なべさんぽ

ちょっと横道に逸れて散歩しましょう。

【本編②】詩的表現が『わかる』ー美醜の語りづらさー

 今回も前回の続きです。
 

 前回の終わりで私は、『カエルの王さま』は

美しき者は善であり、醜き者は悪である

という価値観で作られていて、皆さんが美醜の判断を下せないと先に進めない、と申し上げました。皆さんは美醜の判断をお持ちですが、ご自分の判断に自信が持てないため先に進めない、だから「美醜の問題」のお話をして皆さんに自信をつけていただく、今回はこういった趣旨のブログでございます。
 「美醜の問題」は今回から数回に渡ってお話ししたいと思います。長くなりますが大変重要な問題ですので、何とぞお付き合い願いたいと存じます。


「美醜の問題」と一口に言いましてもそこには様々な論点が含まれています。混乱を防ぐために項目立てをいたします。


①美醜の語りづらさ
 A.生活優先
 B.「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳
 C.中学生の横暴
 D.怠け者の理屈とズルい取引
②美醜の判断
 (②の細かい項目は今は省略します。)
 




①美醜の語りづらさ

 「美醜に関する判断に迷う」と申しましても、
「自分の美醜に関する判断を口に出すことに迷う」
ことと
「自分の美醜に関する判断が正しいのかどうか迷う」
ことの2種類の迷いがございます。先に1つ目の「自分の美醜に関する判断を口に出すことに迷う」ことを扱いたいと思います。




①-A生活優先
 
 皆さんが美醜について語りづらい理由の第1は、生活を優先するあまり美醜についてまともに考えてこなかった、というものです。
 

 人にとってまず大事なことは「食っていくこと」です。自分の力で自分の生活を成り立たせることは誰にでも必要なことであり、人として生きていく上での最優先事項と言えます。仕事というと家の外で会社勤めをする給与生活者のことだけが考えられがちですが、自営業や、自宅を維持する家事、また子育ても仕事です。「外で働いて給料を貰う」も「自力で稼ぐ」も「お金は稼がないけど自宅の内部を整備する」も「子供を育てる」も皆「仕事」で、それぞれの人にそれぞれの苦労があり、それに耐えて大人は生活しています。

 「仕事」は大人なら誰でもやっていることなので簡単そうに思えますが、実際にやってみるとこれが大変難しいです。特に若い間は仕事のやり方がよくわからないため、うまくいかないことが続いて不安になりがちです。通常はそれに耐えて少しずつ仕事に慣れていき、だんだんと仕事ができるようになり、一人前の社会人へと成長していきます。
 
 仕事に慣れて手際がよくなりホッと一息つく時間を作れるようになると、ようやく「仕事以外のこと」に目が向くようになります。旅行に出掛けたり、美味しいものを食べたり、いい服を買ったり、本を読んだり、映画を見たり、舞台を見たり、運動をしたり、習い事を始めたり、余裕の出来た大人はいろいろな趣味を楽しみます。人は楽しいことや美しいものが好きですから、趣味は人の生活を豊かにする大切なもので、趣味を楽しめることはとてもよいことでしょう。
 
 趣味を楽しむことはまことに結構なことですが、たまに趣味に没頭しすぎて本業をおろそかにする人がいます。本業をおろそかにすると自分で自分の生活を成り立たせることが出来なくなりますので、これはいけないことです。まともな大人は本業をきちんとこなし、その上で趣味を楽しむものです。ですから趣味に没頭してあまり仕事をしない大人は他の大人から「やりすぎだ!まずは自分のやるべきことをきちんとやれ!」と叱られます。
 
 反対に仕事ばかりで趣味のない人は「つまらない人」と言われてしまうことがあります。仕事はきちんとしているので叱られることはありませんが、雑談するときや宴会の席であまり面白い会話が出来ないので、少し寂しい思いをします。
 
 本業をきちんとやり、趣味も楽しむ、このバランスをとって生活することが理想的ですね。
 


 しかし残念ながら多くの人が「趣味ばかり」か「仕事ばかり」かのどちらかに傾きます。この傾向は経験不足の若い人ほどよく見られます。困ったものですが、人は人生経験が不足していると「白か黒か」「0か100か」といった二者択一のものの考え方をしがちです。「いろんな色があるだろう?」とか「20も50も80もあるでしょう?」とか言われても聞く耳を持たず極端に走ってしまいます。真面目な人なら「仕事ばかり」、そうでない人なら「趣味ばかり」になります。
 
 若い人を指導すべき大人は「生活が成り立った上での趣味だ」と理解していますから、「趣味ばかり」の若者に向かって「やりすぎだ!まずは自分のやるべきことをきちんとやれ!」と言います。叱られるのは「趣味ばかり」の若者だけで、「仕事ばかり」の若者は叱られません。大人は「生活を成り立たせることが優先」と考えていますから、趣味がなくてつまらない若者のことは「趣味ばかりのやつよりはよい。きちんと仕事はしているのだから、この上何か要求するのはよくないな」と考えてほったらかします。
 
 若者の極端さばかりをあげつらってきましたが、大人の中にだってその極端さはあります。ただ、大人は若者と違って「自分は極端である」ことを自覚しています。自分が極端であることを自覚しているから「仕事」と「趣味」のバランスをとることが可能なのですが、問題はそのバランスの取り方です。
 
 大人は「仕事が上で、趣味は下」というように「趣味」を「仕事に比べて劣ったもの」扱いしてバランスを取っているのです。なぜ大人がそんな考え方をするのかというと、趣味は楽しすぎるために「趣味は劣ったもの」とでも考えないと仕事がおろそかになるに決まっているからです。
 
 若者と同じく大人も極端です。「仕事」と「趣味」を対等に扱うと趣味の楽しさが勝ってしまい、仕事をおろそかにしかねません。それを防ぐために「仕事が上で趣味は下」という順位をつけているのです。
 


 ここで美醜の話になりますが、「美しいものが好きで醜いものが嫌い」という人の感情は「趣味」の領域にあります。仕事は自分の好き嫌いに関わらずやらなくてはいけませんから、好き嫌いといった人の感情に働きかける美醜はどうしたって「趣味」に属します。「趣味」は「仕事」に比べて「劣ったもの」なのですから、皆さんはその「劣ったもの」に関してあれこれ本気で考えては来なかったはずです。「美しいものが好きで醜いものが嫌いだけど、まあ、所詮遊びでしかないからなぁ…」くらいに考えてきたのではないでしょうか。
 
 だからといって皆さんは「趣味」である「美醜」を「よくないもの」と思っているわけではありません。「美醜」は「わかると生活が豊かになるもの」と理解しています。そして「美醜」の判断を下せる趣味人に対してそれなりの敬意も持っていらっしゃいます。そのため「自分の美醜の判断は曖昧でいい加減、そんなに磨かれていない三流の判断をわざわざ人前に出すのも悪いかな」、そういうふうに考えているはずです。
 
 「美醜は劣ったもの」と考えているけれどバカにしているわけでもない、これが皆さんが美醜について語りづらい第一の理由です。

 私はそんな皆さんの状態を悪いとは思いません。生活を成り立たせることが優先なのはいつの時代もどこの国でも共通するもので、人が極端な性質を持っていることもまた普遍的です。皆さんが産み出した「仕事が上で趣味が下」「生活が優先で美醜は遊び」という価値観は、人の暴走を防ぐ大変優れた安全装置だと思います。
 
 ただ、「仕事が上で趣味は下」はあくまで安全装置です。安全装置に足を取られて身動きできなくなってしまっては困るでしょう。「仕事はきちんとしているのだから、もっと趣味を楽しむぞ」との意気込みをもっていただければ、私はそう思います。
 




①-B「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳
 
 「自分の美醜に関する判断を口に出すことに迷う」原因の2つ目に「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳の存在がございます。

 皆さんはここまで長い文章を読むことができる方々ですから、子供の頃にご家庭や学校で高い教育を受けてきたことと存じます。

 「教育」というと一般的には学校で習う国語・数学・英語・理科・社会といった主要五科目の勉強を指すようですが、本来「教育」はもっと範囲の広いものです。保健体育では身体の使い方や鍛え方、保護の仕方を学びますし、技術家庭では機械の扱い方や掃除洗濯といった生活に必要な知識・技術を身に付けます。音楽と美術は少し分かりにくいかもしれませんが、生活を豊かにする文化活動を学び行うという点で立派な教育です。
 
 また、学校で習う科目だけでなく、普段の立ち居振舞いの指導も教育です。姿勢の保ち方・字の書き方・食事の仕方・身支度の仕方・片付けの仕方・口のきき方・物の扱い方・お金の扱い方・生活習慣の守り方・危険の避け方など挙げれば切りがありませんが、親御さんや先生にそれら指導を受けた記憶があるかと思います。例えば皆さんは子供の頃、食事をしているときに親御さんから「口を閉じなさい」とか「犬食いをするな」とか「食べ物で遊ぶな」とか言われた記憶はございませんか?もし記憶に残っていなくても、今のご自分の普段の振る舞い方を考えたときに、あらゆることに気を遣っている、そういった方はきちんと教育を受けてきた来た方です。
 
 
 教育とはこのように範囲の広いものですが、その教育の「口のきき方」の中で「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という項目があったかと思います。自分がある人のことについて「不細工だなぁ…」とか「気持ち悪いなぁ…」とか言ったら、親御さんから「そんなこと言うもんじゃないの!」と叱られた、という経験はありませんか?叱られてから後は人の見た目に関する悪口を全く言わなくなったり、大人に隠れて友達とコソコソ囁くようになったりしたと思いますが、とにかく子供の頃の皆さんは「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳が世の中にはあることを学んだと思います。人の見た目に関することを口に出しづらい理由の1つは、子供の頃に身に付けたこの道徳の存在です。

 ところで、皆さんはこの道徳をバカ正直には守っていないと思います。その理由は単純で、皆さんに「醜いものは嫌い」という感性があり、醜いものが表を闊歩していたら驚くし、文句を言いたくもなるからです。前回のブログでも申し上げましたが、人は「美しいものが好きで醜いものが嫌い」な生き物で、それを止めることなど誰にもできないのです。
 
 
 それでは「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳は何故存在するのでしょうか?昔の大人が「美しいものが好きで醜いものが嫌い」という人の性を否定する古い頭を持っていたからでしょうか?それとも神道や仏教など宗教上の理由でしょうか?
 
 

 
 実は「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という言葉は、文字通りに受け取ってはいけない「実際的な言葉」なのです。これは根拠のない「正しい教え」などではなく、実生活を営む上で必要な「実際的な言葉」で、文字通りに受け取るとなんだかヘンだけど実生活では役に立つ、といったものです。
 
 

 何の役に立つのかと言いますと、まず「醜い人間に直接喧嘩を売るな」という知恵を得ることです。

 私は先ほど、人は「美しいものが好きで醜いものが嫌い」と申し上げましたが、醜い人に面と向かって「あなた醜いからあっち行って!」と言う方はいるでしょうか?普通そんなことしません。人に面と向かって「醜い!」と言うことはほとんど喧嘩を売るようなもので、買わなくてもよい恨みをわざわざ買ってしまうことになります。醜い人に睨まれることになれば、醜い人を追い払うどころかかえって引き寄せる結果となります。醜い人がいて気に入らなくても普通は我慢して裏で愚痴ります。醜い人に我慢ができないくらい困っているのだったら、何とかするにしても、その人の上司や親御さんに文句を言って何とかしてもらうのが無難でしょう。  
 
 「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」とは、「人の見た目に関して公然と悪口を言うことは危ないからいけない」ということであり、裏で愚痴ったり、人を介して伝えることを「いけない」とは別に言っていないのです。

 

 「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という言葉にはもう1つ役に立つ面があり、こちらの方が重要なのですが、それは「中学生の横暴を抑える」という役割です。





①-C中学生の横暴
 
 一般的に、子供は自分が思ったことをそのまま口にします。人目を憚らず善いことも悪いことも言ってしまうので、普通はそれを「子供だから仕方がない」とか「素直だなぁ」とか言って笑います。まあ、親御さんはあわてて周囲の方々に謝ることになりますが。今の話で言った「子供」とはせいぜい小学生までの子供のことで、大人の入り口に立っている中学生ともなると話は別です。
 
 中学生は自分が思ったことをそのまま口にすると叱られます。もう子供扱いはされませんから、時と場所と相手を考えて発言や行動することが求められます。ですから中学生が軽々しく人の見た目に関する悪口を言うと「人の見た目の悪口を言うな!」という風に大人から叱られることになります。この「叱られる」は私が先ほど申し上げた「醜い人間に直接喧嘩を売るな」という知恵を中学生に持たせるための実際的な指導です。
 

 しかし、中学生が「人の見た目の悪口を言うな!」と叱られる場合は他にもあって、それは「思い上がんなよ、この野郎!」という大人の怒りをぶつけられる場合です。
 
 

 「中学生は大人の入り口に立っている」と申し上げましたが、それは思春期ということで、自我が生まれると共に他人の目を意識し始める時期です。この現実における自分の位置付けが分からなくて不安になり、他人の目が怖くて傷つきやすくなる、それが嫌で確固とした自分が欲しくてあれこれ思い悩んだり試したりする、思春期とはそういう時期です。
 
 通常は現実と格闘していくなかで自分の立ち位置を掴んで落ち着いた大人へと成長していきます。「勉強が出来るようになった」とか「運動が出来るようになった」とか「会話がうまく出来るようになった」とか「行事の運営がうまく出来た」とか、「できる」ようになったこと、すなわち客観的な指標による自己評価をして自信をつけていき、根拠のある自尊心を持つようになります。たとえ「できない」の壁にぶつかったとしても、その「できない」をきちんと受け止めて、「できない自分」も評価の中に含めます。
 
 現実との格闘をする中学生は人の見た目に関する話を迂闊には口にしません。うっかり人に喧嘩を売る羽目になることを嫌がりますし、自分の美醜の判断が客観的なものになっているかどうか慎重に検討もするからです。



 しかし中には他人の目を気にもせず現実と格闘することもなく根拠なき自尊心ばかり肥大させてしまう愚か者がおります。こういう中学生は他人の視点で自分を見つめないため自己評価ができません。たとえ自己評価のようなことをしていたとしても、現実と格闘していないわけですから、その自己評価に客観性はありません。そのためこの中学生の自己評価は「俺はエライ、なぜなら俺はエライからだ!」というヘンテコリンなものになります。

 この中学生は自尊心だけが高くてエラぶってはいますが、ひどく臆病なために現実と関わることをしません。勉強が出来なければ「やる気がないから」、運動が出来なければ「意味がないから」、人との会話がうまくいかなければ「あんなバカどもと俺は違うんだ」などと自己正当化のためのあらゆる言い訳・屁理屈を並べ立てて現実から逃げ、自分を守ります。
 
 もしこの中学生が他人の見た目に関する悪口を言ったとしたら、嫌なものになるでしょう。まず、美醜に関する客観的な判断力を持たないため他人の同意を得られるようなことが言えません。次に、この中学生は「俺はエライ」を言わんがために他人をコケにするのですから、その傲慢さが他人に嫌がられます。
 
 そんな中学生がいたら周りの大人はどうするでしょうか?「人の見た目の悪口を言うな!」と怒鳴り付けるでしょう。自分の力じゃ何もできない豚野郎がエラそうに人をコケにしているのを目にしたら腹が立ちますね。それに根拠なく悪口を言われる人が気の毒です。大人には醜い振る舞いをする中学生を止める義務があります。だから「思い上がんなよ、この野郎!」との想いをもって「人の見た目の悪口を言うな!」と叱りつけます。
 
 従って「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という言葉には、横暴な中学生を止めるという役割があり、これは実生活の中で役に立つ立派な言葉なのです。


 

 ここまでの説明で「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳の役割がお分かりいただけたと思います。喧嘩を防いだり、客観性のない中学生の横暴を止めたりする役割です。つまりこの道徳は、
「時と場所と相手を考えたうえで客観性のある妥当な美醜の評価をすること」
を禁止してはいません。
 ですから常識的な行動をとる限り、皆さんが美醜について語ることはまったく問題ありません。「叱られるんじゃないか」とヘンに怯える必要などないのです。
 
「時と場所と相手を考えたうえで客観性のある妥当な美醜の評価をすること」

このことをよく守った上で美醜について語っていただければと思います。






長くなりましたので今回はここまでです。次回は「D.怠け者の理屈とズルい取引」からお話をしていきたいと思います。