なべさんぽ

ちょっと横道に逸れて散歩しましょう。

【最終回】詩的表現が『わかる』ー強く美しい人ー

暑さが一段落し涼しい風も吹き始めたこの頃ですが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

今回は「詩的表現が『わかる』」の最終回です。8ヶ月かかった連載も今回でようやく終わります。やっとです。皆さんに申し上げるべきこともいろいろとございますが、あいさつは後にして、早速内容に入っていきたいと思います。



 私の更新速度が遅かったせいで、そろそろ皆さんは『カエルの王さま』の筋を忘れてしまったことと存じますから、またまた粗筋をお書きしたいと思います。



 昔あるところに1人の王さまが住んでいました。王さまにはお姫さまがたくさんいましたが、末のお姫さまはとても美しい方でした。
 このお姫さまはお城近くの森でまりつき遊びをすることを好んでいましたが、あるときこのまりが泉の中に落っこちてしまいました。お気に入りのまりを失ってお姫様がしくしく泣いているとカエルが現れ、まりを取ってきてくれると言いました。お姫さまはカエルのお友達になること、一緒の食卓で同じ食器で食事をすること、一緒の床で寝ることを条件にカエルにまりを取って来てもらいました。ところがお姫さまは約束を破り、カエルを置いて帰ってしまいました。
 明くる日、カエルはお城まで追いかけてきてお姫さまに約束を果たすよう言いました。お姫さまは嫌がりましたが、事情を聞いた王さまはお姫さまに約束を守るよう言いつけました。お姫さまは仕方なくガマンしてカエルと一緒に食事をしましたが、一緒に寝るときになってお姫様はガマンしきれなくなり、カエルを壁に叩きつけました。するとカエルは人間の王子さまになりました。実はカエルは悪い魔女の魔法にかけられていた王子さまだったのでした。二人は結婚して王子さまの国で幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。

(参考図書:「完訳 グリム童話集1」金田鬼一訳 岩波文庫 1979年改訂)



 私は『カエルの王さま』を現実に引き付けて解釈するという方針で、この物語を読み解き始めました。するとここに登場する「カエル」は「カエルのような風貌の醜い男」ということになり、私はこの男が醜いと言って悪口を書き立てました。ところが私の悪口に皆さんが付いてこられなくなったため、途中で「美醜の問題」について長々と語り、皆さんにある程度美醜の判断力がついた時点で、再び『カエルの王さま』に戻ったのでした。私は「カエルのような風貌の醜い男」の醜さは男の心のありようがそのまま姿に反映された結果だと言い、醜いくせに美しいお姫さまを口説こうとする男を非難しました。そしてこの男の手助けをする王さまのことも「判断力のない人」だとバカにしました。今は『カエルの王さま』の最後の場面の謎である「なぜ王子さまにかけられていた魔法が解けたのか」という問題についてお話しするところでした。


思い出していただけたでしょうか?




 では、なぜ魔法が解けたのかということについてお話ししていきます。王子さまはお姫さまにビンタをされて魔法が解けたわけですが、これは「強く美しい人」にぶたれて嬉しくなっちゃったからです。
 
 「ぶたれて嬉しくなっちゃった」なんて書くと、皆さんは「王子さまはマゾヒストなのか?」とか「ヘンタイなのか?」とかお思いになるかと存じますが、その通りです。王子さまはマゾヒストであり、マゾヒストは一般的には特殊性癖とされていますから、ヘンタイでしょう。そしてこのヘンタイは「立派であろうとして失敗したヘンタイ」なのです。
 


 話が急で皆さんはさぞお困りのことと存じます。「王子さまはマゾヒストでヘンタイです」といきなり言われてもよくわからないでしょうし、そこに「立派であろうとして失敗した」なんて説明がくっついていたら混乱するでしょう。皆さんはそもそもマゾヒストやSMプレイのことなんかよくわからないでしょうから、私の言っていることが何一つわからなくて迷子の気分だと存じます。

 そこで一旦横道に逸れて「そもそもSMとはなんぞや?」ということをお話ししたいと思います。『カエルの王さま』の本筋から外れた話になりますが、これはお話ししておかなくてはならないことなので、何とぞ御容赦ください。

 
 


 
 SMプレイは一般的には「S(サディスト)がM(マゾヒスト)をいたぶる性的行為」です。S(サディスト)は人をいたぶることが好きな者、M(マゾヒスト)は人からいたぶられることが好きな者です。SはMに暴力を振るったり暴言を吐いたりして喜び、MはSに暴力を振るわれたり暴言を吐かれたりして喜びます。
 
 どちらが男でどちらが女か、異性同士か同性同士か、素人同士でするのか玄人が加わるのか、どこでどういう風にやるのかなど、その形態は様々ですが、「女王様がブタ野郎をいたぶる」という設定が一般的には知られているでしょう。女王様が首輪に繋がれた男に対して「このブタが!」と罵ってムチを振るい、ヒールで踏んだり溶けたロウを背中に垂らしたりする、男はいたぶられるたびに「はい!私は醜いブタですぅ!」とか「ごめんなさい!」とか悲鳴を上げる、しかし全然嫌がっていないし喜んでいる、マンガや映画やテレビではこのような状況が描写されることがあるので、皆さんもなんとなくご存知ではないでしょうか?

 
 皆さんはSMをご存知ですが「知っている」だけで、当人たちがどういう気持ちでやっているのかという内実は「わからない」かと存じます。まず、人をいたぶって喜んだり人にいたぶられて喜んだりすることは通常の頭では理解不能です。そして「女王様」だとか「ブタ野郎」だとかいう日常とはかけ離れた演劇的設定があると、その世界には簡単には入っていけません。だからSMはわかりにくいのですが、SMを「性的行為」と捉えることからこのわかりにくさは生まれています。一般的にはこんなことは言われませんが、SMは実は「性的行為」ではなく「教育」であり、そういう目で見るとよく分かるものなのです。
 
 
 
 SMが「教育」であるとはどういうことか、そのことを「女王様がブタ野郎をいたぶる」という設定に絞ってご説明いたします。

 まず「ブタ野郎」ですが、「野郎」は男のことです。「ブタ」は残飯をあさってブクブク太っているから醜い生き物の代表で、そうすると「ブタ野郎」は「醜い男」のことになります。ここで注意が必要なのは、ブタは太っているから醜いのではなく、卑しいから醜いのだということです。ブタは雑食で、何でも食べます。だから昔は残飯や屑野菜などの人が食べないような「いらないもの」を与えられて飼育されました。粗末な食事を「ブタのエサ」といいますが、「いらないもの」から成る粗末な食事をフガフガ食べてブヒブヒ太っていくブタの有り様は、気高さとは無縁の卑しさで満ちています。だからブタの醜さとは卑しさのことです。「ブタ野郎」は「卑しい男」といった方がよいかもしれません。
 
 
 さて、この卑しいブタ野郎ですが、動物のブタとは違う点があります。それは「誇りを持ちたい」と思っている点です。
 
 このブタ野郎はなんとなく「自分はダメなやつだ」と気付いています。何について「ダメ」なのかは人によりますが、「男であること」や「大人であること」や「父親であること」や「仕事人であること」など、確固とした立場を得ることに失敗して、信念がなくフラフラしているがゆえに「ダメ」なのです。これは苦しい状態ですから、ブタ野郎はこの「ダメ」な自分を何とかして、誇りをもって生きられるようになりたいと考えています。

 「ダメ」な自分を直すにはまず心の底から「自分はダメだ、イヤだ、何とかしたい」と思わなくてはなりません。そうしないと改善する方向に動けません。しかしかわいそうに、ブタ野郎は「なんとなく」しか「自分はダメなやつだ」と思っていません。それというのも、ブタ野郎を「ダメだ」と指摘してくれる人や叱ってくれる人が周囲にいないからです。心の底から「ダメ」だと自覚したいのにそれができない、これでは「ダメ」な状態から抜け出せません。困ったブタ野郎は自分を「ダメだ」と叱ってくれる女王様を求めてSM倶楽部に足を運びます。「ブタ野郎」は「誇りを持ちたい」と思うまっとうな人間なのです。

 
 それでは次に「女王様」です。「女王様」は「王女様」や「お妃様」とは違います。「王女様」は「王様の娘」で「お妃様」は「王様の妻」ですが、「女王様」は「女の王様」です。この違いは何を示すのかというと、女王様は「強さ」と「美しさ」を兼ね備えた特殊な存在だということです。
 
 王宮における女たちは美しい存在です。化粧・服装・言葉遣い・立ち居振舞いを学び、実践し、美しくあることに大変な気を遣います。女たちは現実社会からは遠ざけられていますから、現実において何事もなし得ません。しかしだからこそ理想の美しさを体現することに心血を注ぎ、男たちに対抗しうる力を付けています。それに対して男たちは社会的存在です。現実社会の政治を司るのが男で、その頂点に立つのが王様です。王様は現実社会で人々を統率する役割ですから、ナヨナヨしていては務まりません。優れた知力・体力・気力を持つことが理想とされる王は、したがって強さの象徴です。
 
 女王様は女の持つ美しさと王様の持つ強さを兼ね備えた、大変優れた人間なのです。
 
 
 
 ここでSMの根本的な謎である、なぜブタ野郎は女王様にいたぶられたがるのか、という話ですが、その理由は、「強く美しい人に叱られたい」からです。
 
 ブタ野郎は「自分はダメだ」ということをはっきりさせたくて、自分を叱ってくれる人を求めています。このブタ野郎は人の子なので両親がいますが、両親では叱る力が足りませんでした。お父さんは立派で強い人でしたが、美しくありませんでした。「仕事はできるけどダサい」わけです。ブタ野郎はお父さんの「仕事ができる」という部分は尊敬していましたが、ダサいところはイヤでした。だからお父さんに叱られてもこたえません。「あんたみたいなブスに何か言われる筋合いなんてないわ!」というわけです。またお母さんは美しい人でしたが、現実を生きていくにはあまりにナヨナヨしていました。「美しく着飾っているけれどマヌケ」です。ブタ野郎はお母さんの美しいところは尊敬していましたが、マヌケなところを見て頼りなく感じていました。だからお母さんに叱られてもこたえません。「てめえみてえな世間知らずが偉そうに指図するんじゃねぇ!」です。

 ブタ野郎にとってお父さんとお母さんは共に不十分です。だからどちらの言うことも聞きたくありません。皆さんは「そんなムチャな」とお思いになるかと存じます。一般的に、完全な人間というものは存在しません。人は足りない部分を補いあって生きるものであり、子育ても同様です。しかるに、どうやらブタ野郎の両親はあまり仲がよくないようで、互いの足りない部分を補いあって子育て出来なかったようです。また、親戚やご近所さんの協力を仰ぐことも出来ず、夫婦の不備を補う人が周囲にいなかったのでしょう。こうして不満をためた息子は「完全な人間」を求めるというムチャを犯すようになってしまいました。ブタ野郎は自分で自分を律することができないから他人に叱ってもらうくせに、叱ってくれる他人にうるさい注文を付けるというワガママなヤツなのです。

 存在するはずがない完全な人間を求めるなどというムチャは、通常ならば挫折します。当然です。存在しないものは見つかるはずがないのですから。しかしブタ野郎は完全な人間を見つけてしまいました。それが女王様です。女王様は強さと美しさを兼ね備えた存在です。強さと美しさをどちらも持っているということはブタ野郎にとって「完全」ということであり、唯一ブタ野郎を叱る資格を持った人間なのです。したがってブタ野郎は女王様に叱られるのなら納得します。いいえ、納得するどころか泣いて喜んで叱られに行きます。そして自分のダメさ加減を自覚し、ダメな自分を克服して立派な男になろうとします。

 しかしブタ野郎は長い時間をかけてブタ野郎になりました。そのためちょっとやそっとでは人間に戻れません。だから女王様にぶたれているうちは「立派であろうとして失敗したヘンタイ」状態です。たくさんぶたれて、踏まれて、ムチ打たれて、罵られる経験を積んでようやくダメな自分を自覚出来るのです。一度転んだ人間は立ち上がるのに時間がかかりますが、これは仕方のない話で、そのように苦労して立ち上がるのが人間というものです。



 

 さて、SMプレイの説明はこの辺にして、『カエルの王さま』に戻りたいと思います。王子さまは「お姫さまにぶたれて嬉しくなっちゃった」から魔法が解けたというお話でしたが、それは王子さまがブタ野郎と同じくマゾヒストだったからですね。

 王子さまは自分のダメさ加減を自覚したくて、自分を叱ってくれる人を求めていました。自分の両親(他国の王様とお妃様)はその役目を果たすには力不足だったため、家出して他所の国に行って女王様を探していました。そしてお姫さまに出会ったのです。
 
 お姫さまは宮廷の女の子ですから、当然美しく着飾り、立ち居振舞い・言葉遣いも美しいです。そして「カエルのような風貌の醜い男」にかまってあげるほどの懐の広さがあり、醜いものは醜いと断じる厳しさを持っています。懐の広さと厳しさは「強さ」です。そのため王子さまはお姫さまを女王様と同じ「完全な人間」だと考え、お姫さまに付きまといます。そして王子さまは狙い通り、お姫さまにムチ打たれ、踏みつけられ、罵られて、自分のダメさを自覚し、人間に戻ることが出来たのです。これが、王子さまにかけられた魔法が解けた理由です。


 
 「ええっ、王子さまがお姫さまにいたぶられている場面なんかあったっけ?」と戸惑う方がいらっしゃると思いますので、王子さまがお姫さまにいたぶられている場面を振り返りたいと思います。
 
 まずはお話が始まる場面です。お姫さまは泉に金のまりを落としてしまい、カエルのような風貌の醜い男=王子さまに金のまりを取ってきてもらいます。その際お姫さまは王子さまと「おともだちになること、一緒に食事をすること、一緒に寝ること」を約束しましたが、約束を破って帰ってしまいます。これが1つ目のムチです。醜いくせに美しいお姫さまと対等に交渉しようとした身の程知らずの王子さまに対して、お姫さまは手厳しい一撃を加えたのですね。嬉しくなった王子さまは「ああ、あの人ならダメなボクをもっと叱ってくれるに違いない」と考えてお姫さまを追いかけます。
 
 次に、カエルのような風貌の醜い男=王子さまがお姫さまをお城まで追いかけてきた場面です。ここで王子さまはお姫さまに約束を果たすように迫りますが、これはただのポーズです。王子さまは「約束を果たせ!」と口では言うものの、「こんなダメなボクの言うことを聞いて欲しくない」と思っていて、拒まれることを期待していました。しかしここで邪魔が入ります。王さまです。王さまはお姫さまに「王子さまとの約束を果たせ」などと余計なことを命じます。お姫さまも王さまには逆らえないので、しぶしぶ王子さまと食事をします。王さまの思わぬ介入でお姫さまが約束を守るハメになったので、王子さまはガッカリです。「ああ、姫よ、あなたはその程度で折れてしまうような人なのか…」しかししかし、お姫さまの心は折れていませんでした。お姫さまは食事中ずっと「イヤだ!」という態度を見せ、王子さまに対して軽蔑の眼差しを向け続けていたのです。これが第2のムチです。期待していた状況とは違うものの、困難に見舞われてもなお自分を見失わずに立派な態度を貫くお姫さまを見て、王子さまは大喜びです。「ああ、もっと蔑んでぇ!ゴミを見るような目でボクを見てぇ!あなたに見下されたい!」これで王子さまはお姫さまを信頼するようになりました。あとは思いっきり叱ってもらうだけです。

 最後にお姫さまと王子さまは寝室に行くことになります。お姫さまは「一緒に寝る」という約束を守るよう王さまから命じられたため、イヤイヤ寝室に王子さまを連れていきます。もちろん、イヤイヤ連れていったので、お姫さまは王子さまを自らベッドに招くなんてことはしません。自分だけベッドに入って、王子さまは部屋の隅に立たせてそのままです。つまりは放置プレイで、これが第3のムチです。寝室で二人きりになって今まさに男女の関係にならんというところでお預けを食らった生殺し状態の王子さまは大興奮です。「さすがはお姫さま、王さまに命令されたって形だけしか従わない!ダメなボクなんかを絶対に受け入れないんだ!ああ、気高い!」

 興奮した王子さまは欲張って、もっとお姫さまから叱られたがります。そのためにお姫さまを怒らせようと「王さまに言いつけるぞ」とお姫さまに言います。これは醜い。王子さまは自分に力がないくせに、王さまという権威を笠に着て言うことを聞かせようと威張ったのです。虎の威を借る狐ですね。王子さまの狙い通りお姫さまは激怒し、王子さまに思い切りビンタをします。これが第4のムチです。そのあまりの勢いに王子さまは壁に叩きつけられ、床に倒れ込んでしまいます。これは大変です。お姫様は約束を守りたくないがために暴力を使ってまで王子さまを拒んだのですから、これが王さまにバレたら罰を受けること必至です。ああ、どうしましょう。
 しかし、かえってこれが功を奏しました。罰を受けることを厭わず醜き者に対して怒りを爆発させたお姫さまを見て、王子さまは感銘を受けました。お姫さまの怒りは王子さまに「人はどんな困難な状況にあっても美しくあるべきだ」という強い想いを伝え、「その通りだ!」と共鳴した王子さまは「ボクはダメなんだ!このダメさを克服して美しくなるぞ!」と、とうとう自分が「ダメ」だということを自覚したのでした。


 
 以上が王子さまがカエルから人間に戻ることが出来た経緯です。御納得いただけたでしょうか?おそらく多くの方が「納得できるかバカヤロー!」と思っていらっしゃるかと存じます。私はあまり一般的ではない話ばかりしたため、話の内容が皆さまの頭にすんなりとは入っていかなかったことと存じます。少し時間をおいていただければ、少しずつ頭に入り、腹にも落ちてくることと思いますので、王子さまが人間に戻ることが出来た経緯はここまでにしたいと存じます。そしてこの「詩的表現が『わかる』」のブログも、書くべきことは全て書ききりましたので、ここで終わりにいたします。
 

 


 
 


 
 皆さま、令和四年のお正月からここまで私の話に長々とお付き合い下さり、誠にありがとうございました。このブログはもともと、詩的表現がわからない人に対して『カエルの王さま』における表現を解説するという触れ込みで始まりました。それがいつの間にか「美しいとはなんだ?」とか「中学生は横暴だ」とか「『ブサイク芸人』はいかに醜いか」とか「SMプレイとは教育だ」とか話題がコロコロ変わって、皆さんを困惑させる展開が続くものとなっていきました。更新の速度はだんだん遅くなり、文章もどんどん乱れていき、書く方も読む方も「本当に最後まで書ききれるのか?」と疑うほどの危うさを持ったブログでした。

 皆さんは私が場当たり的に思い付いたことを書き連ねているだけだとお思いかと存じますが、半分はその通りです。最初から最後まで計画通りに文章を書いたとしたら、書く方も読む方も成長しませんから、思い付いたことの中で必要そうなことは全部お書きしました。決して皆さんは無駄な手間をお取りになったわけではございませんから、その点はご安心ください。
 
 このブログに書いた半分は思い付きですが、もう半分は、『カエルの王さま』を現実的に解釈することで詩的表現を一般人でも理解出来るようにする、という想いで書き続けて参りました。「変身」や「魔法」などといった不思議なことが、決して昔の人の妄想ではなく、人の心のなかで起きていることの表現だと示そうという姿勢でおりました。その点については場当たり的ではなく、一貫した態度をとれたのではないかと思っております。

 
 

 繰り返しになりますが、ここまでお付き合い下さり、誠にありがとうございました。「詩的表現が『わかる』」が皆さんの今後の人生の後押しになったであろうことを願い、また、皆さんの今後の健闘を祈り、この一連のブログを終えたいと存じます。また、次のブログもお読み下されば幸いです。

では。