜いところを指摘されない」というズルい取引をしてしまったことが3つめの原因だとお話しました。

 皆さんが美醜について語りづらい原因をご説明しましたので、皆さんは自分自身の状況をある程度は掴めたかと存じます。

 ここからは「自分の美醜に関する判断が正しいのかどうか迷う」こと、すなわち美醜の判断の問題についてお話ししていきたいと思います。
 
 以下に項目を再掲します。

①美醜の語りづらさ
 A.生活優先
 B.「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳
 C.中学生の横暴
 D.怠け者の理屈とズルい取引
②美醜の判断
 a.「頭がよい」人
 b.「容姿」は生まれつき
 c.和田アキ子の怯え

 

②-a.「頭がよい」人
 
 皆さんが美醜の判断に迷う原因の1つは、昔に比べて皆さんの頭がよくなり美醜のことがよくわからなくなってしまったことです。意外かもしれませんが、人は頭がよくなると美醜のことがよくわからなくなってしまいます。
 
 「頭がよい」というと、勉強ができる、考える力がある、仕事の段取りがよい、要点を押さえた説明ができる、先のことを予測できる、行動に無駄がない、相手の気持ちを汲み取れる、論理的である、などといったよいイメージがあるかと思います。「仕事ができる」といってもよいですが、それは頭のよさに由来するものなので、ここでは「頭がよい」という言葉を使いたいと思います。
 
 「頭がよい」人は生まれつき頭がよいのだと思われがちですが、実は産まれたときは頭がよくはなく、頭がよくなるための鍛練を積んだために頭がよくなったのです。人は産まれたときは皆等しく「頭がよくも悪くもない」人で、鍛練を積んだか積んでないかによって頭がよくも悪くもなるものです。その「鍛練」とは何かというと「自分の感情を抑えて事実を客観的に見る」というものです。
 
 「事実を客観的に見る」というと、①-Cでお話しした中学生の自己形成の仕方と似ています。他人の目を考えたり現実と格闘したりして、客観的な指標による自己評価をする、というものでしたね。中学生の自己形成と頭がよくなるための鍛練は基本的には同じものです。この2つのどこが違うのかと言いますと、「他人の目」や「現実」の範囲です。中学生の自己形成における「他人の目」「現実」の範囲は自分の家・学校とその周辺だけで、そこにいる人は自分の家族・親戚・友達・学校の先生などです。こう書くとひどく狭いように感じられますが、普通の人間が生きていくにはこれくらいで足ります。
 
 頭がよくなるための鍛練における「他人の目」「現実」は自分の家、学校だけでなく、学校の勉強内容、大人の会話、新聞・テレビ・本・インターネットからの情報が加わります。これらは中学生の周囲にだって存在しますが、普通の中学生は自分の興味のあること以外、これらのほとんどを「自分に関係ないもの」として処理するため、存在しないに等しいです。頭がよくなるための鍛練をしている人は自分の興味のないことであっても、これらを「自分に関係あるもの」と考え、自己形成の糧とします。

 例えば、学校で習う国語の文法です。これは学校の授業におけるつまらないものの代表格です。皆さんも文節・主語述語・修飾語・動詞形容詞形容動詞・活用・副詞・助詞助動詞・敬語などを学校で習った覚えがあると思います。国語の文法には「文節は『ネ』を挟める箇所で区切る」「主語と述語はきちんと対応しなくてはならない」「動詞は語尾を活用する」「『まるで』は『~のようだ』と一緒に使う」「『とか』は2つ以上セットで使う」「謙譲語は自分を一段低くするときに使う」など数多くの規則がありましたね。通常はこんなつまらないものをたくさん覚えていられないので、テスト前に暗記して、テスト後には忘れてしまいます。
 
 「頭がよくなるための鍛練」をしている人にとっても、もちろん国語の文法はつまらないものです。つまらないから嫌で、暗記なんかしません。それでもこの人はテストで好成績を修める上にテスト後も忘れることがありません。なぜかというと、この人は文法規則を「頭の中に入れる」ことはせず、実際に「使っている」からです。文章を書くときには主語述語の対応に注意する、『まるで』と『~のようだ』を一緒に使う、『とか』は2つ以上セットで使う、尊敬語と謙譲語を区別する、などといったことを実際にしています。人との会話のときも、文章ほど厳密には考えませんが、ある程度国語の文法を意識しながら話をします。実際に使っているのだから国語の文法は身に付き、暗記なんかしなくても覚えていられるし忘れることはありません。
 
 「頭がよくなるための鍛練」をしている人は現実的です。普通の中学生が「先生は頭がおかしいから意味もない文法の暗記なんかを僕たちにさせるんだ!」と考えている一方で、この人は「現実を生きている大人がそんな無意味なことするわけないだろう」と考えます。そして「大人が『覚えろ』と言うことは必ず現実で使われているはずだ」と推測し、「現実で使われているものは自分も使えるようにならなくてはいけない」と自分の身に付ける方向へ動き出します。「推測」とお書きしましたが、この人は「大人の様子」、例えば両親や親戚、近所の人、友達の親、学校の先生、またテレビ・インターネットで目にする人々、新聞・本の文章に登場する人々とその文章を書いている人々などの言動をもとに「推測」しています。多くの例を参照していますから、その推測にはかなりの確証があり、一見つまらなくて役に立たなそうな国語の文法でも一生懸命身に付けようと努力出来るのです。

 「頭がよ」くなるための鍛練には「自分の感情を抑える」ことが必要です。国語の文法の話で言うと、この人は「つまらない」という自分の感情を自分の行動の基準としていません。その代わり、文法の勉強の必要性を示す「大人の様子」を行動の基準としています。「自分」より自分を導く「大人」の判断を優先しているのですね。「自分の感情」のままに行動する人と「大人の判断」に従って行動する人のどちらがより高い能力を身に付けられるかというと、もちろん後者です。「頭がよい」人はこのような鍛練を続けることで頭がよくなったのです。



 「頭がよい」人は高い能力を身に付けることに成功した人ですが、うまくいかなかったこともあります。それが「美醜の判断」です。
 
 「美醜」は人の感性に関することです。美醜の判断は充分に感性が育っている人間がすることです。「自分の感情」を抑えてきた「頭がよい」人には感性が充分に育っていませんから、美醜の判断ができません。「頭がよい」人が「美醜の判断」をできるようになるためには「自分の感情」を解放して感性を育てていく必要があります。
 
 しかしここが難点です。「頭がよい」人は「自分の感情」を解放することが簡単にはできないのです。その理由は3つあります。
 
 
 1つ目は「今までの自分のやり方を変えたくない」ことです。「頭がよい」人は「自分の感情を抑えて事実を客観的に見る」という方法で頭がよくなり、高い能力を獲得してきました。「獲得して『きました』」とお書きしたのは、長い時間をかけて自分を鍛えてきたことを強調するためですが、長い間続けてきたことは簡単にやめることができません。
 
 習慣を変えることは不安です。習慣は、そのやり方で上手くいくからこそ習慣となった方法です。習慣を身に付けている人は通常、「今までのやり方で上手くいってきたのに、やり方を変えて失敗したら嫌だな」と考えます。ですから習慣になっていることをやめるには、相当の理由がなければいけません。
 
 美醜とは「趣味」です。「趣味」は「仕事」に劣るという話は①-Aでしましたが、「頭がよい」人も「大人」に属しているため、「仕事」が「趣味」より優先だということを理解しています。「頭がよい」人は、「自分の感情を抑えて事実を客観的に見る」という方法を使って「仕事」の領域で成功を修めてきました。したがって、「頭がよい」人は「趣味」である美醜なんかのために「仕事」を成功に導いた「自分の感情を抑えて事実を客観的に見る」方法をやめようなどとは思いません。「頭がよい」人にとって「美醜」は、いままでのやり方を変えるほどの「相当の」理由にはならないのです。
 
 
 理由の2つ目は「バカだと思われたくない」ことです。「頭がよい」人は人前で感情をあらわにする人のことをだいたいバカだと思っていて、そのバカの仲間になりたくないのです。
 
 「頭がよい」人は現実的です。人の「感情」に関することは「趣味」の領域だと理解しています。そして「現実」に属する自分の「仕事」が第1で、「趣味」である「感情」は2の次だと考えています。そのため「現実」にある「仕事」をおろそかにして「趣味」でしかない「感情」に走る人をバカにしています。
 
 ここでご注意いただきたいのは、「頭がよい」人は「『現実』にある『仕事』をおろそかにして『趣味』でしかない『感情』に走る人」をバカにしているのであって、「人間の感情」そのものをバカにしているわけではないし、「仕事をきちんとした上で感情も豊かな人」のこともバカにしていない、という点です。
 
 ①-Aでもお書きしましたが、人は極端です。仕事が第1、趣味は2の次ですが、人は楽しい趣味に熱中して仕事をおろそかにする傾向があります。だから人は「趣味は仕事に比べて劣ったもの」という価値観を生み出し、生活が破綻しないための安全装置としました。仕事と趣味のどちらかに片寄りすぎず、バランスよく生活できることが理想ですね。
 
 「頭がよい」人は頭がよいので、自分が極端な性質を持った人間であることを自覚していますし、仕事と趣味のバランスがとれた理想の生活を目指したいと考えています。実は「頭がよい」人は趣味に属する「感情」も好きで、感情豊かな人間になりたいとさえ思っています。だから「感情豊かな人」をバカになどしておらず、むしろ憧れています。
 
 ところが、「頭がよい」人からすると、人前で感情をあらわにする人間は大抵の場合は仕事をおろそかにしている人間のように見えます。「頭がよい」人は「まともな人間なら、感情をあらわにするにしても『仕事をきちんとやった上で感情を出している』ことが見てとれるはずだ」と考えています。しかし「頭がよい」人は感情をあらわにするほとんどの人間から感情「しか」見てとれません。それもそのはずで、感情を発散しているときに人は「自分が感情だけの人間だと思われたら嫌だな。仕事もきちんとやっていることを示さなきゃいけない」なんてことをわざわざ考えませんし、「仕事もきちんとやっていることが分かる感情の表現」なんてできないからです。「自分が感情だけの人間だと思われたら嫌だな。仕事もきちんとやっていることを示さなきゃいけない」などと回りくどいことを考えるのは「頭がよい」人くらいで、「頭がよい」人なら「仕事をきちんとやった上で感情を出している」と示す能力があるかもしれませんが、一般人には無理です。ですから「頭がよい」人が人前で感情をあらわにする人から感情「しか」読み取れないのも当然です。

 このため「頭がよい」人は人前で感情をあらわにする人のことを、「仕事をおろそかにして趣味に走るバカ」だと考えます。そして「このバカどもと同じになりたくない」と考えます。ここで「頭がよい」人に「俺は『仕事をきちんとやった上で感情を出している』ことを示すぞ!」という気概があれば、バカどもを気にせず自分の感情を解放していけるのですが、それは身近に仲間となるような「頭がよい」人が他にもいて初めて可能なことです。仲間の理解があれば自分のやっていることに意味があると感じることができ、心強く、自分の道を進めます。しかし大抵の場合、「頭がよい」人は孤立しています。自分の感情を抑えてきた「頭がよい」人は、他人と気持ちを通じさせるということもしてこなかったので、孤立していることがほとんどです。たったひとりでバカどもの中に取り残されてしまった「頭がよい」人は多勢に無勢、バカどもに負けてくじけてしまいます。「きっと『仕事をきちんとやった上で感情を出している』と示したって誰にも分かってもらえない」と考えて、諦めてしまいます。「仕事をきちんとやった上で感情を出している」ことを示す道が断たれてしまった以上、感情の表現は「感情『しか』見てとれない」表現しか残りません。その表現を使うことは他のバカどもの仲間入りすることを意味します。「頭がよい」人はバカどもの仲間になることを拒否しますから、感情表現ができなくなってしまいます。
 
 「頭がよい」人が感情を解放できない理由には、その生真面目さと回りくどいものの考え方があるのです。
 

 3つ目の理由は、自分の才能に絶望していることです。
 
 私は「頭がよい」人にとって「『他人の目』『現実』は自分の家、学校だけでなく、学校の勉強内容、大人の会話、新聞・テレビ・本・インターネットからの情報」も加わるとお書きしました。先ほどはその例として国語の文法を挙げましたが、他にもたくさんあります。新聞を読むときには国内外の政治状況をチェックし、殺人・窃盗・汚職・詐欺などの社会的事件にも注目し、どこそこの企業の社長が交代しただの業績がどうだの株価が上がった下がっただのといった経済情報にも目を通します。新聞から得た情報をテレビやインターネットのニュースで再確認したり更に詳しい情報を調べたりします。本からは古今東西の物語や最新科学の知見、歴史上の偉人の生き方などを知ります。今はお堅い「情報」を挙げましたが、「頭がよい人」は新聞のスポーツ面とテレビ欄と四コマ漫画も読みますし、テレビのドラマやバラエティ番組、ワイドショーなども見ます。漫画も読めばライトノベルも読むし、週刊誌を読んだりネット掲示板に書き込んだりします。必ずしも目にしたことのすべてを理解しているわけではありませんが、多くの物事に興味をもって情報を取り込みます。「頭がよい」人にとっての「他人の目」と「現実」はこのようにとても多くの情報から構成されていて、その世界観はとても広いものです。
 
 広い世界観を持っていると多くのことが理解でき、物事を見通す力を持つことができます。理解力や物事を見通す力があるから「頭がよい」人は「仕事ができる」人になります。ですから一見すると、広い世界観を持つことはよいことのように思えます。しかし広い世界観を持つことには「自分がとても小さな存在だと知って無力感を覚える」という副作用があります。
 
 多くの物事を知ることの中には、多くの偉人を知ることも含まれます。「偉人」はエラい人やスゴい人のことで、生きている人も亡くなった方も含みます。「頭がよい」人は偉人が好きで、自分も偉人のように立派になりたいと考えています。そのため仕事に一生懸命打ち込み、高い能力を発揮することになりますが、これは仕事が得意分野だから可能なのであって、苦手分野となると話は別です。
 
 「頭がよい」人は感情を抑え込んでいるため感性が育っておらず、美醜の判断力がありません。美醜は芸術分野ですから、「頭がよい」人は芸術が苦手です。芸術が好きではあり、よくわかるようになりたいのですが、自分の中で芸術をうまく位置づけられないためモヤモヤしています。「芸術は好きなんだけど、なんとなく『いい』としか言えないんだよな」と。芸術分野にも偉人は多くいて、それは画家だったり役者だったり音楽家だったりします。「頭がよい」人にとって芸術家の偉人は理解を越えた存在です。仕事に関する偉人はある程度理解ができて目指すことも可能ですが、芸術分野の偉人は理解すらできません。そうなると、「世界中に芸術家がいて、みんなが芸術家を称賛しているのに、僕にはちっとも分からない…」と悲しくなってしまいます。
 
 どっかの「偉人」を見上げて劣等感を覚えているより身近なものを「美しい」と称えればよい、そう考える方がいらっしゃるかもしれません。もちろんその通りで、「頭がよい」人も同じように考えます。「頭がよい」人は広い世界観を持っていて、自分の身近なことも「自分に関係ある」と思っています。ところが困ったことに、「頭がよい」人は身近な「美しい」も分からないのです。

 例えば花です。花はそこら中にあって、学校や公園の花壇、街路樹、民家の庭などで栽培されていたり、野生で咲いていたりします。季節によって咲く花は変わっていき、1年中私たちの目を楽しませてくれます。今の時期ですと、東京・千葉では梅の花が咲き始めています。梅の花はそのかわいらしい姿とほのかな香りで、これからだんだん春が近づいてくることを告げ知らせてくれます。
 
 一般的に人は花を見ると「ああ、きれいだなぁ」と思って気持ちよくなります。ちょっと散歩してみればわかりますが、どこの家でも庭や玄関先には花があります。奥さんやおばさんやお婆さんがせっせと育てているのです。みな花が美しいと思っていて、庭を美しく飾ろうとしているのです。奥さんやおばさんやお婆さんたちは普通の人たちです。特殊な才能を持っているから「花が美しい」と感じることができるわけではありません。だってどこの家でも花を育てているのですからね。
 
 それに対して「頭がよい」人は花を見ても「ああ、きれいだなぁ」と思って気持ちよくなることがありません。花を見ると「花が咲いているな」とは思います。「花が咲いているな」は単に事実を認めただけで、そこから「きれい」や「かわいい」や「美しい」という気持ちが出てきません。たとえ「きれい」や「かわいい」や「美しい」と思ったとしても、それは「感じた」のではなく、「こういうものを一般的に『美しい』と言うのだろう」という事実の確認、もしくは推測です。
 
 「頭がよい」人は「頭がよい」という特殊能力を持った人です。長い間苦労して「頭がよい」という特殊能力を得たため、自分に自信を持っています。「頭がよい」ということはスゴいことですから、自信も持つことでしょう。ところが、その「スゴい」自分が「花が美しい」という当たり前のことを実感できないのです。普通の人々、奥様やおばさんやお婆さんたちにだって分かる「花が美しい」が、特殊能力を持っていて「スゴい」はずの自分には分からないのです。このことは「頭がよい」人を悲しい気持ちにします。

 「頭がよい」人は、自分から遠い「芸術」も自分に身近な「花が美しい」も分からないという事実を前にして、「僕には『美しい』を理解する才能がないんだ」と思い、絶望します。「頭がよい」人は広い世界観を持っているため、自分から遠い世界からも身近な世界からも自分の感性を否定されてしまったと思うと「世界のすべてから否定された」と思い、普通の人よりも大きな衝撃を受けてしまうのです。全世界から否定されたらそれは大変な衝撃でしょう。絶望した「頭がよい」人は無力感を覚え、「美しい」を理解することを諦めます。そのため感情を解放して感性を育てようという気が起こらないのです。


 
 「今までの自分のやり方を変えたくない」こと、「バカだと思われたくない」こと、「自分の『美しい』を理解する才能に絶望している」こと、以上3つの理由により「頭がよい」人は「美醜の判断」を諦めてしまっています。
 
 ここまで長たらしく分かりにくい文章を読んでこられた皆さんも、きっと「頭がよい」人でしょう。ご自分が「頭がよい」人なのだと自覚して、「美醜の判断」ができなくなってしまった理由をご確認いただければと思います。



 

 今回はここまでです。「美醜の問題」はあと1、2回で片付きますので、もうしばらくお付き合いいただければと思います。

【本編③】詩的表現が『わかる』ーズルい取引ー

今回も前回の続きです。


 『カエルの王さま』を読み解いている途中で美醜の判断を皆さんに下してもらう必要が生まれましたが、それはなかなか難しいことでした。そのため、先に「美醜の問題」を片付けてしまおうということで前回から「美醜の語りづらさ」の原因を説明して参りました。

 ①-Aでは皆さんが生活を優先するあまり美醜についてよく考えてこなかったことが原因のひとつだとお話しし、①-BとCでは「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳の存在が原因の2つ目だとお話ししました。下に「美醜の問題」の項目を再びお書きします。



①美醜の語りづらさ
 A.生活優先
 B.「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳
 C.中学生の横暴
 D.怠け者の理屈とズルい取引
②美醜の判断
 (②の細かい項目は今回は省略します。)

今回は①-Dからお話ししていきたいと思います。




①-D怠け者の理屈とズルい取引
 
 皆さんが美醜について語りづらい理由の3つ目は「ズルい取引」をしてしまったことです。

 

 私は前回①-Bで「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳のお話をしました。この道徳には醜い人間と直接喧嘩することを防いだり、横暴な中学生を抑えたりする役目があるということでしたが、「横暴な中学生」に再びご注目いただきたいと思います。
 
 思春期の中学生は現実と格闘することで根拠のある自信をつけて自己形成していくものですが、現実と格闘することなく自尊心ばかりを肥大化させていく愚か者がおります。後者は現実と関わっておらず、自分を客観的に評価できないため、その自尊心は「俺はエラい、なぜなら俺はエラいからだ」というヘンなものになります。そんなヘンなものを誰も認めるはずがございませんから、この中学生は自分のエラさを実際の行動によって証明しなくてはいけなくなります。どうやって証明しようとするのかというと、「他人を馬鹿にする」という横暴な振舞いによってです。「俺は人より上なんだ」と言えばそれが証明になると思っているのですね。バカですね。そんな嫌なものを見せつけられたらまともな人間は腹が立ちます。大人は「思い上がんなよ、このやろう!」との怒りをもって叱りつけます。このバカは色々な点について人をバカにするのでその都度叱られるのですが、人の見た目の悪口を言ったときは「人の見た目を悪く言うな!」と叱られることになります。前回はそういうお話でした。

 
 
 さて、横暴な中学生を叱りつけることには体力と気力が必要です。いくら叱りつけても懲りずに何度も同じことを繰り返すのが愚かな中学生ですから、叱る方は何度も同じことで叱らなくてはなりません。叱るのにも体力を使うので疲れます。また人を叱るということは人としての正しいあり方を他人に示すことですから、勇気がいります。その勇気を何度も示し続けなくてはならなかったら、気力が削がれます。ですが愚かな中学生を野放しにしておいてよいはずがないので、大人は叱り続けなくてはなりません。
 
 大人といっても疲れきってしまうと休みたい気持ちが出てきます。休んで体力と気力が回復した後にまた叱り出すのならよいですが、一旦休んだらそのまま休み続ける人もいます。これは「休む」ではなく「怠ける」です。怠けることは楽なので、人は簡単に「怠ける」に陥りがちです。しかしただ怠けていると他の大人に「怠けるな!」と叱られてしまうかもしれないし、「自分はよくないことをしているな」と自分で自分を責めることになるかもしれません。そのため、怠け者は怠けることを正当化する理屈が欲しくなります。その理屈の代表が「過去の自分も愚かだった、だから自分は今の愚かな中学生をあまり非難してはいけない」です。

 この理屈は巧妙です。人は誰しも完璧ではなく、特に若いときには悪いことをした覚えがあります。だから一見すると「過去の自分も愚かだった、だから自分は今の愚かな中学生をあまり非難してはいけない」というセリフは「自分は、かつて自分が愚かだったことを自覚している謙虚な人間なんだ」と周囲に示す言葉として聞こえてしまいます。謙虚さを示されると周囲の大人は困ります。「謙虚」とはよいことです。それを「悪い」とはなかなか言えません。謙虚さを否定したら、自分が傲慢な人間のように思えてしまいます。周囲の大人は「なんかヘンだなぁ…」と思いつつも怠け者に対して攻めあぐねます。
 

 
 周囲の大人が怠け者を攻めづらい理由は「謙虚さ」以外にもあって、それは「過去の自分も愚かだった、だから自分は今の愚かな中学生をあまり非難してはいけない」という言葉に隠された、あるズルさです。
 
 
 前回のブログでこの横暴な中学生の話を読んだときに、皆さんの中でギクリとした方はいらっしゃいませんでしたか?過去の自分を振り返って「自分も昔は横暴だったな」と考え、「この文章は過去の自分がやったことを責めているんじゃあないか?」と思って怯えた、そういう「ギクリ」です。
 
 過去の自分の過ちを責められることはつらいことです。過去のことは取り返しがつかないことがほとんどです。相手に謝ろうにも機会がないし、もう連絡が取れなくなっていることも多く、大抵の場合はどうしようもありません。過去の過ちを一旦認めたら、償う機会を持たないまま、一生その罪を背負って生きなければならなくなります。できることならば避けたいでしょう。
 
 自分が横暴な中学生を叱るときには、過去の自分と今目の前にいる横暴な中学生が重なって、自ら過去の自分の過ちを責めているような気分になるかもしれません。嫌なことです。人の過ちを咎めることにはこんな危険があるのですね。
 
 
 その危険を避ける簡単な方法があります。「なあ、俺はお前の悪いところを非難しないよ?その代わりにさあ、お前も俺の悪いところを非難しないで欲しいんだ」と言って、中学生や周囲の大人、自分の良心と「取引」するのです。もちろんズルです。この「他人を責めない代わりに自分も責められない」というズルい取引を交わしてしまったらもう自分は他人から責められる恐れがありません。
 
 そしてこの取引は魅力的です。人は生きていれば何らかの過ちを犯す可能性が常に付きまといます。良心を持った人ならば自分は過ちを犯しているのではないかと怯えたり、過去の過ちを後悔したりすることがあります。自分の過ちがバレなければよいですが、バレて人から責められたらどうしようと、常に不安を抱えビクついて生きています。しかし、周囲の人間とこの取引を交わせば、自分はもう責められることがありません。何か過ちを犯したとしても、他人は見て見ぬふりをしてくれるため、それを無かったことにできてしまいます。こうなったら「過ちを責められるのではないか」という不安が消えてしまうのです。なんとありがたいことでしょう。「他人を責めない代わりに自分も責められない」というズルい取引はとても魅力的なのです。
 
 怠け者の「過去の自分も愚かだった、だから自分は今の愚かな中学生をあまり非難してはいけない」という理屈の背後には「他人を責めない代わりに自分も責められない」という取引が潜んでいます。取引とはいっても、これは怠け者本人が心の中で勝手に交わしてしまった取引なので、契約書や口頭での約束などの具体的な形を取りません。私は先ほど、怠け者は「なあ、俺はお前の悪いところを非難しないよ?その代わりにさあ、お前も俺の悪いところを非難しないで欲しいんだ」と「言って」取引をすると申し上げましたが、実際にはこのセリフを「言い」ません。心の中でこのセリフを唱えて、一人決めしてしまう、それだけで取引が可能です。この取引は具体的な他人と交わすものではなく、怠け者が自分の頭の中で勝手に作り上げた架空の他人と交わすだけで成立するものなのです。「そんな馬鹿な!」と思うかもしれませんが、本人がそう思い込んでしまっている以上仕方がありません。こうして具体性を欠いた取引が成立してしまいます。

 具体的な形がない取引に対しては周囲の大人は無力です。止めさせようとしても、その止めさせる対象がないとなったら、どうしようもありません。

 また、下手を打つと周囲の大人もこの取引に巻き込まれます。怠けたい気持ちは誰の心にもあります。普段はその気持ちを抑えていますが、「他人を責めない代わりに自分も責められない」という取引を目の前にちらつかせられたらどうでしょう?とても魅力的な取引ですから、いつの間にか自分も取引をして怠け者になってしまっていた、ということは充分にありえます。怠け者には近づくこと自体が危険です。ですから通常は怠け者と距離を置くしか対処法はなく、怠け者を叱ってもとに戻すことは難しいのです。


 しかしこんな取引損だということは簡単にわかる話で、「他人を責めない代わりに自分も責められない」という取引には、事の成り行きとして「自分が被害を受けたときにその被害を訴えられない」ことと「他人が被害を受けたときに見て見ぬふりをする」こと、そして「自分が被害を受けたときに皆が見て見ぬふりをする」ことが含まれます。

 他人を責めないのですから、自分が被害を受けても相手を責めることはできません。自分以外の誰かが被害を受けていても、加害者を責めることをしませんから、ただ眺めるだけです。被害者から助けを求められても、どうしてやることもできません。そして被害を受けている他人を助けないのですから、当然自分も助けてもらえません。「自分の過ちを責められない」ことと「自分が被害を受けた時に自力で自分を守れず誰からも助けてもらえない」ことを取引してしまうことはどう考えても大損です。おとなしく自分の過ちを責められていた方がよいのではないかと思います。
 

 


 勘のよい方ならもうお気づきかと思いますが、美醜に関してもこれと似たようなことが起きます。
 
 
 美醜を語る際には、語られる対象だけでなく、それを語る自分の立ち位置も問題とされます。我々は神様ではなく、この現実を生きている人間なので、「自分だけは評価の対象にならない」などという特権は持てません。ですから美醜を語る際には「自分も美醜の評価の対象になる」という意識が必要です。
 
 「意識」というと自分の頭の中や胸の内にある見えないもののように思えますが、「『自分も美醜の評価の対象になる』という意識」は目に見える具体的な振る舞いのことです。人は通常、「自分も美醜の評価の対象になる」のだったら、「美しい」と評価されたいし、「醜い」と評価されたくないと考えます。そのため「自分も美醜の評価の対象になる」と考えている人は、美しくなろうとします。自分の身なりや表情、発言や行動に気を配って、周囲の人から美しく思ってもらえるようにします。「今の季節に合っていて、自分に似合う服を着よう」とか「気持ちを顔つきで表そう」とか「今の状況にピタリと当てはまる言葉はなんだろう?」とか「読む人が心地よくなる字を書こう」とか、考えて実行します。自分に自信のない方だったら、せめて自分の醜いところは減らそうと、やはり身なりや表情や発言・行動から醜いところをなくそうとします。「服のほこりは払っておこう」とか「きちんと相手の顔を見て挨拶しよう」とか「汚い言葉は使わないようにしよう」とか「相手が読める字を書こう」とか、控え目ながらも、考えて実行します。「『自分も美醜の評価の対象になる』という意識」があるかないかは、以上のように「美しくあろうとする振る舞い」または「醜いところをなくそうとする振る舞い」があるかないかで判定できる具体的なことなのです。
 
 したがって、美醜について語る資格があるのは普段から自分の美しさを磨いている人か、自分の醜いところをなくそうとしている人だけです。

 美しくあろうとする振る舞いや醜いところをなくそうとする振る舞いの見られない人が美醜の評価をしても、その評価は他人からあまり信頼されません。「自分も美醜の評価の対象になる」という意識がない人は、周囲の人から「この人は『自分だけは評価の対象にならない』と考えているのではないか?」と疑われます。「疑われ」ると書きましたが、この疑惑は正当です。「自分だけは評価の対象にならない」と考えているからこそ「自分も美醜の評価の対象になる」という意識=振る舞いが見られないという逆も真ですから。神様みたいな特権意識で美醜を語ったら、他人が信頼するはずはなく、鼻で嗤われるかもしれません。
 
 

 美醜を語るには普段から自分の美しさを磨かなくてはなりませんが、皆さんは「美醜」がよくわからないからこんなブログを長々と読まされていたのでした。そんな皆さんが「美しさを磨」こうとしたら、大変です。

 まず、目指すべき方向を見つけるのに苦労します。進むべき方向がわからないときは思い付きであれこれ試すしかありませんが、これは不安です。思い付きとは根拠に乏しいもので、上手くいく保証なんか与えてくれません。上手くいく保証のないことをしていると「自分のやっていることには意味があるのか、無駄なんじゃないか」という不安が付きまといます。

 また、他人から「ダメ」なヤツだと思われる恐れがあります。「あれこれ試す」とは具体的な行動を取ることです。今まで自分のあり方を気にしなかった人が急に服を買ったり、にこやかになったり、言葉遣いを改めたり、字の練習を始めたりしたら、どうしたって他人の目について「あの人はどうしたんだろう?」と思われます。他人はしばらく眺めてから「この人は自分を変えようとしているのだな」と気付きます。そして他人は「ダメだこりゃ」と判断します。必ず「ダメ」だと判断します。目指すべき方向が分からなくてあれこれ試している状態の人はまだ結果を出していませんし、方向すら定まっていないため期待も持たれません。方向が定まれば、他人から「お、これは上手くいくかもな」という期待を持たれるかもしれませんが、そうでない試行錯誤の段階では「ダメ」です。あれこれ試している人は、よくわからないことを無理してやっているのに「ダメ」と言われてしまうのです。これは嫌です。

 「言われてしまう」とお書きしましたが、実際に言われる場合もあるし、自分で勝手に「言われるかも」とか「あのニヤついた顔は自分に『ダメ』と言おうとしている顔だ!」とか、まるで「言われた」かのように思い込む場合もあります。大抵の場合は後者で、本人の単なる思い込みです。まともな大人は「自分を変えよう」としている人にわざわざ「ダメ」だと言いません。試行錯誤の苦労は割りと誰もが経験しているもので、何事も初めは「ダメ」で苦しいということは常識です。そのため大人は「『ダメ』だけど、『よくあろう』とする意思は悪くない」と思って黙っています。

 わざわざ「ダメ」だと言ってくるのは横暴な中学生くらいなものです。横暴な中学生は自分より下の人間を常に探していますから、少しでも隙を見せると踏みつけにしようと襲い掛かってきます。「おまえ、美しくなろうとしてるのか?ははっ、お前なんかが美しくなれるわけないじゃないか!恥ずかしいヤツだな、このブスッ!」くらいのことは言ってきます。もちろん、自分のことは棚に上げて、神様になったかのような高みから見下してきます。こんな豚野郎の相手をする必要はありませんが、しつこく絡んでくるのでウンザリします。しかも試行錯誤をしている人は自分でも自分が「ダメ」な状態だということを知っているので、そこを突かれると弱いです。相手がろくでもないヤツだと頭ではわかっていたとしても、「やっぱり自分は美しくなんかなれないのかも」と気持ちが落ち込んでしまいます。



 美醜がよくわからない人は以上のように苦労します。目指すべき方向を見つけるためにあれこれ試し、不安を覚えながら試行錯誤し、結果が出なくて「ダメ」を突きつけられ、中学生相手に防戦を強いられる、これでは疲れてしまいます。「疲れちゃうから、美醜について語るのなんかよしてしまおう」と怠ける気持ちが出てくるでしょう。「私には美醜がよくわからないので美醜について語りません」と言って黙り込み、美しくなることを目指さず、美醜について語ることも諦めます。




 「私には美醜がよくわからないので美醜について語りません」は「過去の自分も愚かだった、だから自分は今の愚かな中学生をあまり非難してはいけない」と似ています。

 「私には美醜がよくわからない」と「過去の自分も愚かだった」は「自分は大した人間ではない」との謙遜です。「ので」と「だから」は理由説明の接続語です。「美醜について語りません」と「自分は愚かな中学生をあまり非難してはいけない」は自分のやるべきことを放棄するという宣言です。よく似ているでしょう?


 「過去の自分も愚かだった、だから自分は今の愚かな中学生をあまり非難してはいけない」の背後には「他人を責めない代わりに自分も責められない」というズルい取引が潜んでいました。同様に「私には美醜がよくわからないので美醜について語りません」の背後にもズルい取引が潜んでいて、それは「他人の醜いところを指摘しない代わりに自分の醜いところを指摘されない」です。「なあ、俺はお前の醜いところを指摘しないよ?その代わりにさあ、お前も俺の醜いところを指摘しないで欲しいんだ」と言って周囲の人と取引するのですね。「言って」とお書きしましたが、もちろん実際には言わず、自分の中で勝手に作り上げた架空の他人と取引を交わすのです。

 「他人の醜いところを指摘しない代わりに自分の醜いところを指摘されない」という取引は「他人を責めない代わりに自分も責められない」という取引と同じく、損です。この取引をすると、醜い人間の存在を黙認することになります。そうすると、醜い人間が堂々と表を闊歩することで自分が嫌な気分になったとしても、嫌な顔をできなくなります。また、醜い人間の振る舞いに困っている他人がいても、助けることはできません。そして他人を助けないのですから、自分も助けてもらうことはできません。「自分の醜いところを指摘されない」ことと「醜い人間に苦しめられても自力で自分を守れず誰も助けてくれない」こととを取引したら大損ですね。おとなしく自分の醜いところを指摘されて泣く方がよいのではないかと思います。


 皆さんが美醜について語りづらい理由は他人とこの「ズルい取引」を交わしてしまっているからかもしれません。ご自分の胸の内をよく点検して、くれぐれもお気をつけ願いたいと存じます。


 

 

 今回はここで終わりですが、理屈っぽい上に気分が暗くなるような話だったので、最後にちょっとした救いになることをお書きしたいと思います。
 
 

 「美しくなろう」とすると苦しくなって、美しくなることを諦めるために体のよい理屈を求めてしまいます。それを防ぐ方法として、「マシになろう」ぐらいに考えておく、というものがございます。

 人は極端なので「英雄か、ドブ泥か」といった二者択一に陥りがちで、美醜についても「美しいか、醜いか」と考える傾向にあります。この「美しいか、醜いか」は「私という存在は美しいか、醜いか」なのですが、「私という存在」などという抽象的なものを相手にしたっていいことありません。

 ですから「私の『この部分』は美しいか、醜いか」と考えたらどうでしょう。服装はどうか、顔つきはどうか、言葉遣いはどうか、字の書き方はどうかと具体的な項目1つ1つについて検討し、美しい部分があったら喜ぶ、醜い部分があったら直す、ということを続けて、少しでも「マシ」になることを目指す、というやり方です。「美しい人」を目指すとなると目標が高くて手に届かない気がし、気持ちが続きません。しかし「マシな人」だったら簡単になれそうで、気持ちが折れることなく継続して目標を目指せるかと思います。



 続けていればそのうちに皆さんは部分的に美しい「マシな人」ではなく、総合的に見て「美しい人」になれるかもしれません。

健闘を祈ります。



次回は「②美醜の判断」に入りたいと思います。

【本編②】詩的表現が『わかる』ー美醜の語りづらさー

 今回も前回の続きです。
 

 前回の終わりで私は、『カエルの王さま』は

美しき者は善であり、醜き者は悪である

という価値観で作られていて、皆さんが美醜の判断を下せないと先に進めない、と申し上げました。皆さんは美醜の判断をお持ちですが、ご自分の判断に自信が持てないため先に進めない、だから「美醜の問題」のお話をして皆さんに自信をつけていただく、今回はこういった趣旨のブログでございます。
 「美醜の問題」は今回から数回に渡ってお話ししたいと思います。長くなりますが大変重要な問題ですので、何とぞお付き合い願いたいと存じます。


「美醜の問題」と一口に言いましてもそこには様々な論点が含まれています。混乱を防ぐために項目立てをいたします。


①美醜の語りづらさ
 A.生活優先
 B.「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳
 C.中学生の横暴
 D.怠け者の理屈とズルい取引
②美醜の判断
 (②の細かい項目は今は省略します。)
 




①美醜の語りづらさ

 「美醜に関する判断に迷う」と申しましても、
「自分の美醜に関する判断を口に出すことに迷う」
ことと
「自分の美醜に関する判断が正しいのかどうか迷う」
ことの2種類の迷いがございます。先に1つ目の「自分の美醜に関する判断を口に出すことに迷う」ことを扱いたいと思います。




①-A生活優先
 
 皆さんが美醜について語りづらい理由の第1は、生活を優先するあまり美醜についてまともに考えてこなかった、というものです。
 

 人にとってまず大事なことは「食っていくこと」です。自分の力で自分の生活を成り立たせることは誰にでも必要なことであり、人として生きていく上での最優先事項と言えます。仕事というと家の外で会社勤めをする給与生活者のことだけが考えられがちですが、自営業や、自宅を維持する家事、また子育ても仕事です。「外で働いて給料を貰う」も「自力で稼ぐ」も「お金は稼がないけど自宅の内部を整備する」も「子供を育てる」も皆「仕事」で、それぞれの人にそれぞれの苦労があり、それに耐えて大人は生活しています。

 「仕事」は大人なら誰でもやっていることなので簡単そうに思えますが、実際にやってみるとこれが大変難しいです。特に若い間は仕事のやり方がよくわからないため、うまくいかないことが続いて不安になりがちです。通常はそれに耐えて少しずつ仕事に慣れていき、だんだんと仕事ができるようになり、一人前の社会人へと成長していきます。
 
 仕事に慣れて手際がよくなりホッと一息つく時間を作れるようになると、ようやく「仕事以外のこと」に目が向くようになります。旅行に出掛けたり、美味しいものを食べたり、いい服を買ったり、本を読んだり、映画を見たり、舞台を見たり、運動をしたり、習い事を始めたり、余裕の出来た大人はいろいろな趣味を楽しみます。人は楽しいことや美しいものが好きですから、趣味は人の生活を豊かにする大切なもので、趣味を楽しめることはとてもよいことでしょう。
 
 趣味を楽しむことはまことに結構なことですが、たまに趣味に没頭しすぎて本業をおろそかにする人がいます。本業をおろそかにすると自分で自分の生活を成り立たせることが出来なくなりますので、これはいけないことです。まともな大人は本業をきちんとこなし、その上で趣味を楽しむものです。ですから趣味に没頭してあまり仕事をしない大人は他の大人から「やりすぎだ!まずは自分のやるべきことをきちんとやれ!」と叱られます。
 
 反対に仕事ばかりで趣味のない人は「つまらない人」と言われてしまうことがあります。仕事はきちんとしているので叱られることはありませんが、雑談するときや宴会の席であまり面白い会話が出来ないので、少し寂しい思いをします。
 
 本業をきちんとやり、趣味も楽しむ、このバランスをとって生活することが理想的ですね。
 


 しかし残念ながら多くの人が「趣味ばかり」か「仕事ばかり」かのどちらかに傾きます。この傾向は経験不足の若い人ほどよく見られます。困ったものですが、人は人生経験が不足していると「白か黒か」「0か100か」といった二者択一のものの考え方をしがちです。「いろんな色があるだろう?」とか「20も50も80もあるでしょう?」とか言われても聞く耳を持たず極端に走ってしまいます。真面目な人なら「仕事ばかり」、そうでない人なら「趣味ばかり」になります。
 
 若い人を指導すべき大人は「生活が成り立った上での趣味だ」と理解していますから、「趣味ばかり」の若者に向かって「やりすぎだ!まずは自分のやるべきことをきちんとやれ!」と言います。叱られるのは「趣味ばかり」の若者だけで、「仕事ばかり」の若者は叱られません。大人は「生活を成り立たせることが優先」と考えていますから、趣味がなくてつまらない若者のことは「趣味ばかりのやつよりはよい。きちんと仕事はしているのだから、この上何か要求するのはよくないな」と考えてほったらかします。
 
 若者の極端さばかりをあげつらってきましたが、大人の中にだってその極端さはあります。ただ、大人は若者と違って「自分は極端である」ことを自覚しています。自分が極端であることを自覚しているから「仕事」と「趣味」のバランスをとることが可能なのですが、問題はそのバランスの取り方です。
 
 大人は「仕事が上で、趣味は下」というように「趣味」を「仕事に比べて劣ったもの」扱いしてバランスを取っているのです。なぜ大人がそんな考え方をするのかというと、趣味は楽しすぎるために「趣味は劣ったもの」とでも考えないと仕事がおろそかになるに決まっているからです。
 
 若者と同じく大人も極端です。「仕事」と「趣味」を対等に扱うと趣味の楽しさが勝ってしまい、仕事をおろそかにしかねません。それを防ぐために「仕事が上で趣味は下」という順位をつけているのです。
 


 ここで美醜の話になりますが、「美しいものが好きで醜いものが嫌い」という人の感情は「趣味」の領域にあります。仕事は自分の好き嫌いに関わらずやらなくてはいけませんから、好き嫌いといった人の感情に働きかける美醜はどうしたって「趣味」に属します。「趣味」は「仕事」に比べて「劣ったもの」なのですから、皆さんはその「劣ったもの」に関してあれこれ本気で考えては来なかったはずです。「美しいものが好きで醜いものが嫌いだけど、まあ、所詮遊びでしかないからなぁ…」くらいに考えてきたのではないでしょうか。
 
 だからといって皆さんは「趣味」である「美醜」を「よくないもの」と思っているわけではありません。「美醜」は「わかると生活が豊かになるもの」と理解しています。そして「美醜」の判断を下せる趣味人に対してそれなりの敬意も持っていらっしゃいます。そのため「自分の美醜の判断は曖昧でいい加減、そんなに磨かれていない三流の判断をわざわざ人前に出すのも悪いかな」、そういうふうに考えているはずです。
 
 「美醜は劣ったもの」と考えているけれどバカにしているわけでもない、これが皆さんが美醜について語りづらい第一の理由です。

 私はそんな皆さんの状態を悪いとは思いません。生活を成り立たせることが優先なのはいつの時代もどこの国でも共通するもので、人が極端な性質を持っていることもまた普遍的です。皆さんが産み出した「仕事が上で趣味が下」「生活が優先で美醜は遊び」という価値観は、人の暴走を防ぐ大変優れた安全装置だと思います。
 
 ただ、「仕事が上で趣味は下」はあくまで安全装置です。安全装置に足を取られて身動きできなくなってしまっては困るでしょう。「仕事はきちんとしているのだから、もっと趣味を楽しむぞ」との意気込みをもっていただければ、私はそう思います。
 




①-B「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳
 
 「自分の美醜に関する判断を口に出すことに迷う」原因の2つ目に「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳の存在がございます。

 皆さんはここまで長い文章を読むことができる方々ですから、子供の頃にご家庭や学校で高い教育を受けてきたことと存じます。

 「教育」というと一般的には学校で習う国語・数学・英語・理科・社会といった主要五科目の勉強を指すようですが、本来「教育」はもっと範囲の広いものです。保健体育では身体の使い方や鍛え方、保護の仕方を学びますし、技術家庭では機械の扱い方や掃除洗濯といった生活に必要な知識・技術を身に付けます。音楽と美術は少し分かりにくいかもしれませんが、生活を豊かにする文化活動を学び行うという点で立派な教育です。
 
 また、学校で習う科目だけでなく、普段の立ち居振舞いの指導も教育です。姿勢の保ち方・字の書き方・食事の仕方・身支度の仕方・片付けの仕方・口のきき方・物の扱い方・お金の扱い方・生活習慣の守り方・危険の避け方など挙げれば切りがありませんが、親御さんや先生にそれら指導を受けた記憶があるかと思います。例えば皆さんは子供の頃、食事をしているときに親御さんから「口を閉じなさい」とか「犬食いをするな」とか「食べ物で遊ぶな」とか言われた記憶はございませんか?もし記憶に残っていなくても、今のご自分の普段の振る舞い方を考えたときに、あらゆることに気を遣っている、そういった方はきちんと教育を受けてきた来た方です。
 
 
 教育とはこのように範囲の広いものですが、その教育の「口のきき方」の中で「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という項目があったかと思います。自分がある人のことについて「不細工だなぁ…」とか「気持ち悪いなぁ…」とか言ったら、親御さんから「そんなこと言うもんじゃないの!」と叱られた、という経験はありませんか?叱られてから後は人の見た目に関する悪口を全く言わなくなったり、大人に隠れて友達とコソコソ囁くようになったりしたと思いますが、とにかく子供の頃の皆さんは「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳が世の中にはあることを学んだと思います。人の見た目に関することを口に出しづらい理由の1つは、子供の頃に身に付けたこの道徳の存在です。

 ところで、皆さんはこの道徳をバカ正直には守っていないと思います。その理由は単純で、皆さんに「醜いものは嫌い」という感性があり、醜いものが表を闊歩していたら驚くし、文句を言いたくもなるからです。前回のブログでも申し上げましたが、人は「美しいものが好きで醜いものが嫌い」な生き物で、それを止めることなど誰にもできないのです。
 
 
 それでは「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳は何故存在するのでしょうか?昔の大人が「美しいものが好きで醜いものが嫌い」という人の性を否定する古い頭を持っていたからでしょうか?それとも神道や仏教など宗教上の理由でしょうか?
 
 

 
 実は「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という言葉は、文字通りに受け取ってはいけない「実際的な言葉」なのです。これは根拠のない「正しい教え」などではなく、実生活を営む上で必要な「実際的な言葉」で、文字通りに受け取るとなんだかヘンだけど実生活では役に立つ、といったものです。
 
 

 何の役に立つのかと言いますと、まず「醜い人間に直接喧嘩を売るな」という知恵を得ることです。

 私は先ほど、人は「美しいものが好きで醜いものが嫌い」と申し上げましたが、醜い人に面と向かって「あなた醜いからあっち行って!」と言う方はいるでしょうか?普通そんなことしません。人に面と向かって「醜い!」と言うことはほとんど喧嘩を売るようなもので、買わなくてもよい恨みをわざわざ買ってしまうことになります。醜い人に睨まれることになれば、醜い人を追い払うどころかかえって引き寄せる結果となります。醜い人がいて気に入らなくても普通は我慢して裏で愚痴ります。醜い人に我慢ができないくらい困っているのだったら、何とかするにしても、その人の上司や親御さんに文句を言って何とかしてもらうのが無難でしょう。  
 
 「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」とは、「人の見た目に関して公然と悪口を言うことは危ないからいけない」ということであり、裏で愚痴ったり、人を介して伝えることを「いけない」とは別に言っていないのです。

 

 「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という言葉にはもう1つ役に立つ面があり、こちらの方が重要なのですが、それは「中学生の横暴を抑える」という役割です。





①-C中学生の横暴
 
 一般的に、子供は自分が思ったことをそのまま口にします。人目を憚らず善いことも悪いことも言ってしまうので、普通はそれを「子供だから仕方がない」とか「素直だなぁ」とか言って笑います。まあ、親御さんはあわてて周囲の方々に謝ることになりますが。今の話で言った「子供」とはせいぜい小学生までの子供のことで、大人の入り口に立っている中学生ともなると話は別です。
 
 中学生は自分が思ったことをそのまま口にすると叱られます。もう子供扱いはされませんから、時と場所と相手を考えて発言や行動することが求められます。ですから中学生が軽々しく人の見た目に関する悪口を言うと「人の見た目の悪口を言うな!」という風に大人から叱られることになります。この「叱られる」は私が先ほど申し上げた「醜い人間に直接喧嘩を売るな」という知恵を中学生に持たせるための実際的な指導です。
 

 しかし、中学生が「人の見た目の悪口を言うな!」と叱られる場合は他にもあって、それは「思い上がんなよ、この野郎!」という大人の怒りをぶつけられる場合です。
 
 

 「中学生は大人の入り口に立っている」と申し上げましたが、それは思春期ということで、自我が生まれると共に他人の目を意識し始める時期です。この現実における自分の位置付けが分からなくて不安になり、他人の目が怖くて傷つきやすくなる、それが嫌で確固とした自分が欲しくてあれこれ思い悩んだり試したりする、思春期とはそういう時期です。
 
 通常は現実と格闘していくなかで自分の立ち位置を掴んで落ち着いた大人へと成長していきます。「勉強が出来るようになった」とか「運動が出来るようになった」とか「会話がうまく出来るようになった」とか「行事の運営がうまく出来た」とか、「できる」ようになったこと、すなわち客観的な指標による自己評価をして自信をつけていき、根拠のある自尊心を持つようになります。たとえ「できない」の壁にぶつかったとしても、その「できない」をきちんと受け止めて、「できない自分」も評価の中に含めます。
 
 現実との格闘をする中学生は人の見た目に関する話を迂闊には口にしません。うっかり人に喧嘩を売る羽目になることを嫌がりますし、自分の美醜の判断が客観的なものになっているかどうか慎重に検討もするからです。



 しかし中には他人の目を気にもせず現実と格闘することもなく根拠なき自尊心ばかり肥大させてしまう愚か者がおります。こういう中学生は他人の視点で自分を見つめないため自己評価ができません。たとえ自己評価のようなことをしていたとしても、現実と格闘していないわけですから、その自己評価に客観性はありません。そのためこの中学生の自己評価は「俺はエライ、なぜなら俺はエライからだ!」というヘンテコリンなものになります。

 この中学生は自尊心だけが高くてエラぶってはいますが、ひどく臆病なために現実と関わることをしません。勉強が出来なければ「やる気がないから」、運動が出来なければ「意味がないから」、人との会話がうまくいかなければ「あんなバカどもと俺は違うんだ」などと自己正当化のためのあらゆる言い訳・屁理屈を並べ立てて現実から逃げ、自分を守ります。
 
 もしこの中学生が他人の見た目に関する悪口を言ったとしたら、嫌なものになるでしょう。まず、美醜に関する客観的な判断力を持たないため他人の同意を得られるようなことが言えません。次に、この中学生は「俺はエライ」を言わんがために他人をコケにするのですから、その傲慢さが他人に嫌がられます。
 
 そんな中学生がいたら周りの大人はどうするでしょうか?「人の見た目の悪口を言うな!」と怒鳴り付けるでしょう。自分の力じゃ何もできない豚野郎がエラそうに人をコケにしているのを目にしたら腹が立ちますね。それに根拠なく悪口を言われる人が気の毒です。大人には醜い振る舞いをする中学生を止める義務があります。だから「思い上がんなよ、この野郎!」との想いをもって「人の見た目の悪口を言うな!」と叱りつけます。
 
 従って「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という言葉には、横暴な中学生を止めるという役割があり、これは実生活の中で役に立つ立派な言葉なのです。


 

 ここまでの説明で「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳の役割がお分かりいただけたと思います。喧嘩を防いだり、客観性のない中学生の横暴を止めたりする役割です。つまりこの道徳は、
「時と場所と相手を考えたうえで客観性のある妥当な美醜の評価をすること」
を禁止してはいません。
 ですから常識的な行動をとる限り、皆さんが美醜について語ることはまったく問題ありません。「叱られるんじゃないか」とヘンに怯える必要などないのです。
 
「時と場所と相手を考えたうえで客観性のある妥当な美醜の評価をすること」

このことをよく守った上で美醜について語っていただければと思います。






長くなりましたので今回はここまでです。次回は「D.怠け者の理屈とズルい取引」からお話をしていきたいと思います。

【本編①】詩的表現が『わかる』ー詩人との闘いー

 さて、今回はいよいよ『カエルの王さま』の読み解きに入っていきます。『カエルの王さま』はグリム童話の巻頭を飾る作品で、童話の代表格と言えます。
 
 童話にはよく荒唐無稽な設定や展開があります。この荒唐無稽さは通常は「まあ、子供向けの話だから…」と流されてしまうようなもので、まともに相手にされません。もしくはあまりにも普遍的な人の気持ちを描いたもののため今さらワザワザその表現を言葉にして説明しようなどと誰も思わない、というものかもしれません。いずれにしても童話の荒唐無稽さは詩的表現ですので、ここではその表現を真面目に取り上げていきたいと思います。


まずは粗筋から紹介いたします。



 昔あるところに1人の王さまが住んでいました。王さまにはお姫さまがたくさんいましたが、末のお姫さまはとても美しい方でした。
 このお姫さまはお城近くの森でまりつき遊びをすることを好んでいましたが、あるときこのまりが泉の中に落っこちてしまいました。お気に入りのまりを失ってお姫様がしくしく泣いているとカエルが現れ、まりを取ってきてくれると言いました。お姫さまはカエルのお友達になること、一緒の食卓で同じ食器で食事をすること、一緒の床で寝ることを条件にカエルにまりを取って来てもらいました。ところがお姫さまは約束を破り、カエルを置いて帰ってしまいました。
 明くる日、カエルはお城まで追いかけてきてお姫さまに約束を果たすよう言いました。お姫さまは嫌がりましたが、事情を聞いた王さまはお姫さまに約束を守るよう言いつけました。お姫さまは仕方なくガマンしてカエルと一緒に食事をしましたが、一緒に寝るときになってお姫様はガマンしきれなくなり、カエルを壁に叩きつけました。するとカエルは人間の王子さまになりました。実はカエルは悪い魔女の魔法にかけられていた王子さまだったのでした。二人は結婚して王子さまの国で幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。

(参考図書:「完訳 グリム童話集1」金田鬼一訳 岩波文庫 1979年改訂)



 まず物語の序盤にお姫さまとカエルが登場します。この二人はごく自然に会話をしておりますが、皆さんにここで確認していただきたい重要なことがあります。それは

「現実でカエルが人間の言葉を話すはずがない」

ということです。
 
 
 
……皆さんどうですか?「この人は何を言っているんだ?」とお困りになったでしょう?

 
 私が「現実でカエルが人間の言葉を話すことはない」などという当たり前の事実をさも重要な事実であるかのように申し上げるので、皆さんは呆れてしまったことと思います。また、私のことをものすごい馬鹿だと思ったかもしれません。中には「こっちを馬鹿にしているのか!」とお怒りの方がいらっしゃるかもしれません。
 

 皆さんの困惑や嘲笑や怒りはもっともで私は申し訳なく思いますが、これにはわけがございます。

 

 そのわけをお話しするためにまず私は皆さんにお聞きしたいのですが、皆さんの中でカエルがお姫さまとごく自然に会話をしていることを不思議に思った方はいらっしゃいますか?どうですか?
 
 
 
 おそらく大半の方は「お話なんだから、そういうもんだ」と考えて受け入れてしまったことと思います。皆さんは「現実でカエルが人間の言葉を話すはずがない」ことをご存知です。そして「現実」と「お話」とを区別する「常識」と「良識」がございますから、「カエルが口を利くお話」と「カエルが口を利かない現実」とを簡単に分けることができたと思います。

 
 それはそれでとても大事なことなのですが、しかし、それ「だけ」では『カエルの王さま』を読み解くことが出来ません。相手である詩人のことも考えなくてはなりません。


 皆さんは自分の身に付けている「常識」や「良識」が世にあまねく行き渡っているとうっかり考えがちですが、詩人に「常識」や「良識」はございません。「こんな当たり前のことは言わなくても分かるだろう」と思っていたら全く分かっていなかった、あるいはとんでもなく自分にとって都合のよいようにものを考えてそれを恥とも思っていなかった、そういう詩人はいくらでもいます。
 
 皆さんは現実において仕事をしていたり日常生活を営んだりしていますから、「現実」と「お話」を区別することなんて簡単です。「現実」と「お話」の区別がつかなかったら生活が壊れてしまいますから、「簡単」どころか「当たり前」だと考えていて、その区別に大変な注意を払っている、「常識」や「良識」が身に付いている、とはそういうことです。

 
 しかし詩人は違います。「現実」なんかどうでもよくて「常識」や「良識」なんて知ったこっちゃないんです。自分が「現実」と「お話」を一緒にしてしまうことで一般人の生活を破壊することになったとしても平気です。なぜなら詩人の世界には「他人」がいなくて「自分」しかおらず、詩人は「自分が幸せになれないのならこの世界なんか滅びてしまえ!」くらいに考えているのです。それでいて罪悪感など毛ほども持ちあわせておらず、自分の正しさを信じて疑いません。
 
 やつらは自分の快感のためならどんな無茶でも平気でします。例えば「現実でカエルが人間の言葉を話すことはない」という事実を無視して、「カエルが口を利く」ことをあたかも現実であるかのように語ります。こちらは初め「お話の世界のことを言っているのかな?」と思いますが、詩人は「この現実でカエルは口を利く」と言います。次にこちらは「ふざけてるのかな?」と考えますが、詩人は大真面目です。そしてこちらはそのこと自体を悪いとは思いませんが、仕事や日常生活をその世界観で押し通されると色々困ったことが起きるのでやめてほしいと考えます。そして「そういうことはそういうことにふさわしい時と場所を考えて言おうよ」と諌めますが、詩人は時と場所を考えず、いつでもどこでも「この現実でカエルは口を利く」と言い張ります。こちらが困惑して、それでも妥協案を出したというのに、いつでもどこでも「この現実でカエルは口を利く」という世界観を強要してくるのです。



 詩人と対決することはとても大変なことだと分かっていただけたでしょうか?我々一般人はとんでもないヤツを相手にしなくてはならないのです。1対1だとこちらの頭はやられてしまって確実に飲まれます、負けます。
 
 一般人が詩人と面と向かって話をすると、わけのわからない話を捲し立てられるためまず不信感が訪れます。次に、こちらを無視してわけのわからない世界観を崩さないため、不信感が不快感に変わり、怒りがこみ上げてきます。怒りたくなりますが、もし常識的な一般人がその場に自分1人しかいなかった場合、自分以外誰1人として詩人のことを咎める者はおりません。始末の悪いことに、詩人はわけのわからない世界観を共有する仲間を連れていることが多く、一般人は詩人の間にあって孤立しがちです。そのことに気づくと怒りがしぼんできて、「自分が間違っているのか?」とだんだん不安になってきます。ついには「自分はきっと時代についていけない頭の古い人間なんだ」と思い込んで口を閉ざし、詩人に敗退するのです。
 
 1人で詩人と向き合うと大抵このような結果になります。詩人の現実を破壊する力を前にして不安になっていては勝てる戦いにも勝てません。ですから我々は団結して不安を払拭しなくてはなりません。そのためにまずどんな些細なことでもよいから当たり前のことを我々の間で共有する、という行為が必要です。




「現実でカエルが人間の言葉を話すはずがない」

 私がこの当たり前の事実を提示した理由は、我々一般人の間で当たり前を共有して心を強くすることが大事だと皆さんにお知らせするためだったのです。


 

 
 さて、改めて『カエルの王さま』の序盤です。カエルとお姫さまはごく自然に会話をしていますが、これはヘンです。「現実でカエルが人間の言葉を話すはずがない」のですから。よいですね。このことをしっかりと胸に刻んでおきましょう。ではこの場面を我々に分かる「現実」の言葉に置き換えたいと思います。そうすると、


実はここで「カエル」と言われている存在は人間の姿をしていて、カエルの姿をした生き物なんてどこにもいなかった、したがってお姫さまはカエルと会話をしていたのではなく、「カエルのような風貌の醜い男」と会話をしていた


ということになります。


 
「そんなことどこに書いてあるんだ?私の読んだ『カエルの王さま』には確かに『カエル』だと書いてあって、実はカエルが人間の王子さまだと分かるのは最後だったぞ。挿し絵もカエルだったし。あんまり勝手な解釈をするのもどうかと思うけど…」

 
 賢明な方はこうお考えになるでしょう。しかし私の解釈はあまり「勝手」ではございません。
 
 『カエルの王さま』は『グリム童話』に納められているお話の1つですが、19世紀初頭に刊行された『グリム童話』はグリム兄弟がドイツで収集した民話がもとになっています。童話も民話も同じようなものですが、民話は民衆の間に伝わってきたお話であり、多くの人の生活実感の中から産まれてきたお話です。「こういうことあるよな」とか「こういうことありそうだよな」という人々の想いを仮託されているのが民話ですので、荒唐無稽な表現もその根っこは「現実」にあります。ですから現実に存在しない「人間の言葉を話すカエル」を現実に存在する「カエルのような風貌の醜い男」だと考えたって一向にかまわないのです。

 だいたい詩的表現は「この表現は現実ではこれこれのことを指しているのです」などと親切に説明してくれません。むしろ「そんなこと自分で考えろよ!」と突き放してきます。不親切かもしれませんが、向こうがそう言ってきているのだから仕方がありません。こっちはこっちで考えるしかないのです。ですから私にはその不親切さに怒って「カエルなんかいない!醜い男のことを『カエル』と言っているんだ!」と決める権利があるのです。

 それに、不親切には何か事情があるかもしれません。例えば、こういうことを考えてみてください。
 現実にカエルのような風貌をした男がいたとして、その人に向かって「あなたカエルみたいね」などとあからさまに言えるでしょうか?言えませんね。言えたとしてもそれは家族や友達といったごく親しい相手でしょう。他人だったら普通はコソコソと「あの人カエルみたいね」とささやきます。ケロケロケロッピみたいなかわいいカエルなら「カエルみたいね」は誉め言葉にもなりますが、ヒキガエルのことだったら悪口にしかなりません。もしみんなが面白がっているお話の中に「カエルのような風貌の醜い男」が登場したらと、現実における「醜い男」は「みんなで俺の悪口を言っているのか!」と怒っちゃいます。悪口をあからさまにしないためにドイツの人々は
「これは醜い男の話ではなくて本当のカエルの話なんだ」
ということにして本音を隠した、そんな事情があったかもしれません。
そう考えると不親切さに対する腹立ちも少しは紛れることでしょう。


 

 まだ納得のいかない方もいらっしゃるかもしれませんが、取りあえず解釈の仕方は「現実の方に引っ張る」というやや強引な方法をとっていきたいと思います。
 
 その「現実の方に引っ張る」やり方でお姫さまとカエルの会話を解釈した結果、お姫さまは「カエルのような風貌の醜い男」と会話していることがわかりました。そうすると、今度は会話の内容に問題が出てきます。

 
 上の粗筋に書かれた会話の内容は
「お姫さまはカエルのお友達になること、一緒の食卓で同じ食器で食事をすること、一緒の床で寝ることを条件にカエルにまりを取って来てもらいました。」
となっております。この書き方だとお姫さまからカエルに条件を提示したように見えるかもしれませんが、実際は逆で、岩波文庫の本文ではカエルがお姫さまに条件を提示しています。カエルはお姫さまに対して、まりを取って来る代わりに

お友達になること
一緒の食卓で同じ食器で食事をすること
一緒の床で寝ること

を要求したのです。私が問題としているのはここです。


 
 カエルが本物のカエル、仮にヒキガエルだったとしましょう、それなら問題はあまりございません。ヒキガエルとお友達になったり食事をしたり一緒に寝るたりすることは、人によって反応は様々で「嫌だなぁ」とか「気持ち悪いなぁ」とか「楽しいなぁ」とか「面白いなぁ」とかあるでしょう。反応は様々ですが、「動物を相手に本気にはならない」という点で皆共通しています。「まあ、所詮爬虫類相手だしな…」との思いが頭にあるので、一緒に遊んだり食事をしたり寝たりするにしても、軽い気分で嫌がったり楽しんだりするだけで済みます。「嫌だ」と思っても「ちょっと嫌だけど、我慢できないほどではないな」くらいなもので、「心底嫌だ」とは思わないでしょう。


 
 しかし、このカエルが「カエルのような風貌の醜い男」だったら話が大きく変わってしまいます。私は上でカエルの要求を

お友達になること
一緒の食卓で同じ食器で食事をすること
一緒の床で寝ること

などと可愛らしい言葉で書きましたが、「カエル」を「人間の男」に置き換えたらこれらの要求は

デートしろよ
飯行こうぜ
寝ようぜ

ということになってしまいます。とんでもない要求です。特に3つ目の「寝ようぜ」はもっと露骨に言うと「ヤらせろ」で、3つの要求をまとめると「俺の女になれよ」です。これは大問題です。「カエルのような風貌の醜い男」がお姫さまに「俺の女になれよ」などと言っているのです。ギョッとします。醜い男が若くてきれいな女の子に男女の仲を迫るという状況は、想像するだにおぞましいです。普通なら「気持ち悪い」だとか「嫌だ」とか嫌悪感を覚えます。「ちょっと嫌だけど…」どころではなく「心底嫌だ」です。『カエルの王さま』は童話なのに冒頭から恐ろしい場面を描いていたのですね。


 
 今の私の話をお読みになって、皆さんはどうお感じになりましたか?

 醜い男が若くてきれいな女の子に男女の仲を迫るという状況を想像して、きっと「嫌だ」とか「気持ち悪い」とか感じたと思います。しかし、例えそう感じていたとしても私の問いかけには困って黙り込んでしまったのではないでしょうか?あるいは「嫌なんだけどねぇ、そうなんだけどねぇ、うーん…」という、はっきりしない、奥歯にものの挟まったようなモゴモゴしたお返事しか出来ないと思います。
 
 なにしろこのブログは「詩的表現が『わかる』」です。そんなブログを読む皆さんは「詩的表現」なるものがよくわからないはずで、従って詩的表現に深く関わる美醜もよくわからないはずです。私がお姫さまのことを「若くてきれい」と言ったり、男のことを「カエルのようで醜い」と言ったりするたびに、「そうなの?」とか「そんなこと言って大丈夫なの?」とか思って戸惑ったり慌てたりしたことと思います。「美醜もよくわからない」とお書きしましたが、皆さんは美醜が全くわからないわけではなく、なんとなくはわかります。皆さんも「若くてきれいなお姫さま」が好きで「カエルのような風貌の醜い男」は好きではない、そういう感情はお持ちです。ですが皆さんは自信がなくて、ご自分の美醜の判断をはっきりと口に出してよいか迷ってしまう、だから皆さんは私の問いかけの前に口ごもるのです。




 お気持ちは分かりますが、このまま迷われていては困ります。


実は『カエルの王さま』は


「美しき者は善であり、醜き者は悪である」


という価値観によって作られたお話で、美醜の判断を下せることがこのお話を『わかる』条件となります。ですから皆さんが美醜の判断に迷い続けていたら話が先に進みません。


 そこで次回、皆さんの美醜の判断に自信をつけるため、美醜の問題をお話ししていきたいと思います。