なべさんぽ

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『砂漠のカーリマン』ー「伝説」はけっこう現実的だー

 今年も残すところ後少しとなりましたが、皆さまはいかがお過ごしでしょうか?ここ数年は伝染病や戦争といった嫌なことが続いておりますが、来年こそはよい年になって欲しいものです。

 

 今回はマンガ『MASTER KEATON』の『砂漠のカーリマン』というお話を題材に「『伝説』はけっこう現実的だ」ということについてお話ししたいと思います。

 

  • 手品は「魔法」ですか?
  • 『砂漠のカーリマン』について
  • キートンの現実対処能力
  • カーリマン伝説と族長の迷い
  • 合理主義の作る新たな伝説

手品は「魔法」ですか?

 本題に入る前に、突然ですが「手品」です。「手品」とは、様々な不思議を引き起こして人々を驚かす、あの手品です。何もない帽子の中からハトが飛び出したり、ハサミで切ったはずのひもが継ぎ目無しにつながっていたり、客が選んだトランプのカードが当てられたり、硬貨が瞬間移動したりする、手品はこういった不思議なことをする見世物です。皆さんも子供の頃は手品を本当の魔法だと思って喜んだことでしょう。

 

 子供も大きくなって中学生ぐらいになると、手品には「種」というものがあって、手品師が客の目を欺いて魔法があるかのように見せていただけだということが分かります。そしてきっと皆さんはガッカリしたことでしょう。「あーあ、魔法じゃなかったんだ。やっぱりみんなの言うように魔法なんてなかったんだ」と。もしかしたら「手品師のヤツめ、よくも騙してくれたな!」と怒って、手品を見るたびに種を見破ってやろうと躍起になった方がいらっしゃるかもしれません。そういう方は魔法が本当はないことによほどガッカリしたのでしょう。

 

 ところで、大人になると皆さんは手品に対して妙な態度をとることになります。大人は手品を見るときに、魔法がないことを知っていながら、まるで手品が魔法であるかのように喜ぶのです。この態度は中学生からすると不思議です。「魔法はないと考える大人」と「魔法はあると考える大人」が同時に存在しているように見えるため、中学生からするとヘンなのです。そこで「大人は手品が魔法ではないと知っているのに、どうして手品を見て喜ぶの?」と中学生は大人に尋ねますが、「そういうもんだよ」とか「そんなことを訊くのは野暮だ」とかはぐらかされて、明確な答えを聞くことは出来ません。

 私がここでその答えを言ってしまうと「大人は見事に自分を騙す手品師のに感嘆している」です。中学生にとっては「知っている」ことに価値があります。だから手品には種があると知ると「なーんだ、つまらない」となります。しかし大人にとっては「できる」ことに価値があるため、手品に種があると知っていても、「まるで魔法であるかのように見せることができる」という手品師の腕に価値を見いだすのです。

 

 中学生と大人の違いは「知っているからエライ」と思うか「できるからエライ」と思うかの違いなのです。これは手品に限らず世の中の様々な場面で見られることですが、今回私がお話ししたいこともこのことと関わってきます。

 

 

『砂漠のカーリマン』について

 今回のブログの題名になっている『砂漠のカーリマン』は、マンガ『MASTER KEATON(マスターキートン)』の第6話です。

 『MASTER KEATON』は1988年から1994年まで小学舘のマンガ雑誌ビッグコミックオリジナル』で連載された勝鹿北星(かつしかほくせい)と浦沢直樹(うらさわなおき)によるマンガです。原作が勝鹿北星で作画が浦沢直樹ですが、浦沢直樹は『YAWARA!』や『20世紀少年』などでご存知の方も多いでしょう。『MASTER KEATON』はSAS(英国陸軍特殊空挺部隊)の元サバイバル教官という経歴を持つ考古学者で保険調査員の平賀=キートン・太一が数々の事件を解決するという娯楽マンガです。キートンは1980年のイラン大使館人質事件や1982年のフォークランド紛争を経験している元軍人らしい現実主義者でありながら、古代を中心とした昔の人々の暮らしに想いを馳せるロマン主義者でもあります。相反する2つの要素がキートンという1人の人間の中で両立していることがこの作品の魅力ですが、その魅力が遺憾なく発揮されているのが『砂漠のカーリマン』です。

 

 『砂漠のカーリマン』はマンガ版では第1巻に収録され、第5話『黒と白の熱砂』からの続きとなっておりますが、アニメ版ではこの両話を合わせて『砂漠のカーリマン』と称しています。ここではアニメ版に習って『黒と白の熱砂』と『砂漠のカーリマン』の両方をひとつにまとめてお話ししたいと思います。まずはあらすじです。

 

 

 中国新疆ウイグル自治区タクラマカン砂漠の日英合同発掘隊へ鑑定人としてロイズ保険組合から派遣されたキートン、その発掘隊には古代の紋章の解釈を巡ってキートンと対立する高倉教授がいたのでした。当時、中国政府が政治的に対立していた外国の発掘隊を受け入れることは珍しく、今回の発掘は高倉教授にとってはシルクロードの東西交流の跡を示す遺跡を見つけるよい機会なのでした。しかし発掘中に見つかった「壁」が邪魔になって思うように調査が進まず、ウイグル族の反対に遭って「壁」を壊すこともできません。実は「壁」はウイグル族の英雄サーディクの聖墓上にある礼拝所跡だったのです。調査の期限が迫っていることに焦った高倉教授はキートンが止めるのも聞かず壁を破壊し、それを見たウイグル族の長老は衝撃のあまり死んでしまいます。長老の息子で族長のアバスは怒り、高倉教授らをタクラマカン砂漠の真ん中に置き去りにします。砂漠からの生還は絶望的でしたが、キートンのサバイバル術によって困難を克服し、見事全員で生還を果たすのでした。

 

 

キートンの現実対処能力

 キートンらは荷物を(なんと靴までも)取り上げられた上で砂漠に置き去りにされますが、ほとんど文明の利器がない中でサバイバル術を駆使するところがこのお話の面白いところです。キートンは一体どんなサバイバル術を使ったのか、それをご紹介したいと思います。

 

1.砂漠でスーツ

 キートンはスーツ姿で発掘隊に参加しています。砂漠で発掘をするのなら作業着が良さそうなもので、高倉教授にもそのことを非難されます。しかし族長アバス曰く、

「背広に長袖、それに長ズボンは、実際には直射日光をさけ、通気性もいい」(『MASTER KEATON』第1巻5話『黒と白の熱砂』135ページ、1989年初版)

そうです。きちんと考えてスーツを着ていたのだとしたら、キートンは砂漠に適した格好をしていたのですね。

 

2.日中は穴に潜む

 一行は夜の内に砂漠に置き去りにされました。普通ならいち早く脱出するためすぐにでも砂漠を歩いて移動したくなります。砂漠が暑いといっても暑さを我慢すればよい、そう考えそうなもので、高倉教授と山本助教授も移動を始めそうになりますが、キートンは「砂漠では2時間で死んでしまう」と言って止めます。砂漠は日光を遮るものがなにもなく、気温が50度ぐらいになることがあり、水もない状態では、なるほど、人間はすぐに死んでしまうでしょう。そこで一行は日の差し込まない東西方向に穴を掘り、日中はそこに入って動かず、夜の間に移動することにします。日本で生活していたら想像できないような気候の違いをキートンは知っていたのですね。

 

3.北極星から現在地を知る

 直射日光を避けて夜に移動したとしても、どの方向にどのくらいの距離をどれだけの時間歩けばよいのか分からなければ迷子と同じです。体力と気力と時間が尽きて死んでしまうでしょう。キートンは手の指に重りを付けたひもを掛けて北極星の角度を測り、自分たちの現在位置がタクラマカン砂漠の南部、西域南道まで少なくとも60キロの地点だと割り出します。これで南に約60キロを二晩ほど歩けばよいことが分かりました。

 

4.副え木をする

 高倉教授が転んで足をくじいたとき、キートンは教授の足にネクタイを使って副え木をします。私はマンガを読んでいると、怪我をした部位を固定するために副え木して包帯をする場面をたまに見かけるのですが、包帯で副え木をするというのは難しいものです。ひもや包帯を結ぶことは結構な技術で、単にグルグル巻いて結べばよいというものではありません。外れないようにきちんと固定できる結び方を知っていなければできないことです。地味ではありますが「結ぶ」ことは立派な技術です。

 

5.食糧を得る

 人が生きていく上で欠かせないのが食べ物です。砂漠には植物がほとんどないため、食べ物になるのは動物だけです。動物を食べるとなると捕獲しなくてはなりませんが、道具をほとんど持たない人間が素手で動物を捕まえることは、まず不可能でしょう。キートンは罠を仕掛けてジャコウネズミを捕まえます。ジャコウネズミの血を生ですすり、水分と塩分を得たあと、焼いて食べました。マンガでたまに見る動物捕獲用の罠ですが、木の枝とひもだけで小動物の足を捉えるものが多い気がします。どうやって仕掛けるのか知りたいものです。

 

6.火をおこす

 昼は暑い砂漠ですが、放射熱により夜は寒くなります。暖を取らないと凍え死んでしまうでしょう。キートンは木と木を擦り合わせて火をおこします。太めの木を横にして置いて、細い枝を太めの木に垂直に立てて回転させることで摩擦熱をおこし、その熱を起点にして木屑や小枝を燃やして炎を生み出す、原始人がやる、あれですね。キートンは細い枝を回転させるのに別の枝とひもを補助として使っていますが、補助があっても慣れていないと火なんておこせません。かなり高度な技術と言えるでしょう。

 

7.皮をなめして靴と水筒を作る

 捕まえたジャコウネズミを食べた後、キートンはその皮をなめして靴と水筒を作ります。「なめす」とは動物の皮を革製品を作るために加工することです。獣皮に付いた肉や脂をこそげおとし、薬品を使ったり煙でいぶしたりして皮が腐らないようにすることで、靴やカバンの原材料である革ができます。キートンは肉と脂をこそげおとすだけでしたが、それを加工して靴と水筒を作ってしまいました。裸足で歩くのは足への負担になりますから、靴があると移動が楽になります。水筒があると、水を持って移動することが可能になります。我々はきちんとした材料と道具と設計図を用意されていたとしても靴と水筒なんて作れません。乏しい道具で材料も自ら確保して革製品を作ってしまうなんて、すごいですね。

 

8.蒸留器を作って水を精製する

 人間の生存にとって一番大事なものは「水」です。食糧がなくても人は1週間はもちますが、水を飲まないと通常3日で死亡すると言われています。砂漠だったら身体から水分が失われる速度が速いですから、3日と言わずもっと早い内に水分を確保しなければ命が危ないでしょう。しかし砂漠で水が見つかるわけはありません。水のある街にたどり着く前に時間切れになってしまう、そのことを危惧したキートンは、天然の蒸留器を作ります。

 まず、穴を掘ってその真ん中にビニール袋を設置します。次に穴の中のビニール袋の周りに小便をします。最後にその穴を防水ポケットを破り取ってつなげて作ったビニール布で覆います。すると砂に染み込んだ小便の水分が砂漠の熱で蒸発してビニール布に付着し、その水分が穴の真ん中に置いたビニール袋の中に落ちてたまります。「蒸留」というと理科の授業で習ったり実験をしたりするものですが、キートンは理科の知識を現実に適用して水を精製したのですね。

 こうして水を確保したキートンたちは、その水を水筒に入れて移動することが可能になりました。

 

9.武器を作って備える

 ウイグル族の族長アバスは

「安心しろ......傷つけるつもりはない。ここに、置き去りにしてゆくだけだ......」

「生きるか死ぬか、お前達の罪は砂漠が裁いてくれるだろう......」(同上、134ページ、135ページ)

と言って高倉教授一行を置き去りにしました。そのためキートン

「アバスが約束を守るとすれば、生還しさえすれば、我々に手を出さない。」(同上第6話『砂漠のカーリマン』157ページ)

と言って一行を励まします。しかしキートンは現実主義者です。「アバスが約束を守るとすれば」助かるのであって、「アバスが約束を守らなかったとしたら助からない」こともきちんと分かっていました。実はキートンタクラマカン砂漠に来たのは仕事だけではなく、キートンの持つタクラマカン砂漠出土の遺物が何であるかを確認するためでもあったのでした。その遺物が投槍器だとわかったキートンは、木の棒を槍に加工し、アバスが約束を守らずに襲いかかってきたときに備えて、戦う準備をします。アバスは銃を持つ軍人ですから、フラフラのキートンが槍で太刀打ち出来るとは思えません。それでも生きるために出来ることは何でもやろうというキートンの心構えには、敬服せざるを得ません。

 

 

カーリマン伝説と族長の迷い

 『砂漠のカーリマン』の主人公はキートンで、見所もキートンのサバイバル術なのですが、このお話にはもう1人の主人公がいます。それはウイグル族の族長アバスです。アバスはキートンと同じイギリスのオックスフォード大学で考古学を学んだ経歴を持ち、中ソ国境紛争では中国側に立ってソ連軍を撃退したこともある英雄です。ウイグル族が中国政府に支配されている現状を見て、アバスは西洋の合理主義と武力を用いたウイグル族の独立を目指しています。

 

 「合理主義」とは合理的であることを信条とすることで、「合理的」とは、ある目的のために無駄なく理屈に沿った行動をとることを意味します。「無駄なく理屈に沿った行動」の「無駄」とは「神、霊、妖怪、その他迷信、昔からの慣習、感情」などのことであり、それらを切り捨てて「不思議や奇跡に頼らず現実的にものを考えて目的を達成しよう」というのが合理主義者です。ですからアバスは「神や迷信や感情に捕らわれないで『独立』という目的のため冷静にものを考えて対処していこう」と考える人です。

 

 しかしそんなアバスは高倉教授たちが「壁」を壊したことに対する裁きを「砂漠」に任せます。砂漠に置き去りにして、死んだら「砂漠」が死ぬべきだと判断したから死ぬのだし、生き残ったら「砂漠」が生きるべきだと判断したから生きたのだ、という裁き方です。「砂漠」は「神」と言い換えてもよさそうですが、通常、合理主義者ならば罪人を裁判にかけて法律で裁いたり、秘密裏に罪人を抹殺したりするでしょう。それなのにアバスは裁きを「砂漠」=「神」に任せてしまうという前近代的な裁き方をしてしまいます。一見するとアバスはおかしな行動をとっているように見えますが、実はこれはアバスの胸の内にある「迷い」に関係がありました。

 

 アバスは中国からウイグル族が独立して独自の文化を持った国を作りたいと考えています。そのための手段として合理主義を用いようとするアバスですが、合理主義には「神、霊、妖怪、その他迷信、昔からの慣習、感情」などといった人間の文化を「無駄」として切り捨てる側面があります。アバスはウイグル族が好きで、ウイグル族が作ってきた文化が好きだからこそ独立を望んだのに、独立のための手段である合理主義を手にしたら自分の好きなウイグル文化が「無駄」なものに見えてきてしまった、という矛盾を抱えることになっていたのです。  自分はこのまま合理主義者でいてよいのか、この先一体どうしたらよいのか、アバスは自分が今後とるべき態度について迷いました。

 

 その迷いが垣間見られる2つの場面があります。

 

 まずは「砂漠に裁きを任せる」というやり方は合理主義者であるアバスらしくないと部下から言われてアバスが「カーリマン伝説」について語る場面です。

「親父が、よく話したもんさ。十世紀の伝説の人物、サーディクの物語をな。」(同上、151ページ)

 サーディクは10世紀のイスラム教徒で、神アッラーの教えを広めるため多くの仏教国と戦い、イスラム教徒を増やしていました。サーディクは女子供は決して傷つけないという信条を持っていましたが、仏教国ニヤとの戦いの最中、部下が誤って子供数十人を殺してしまいます。このことで自らを咎めたサーディクは、アッラーの裁きを受けるために腰布1枚身に付けただけの姿で砂漠に赴きます。自分が生きるべきか死ぬべきか神に問うためです。そして4日後サーディクは生還を果たします。この故事からサーディクは「砂漠の英雄=カーリマン」と呼ばれるようになります。

 

 このカーリマン伝説を語った後、アバスは部下にニヤリと笑いかけます(同上、152ページ)。この「ニヤリ」は、

「俺がそんな伝説を信じているわけはないだろう?父が死んだから父のようなやり方で奴らを裁いたが、本当はバカバカしいと思っているんだぜ。安心しろ、合理的方法でウイグル族の独立を達成しようというオレの気持ちは変わっていないんだ」

という「ニヤリ」です。合理主義を掲げるアバスについてきた部下を安心させるため、アバスはカーリマン伝説をおどけて語ってみせたのです。

 

 ところがアバスは1人きりになるとまた様子が変わります。これが2つ目の場面です。

「カーリマンか……」

「すべて………迷信だ……」

(同上、153ページ、154ページ)

 たった2コマで描かれる場面で、アバスはまた「カーリマン伝説」を否定する発言をしています。今度はおどけず、真面目な顔をしてつぶやくのです。

 自分の好きなウイグル文化を守ろうとして手にした合理主義がウイグル文化を否定してしまう、自分が何のために力を手にしたのか分からなくなってしまったアバスの寂しい姿です。

 

 アバスは神がかりの荒唐無稽な迷信を否定しようとあえて高倉教授たちの裁きを「砂漠」に任せました。高倉教授たちが死んでしまえば「ほら、砂漠で生き残るなんてやっぱり無理だろう?カーリマン伝説なんて思っていたとおり迷信なんだ、ふん、合理主義でやっていくのが現実的だね」と自分の迷いを吹っ切ることができますからね。

 

 

合理主義の作る新たな伝説

 ところが、そんなアバスにとって信じられないことが起きます。砂漠に置き去りにしてきた高倉教授たちがなかなか死なず、それどころか西域南道にどんどん近づいているのです。人間は砂漠では2時間で死んでしまうはずなのに生き残って移動している、もしかしたらやつらは助かるかもしれない、これではまるでサーディクの伝説と同じではないか、そんなバカな……

 

 アバスは高倉教授一行が生きていることに驚きますが、これは「砂漠で生き残るのは神の加護による奇跡だ」という理解の仕方をしているからです。読者はキートンのサバイバル術を見ているので、そこに「奇跡」なんて見出だしません。キートンは現実に確実に対処することで生き残ったのですから、これは神の力ではなく人間の力です。

 私は昔話や伝説を聞くと、「古い話だからかなり省略されているな」とか「昔の人は表現力が拙かったから具体的なことは語らなかったのだな」とか感じることがよくあります。神に祈っているだけでは砂漠で生きることはできないのですから、きっとサーディクも砂漠で生き残るために日よけの穴を掘ったり食糧や水を確保したりしたことでしょう。その描写が省かれているだけで、伝説上の人物だって現実に対処して生き残ったはずです。奇跡など起きておらず、サーディクもキートンも生き残るべくして生き残ったのです。

 

 高倉教授一行が西域南道にあと3キロまで迫った時、おそらく教授たちはもう動けなくなってしまったのでしょう、日暮れにキートンは1人で移動を始めます。キートン自身も体力の限界、足元がおぼつかなく杖をついてなんとか歩いていました。そこにアバスたちの姿が見えます。キートンはアバスたちが約束を守らず自分たちを始末しにきたと考え、杖にしていた槍を投槍器に装填し、戦闘態勢に入ります。

「槍をかまえてます。あいつまだ、戦おうとしています!!」(同上、161ページ)

 その姿を見たアバスはキートンたちが神の力ではなく人間の現実への対処能力を発揮して生き残ったことを悟り、感銘を受けます。そしてアバスは自分の好きなサーディクの「カーリマン伝説」が神がかりの荒唐無稽な迷信などではなく、キートンのような現実対処能力を持った人間の作った史実だったのだと確信したでしょう。アバスはもう自分はウイグル文化を否定する必要はないと理解し、合理主義とウイグル文化の両方の力でもって独立達成を目指そうと前向きな気持ちになることができたのです。

 

 最後にアバスは自分の迷いを断ち切って救いを与えてくれたキートンに敬意を表します。

「水を飲ませてやれ。あいつは、カーリマンだ。」(同上、162ページ)

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。手品師もキートンも「魔法」「奇跡」「神」ではなく、人間の力を使って「魔法」「奇跡」「神」を我々に感じさせてくれていたのだと分かっていただけたら幸いです。

 

 皆さんもアバスのようにかつて「伝説」に心を踊らせ、そしてその「伝説」が迷信なのだと知ってガッカリした経験はないでしょうか?もしかしたら「迷信」は昔の人の描写がいい加減なだけで、よく見たら現実的なものかもしれませんよ。