なべさんぽ

ちょっと横道に逸れて散歩しましょう。

【本編③】詩的表現が『わかる』ーズルい取引ー

今回も前回の続きです。


 『カエルの王さま』を読み解いている途中で美醜の判断を皆さんに下してもらう必要が生まれましたが、それはなかなか難しいことでした。そのため、先に「美醜の問題」を片付けてしまおうということで前回から「美醜の語りづらさ」の原因を説明して参りました。

 ①-Aでは皆さんが生活を優先するあまり美醜についてよく考えてこなかったことが原因のひとつだとお話しし、①-BとCでは「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳の存在が原因の2つ目だとお話ししました。下に「美醜の問題」の項目を再びお書きします。



①美醜の語りづらさ
 A.生活優先
 B.「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳
 C.中学生の横暴
 D.怠け者の理屈とズルい取引
②美醜の判断
 (②の細かい項目は今回は省略します。)

今回は①-Dからお話ししていきたいと思います。




①-D怠け者の理屈とズルい取引
 
 皆さんが美醜について語りづらい理由の3つ目は「ズルい取引」をしてしまったことです。

 

 私は前回①-Bで「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳のお話をしました。この道徳には醜い人間と直接喧嘩することを防いだり、横暴な中学生を抑えたりする役目があるということでしたが、「横暴な中学生」に再びご注目いただきたいと思います。
 
 思春期の中学生は現実と格闘することで根拠のある自信をつけて自己形成していくものですが、現実と格闘することなく自尊心ばかりを肥大化させていく愚か者がおります。後者は現実と関わっておらず、自分を客観的に評価できないため、その自尊心は「俺はエラい、なぜなら俺はエラいからだ」というヘンなものになります。そんなヘンなものを誰も認めるはずがございませんから、この中学生は自分のエラさを実際の行動によって証明しなくてはいけなくなります。どうやって証明しようとするのかというと、「他人を馬鹿にする」という横暴な振舞いによってです。「俺は人より上なんだ」と言えばそれが証明になると思っているのですね。バカですね。そんな嫌なものを見せつけられたらまともな人間は腹が立ちます。大人は「思い上がんなよ、このやろう!」との怒りをもって叱りつけます。このバカは色々な点について人をバカにするのでその都度叱られるのですが、人の見た目の悪口を言ったときは「人の見た目を悪く言うな!」と叱られることになります。前回はそういうお話でした。

 
 
 さて、横暴な中学生を叱りつけることには体力と気力が必要です。いくら叱りつけても懲りずに何度も同じことを繰り返すのが愚かな中学生ですから、叱る方は何度も同じことで叱らなくてはなりません。叱るのにも体力を使うので疲れます。また人を叱るということは人としての正しいあり方を他人に示すことですから、勇気がいります。その勇気を何度も示し続けなくてはならなかったら、気力が削がれます。ですが愚かな中学生を野放しにしておいてよいはずがないので、大人は叱り続けなくてはなりません。
 
 大人といっても疲れきってしまうと休みたい気持ちが出てきます。休んで体力と気力が回復した後にまた叱り出すのならよいですが、一旦休んだらそのまま休み続ける人もいます。これは「休む」ではなく「怠ける」です。怠けることは楽なので、人は簡単に「怠ける」に陥りがちです。しかしただ怠けていると他の大人に「怠けるな!」と叱られてしまうかもしれないし、「自分はよくないことをしているな」と自分で自分を責めることになるかもしれません。そのため、怠け者は怠けることを正当化する理屈が欲しくなります。その理屈の代表が「過去の自分も愚かだった、だから自分は今の愚かな中学生をあまり非難してはいけない」です。

 この理屈は巧妙です。人は誰しも完璧ではなく、特に若いときには悪いことをした覚えがあります。だから一見すると「過去の自分も愚かだった、だから自分は今の愚かな中学生をあまり非難してはいけない」というセリフは「自分は、かつて自分が愚かだったことを自覚している謙虚な人間なんだ」と周囲に示す言葉として聞こえてしまいます。謙虚さを示されると周囲の大人は困ります。「謙虚」とはよいことです。それを「悪い」とはなかなか言えません。謙虚さを否定したら、自分が傲慢な人間のように思えてしまいます。周囲の大人は「なんかヘンだなぁ…」と思いつつも怠け者に対して攻めあぐねます。
 

 
 周囲の大人が怠け者を攻めづらい理由は「謙虚さ」以外にもあって、それは「過去の自分も愚かだった、だから自分は今の愚かな中学生をあまり非難してはいけない」という言葉に隠された、あるズルさです。
 
 
 前回のブログでこの横暴な中学生の話を読んだときに、皆さんの中でギクリとした方はいらっしゃいませんでしたか?過去の自分を振り返って「自分も昔は横暴だったな」と考え、「この文章は過去の自分がやったことを責めているんじゃあないか?」と思って怯えた、そういう「ギクリ」です。
 
 過去の自分の過ちを責められることはつらいことです。過去のことは取り返しがつかないことがほとんどです。相手に謝ろうにも機会がないし、もう連絡が取れなくなっていることも多く、大抵の場合はどうしようもありません。過去の過ちを一旦認めたら、償う機会を持たないまま、一生その罪を背負って生きなければならなくなります。できることならば避けたいでしょう。
 
 自分が横暴な中学生を叱るときには、過去の自分と今目の前にいる横暴な中学生が重なって、自ら過去の自分の過ちを責めているような気分になるかもしれません。嫌なことです。人の過ちを咎めることにはこんな危険があるのですね。
 
 
 その危険を避ける簡単な方法があります。「なあ、俺はお前の悪いところを非難しないよ?その代わりにさあ、お前も俺の悪いところを非難しないで欲しいんだ」と言って、中学生や周囲の大人、自分の良心と「取引」するのです。もちろんズルです。この「他人を責めない代わりに自分も責められない」というズルい取引を交わしてしまったらもう自分は他人から責められる恐れがありません。
 
 そしてこの取引は魅力的です。人は生きていれば何らかの過ちを犯す可能性が常に付きまといます。良心を持った人ならば自分は過ちを犯しているのではないかと怯えたり、過去の過ちを後悔したりすることがあります。自分の過ちがバレなければよいですが、バレて人から責められたらどうしようと、常に不安を抱えビクついて生きています。しかし、周囲の人間とこの取引を交わせば、自分はもう責められることがありません。何か過ちを犯したとしても、他人は見て見ぬふりをしてくれるため、それを無かったことにできてしまいます。こうなったら「過ちを責められるのではないか」という不安が消えてしまうのです。なんとありがたいことでしょう。「他人を責めない代わりに自分も責められない」というズルい取引はとても魅力的なのです。
 
 怠け者の「過去の自分も愚かだった、だから自分は今の愚かな中学生をあまり非難してはいけない」という理屈の背後には「他人を責めない代わりに自分も責められない」という取引が潜んでいます。取引とはいっても、これは怠け者本人が心の中で勝手に交わしてしまった取引なので、契約書や口頭での約束などの具体的な形を取りません。私は先ほど、怠け者は「なあ、俺はお前の悪いところを非難しないよ?その代わりにさあ、お前も俺の悪いところを非難しないで欲しいんだ」と「言って」取引をすると申し上げましたが、実際にはこのセリフを「言い」ません。心の中でこのセリフを唱えて、一人決めしてしまう、それだけで取引が可能です。この取引は具体的な他人と交わすものではなく、怠け者が自分の頭の中で勝手に作り上げた架空の他人と交わすだけで成立するものなのです。「そんな馬鹿な!」と思うかもしれませんが、本人がそう思い込んでしまっている以上仕方がありません。こうして具体性を欠いた取引が成立してしまいます。

 具体的な形がない取引に対しては周囲の大人は無力です。止めさせようとしても、その止めさせる対象がないとなったら、どうしようもありません。

 また、下手を打つと周囲の大人もこの取引に巻き込まれます。怠けたい気持ちは誰の心にもあります。普段はその気持ちを抑えていますが、「他人を責めない代わりに自分も責められない」という取引を目の前にちらつかせられたらどうでしょう?とても魅力的な取引ですから、いつの間にか自分も取引をして怠け者になってしまっていた、ということは充分にありえます。怠け者には近づくこと自体が危険です。ですから通常は怠け者と距離を置くしか対処法はなく、怠け者を叱ってもとに戻すことは難しいのです。


 しかしこんな取引損だということは簡単にわかる話で、「他人を責めない代わりに自分も責められない」という取引には、事の成り行きとして「自分が被害を受けたときにその被害を訴えられない」ことと「他人が被害を受けたときに見て見ぬふりをする」こと、そして「自分が被害を受けたときに皆が見て見ぬふりをする」ことが含まれます。

 他人を責めないのですから、自分が被害を受けても相手を責めることはできません。自分以外の誰かが被害を受けていても、加害者を責めることをしませんから、ただ眺めるだけです。被害者から助けを求められても、どうしてやることもできません。そして被害を受けている他人を助けないのですから、当然自分も助けてもらえません。「自分の過ちを責められない」ことと「自分が被害を受けた時に自力で自分を守れず誰からも助けてもらえない」ことを取引してしまうことはどう考えても大損です。おとなしく自分の過ちを責められていた方がよいのではないかと思います。
 

 


 勘のよい方ならもうお気づきかと思いますが、美醜に関してもこれと似たようなことが起きます。
 
 
 美醜を語る際には、語られる対象だけでなく、それを語る自分の立ち位置も問題とされます。我々は神様ではなく、この現実を生きている人間なので、「自分だけは評価の対象にならない」などという特権は持てません。ですから美醜を語る際には「自分も美醜の評価の対象になる」という意識が必要です。
 
 「意識」というと自分の頭の中や胸の内にある見えないもののように思えますが、「『自分も美醜の評価の対象になる』という意識」は目に見える具体的な振る舞いのことです。人は通常、「自分も美醜の評価の対象になる」のだったら、「美しい」と評価されたいし、「醜い」と評価されたくないと考えます。そのため「自分も美醜の評価の対象になる」と考えている人は、美しくなろうとします。自分の身なりや表情、発言や行動に気を配って、周囲の人から美しく思ってもらえるようにします。「今の季節に合っていて、自分に似合う服を着よう」とか「気持ちを顔つきで表そう」とか「今の状況にピタリと当てはまる言葉はなんだろう?」とか「読む人が心地よくなる字を書こう」とか、考えて実行します。自分に自信のない方だったら、せめて自分の醜いところは減らそうと、やはり身なりや表情や発言・行動から醜いところをなくそうとします。「服のほこりは払っておこう」とか「きちんと相手の顔を見て挨拶しよう」とか「汚い言葉は使わないようにしよう」とか「相手が読める字を書こう」とか、控え目ながらも、考えて実行します。「『自分も美醜の評価の対象になる』という意識」があるかないかは、以上のように「美しくあろうとする振る舞い」または「醜いところをなくそうとする振る舞い」があるかないかで判定できる具体的なことなのです。
 
 したがって、美醜について語る資格があるのは普段から自分の美しさを磨いている人か、自分の醜いところをなくそうとしている人だけです。

 美しくあろうとする振る舞いや醜いところをなくそうとする振る舞いの見られない人が美醜の評価をしても、その評価は他人からあまり信頼されません。「自分も美醜の評価の対象になる」という意識がない人は、周囲の人から「この人は『自分だけは評価の対象にならない』と考えているのではないか?」と疑われます。「疑われ」ると書きましたが、この疑惑は正当です。「自分だけは評価の対象にならない」と考えているからこそ「自分も美醜の評価の対象になる」という意識=振る舞いが見られないという逆も真ですから。神様みたいな特権意識で美醜を語ったら、他人が信頼するはずはなく、鼻で嗤われるかもしれません。
 
 

 美醜を語るには普段から自分の美しさを磨かなくてはなりませんが、皆さんは「美醜」がよくわからないからこんなブログを長々と読まされていたのでした。そんな皆さんが「美しさを磨」こうとしたら、大変です。

 まず、目指すべき方向を見つけるのに苦労します。進むべき方向がわからないときは思い付きであれこれ試すしかありませんが、これは不安です。思い付きとは根拠に乏しいもので、上手くいく保証なんか与えてくれません。上手くいく保証のないことをしていると「自分のやっていることには意味があるのか、無駄なんじゃないか」という不安が付きまといます。

 また、他人から「ダメ」なヤツだと思われる恐れがあります。「あれこれ試す」とは具体的な行動を取ることです。今まで自分のあり方を気にしなかった人が急に服を買ったり、にこやかになったり、言葉遣いを改めたり、字の練習を始めたりしたら、どうしたって他人の目について「あの人はどうしたんだろう?」と思われます。他人はしばらく眺めてから「この人は自分を変えようとしているのだな」と気付きます。そして他人は「ダメだこりゃ」と判断します。必ず「ダメ」だと判断します。目指すべき方向が分からなくてあれこれ試している状態の人はまだ結果を出していませんし、方向すら定まっていないため期待も持たれません。方向が定まれば、他人から「お、これは上手くいくかもな」という期待を持たれるかもしれませんが、そうでない試行錯誤の段階では「ダメ」です。あれこれ試している人は、よくわからないことを無理してやっているのに「ダメ」と言われてしまうのです。これは嫌です。

 「言われてしまう」とお書きしましたが、実際に言われる場合もあるし、自分で勝手に「言われるかも」とか「あのニヤついた顔は自分に『ダメ』と言おうとしている顔だ!」とか、まるで「言われた」かのように思い込む場合もあります。大抵の場合は後者で、本人の単なる思い込みです。まともな大人は「自分を変えよう」としている人にわざわざ「ダメ」だと言いません。試行錯誤の苦労は割りと誰もが経験しているもので、何事も初めは「ダメ」で苦しいということは常識です。そのため大人は「『ダメ』だけど、『よくあろう』とする意思は悪くない」と思って黙っています。

 わざわざ「ダメ」だと言ってくるのは横暴な中学生くらいなものです。横暴な中学生は自分より下の人間を常に探していますから、少しでも隙を見せると踏みつけにしようと襲い掛かってきます。「おまえ、美しくなろうとしてるのか?ははっ、お前なんかが美しくなれるわけないじゃないか!恥ずかしいヤツだな、このブスッ!」くらいのことは言ってきます。もちろん、自分のことは棚に上げて、神様になったかのような高みから見下してきます。こんな豚野郎の相手をする必要はありませんが、しつこく絡んでくるのでウンザリします。しかも試行錯誤をしている人は自分でも自分が「ダメ」な状態だということを知っているので、そこを突かれると弱いです。相手がろくでもないヤツだと頭ではわかっていたとしても、「やっぱり自分は美しくなんかなれないのかも」と気持ちが落ち込んでしまいます。



 美醜がよくわからない人は以上のように苦労します。目指すべき方向を見つけるためにあれこれ試し、不安を覚えながら試行錯誤し、結果が出なくて「ダメ」を突きつけられ、中学生相手に防戦を強いられる、これでは疲れてしまいます。「疲れちゃうから、美醜について語るのなんかよしてしまおう」と怠ける気持ちが出てくるでしょう。「私には美醜がよくわからないので美醜について語りません」と言って黙り込み、美しくなることを目指さず、美醜について語ることも諦めます。




 「私には美醜がよくわからないので美醜について語りません」は「過去の自分も愚かだった、だから自分は今の愚かな中学生をあまり非難してはいけない」と似ています。

 「私には美醜がよくわからない」と「過去の自分も愚かだった」は「自分は大した人間ではない」との謙遜です。「ので」と「だから」は理由説明の接続語です。「美醜について語りません」と「自分は愚かな中学生をあまり非難してはいけない」は自分のやるべきことを放棄するという宣言です。よく似ているでしょう?


 「過去の自分も愚かだった、だから自分は今の愚かな中学生をあまり非難してはいけない」の背後には「他人を責めない代わりに自分も責められない」というズルい取引が潜んでいました。同様に「私には美醜がよくわからないので美醜について語りません」の背後にもズルい取引が潜んでいて、それは「他人の醜いところを指摘しない代わりに自分の醜いところを指摘されない」です。「なあ、俺はお前の醜いところを指摘しないよ?その代わりにさあ、お前も俺の醜いところを指摘しないで欲しいんだ」と言って周囲の人と取引するのですね。「言って」とお書きしましたが、もちろん実際には言わず、自分の中で勝手に作り上げた架空の他人と取引を交わすのです。

 「他人の醜いところを指摘しない代わりに自分の醜いところを指摘されない」という取引は「他人を責めない代わりに自分も責められない」という取引と同じく、損です。この取引をすると、醜い人間の存在を黙認することになります。そうすると、醜い人間が堂々と表を闊歩することで自分が嫌な気分になったとしても、嫌な顔をできなくなります。また、醜い人間の振る舞いに困っている他人がいても、助けることはできません。そして他人を助けないのですから、自分も助けてもらうことはできません。「自分の醜いところを指摘されない」ことと「醜い人間に苦しめられても自力で自分を守れず誰も助けてくれない」こととを取引したら大損ですね。おとなしく自分の醜いところを指摘されて泣く方がよいのではないかと思います。


 皆さんが美醜について語りづらい理由は他人とこの「ズルい取引」を交わしてしまっているからかもしれません。ご自分の胸の内をよく点検して、くれぐれもお気をつけ願いたいと存じます。


 

 

 今回はここで終わりですが、理屈っぽい上に気分が暗くなるような話だったので、最後にちょっとした救いになることをお書きしたいと思います。
 
 

 「美しくなろう」とすると苦しくなって、美しくなることを諦めるために体のよい理屈を求めてしまいます。それを防ぐ方法として、「マシになろう」ぐらいに考えておく、というものがございます。

 人は極端なので「英雄か、ドブ泥か」といった二者択一に陥りがちで、美醜についても「美しいか、醜いか」と考える傾向にあります。この「美しいか、醜いか」は「私という存在は美しいか、醜いか」なのですが、「私という存在」などという抽象的なものを相手にしたっていいことありません。

 ですから「私の『この部分』は美しいか、醜いか」と考えたらどうでしょう。服装はどうか、顔つきはどうか、言葉遣いはどうか、字の書き方はどうかと具体的な項目1つ1つについて検討し、美しい部分があったら喜ぶ、醜い部分があったら直す、ということを続けて、少しでも「マシ」になることを目指す、というやり方です。「美しい人」を目指すとなると目標が高くて手に届かない気がし、気持ちが続きません。しかし「マシな人」だったら簡単になれそうで、気持ちが折れることなく継続して目標を目指せるかと思います。



 続けていればそのうちに皆さんは部分的に美しい「マシな人」ではなく、総合的に見て「美しい人」になれるかもしれません。

健闘を祈ります。



次回は「②美醜の判断」に入りたいと思います。