なべさんぽ

ちょっと横道に逸れて散歩しましょう。

【本編④】詩的表現が『わかる』ー頭がよい人ー

 今回も前回の続きです。

 『カエルの王さま』を読み解いている途中で美醜の判断を皆さんに下してもらう必要が生まれましたが、それはなかなか難しいことでした。そのため、先に「美醜の問題」を片付けてしまおうということで前回まで「美醜の語りづらさ」の原因を説明して参りました。

 ①-Aでは皆さんが生活を優先するあまり美醜についてよく考えてこなかったことが原因のひとつだとお話しし、①-BとCでは「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳の存在が原因の2つ目だとお話ししました。①-Dでは「他人の醜いところを指摘しない代わりに自分の醜いところを指摘されない」というズルい取引をしてしまったことが3つめの原因だとお話しました。

 皆さんが美醜について語りづらい原因をご説明しましたので、皆さんは自分自身の状況をある程度は掴めたかと存じます。

 ここからは「自分の美醜に関する判断が正しいのかどうか迷う」こと、すなわち美醜の判断の問題についてお話ししていきたいと思います。
 
 以下に項目を再掲します。

①美醜の語りづらさ
 A.生活優先
 B.「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳
 C.中学生の横暴
 D.怠け者の理屈とズルい取引
②美醜の判断
 a.「頭がよい」人
 b.「容姿」は生まれつき
 c.和田アキ子の怯え

 

②-a.「頭がよい」人
 
 皆さんが美醜の判断に迷う原因の1つは、昔に比べて皆さんの頭がよくなり美醜のことがよくわからなくなってしまったことです。意外かもしれませんが、人は頭がよくなると美醜のことがよくわからなくなってしまいます。
 
 「頭がよい」というと、勉強ができる、考える力がある、仕事の段取りがよい、要点を押さえた説明ができる、先のことを予測できる、行動に無駄がない、相手の気持ちを汲み取れる、論理的である、などといったよいイメージがあるかと思います。「仕事ができる」といってもよいですが、それは頭のよさに由来するものなので、ここでは「頭がよい」という言葉を使いたいと思います。
 
 「頭がよい」人は生まれつき頭がよいのだと思われがちですが、実は産まれたときは頭がよくはなく、頭がよくなるための鍛練を積んだために頭がよくなったのです。人は産まれたときは皆等しく「頭がよくも悪くもない」人で、鍛練を積んだか積んでないかによって頭がよくも悪くもなるものです。その「鍛練」とは何かというと「自分の感情を抑えて事実を客観的に見る」というものです。
 
 「事実を客観的に見る」というと、①-Cでお話しした中学生の自己形成の仕方と似ています。他人の目を考えたり現実と格闘したりして、客観的な指標による自己評価をする、というものでしたね。中学生の自己形成と頭がよくなるための鍛練は基本的には同じものです。この2つのどこが違うのかと言いますと、「他人の目」や「現実」の範囲です。中学生の自己形成における「他人の目」「現実」の範囲は自分の家・学校とその周辺だけで、そこにいる人は自分の家族・親戚・友達・学校の先生などです。こう書くとひどく狭いように感じられますが、普通の人間が生きていくにはこれくらいで足ります。
 
 頭がよくなるための鍛練における「他人の目」「現実」は自分の家、学校だけでなく、学校の勉強内容、大人の会話、新聞・テレビ・本・インターネットからの情報が加わります。これらは中学生の周囲にだって存在しますが、普通の中学生は自分の興味のあること以外、これらのほとんどを「自分に関係ないもの」として処理するため、存在しないに等しいです。頭がよくなるための鍛練をしている人は自分の興味のないことであっても、これらを「自分に関係あるもの」と考え、自己形成の糧とします。

 例えば、学校で習う国語の文法です。これは学校の授業におけるつまらないものの代表格です。皆さんも文節・主語述語・修飾語・動詞形容詞形容動詞・活用・副詞・助詞助動詞・敬語などを学校で習った覚えがあると思います。国語の文法には「文節は『ネ』を挟める箇所で区切る」「主語と述語はきちんと対応しなくてはならない」「動詞は語尾を活用する」「『まるで』は『~のようだ』と一緒に使う」「『とか』は2つ以上セットで使う」「謙譲語は自分を一段低くするときに使う」など数多くの規則がありましたね。通常はこんなつまらないものをたくさん覚えていられないので、テスト前に暗記して、テスト後には忘れてしまいます。
 
 「頭がよくなるための鍛練」をしている人にとっても、もちろん国語の文法はつまらないものです。つまらないから嫌で、暗記なんかしません。それでもこの人はテストで好成績を修める上にテスト後も忘れることがありません。なぜかというと、この人は文法規則を「頭の中に入れる」ことはせず、実際に「使っている」からです。文章を書くときには主語述語の対応に注意する、『まるで』と『~のようだ』を一緒に使う、『とか』は2つ以上セットで使う、尊敬語と謙譲語を区別する、などといったことを実際にしています。人との会話のときも、文章ほど厳密には考えませんが、ある程度国語の文法を意識しながら話をします。実際に使っているのだから国語の文法は身に付き、暗記なんかしなくても覚えていられるし忘れることはありません。
 
 「頭がよくなるための鍛練」をしている人は現実的です。普通の中学生が「先生は頭がおかしいから意味もない文法の暗記なんかを僕たちにさせるんだ!」と考えている一方で、この人は「現実を生きている大人がそんな無意味なことするわけないだろう」と考えます。そして「大人が『覚えろ』と言うことは必ず現実で使われているはずだ」と推測し、「現実で使われているものは自分も使えるようにならなくてはいけない」と自分の身に付ける方向へ動き出します。「推測」とお書きしましたが、この人は「大人の様子」、例えば両親や親戚、近所の人、友達の親、学校の先生、またテレビ・インターネットで目にする人々、新聞・本の文章に登場する人々とその文章を書いている人々などの言動をもとに「推測」しています。多くの例を参照していますから、その推測にはかなりの確証があり、一見つまらなくて役に立たなそうな国語の文法でも一生懸命身に付けようと努力出来るのです。

 「頭がよ」くなるための鍛練には「自分の感情を抑える」ことが必要です。国語の文法の話で言うと、この人は「つまらない」という自分の感情を自分の行動の基準としていません。その代わり、文法の勉強の必要性を示す「大人の様子」を行動の基準としています。「自分」より自分を導く「大人」の判断を優先しているのですね。「自分の感情」のままに行動する人と「大人の判断」に従って行動する人のどちらがより高い能力を身に付けられるかというと、もちろん後者です。「頭がよい」人はこのような鍛練を続けることで頭がよくなったのです。



 「頭がよい」人は高い能力を身に付けることに成功した人ですが、うまくいかなかったこともあります。それが「美醜の判断」です。
 
 「美醜」は人の感性に関することです。美醜の判断は充分に感性が育っている人間がすることです。「自分の感情」を抑えてきた「頭がよい」人には感性が充分に育っていませんから、美醜の判断ができません。「頭がよい」人が「美醜の判断」をできるようになるためには「自分の感情」を解放して感性を育てていく必要があります。
 
 しかしここが難点です。「頭がよい」人は「自分の感情」を解放することが簡単にはできないのです。その理由は3つあります。
 
 
 1つ目は「今までの自分のやり方を変えたくない」ことです。「頭がよい」人は「自分の感情を抑えて事実を客観的に見る」という方法で頭がよくなり、高い能力を獲得してきました。「獲得して『きました』」とお書きしたのは、長い時間をかけて自分を鍛えてきたことを強調するためですが、長い間続けてきたことは簡単にやめることができません。
 
 習慣を変えることは不安です。習慣は、そのやり方で上手くいくからこそ習慣となった方法です。習慣を身に付けている人は通常、「今までのやり方で上手くいってきたのに、やり方を変えて失敗したら嫌だな」と考えます。ですから習慣になっていることをやめるには、相当の理由がなければいけません。
 
 美醜とは「趣味」です。「趣味」は「仕事」に劣るという話は①-Aでしましたが、「頭がよい」人も「大人」に属しているため、「仕事」が「趣味」より優先だということを理解しています。「頭がよい」人は、「自分の感情を抑えて事実を客観的に見る」という方法を使って「仕事」の領域で成功を修めてきました。したがって、「頭がよい」人は「趣味」である美醜なんかのために「仕事」を成功に導いた「自分の感情を抑えて事実を客観的に見る」方法をやめようなどとは思いません。「頭がよい」人にとって「美醜」は、いままでのやり方を変えるほどの「相当の」理由にはならないのです。
 
 
 理由の2つ目は「バカだと思われたくない」ことです。「頭がよい」人は人前で感情をあらわにする人のことをだいたいバカだと思っていて、そのバカの仲間になりたくないのです。
 
 「頭がよい」人は現実的です。人の「感情」に関することは「趣味」の領域だと理解しています。そして「現実」に属する自分の「仕事」が第1で、「趣味」である「感情」は2の次だと考えています。そのため「現実」にある「仕事」をおろそかにして「趣味」でしかない「感情」に走る人をバカにしています。
 
 ここでご注意いただきたいのは、「頭がよい」人は「『現実』にある『仕事』をおろそかにして『趣味』でしかない『感情』に走る人」をバカにしているのであって、「人間の感情」そのものをバカにしているわけではないし、「仕事をきちんとした上で感情も豊かな人」のこともバカにしていない、という点です。
 
 ①-Aでもお書きしましたが、人は極端です。仕事が第1、趣味は2の次ですが、人は楽しい趣味に熱中して仕事をおろそかにする傾向があります。だから人は「趣味は仕事に比べて劣ったもの」という価値観を生み出し、生活が破綻しないための安全装置としました。仕事と趣味のどちらかに片寄りすぎず、バランスよく生活できることが理想ですね。
 
 「頭がよい」人は頭がよいので、自分が極端な性質を持った人間であることを自覚していますし、仕事と趣味のバランスがとれた理想の生活を目指したいと考えています。実は「頭がよい」人は趣味に属する「感情」も好きで、感情豊かな人間になりたいとさえ思っています。だから「感情豊かな人」をバカになどしておらず、むしろ憧れています。
 
 ところが、「頭がよい」人からすると、人前で感情をあらわにする人間は大抵の場合は仕事をおろそかにしている人間のように見えます。「頭がよい」人は「まともな人間なら、感情をあらわにするにしても『仕事をきちんとやった上で感情を出している』ことが見てとれるはずだ」と考えています。しかし「頭がよい」人は感情をあらわにするほとんどの人間から感情「しか」見てとれません。それもそのはずで、感情を発散しているときに人は「自分が感情だけの人間だと思われたら嫌だな。仕事もきちんとやっていることを示さなきゃいけない」なんてことをわざわざ考えませんし、「仕事もきちんとやっていることが分かる感情の表現」なんてできないからです。「自分が感情だけの人間だと思われたら嫌だな。仕事もきちんとやっていることを示さなきゃいけない」などと回りくどいことを考えるのは「頭がよい」人くらいで、「頭がよい」人なら「仕事をきちんとやった上で感情を出している」と示す能力があるかもしれませんが、一般人には無理です。ですから「頭がよい」人が人前で感情をあらわにする人から感情「しか」読み取れないのも当然です。

 このため「頭がよい」人は人前で感情をあらわにする人のことを、「仕事をおろそかにして趣味に走るバカ」だと考えます。そして「このバカどもと同じになりたくない」と考えます。ここで「頭がよい」人に「俺は『仕事をきちんとやった上で感情を出している』ことを示すぞ!」という気概があれば、バカどもを気にせず自分の感情を解放していけるのですが、それは身近に仲間となるような「頭がよい」人が他にもいて初めて可能なことです。仲間の理解があれば自分のやっていることに意味があると感じることができ、心強く、自分の道を進めます。しかし大抵の場合、「頭がよい」人は孤立しています。自分の感情を抑えてきた「頭がよい」人は、他人と気持ちを通じさせるということもしてこなかったので、孤立していることがほとんどです。たったひとりでバカどもの中に取り残されてしまった「頭がよい」人は多勢に無勢、バカどもに負けてくじけてしまいます。「きっと『仕事をきちんとやった上で感情を出している』と示したって誰にも分かってもらえない」と考えて、諦めてしまいます。「仕事をきちんとやった上で感情を出している」ことを示す道が断たれてしまった以上、感情の表現は「感情『しか』見てとれない」表現しか残りません。その表現を使うことは他のバカどもの仲間入りすることを意味します。「頭がよい」人はバカどもの仲間になることを拒否しますから、感情表現ができなくなってしまいます。
 
 「頭がよい」人が感情を解放できない理由には、その生真面目さと回りくどいものの考え方があるのです。
 

 3つ目の理由は、自分の才能に絶望していることです。
 
 私は「頭がよい」人にとって「『他人の目』『現実』は自分の家、学校だけでなく、学校の勉強内容、大人の会話、新聞・テレビ・本・インターネットからの情報」も加わるとお書きしました。先ほどはその例として国語の文法を挙げましたが、他にもたくさんあります。新聞を読むときには国内外の政治状況をチェックし、殺人・窃盗・汚職・詐欺などの社会的事件にも注目し、どこそこの企業の社長が交代しただの業績がどうだの株価が上がった下がっただのといった経済情報にも目を通します。新聞から得た情報をテレビやインターネットのニュースで再確認したり更に詳しい情報を調べたりします。本からは古今東西の物語や最新科学の知見、歴史上の偉人の生き方などを知ります。今はお堅い「情報」を挙げましたが、「頭がよい人」は新聞のスポーツ面とテレビ欄と四コマ漫画も読みますし、テレビのドラマやバラエティ番組、ワイドショーなども見ます。漫画も読めばライトノベルも読むし、週刊誌を読んだりネット掲示板に書き込んだりします。必ずしも目にしたことのすべてを理解しているわけではありませんが、多くの物事に興味をもって情報を取り込みます。「頭がよい」人にとっての「他人の目」と「現実」はこのようにとても多くの情報から構成されていて、その世界観はとても広いものです。
 
 広い世界観を持っていると多くのことが理解でき、物事を見通す力を持つことができます。理解力や物事を見通す力があるから「頭がよい」人は「仕事ができる」人になります。ですから一見すると、広い世界観を持つことはよいことのように思えます。しかし広い世界観を持つことには「自分がとても小さな存在だと知って無力感を覚える」という副作用があります。
 
 多くの物事を知ることの中には、多くの偉人を知ることも含まれます。「偉人」はエラい人やスゴい人のことで、生きている人も亡くなった方も含みます。「頭がよい」人は偉人が好きで、自分も偉人のように立派になりたいと考えています。そのため仕事に一生懸命打ち込み、高い能力を発揮することになりますが、これは仕事が得意分野だから可能なのであって、苦手分野となると話は別です。
 
 「頭がよい」人は感情を抑え込んでいるため感性が育っておらず、美醜の判断力がありません。美醜は芸術分野ですから、「頭がよい」人は芸術が苦手です。芸術が好きではあり、よくわかるようになりたいのですが、自分の中で芸術をうまく位置づけられないためモヤモヤしています。「芸術は好きなんだけど、なんとなく『いい』としか言えないんだよな」と。芸術分野にも偉人は多くいて、それは画家だったり役者だったり音楽家だったりします。「頭がよい」人にとって芸術家の偉人は理解を越えた存在です。仕事に関する偉人はある程度理解ができて目指すことも可能ですが、芸術分野の偉人は理解すらできません。そうなると、「世界中に芸術家がいて、みんなが芸術家を称賛しているのに、僕にはちっとも分からない…」と悲しくなってしまいます。
 
 どっかの「偉人」を見上げて劣等感を覚えているより身近なものを「美しい」と称えればよい、そう考える方がいらっしゃるかもしれません。もちろんその通りで、「頭がよい」人も同じように考えます。「頭がよい」人は広い世界観を持っていて、自分の身近なことも「自分に関係ある」と思っています。ところが困ったことに、「頭がよい」人は身近な「美しい」も分からないのです。

 例えば花です。花はそこら中にあって、学校や公園の花壇、街路樹、民家の庭などで栽培されていたり、野生で咲いていたりします。季節によって咲く花は変わっていき、1年中私たちの目を楽しませてくれます。今の時期ですと、東京・千葉では梅の花が咲き始めています。梅の花はそのかわいらしい姿とほのかな香りで、これからだんだん春が近づいてくることを告げ知らせてくれます。
 
 一般的に人は花を見ると「ああ、きれいだなぁ」と思って気持ちよくなります。ちょっと散歩してみればわかりますが、どこの家でも庭や玄関先には花があります。奥さんやおばさんやお婆さんがせっせと育てているのです。みな花が美しいと思っていて、庭を美しく飾ろうとしているのです。奥さんやおばさんやお婆さんたちは普通の人たちです。特殊な才能を持っているから「花が美しい」と感じることができるわけではありません。だってどこの家でも花を育てているのですからね。
 
 それに対して「頭がよい」人は花を見ても「ああ、きれいだなぁ」と思って気持ちよくなることがありません。花を見ると「花が咲いているな」とは思います。「花が咲いているな」は単に事実を認めただけで、そこから「きれい」や「かわいい」や「美しい」という気持ちが出てきません。たとえ「きれい」や「かわいい」や「美しい」と思ったとしても、それは「感じた」のではなく、「こういうものを一般的に『美しい』と言うのだろう」という事実の確認、もしくは推測です。
 
 「頭がよい」人は「頭がよい」という特殊能力を持った人です。長い間苦労して「頭がよい」という特殊能力を得たため、自分に自信を持っています。「頭がよい」ということはスゴいことですから、自信も持つことでしょう。ところが、その「スゴい」自分が「花が美しい」という当たり前のことを実感できないのです。普通の人々、奥様やおばさんやお婆さんたちにだって分かる「花が美しい」が、特殊能力を持っていて「スゴい」はずの自分には分からないのです。このことは「頭がよい」人を悲しい気持ちにします。

 「頭がよい」人は、自分から遠い「芸術」も自分に身近な「花が美しい」も分からないという事実を前にして、「僕には『美しい』を理解する才能がないんだ」と思い、絶望します。「頭がよい」人は広い世界観を持っているため、自分から遠い世界からも身近な世界からも自分の感性を否定されてしまったと思うと「世界のすべてから否定された」と思い、普通の人よりも大きな衝撃を受けてしまうのです。全世界から否定されたらそれは大変な衝撃でしょう。絶望した「頭がよい」人は無力感を覚え、「美しい」を理解することを諦めます。そのため感情を解放して感性を育てようという気が起こらないのです。


 
 「今までの自分のやり方を変えたくない」こと、「バカだと思われたくない」こと、「自分の『美しい』を理解する才能に絶望している」こと、以上3つの理由により「頭がよい」人は「美醜の判断」を諦めてしまっています。
 
 ここまで長たらしく分かりにくい文章を読んでこられた皆さんも、きっと「頭がよい」人でしょう。ご自分が「頭がよい」人なのだと自覚して、「美醜の判断」ができなくなってしまった理由をご確認いただければと思います。



 

 今回はここまでです。「美醜の問題」はあと1、2回で片付きますので、もうしばらくお付き合いいただければと思います。