なべさんぽ

ちょっと横道に逸れて散歩しましょう。

オバケがわからないー「頭がいい人」の孤独と虚無ー

お盆はとうに過ぎましたが、今回は「オバケがわからない」というタイトルです。

 
 
 オバケは通常「いる」「いない」といった文脈で語られることが多く、「わかる」「わからない」という風には語られません。それというのも、オバケが「わかる」「わからない」ということで問題になるのは「頭がいい人」であり、「頭がいい人」は通常オバケの話をしないので、オバケが「わかる」「わからない」という軸が見えなくなっているからです。
 私は、オバケがわからないのは問題だ、と思っています。そしてオバケがわからなくなっている「頭がいい人」のありようが問題だとも思っています。その事について今回は書いていきたいと思います。

 

 まず、「頭がいい人」と言ってどういう人のことを思い浮かべるでしょうか?
 
 勉強ができる、考える力がある、仕事の段取りがよい、要点を押さえた説明ができる、先のことを予測できる、行動に無駄がない、相手の気持ちを汲み取れる、論理的である、など様々なイメージがあるかと思います。
 いろいろなイメージがあるかと思いますが、ここでは「論理的に考え行動できる現実的な人」のことを「頭がいい人」と言ってしまいます。裏返すと「感情的に考え行動してしまう非現実的な人」が「頭がよくない人」になるでしょう。

 「頭がいい人」と「頭がよくない人」はもとから異なった性質を持って生まれたように思われていますが、これは違います。生まれたときは皆「頭のよくない人」です。「頭がいい人」は「論理的に考え行動できる現実的な人」になる訓練を受けてきから「頭がいい人」になったのであり、同じ人間であることに変わりはありません。

 「論理的に考え行動できる現実的な人」であることは誠に結構なことですが、「頭がいい人」はそうなる過程で「感情的に考え行動してしまう非現実的な面」を切り捨ててきています。そのため「感情的に考え行動してしまう非現実的な人」たちのことが理解できなくなり、孤独を感じています。それとともに、自分の中にある「感情的に考え行動してしまう非現実的な面」に気づくことができず、虚しさを抱えてもいます。だから私は「『頭がいい人』のありようは問題だ」と申し上げたのです。



 さて、ここでオバケの話です。

 「頭がいい人」は通常オバケの話をしないと申し上げましたが、もちろんこちらから質問したらオバケについて答えてはくれるでしょう。「頭がいい人」に「オバケはいるか?」と尋ねると、真面目に「いない」といいます。もしくは「いるかもねぇー?」とニヤニヤしながらこちらをからかうように答えます。
 この二つの答えはどちらも「オバケはいない」と思っていることを示しているように見えますが、違います。どちらの答えも「オバケがわからない」を示しているのです。
 
 オバケとは「感情的に考え行動してしまう非現実的な人」の世界に住んでいるものです。「論理的に考え行動できる現実的な人」の世界の住人ではありません。オバケについて「いる」「いない」と語る資格があるのは「感情的に考え行動してしまう非現実的な人」であり、「論理的に考え行動できる現実的な人」である「頭がいい人」にはその資格がありません。だから本来「頭がいい人」はオバケについて「わからない」と言うしかないのです。
 「頭がいい人」は「頭がよくない人」と同じ土俵には立てず、仲間外れです。しかもこれはオバケに限った話ではありません。「頭がいい人」は感情的で非現実的な話全てについて「わからない」としか言えないのです。切り捨ててしまったのですから。「頭がいい人」も「頭がよくない人」も同じ人間ですから、私は仲間外れなんてひどい話だと思います。


 そこで私は「頭がいい人」の仲間はずれ状態を何とかしたいのですが、どうすればよいのかというと、「頭がいい人」に「感情的に考え行動してしまう非現実的な面」を取り戻せばよいのです。私がオバケを持ち出してきたのは、「頭がいい人」の住む「現実」を突き崩すにはこういう非現実の極みをぶつけるのが一番よいからです。

 

 それでは「頭がいい人」にオバケが「わかる」よう、オバケの話をしてみましょう。



①「この前家に帰るとき髪が長くて白い服を着た女が通り道に立っていてさ、目を合わせないようにして急いで帰ったよ。怖かったな~」

 まず、「頭がいい人」にオバケの話をそのまましても通じません。①の話を聞いても「頭がいい人」は「幻覚でも見たのだろう」と人間の神経の異常という科学的な結論を出すか、「変質者が出たんだな」という事件にしてしまうか、①の話をしている人が一杯食わせようと企んで嘘をついていると思うか、いずれにしても現実のなかに回収してしまいます。
 そして「頭がいい人」はオバケが犬や猫と同じく物理的に存在するかのように語る①のような人がキライです。彼にとってオバケは犬や猫の存在する現実にはいないものなのですから、それを犬や猫と同列に語られたら不快に思います。彼の世界観が否定されるわけですから、孤独を感じて反発するだけです。
 ではこれならどうでしょうか?



②「昨日夢の中で白髪のおばあさんに追いかけられて必死で逃げてさ、パッと目が覚めて自分の部屋に戻ってきたんだけど、おばあさんがまだそこにいたんだよね。しばらくしたら完全に目が醒めて消えたんだけど、怖かったわ」

 これも人間の神経の異常という科学的な結論を出されてはしまいますが、「頭がいい人」は②の話をした人には好意的です。何故なら②の話は現実を侵していないからです。
 
 
 ②の話をした人はオバケを犬や猫と同列に語ってはいません。オバケは夢の中から出てきたものであり、現実に一瞬存在しましたが、その現実というのも寝惚けて見た現実です。ですから、②の話は全て夢の中の話であり、現実を侵していません。②の話をした人は「オバケは現実ではなく夢の中の存在だ」という話ぶりなので、「頭がいい人」はこの人には好意的になります。「頭がいい人」は現実を侵さない限りにおいて「感情的で非現実的なこと」を否定しません。「現実にはないことなんだけど、この話は面白いな」と楽しむことができます。



③「この前小説を読んだんだけど、幽霊に追いかけられた人が道路に飛び出して交通事故にあうっていう話があったんだよ。俺は幽霊が見えないし幽霊なんていないって思うんだけど、俺の娘は見えるみたいでさ。娘が幽霊に怯えて危ない目にあったらどうしようって怖くなっちゃった」

 この話はどうでしょう?
 まず、③の話をしている人は、自分の体験ではなく小説の幽霊話をしています。小説は作り話ですから、作り話であることが初めからわかっているなら「頭がいい人」も受け入れやすいです。
 また、③の話をしている人は自ら「幽霊なんていない」と言っていますから、この人は「頭がいい人」と同じく現実に所属しています。この点も安心感を与え、「頭がいい人」に孤独を感じさせません。
 そして③の話には唐突に現実が現れます。自分の娘という現実で、この娘というのが幽霊が見える人だというのです。「幽霊が見える自分の娘」という他人について③の話をする人は「わからない」ことを表明しています。「俺は幽霊が見えないし幽霊何ていないって思うんだけど、俺の娘は見えるみたいでさ」の部分が「わからない」の表明です。特に「みたいでさ」という表現からは娘さんとの間に距離があることが見てとれます。幽霊が「わかる」か「わからない」かで、身近な人との距離ができてしまう寂しさに「頭がいい人」は共感するでしょう。

 
 しかし最後に問題が発生します。「娘が幽霊に怯えて危ない目にあったらどうしようって怖くなっちゃった」の部分ですが、ここで幽霊と現実が交錯してしまうのです。
 「幽霊に怯えて」は感情的で非現実的なこと属するのですが、「危ない目にあう」は現実に属します。しかも困ったことに、その交錯は③の話者ではなく身近な他人(話者の娘)によって引き起こされるのです。
 
 ここで「頭がいい人」は困ります。
 身近な人が「感情的で非現実的な」理由から現実に影響を与える場合、「頭がいい人」は無力です。なにせ「感情的で非現実的な面」を切り捨てたがため、他人の「感情的で非現実的な面」もわからなくなっていますから、対処ができません。

 もし③の話の娘が「頭がいい人」の娘だったとしたらどうでしょう。彼は危うい自分の娘を放置するか、「わかる」ために努力するか、という選択肢の前に立たされます。選択肢の前に立たされて困りますが、彼に「放置する」という選択は出来ないでしょう。危うい娘がいたらなんとか守ってやりたいと思うのが親ですから、「感情的で非現実的なこと」を「わかる」ようになる努力を始めることと思います。「頭がいい人」は頑張り屋さんですから。



 「頭がいい人」の仲間はずれ状態を解消するには、彼が自ら「感情的で非現実的な面」を取り戻したくなるようなオバケの話をしてあげればよい、これが結論です。




 もしあなたの身近に「頭がいい人」がいたら、きっと孤独と虚無を抱えていますから、③のようなオバケの話をしてあげてください。切り捨ててしまった「感情的で非現実的な面」を取り戻す方向に動き出すかもしれません。

 もしこれを読んでいるあなたが「頭がいい人」であったならば、もうあなたは孤独ではないことがおわかりになったでしょう。自らの「感情的で非現実的な面」を取り戻して、虚無感を払拭してください。

 健闘を祈ります。