なべさんぽ

ちょっと横道に逸れて散歩しましょう。

人を弔うということ-蛭子能収の自嘲-

 東北や日本海側で大雪が降るほどの寒さがやって来ましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。暖かくして体調にお気をつけください。

 

 お盆でもございませんが、今回の話題は『人を弔うということ』です。映画『もののけ姫』について書くと言っておきながら急に別のブログを挟んで申し訳ございません。『もののけ姫』には人の死が多く描かれるため、以前書きかけてそのままにしていたこの記事を出すことにしました。どうかお付き合い下さい。

 

 

 

 人が亡くなると死者を『弔う』ことになりますが、亡くなった方を弔う気持ちがよくわからないという方はいらっしゃいませんか?

 

 私たちは葬式に出席したり墓参りに出かけたり法要を営んだりと人の死を弔う機会を様々に持ちますが、それらの行事に参加した際に居心地の悪さを感じる方がいらっしゃるかと思います。人が亡くなっても自分の中に悲しみがなく、亡くなった人に対して安らかに眠って欲しいという気持ちも沸いてこない、そのため自分がどうしてお弔いに参加しているのかよくわからないし、どんな態度でいればよいのかわからないから居心地が悪く感じる、そういう方です。

 

 人を弔えない方はわざわざその事を他人に話しませんから実態はよくわかりませんが、実はけっこう大勢いらっしゃると私は思います。そこで今回は「葬式で笑ってしまう」というタレントの蛭子能収(えびすよしかず)さんを取り上げて、死者を弔えない方の気持ちを探っていきたいと存じます。

 

結論から先に先に申し上げますと

「エビスさんは葬儀が馬鹿馬鹿しいから笑う」

「葬儀はお便所についていってあげることである」

です。

  • 蛭子能収とは何者か?
  • 蛭子能収はなぜ葬式で笑うのか?
  • 参列者の気持ち
  • 葬式の意義
  • 人の気持ちを無にする科学技術
  • 1人でお便所にいけない女子
  • お便所についていってあげよう

 

蛭子能収とは何者か?

 私が今回唐突に取り上げた蛭子能収(えびすよしかず)なる人物は、1947年に熊本で生まれた漫画家兼タレントです。1973年に漫画雑誌『ガロ』でデビューしたヘタウマ漫画の旗手でありますが、テレビ東京の『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』をはじめとしたバラエティ番組に多数出演しているため漫画家としてよりタレントとしての顔の方が知られているでしょう。穏やかな笑顔ととぼけた言動が視聴者に支持され、「エビスさん」と呼ばれる75歳の老人です。

 

 しかしこのエビスさん、その穏やかな表情とは裏腹に、あまりの自由奔放さと著しい倫理観・世間体の欠如により「芸能界一のクズ」と呼ばれるとんでもない人物なのです。以下エビスさんの驚くべき発言・行動を紹介したいと思います。

 

・1998年新宿歌舞伎町の雀荘で賭け麻雀をしていたところを逮捕される。警察官に対して「この人たちがやろうって言ってきたんです!」と一緒に麻雀をしていた人たちに責任を押し付けようとする。警察官に反省の弁を述べる際、「もう二度とギャンブルはしません、賭けてもいいです」との迷言を放つ。その後謝罪会見の際に「みんなやってるのになんで俺だけこんな目に遭うんだ」などと反省の色なし。タレント活動自粛謹慎中に海外カジノでギャンブルに興じる。

・テレビ出演での失言。募金を目的とした日本テレビの『24時間テレビ』に出演時に「オレ、金ないから募金しないよ」と宣言する。出演番組内で難民キャンプの食料配給場面を映像で見ている際に「全部腐ってたら面白いね」と言い放つ。バラエティ番組で大竹まことから激しくツッコミを受けた際、当時死亡交通事故を起こして謹慎があけたばかりだった大竹まことに対して「人殺しのクセに…」と呟く。

・実の息子を漫画内で丸焼きにする。息子の結婚式のスピーチで「今日の式は中の下ぐらいのレベルですね」と言って新婦親族を怒らせる。孫たちには興味がなく、名前を覚えていない。

・気に入らない人間は漫画の中で殺す。漫画家デビューする前、職場の気に入らない上司を漫画の中でたびたび殺していた。息子が幼い時、息子の友人が蛭子が楽しみにしていたプリンを食べてしまったため、漫画内で同じような状況を設定して息子の友人を殺す。「漫画の中だったら自由に人が殺せるんです」などと発言。

朝鮮半島軍事境界線を訪れる旅行ツアーに参加した際、真っ直ぐ歩けという支持を無視してジグザグ歩きをしニヤニヤしていて米軍兵士に殴られる。

・葬式で笑う。「人が死ぬと楽しい。ついおかしくて笑ってしまう」との発言。母親の葬式で兄と二人して笑う。1999年ビートたけしの母親の葬儀に参列した際、笑いを押さえるもニヤニヤしてしまい遺族を激怒させる。

 

 いかがでしょうか?エビスさんの発言・行動に皆さんは驚かれたことと思います。もっとも、上にお書きしたことはご本人がテレビや著書の中で直接語ったことばかりではなく、周囲の人間が面白おかしく尾ひれをつけて流した噂や未確認情報も多く混ざっていますから、全てが事実であるとは言い切れません。また、上述した発言・行動の中にも、表でそのまま発言してしまうから周囲の非難を受けるだけで、頭の中や胸の内に留めておくか内輪だけで話す分にはそれほど問題ない、というものもございます。ですから、上に書かれていることだけからエビスさんを非難することはできないでしょう。それでもエビスさんがとんでもない噂が多く流されてしまうほどの変わった人物であることはお分かりいただけたかと存じます。

 

 さて、注目したいのはエビスさんの「葬式で笑ってしまう」という発言です。人を弔う気持ちのわかる人は葬式では沈痛な面持ちで神妙な態度をとることでしょう。それができず、反対に笑ってしまうというエビスさんはきっと人を弔う気持ちがわからない人です。エビスさんの「葬式で笑ってしまう」という行動について考えることで、人の死を弔えない方の内実やその原因を知ることができるかもしれません。

 

 ここからは2019年刊行エビスさん71歳の時の著書『死にたくない』に書かれていることをもとにエビスさんの死者への態度を見ていきましょう。

 

 

蛭子能収はなぜ葬式で笑うのか?

 まずは、エビスさんは本当に葬式で笑うのか、ご本人の発言から確かめてみましょう。

 

「僕は葬式に行くと、葬儀の最中に必ず笑ってしまうのです。これはもうなぜなのか自分でもよくわかりません。子どものころからの悪いクセで、笑いだしたらもうどうしても止まらなくなるのです。」(『死にたくない』蛭子能収、2019年初版、角川新書、26ページ、11行目)

 

 葬式で笑いが止まらなくなるとご本人がおっしゃっていますから、噂はどうやら本当のようです。しかも意図せず笑ってしまい、「笑いだしたらもうどうしても止まらなくなる」らしいのです。エビスさんは葬式で笑う様子を以下のように述べています。

「(以前参列した葬式にて)隣席で『蛭子さんダメだよ、ダメだよ!』と、力の限り腕をつねられているのに、それでも笑いを止めることができず、やがて呼吸もどんどん苦しくなって、自分のほうがこの葬式で逝ってしまうのではないかということもあったほどです」(同上、27ページ、11行目)

 笑ってしまうのがクセであっても、止めることができたり、周りに気付かれないほどに押さえることができたりするのならば問題ありません。しかしエビスさんは自分でも止められないほどの激しい衝動によって笑ってしまい、他人の力を借りても止められないと言うのです。頑張って止めようとすると呼吸が苦しくなって死にそうになるとのことですから、よほどの衝動が突き上げてくるのでしょう。

 

 

 こうエビスさんの証言を見てくると、エビスさんがなぜ葬式でそれほどまでに激しく笑ってしまうのか、その理由が気になります。

 ご本人も気になるようで、ご自分で分析していらっしゃいます。

「たぶん、僕は建前で悲しいふりをするのが苦手で、なのにそこにいる全員が揃いも揃って見事に神妙な顔をしているのを目にすると、もう葬式全体が『喜劇』のように見えてくるんです。(中略)また、そんな儀式に参加して一生懸命まわりと同じように振舞おうとしている自分のことも、ひたすらおかしくなってしまう。」(同上、27ページ、15行目)

 エビスさんは他人の死をあまり悲しいとは思わない人なので、葬式に参加したら悲しいフリをすることになります。そして他の参列者も自分と同じように悲しくないはずだから、自分と同じく悲しいフリをしているはず、つまり「ウソをついている」のだと思っています。エビスさん自身はウソをつくのが苦手で悲しいフリをすることに苦労しているというのに、他の参列者たちは平気で悲しいフリをしている、それを見ると葬式が「死者を弔うという名目で悲しくもない人たちがわざわざやって来てウソをつくための集まり」というように見える、このことをエビスさんは「喜劇」と言っているのですね。たしかに、大勢の人たちが死者を囲んでわざわざウソをつきあう集まりがあったとしたら「こいつら、なにやってるんだよ?」と馬鹿馬鹿しくなって笑っちゃいますね。

 

 そしてエビスさんはそんな馬鹿馬鹿しい集まりにわざわざ参加して周りに合わせようとしている自分のことがおかしくなるとも言っています。ですから、エビスさんはウソで悲しいフリをする参列者たちを馬鹿にして笑っており、同じくウソで悲しいフリをする自分自身をも馬鹿にして自嘲している、こういうことになります。ご本人は

「誤解してほしくないのは、葬式で悲しんでいる人たちが滑稽に見えるとか、おかしいというわけじゃありません」(同上、28ページ、10行目)

とおっしゃっていますが、これはウソです。人の気持ちとは行動に現れます。厳粛な場で笑うということはその場にいる人々を馬鹿にすることですから、行動から考えるとエビスさんが参列者たちを馬鹿にしていることは明らかです。「行動から切り離された気持ち」などというものは幻想ですので、そんなものを根拠にした言い訳は通りません。

 

 

 

参列者の気持ち

 ウソで悲しいフリをする参列者たちを馬鹿にして笑っており、同じくウソで悲しいフリをする自分自身をも馬鹿にして自嘲している、これがエビスさんが葬式で笑う理由でした。こう説明されると、エビスさんが葬式で笑ってしまう仕組みは分かります。仕組みは分かりますが「だからエビスさんが葬式で笑うことはまともなことだ」とは思いません。エビスさんが葬式で笑う理由というものはエビスさんの胸の内だけにあるもので、本人にとっては当然のことかもしれませんが、周囲の人々から見たらヘンなものかもしれません。かもしれない、ではなく、ヘンでしょう。そのためエビスさんの気持ちだけでなく他の参列者の気持ちも考えてみる必要があります。

 

 他の参列者はエビスさんと違って葬式が喜劇には見えません。だから他の参列者からすると、葬式でゲラゲラ笑っているエビスさんはヘンな人に見えます。この違いは両者の葬式に対する見方の違いから来ています。エビスさんは

「葬式は人が亡くなって悲しみを抱く人々が集まって行うものだ」

と考えています。亡くなった人と個人的な結び付きが強く深い悲しみを抱くもの同士が故人を偲ぶために集まるのが葬式で、それこそが葬式の意義だ、だから悲しくもないのに参列して真面目な顔をしているのはおかしなことだ、こう考えます。それに対して他の参列者は

「葬式はただの葬式だ」

と考えています。悲しいか悲しくないかに関わらず人が亡くなったら執り行うべきもので、葬式の意義なんて特に気にしない、これが一般的な葬式観です。一般的に人は物事の意義や意味などを考えなくても行動できます。一般人は日常生活や時々開催される行事が滞りなく進めばそれでよいので、意義・意味の検討をいちいちしませんし、しなくてもこなすことが可能です。考えることが得意ではないからそうせざるをえない、という面もございますが、本人たちにとってはそれをする必要がないからしないのです。

 

 それに対してエビスさんは漫画家すなわち表現を仕事とする人です。表現を仕事とする人は物事に意義・意味を見出だして、それをもとに表現をします。葬式に対してエビスさんは「葬式は人が亡くなって悲しみを抱く人々が集まって行うものだ」という意義を見出だしました。だから葬式に参列した際には、その葬式が意義を正しく表現していないとバカバカしくなって笑います。エビスさんの笑いは「意義がないがしろにされているぞ!」という抗議の表現なのです。

 

 一般人は葬式の意義を考えずに葬式に参列できると申し上げましたが、私のこの発言は

「一般人は物事の意義を必要としない」

ということではなく

「一般人は物事の意義を意識しない」

ということであって、一般人にとっても物事の意義は実は必要なことです。意識はしなくとも、人の行動の根っこにはなんらかの意義や意味が潜んでいるものです。その意義や意味が揺らいでしまうと、行動が乱れます。私がこのブログの冒頭で

「私たちは葬式に出席したり墓参りに出かけたり法事を営んだりと人の死を弔う機会を様々に持ちますが、それらの行事に参加した際に居心地の悪さを感じる方がいらっしゃるかと思います」

と申し上げたのは、葬式の意義を意識しない一般人も、葬式の意義が揺らいでいる現代では辛かろうと思ってのことです。

 

葬式の意義

 では、一般人の葬式での振る舞いの底に潜む意義とは一体なんでしょうか?それは

「葬式は亡くなった人の霊を慰めるために執り行うものだ」

というものです。これは昔の葬式が持っていた意義ですね。亡くなった人の霊を放っておくとタタリが起きるから、共同体に属する人々の手によってあの世に送る儀式を執り行う、それが葬式でした。ここに悲しい・悲しくないという個人的な感情は関係ありません。放っておかれた霊が世に災厄をもたらす危険なものとなることを防ぐためには亡くなった人がどんな人であったとしても送らなくてはなりませんでした。だから葬式は危険を取り除く真面目で真剣な儀式で、悲しくなくたって神妙な顔をするのは当然でした。かつての葬式は、真面目な顔をして参列し神妙な態度で臨んでも居心地の悪さを感じさせるものではなかったのです。

 

 

 私のこの説明で皆さんが「なるほど」と納得すればこれで話は終わります。皆さんが

「エビスさんは『悲しい』ことにこだわりすぎているのだな」

とか

「自分も『霊を慰める』という発想がなかったから、葬式で居心地が悪かったのだな」

とか

「今度葬式に行くときは『霊を慰める』と思って出てみようかな」

とかいった感想をお持ちになれば、「葬式での居心地の悪さ」という問題は解決します。

 

 ところが、そうはいかないでしょう。と申しますのも、「死者の霊を慰める」ことは昔の葬式が持っていた意義であって、それがまだ残っているにせよ、今では「死者の霊を慰める」と言われてもよくわからない方が多いからです。

 

 現代では「霊」を本気で信じる人は減っています。人は死んだらそこでおしまいでその後は何もない、人が死後に行くと言われる三途の川や天国・地獄などは「昔の人の作り話」だ、作り話を本気にすることはできない、こう考えるのが一般的です。だから昔の葬式の意義がそのまま通用しにくいのです。

 エビスさんも言っています。

「(葬式について)たしかに、故人との最後のお別れの機会なので、『いま行かずしていつ行くのか?』という気持ちはなんとなく理解できます。でも、死んだ時点ですでに別れちゃっているわけだし、生きている人がわざわざ集まって死んだ人を見に行くのも……って思うのです。それなら、生きているうちに会った方がいいじゃないですか」(同上、26ページ5行目)

 死んだらその後にはなにも残らないと考えていたら、「葬式で故人とお別れする」と言われてもよくわからないでしょう。もういない人の亡骸を囲んで、まるでその人が生きているかのように儀式を行うことは滑稽です。ちょうど着ぐるみのネズミを前にして「中には人が入っているのに、なぜ本物のネズミが生きて動いてしゃべっているという設定に私が付き合わねばならないんだ?」と思うと冷めてしまう、そういう感覚と似ています。私は上でエビスさんが葬式で笑う理由を

「ウソで悲しいフリをする参列者たちを馬鹿にして笑っており、同じくウソで悲しいフリをする自分自身をも馬鹿にして自嘲している」

とお書きしましたが、

「もう存在しない人をまるで存在するかのように扱うことが馬鹿馬鹿しい」

ことも笑う理由の1つでしょう。

 

 

人の気持ちを無にする科学技術

「もう存在しない人をまるで存在するかのように扱うことが馬鹿馬鹿しい」

と聞いて「それはひどい!」とお怒りになる方がいらっしゃるかと思います。確かにひどいですね。しかしこれはエビスさんのような表現を仕事にする人だけでなく、今や一般人の間にだって広く普及した考え方かもしれません。それというのも、最近では葬儀を近親者のみで執り行い、知人を呼ばない葬式が増えているからです。近親者のみで葬式をする人たちは、おそらく

「死人はもういないし、霊を慰める社会的な行事なんて時代遅れだし、そんなもののために他人を呼ぶのもなあ…近しい人たちだけで故人を偲ぶだけにしようか」

と考えているのでしょう。皆さんの中にもこの気持ちがわかる方がいらっしゃるかと存じます。「霊を慰める」という昔の葬式の意義がなくなったら、このように感じても仕方ないですね。

 

 「霊を慰める」ことに意義を見いだせない人が増えた背景には科学技術による社会の発展があります。

 私たちが現在のような暮らしをできるのは自然科学(理科と数学)が発展して技術として応用できるようになったためです。スマホ・コンピュータといった電子機器や冷蔵庫・テレビ・洗濯機・電子レンジ・エアコンといった家電は科学技術によって生み出された大変便利な道具です。電車・車・飛行機・船といった輸送機やビル・橋・マンションといった建築などの大きなものにも科学技術は用いられています。ペットボトル・食品トレー・ラップ・ペン・ジャージなどは石油科学製品ですし、加工食品は工場でロボットによって生産されています。そして照明や家電、電子機器や機械を動かすのに必要な電気が各地の発電所から送電線によって各家庭・工場に送られています。当然、医療機器や薬品も科学の産物です。最近では投資・株式・証券・保険を扱う金融分野でも科学技術が用いられています。現代を生きる私たちは具体的な成果を見せてくれる科学技術の力を大変信頼するようになりました。

 

 科学が私たちの生活のあらゆる場面に入り込んでくると、科学が扱わない物事の地位は相対的に下がります。

 

 私たちは科学技術を扱う専門家でなくとも、科学技術がどういう考え方で成り立っているかを知っています。科学は基本的に理科と数学からできており、私たちはそれらを学校で習うためです。

 

 理科には滑車や波など物体の運動を扱う物理、水素・酸素・炭素など物質の性質を学ぶ化学、動植物の諸器官の働きや遺伝の法則性などを説明する生物、天体の動きや大地の動きを知ることができる地学という4分野がありました。数学には正負の数・文字式・方程式・二次関数・指数対数関数・三角関数微分積分・数列などの複雑な計算分野、合同・相似・円・ベクトルなどの図形分野、確率・数列・統計などの変わった分野がありました。覚えているでしょうか。皆さんも中学校で理科と数学を学ぶに当たり苦労された思い出があると思います。高校で理科と数学をさらに詳しく学んだ方は、もっと大変だったでしょう。

 

 理科と数学は人の気持ちを扱いません。理科は目に見える具体的な物事だけを扱い、数学は反対に抽象的な目に見えない物事しか扱いませんが、両者は理屈を扱う点と人の気持ちを扱わない点で共通しています。数学は数字とアルファベットと抽象的な図形のみの世界ですから、「怒り」「うれしさ」「悲しみ」といった感情や「神話」「英雄譚」といった物語が入り込む余地がありません。理科も「質量保存の法則」や「慣性の法則」は人の感情と関係ありませんし、「遺伝」は「神が人類を繁栄させるため」に起こることではありません。物質も単に「水素は酸素と共に燃えて水になる」だけで「霊の働き」などはなく、地震は地殻の運動であって「神の怒り」などではありません。

 

 理科と数学の世界では「霊」や「天国・地獄」など人の気持ちが生み出したものは基本的に「ない」ことにされます。科学は理科と数学の世界ですから科学にとって人の気持ちは「ない」に等しいものとなります。科学は人の気持ちが生み出したあらゆるものを「無価値」や「幻覚」もしくは「無意味な妄想」などと判断します。「霊」「天国・地獄」の他にも「妖怪」「おばけ」「神話」「伝説」「物語」「美」「善悪」「感情」など洋の東西を問わず、あらゆる文化的営みは科学にとって「無意味」なのです。

 

 少し前まで科学的ものの考え方は少数の知識人だけが知っているようなものでした。そしてその考え方を実生活の中に取り込んでいる人は更に少数派で変わり者でした。しかしここ最近になって科学の考え方とそれを取り込んだ生活が一般人の間にも一気に広まっており、「霊を慰める」気持ちが分からない人をどんどん増やしています。エビスさんのような変わった人がテレビに出て持て囃されているのがその証拠です。

 

 このままいくとどんどん「人の気持ち」は時代遅れで無意味なものとなり、「死者を弔う」気持ちもしぼんでいってしまうことでしょう。そうなったら私たちは一体どうやってお葬式と付き合っていけばよいのでしょうか?

 

 

1人でお便所にいけない女子

 その答えは「葬式はお便所にいけない子を落ち着かせるための儀式である」と考えて葬式に参列することです。

 科学技術の発展した現代では科学的考え方が一般にも普及し、この流れはもう止められません。時間が後戻りすることもありませんから、昔に帰ることもできません。科学を否定したり昔に帰ろうとしたりすることは無理です。ですから科学と矛盾しない「葬式はお便所にいけない子を落ち着かせるための儀式である」という意義が新たに必要とされます。

 

 小中学生の時にいつも誰かと一緒にいる女子たちがいたと思います。決して1人で行動せず、お便所に行く時も誰かと一緒です。幼児が1人で便所に行けないのなら分かります。幼児にとって便所で用を足すのは大仕事で、誰かについて来てもらわないと不安なのも理解できます。しかしそれなりの年齢になった女子たちがいつも連れだって便所に行くのはヘンです。皆さんはそんな女子たちを見て「便所ぐらい1人で行けないのかよ?」と思ったことはないでしょうか。

 

 彼女らが連れだって便所に行く理由は単純で、「孤立するのが不安だから」です。別に1人で便所に行ったからといって仲間外れにされるわけではありません。そうではなく、自分が誰からも見られていない時間が少しでもあると「孤立した」と感じてしまい、それが不安なのです。

 1人で便所に行ける人は1人になっても孤立を感じません。「1人だな」と思ったとしても、「今は1人だけど、みんながいる教室にまた戻れる」と当たり前に思っています。ですから不安なんて感じません。それに対して女子たちの感じる「孤立」は「みんながいる教室にはもう戻れない」という絶望です。彼女らはなんと「1人で便所に行ったら、もうみんながいる教室には帰れない、そうしたら一生1人で過ごさなければならなくなる」と思っているのです。ですから大変な不安を抱えていて、お友達と一緒でなければお便所には行けないのです。一緒に付いてきてくれるお友達はいわば命綱で、その命綱があるからこそ彼女らはお便所から教室へと生還出来るのです。

 「便所に行くぐらいでそんな大袈裟な」と皆さんはお考えになるかもしれません。実際に大袈裟ですし、私も便所に行くのに大騒ぎする人のことは理解しがたいですし、そんな人と仲良くできるとも思えません。しかし1人でお便所に行けない女子たちは確かに存在しますし、何らかの考えがあって連れションをしているわけです。仕方がないから彼女らの考えを想像した結果、「いつも連れだってお便所に行く」という行動は「1人でお便所に行ったら二度と教室には帰れない」という思想の現れだという結論に至ったのです。まったく、困ったものです。

 

 いつも連れだってお便所に行く女子たちは孤立することの不安を抱えている、ということに御納得いただけたことにしてしまって話を進めます。連れション女子がなんだってお葬式と関係があるかと言いますと、お葬式も連れションと同じく孤立の不安を解消するものだからです。

 

 死とは怖いものです。死んだらどうなってしまうのかが誰にも分かりません。しかも誰も手助けすることはできず、誰も付いてきてくれず、たった1人で臨まなければなりません。死ぬ時に完全消滅してしまって何も感じなくなるのならよいけれど、もし意識が残っていて地獄に行ってしまったらどうしよう?天国も地獄もなく、何もないところで意識が永遠に孤独を感じ続けることになったらどうしよう?よく考えたら、例え意識が完全消滅するとしてもそれはそれで怖いな……死は「孤立」の恐れを感じさせることですから、死について考え出すと不安が際限なく沸き起こってきます。この不安をなだめるために葬儀というものはあります。「死んだら永遠に1人で過ごさなければならなくなる」と不安がっている人に対して、死ぬ時には葬式できちんとお見送りをし、49日・一周忌・三回忌などの法要で定期的に死者を偲び、たまにはお墓参りをして死者に会いに行き、お盆に死者が帰って来た時には迎え入れる、そうした儀式をすることで、死者は死んだ後も生者の世界と繋がっていることを伝えて不安を解消してやるのです。これは「1人でお便所に行ったら二度と教室には帰れない、一生1人で過ごさなければならなくなる」と孤立への不安を抱える女子のお便所についていってあげて、その怯える気持ちをなだめてあげることと同じです。

 

 「勝手に不安がっているヤツのことなんか知らないよ。単純に甘えているだけじゃないか。私は別に死ぬことは不安じゃないから葬式になんか参列したくないね。連れションしたいヤツは勝手にすればいい。私は関係ない!」

 こう考える方もいらっしゃると思いますが、連れションは決して女子たち以外の人に関係ないことではないのです。

 

 私は上で、昔の葬式が持っていた意義は「葬式は亡くなった人の霊を慰めるために執り行うもの」だと言い、その後で「放っておかれた霊は世に災厄をもたらす危険なものとなってしまう」とも申し上げました。これはタタリのことですが、具体的には病気が流行ったり、死者が出たり、家が没落したりすることです。タタリは現代ではもう信じられていないことですが、実は現代でも起こり得ることです。

 タタリというと「死者の霊がこの世に災厄をもたらす」と言われるものですが、これは間違っていて、正確には「不安を抱えた生きている人間が勝手にパニックになって様々な問題が起こる」ことです。タタリを起こすのは「死者の霊」ではなく「生者の不安」の方なのです。

 

 例えばある人が死に、その人の葬式は粗末なものだった、法要も営まれず、墓参りもされず、お盆にもその人のことが思い出話にも上らない、そんな死んでからいい加減に扱われている人がいたとしましょう。その人の家族や友人、知人の中にも「1人でお便所に行けない女子」のように孤立への不安を抱えやすい人が1人くらいはいます。そんな連れション女子がもし死者がこの世に生きる人と会う機会を得られていない様を見たら、「ああ、死んだら永遠に1人で過ごさなければならなくなるんだ!私も死んだら永遠に1人なんだ!どうしよう…」と大きな不安を抱えることになるでしょう。不安を抱えた女子は行動や会話がおかしくなり、日常生活を安定して営めなくなります。

 

 不安から胸に何か重たいものを感じ、食欲が落ちてご飯があまり食べられなくなったり、夜もよく眠れなくなったりします。朝起きることが辛くなり、日中もボンヤリして身体に力が入らず、頭もよくは回りません。ボンヤリしていたら他人の話を聞くことができませんし、頭が回らないと考えて話すことが出来ません。仕事や家事や勉強がうまくできなくなり、他人との日常的なやり取りもままなりません。食べられず眠れない状態が長く続くと体調を崩しますし、仕事や家事や勉強や他人との日常的やり取りがうまくできないと自信を失って気持ちが落ち込んだりします。これは身体的にも精神的にも大変辛い状態です。この状態が長く続くと病気にかかったり精神を患ったりするでしょうし、悪くすると死んでしまうこともあります。これがタタリによる「死者の発生」です。

 

 そしてタタリは1人の人間だけでなく、周囲の人間にも伝播します。と申しますのも、1人の人間の不調が周囲に与える影響は大きいものだからです。主婦・主夫が心身の健康を害したら、食事・掃除・洗濯その他の家事が行き届かなくなり、家族は汚い家の中で十分な食事も取れず、乏しい衣服で日々を過ごさなければならなくなるでしょう。その状態が長く続けば家族は病気になってしまうかもしれません。タタリで「病気が流行る」とはこんなことです。

 

 また、一家の稼ぎ頭が働けなくなったら、家族の生活を支える収入がなくなります。そうすると貯金を切り崩して生活しなければならず、食べ物や衣服は粗末なものしか買えなくなります。それでも買えている内はまだよいもので、貯金が尽きたら物や家を売らねばならなくなり、住む場所を失った一家は路頭に迷います。これがタタリによる「家の没落」です。

 

 

 「不安を抱えた人が心身に不調を来し、それが周囲の人に影響を与える」と考えると、タタリは荒唐無稽な話ではないのです。

 

 ですから「タタリなんて関係ない!」と考えている皆さんも、家族や親戚や職場や学校に不安を増大させた連れション女子(女子とは限らず大人の男という場合もあります。もうお分かりかとは思いますが、念のため)が不調になると、影響を受けるかもしれないのです。

 

 

お便所についていってあげよう

 エビスさんは葬式について「悲しくもないのに悲しい振りをするのが滑稽だ」とか「もう存在しない人間をまるで存在するかのように扱うのが馬鹿馬鹿しい」とか思っているので、葬式で笑ってしまうのでした。そしてそれは「葬式は亡くなった人の霊を慰めるために執り行うものだ」という昔の葬式が持っていた意義が現代ではもう失われてしまったことが原因でした。そして現代では葬式で笑い出すことはしないけれども、エビスさんのような考え方の人が増えているのでした。

 

 そんな現代を生きる我々がお葬式とどう付き合えばよいのかというと、「1人でお便所に行けない女子たちの不安をなだめる」つもりで参列する、これが答えのひとつです。「人は死んだら永遠に1人で過ごさなければならなくなるのかな…」と不安がっている人に対して、「そんなことはない、葬式でお見送りするし、法要でもお墓参りでもお盆でもまた会えるし、永遠に1人ってことはないさ」と示す、これが葬式の意義です。

 

 葬儀を営む時の私たちの心構えをもっと分かりやすく言うと、「お便所についていってあげる」気持ちになることです。これは死者に対してではなく、生きている連れション女子に対しての気持ちです。お便所についていって、前で待っていてあげる、

「ねぇ、そこにいるのー?」と聞かれたら、

「はいはい、いますよー」と答えてあげる、

なかなかオシッコが出ないようだったら、

「でねぇか?シーッ、はいシーッ」と言って促してやる、

この時の気持ちで葬儀に出ればよいのですね。

 「それはそれで馬鹿馬鹿しいだろう…」と思うかもしれませんが、お便所についていってあげるだけでタタリを防げると思ってみてください。お便所についていくだけで死者は出ず、病気が流行らず、没落する家族が減る、そう考えたら馬鹿馬鹿しいことをやるのも悪くないんじゃないでしょうか?

 

 皆さんもぜひ「はい、シーッ」って言ってあげてくださいね。

 

 

 

 

 今回はこれで終わりです。葬式で笑ってしまうエビスさんのことを考えることは、現代を生きる私たちの葬式への態度を考えることにつながりました。そして葬式は1人でお便所に行けない女子についていってあげることなのだと分かりました。

 

 私は葬式で笑うエビスさんを不謹慎だとかとんでもない人だとか言いましたが、大の大人たちがみんなで連れション女子に「シーッ」と言っているのが葬式だと考えると、葬式っておかしくて笑っちゃいますね。フフッ。

【序】『もののけ姫』がわからないー現実的なあなたへー

皆さま、新年明けましておめでとうございます。ここ数年は暗い話題が続き世相もよろしくありませんね。当ブログが皆さまにとって一服の清涼剤となるよう今年も精進して参りますので、お付き合いのほどよろしくお願いします。

 

 さて、新年からは何回かに渡って映画『もののけ姫』について語って参りたいと思います。

 

 『もののけ姫』というと1997年に公開されたスタジオジブリのアニメーション映画です。人気作で何度もテレビ放映がなされていますから、多くの方がご覧になっていることと思いますし、ご覧になっていない方も映画の題名くらいは聞いたことがあると存じます。そうは言ってもこの映画は25年も前の映画です。なぜそんな前の映画について語らねばならないのか、今さら語ることなどあるのか、まずはそのことについてお話しします。

  1. わからない映画
  2. オタク向けの解説はイヤ

 

1.わからない映画

 今回私が『もののけ姫』について語る1つ目の理由は、この映画が「たたり」「呪い」「神」などが出てくる「わからない」映画であり、鑑賞した多くの人が感じたわからなさを誰も言葉にしてこなかったことです。

 

 ご覧になったことがない方がいらっしゃるかもしれませんが、多くの方が『もののけ姫』を映画館で観たり、テレビで観たり、ビデオやDVDを借りて観たりしたことがあるかと存じます。『もののけ姫』を観たことがある方は、鑑賞中あるいは観賞後に、どのような感想をお持ちになったでしょうか。

「風景がとてもきれいだ」

とか

「人物が生き生きと動いている」

とか、アニメーションの技術に感嘆されたことと思います。今でこそ詳細に描き込まれた背景や人物の躍動的な動きは珍しくありませんが、それはコンピュータの発達のお陰で、まだ手描きでアニメを作っていた当時は『もののけ姫』のようなアニメは他にありませんでした。『もののけ姫』の映像は驚くべきもので感心した、この点について皆さんに異論はないことと存じます。

 

 しかし、物語における肝心要の話の筋や展開、場面場面の登場人物たちのセリフや行動などについてはいかがでしょうか。きっと

「わからないな……」

と困惑された方がほとんどだと思います。私がこのように断言する理由は、『もののけ姫』には「たたり」「呪い」「神」などの非現実的存在が現れ、物語の中心にドンと鎮座しているからです。

 

 物語の中心がわからないとその他のこともよくわからなくなります。皆さんは『もののけ姫』を観て、

「ヤツは死から逃げた」

とか

「お前にサンが救えるか!」

とかいうセリフを聞いても、全然ピンと来なかったのではないでしょうか。

「死から逃げるってどういうことだ?」

「救う?救いってなんだろう…」

などという疑問は沸いても、何をどう考えればよいかわからなかったことと思います。

他にも

「なんで蝦夷一族の村がタタリ神に襲われたんだ?」

とか

「烏帽子御前がアシタカを笑ったのはなんでだ?」

とか思っても、考えるための取っ掛かりが見つからなかったでしょう。要の「たたり」「呪い」「神」がわからないと足場が不安定で、頭が働かなくなってしまうのです。

 

 科学の発達した現代では一般的に「たたり」「呪い」「神」などは「終わってしまった物語」です。それらは宗教を信じている人には今も関係があるかもしれませんが、その他の一般市民にとってはあまり関係のないものです。だから多くの人は普段は「たたり」「呪い」「神」は「自分には関係ない」と思って生きています。もし特に宗教を信仰しているわけでもないのにそれらを信じている人がいるとしたら、他人から「変わったヤツ」だとか「おかしな人」だとか「幼稚な子」だとか思われているかもしれません。最悪の場合には「バカ」という評価を受けることもあり、それほど「たたり」「呪い」「神」は現実とは関係のないものと考えられています。そのため現代人は「たたり」「呪い」「神」を信じないだけでなく、語らず、考えることすらしないようにしています。中には反対に、信じていないことをわざわざ他人に言い立てる人もいますが、現代人の基本的な姿勢は「関係ない」です。

 

 そんな現代に「たたり」「呪い」「神」などといった昔の物語を取り上げる映画が現れ好評を博したら、現代人なら驚くでしょう。

「科学の発達した時代になぜ今さら『たたり』『呪い』『神』がもてはやされるんだ?もう俺たちには関係ないはずじゃないか?」

と。そして映画を見てみてもよくわからなかったら不安になります。

「みんなはこの映画を見て喜んでいるけれど、俺にはよくわからないよ…」

と。

 

 疑問と不安を解消しようと

「ねえ、あの映画がよくわからなかったんだけどさ、どういうことなの?」

というように他人に尋ねてみた方がいらっしゃるかもしれませんが、きっとはかばかしい回答は得られなかったことと存じます。「あの映画、よくわからなかったんだけどさ」と友人や知人や家族に聞いてみたら、

「そうだね、よくわからないね」

で終わってしまった、

「お話なんだから、そんなことを聞くのは野暮だよ」

とたしなめられた、

「暇潰しのための意味のない娯楽だよ」

と冷めたことを言われた、多分そのどれかだったのではないでしょうか。他人に尋ねなかった皆さんも、だいたい上のような展開になることを予想してあえて尋ねることもしなかったのではないかと思います。

 

 自分で考えることが難しく、他人に尋ねても分からなかったら、大抵の人は理解することを諦めます。

「考えてもわかんないや。他人に聞いても誰もまともに答えちゃくれない。映画を観て喜んでいる奴らもどうせよくわかんないで騒いでいるだけなんだろうな。ちぇっ、馬鹿馬鹿しい、やーめた」

 こうして『もののけ姫』に対する疑問と不安は皆さんの胸の内に封印されたのです。

 

 私はわからないものをそのままにしておくことが嫌です。特に他人が楽しんでいるものを自分が理解できなくて楽しめないことがイヤです。「仲間外れにしやがって、ズルい!オレも混ぜろ!」です。今回はわたしと同様に仲間外れになっている皆さんと共に『もののけ姫』に対する疑問を言葉にし、あわよくば仲間外れ状態の解消をしたいと思います。

 そのための方法として、今回もいつものような「現実の方に無理矢理引っ張る」という強引な手法を取っていきたいと思います。自分たちにはもはや関係ないはずの「たたり」「呪い」「神」を相手にしますので、強引なのは仕方ありません。納得していただきたいと存じます。また、もし納得いただけずとも、それなりに面白さを感じていただけるよう精進して参ります。

 

 

2.オタク向けの解説はイヤ

 私が『もののけ姫』について語る2つ目の理由は、オタク知識に基づいた解説ではなく、一般的な知識と経験を持った一般人がわかるような解説が欲しいと思ったことです。

 

 『もののけ姫』はスタジオジブリのアニメーション映画ですが、アニメには「オタク」がつきものです。アニメーション映画に対する解説となると、通常は「オタク向け」のものとなります。今でこそアニメーション映画はオタクだけのものでなく一般人も楽しむものとなりましたが、1990年代までアニメは子供かオタクしか見ないものとされてきました。したがって1997年公開の『もののけ姫』の解説はオタクにしか求められないと見なされていて、一般人向けの解説書など作られませんでした。一般人が映画を見て「わからない」と感じた時、オタクの知識は疑問の解消に役立ちません。一般人が映画を見る時は

「ああ、生きているとそういうことってあるよな」

という共感を求めていて、その共感が得られないと「わからない」と感じます。したがって90年代アニメーション技術の向上が云々という話や、物語の舞台は何時代のなんとかいう地域でモデルは誰某でという設定や、制作秘話や、声優がだれかなどといった細かいオタク知識はどうでもよいのです。

 

 また、アニメオタク向け解説書ではなく、学者評論家という立派な肩書きをお持ちの先生方が『もののけ姫』について書いたものもあります。社会学者の先生が

「タタラ場では女性たちが働いているが、これはフェミニズム理論的にはうんぬんかんぬん…」

とお書きになっていたり、文芸評論家の先生が

「不条理な世界で動機を失った現代青年であるアシタカはうんぬんかんぬん…」

とおっしゃっていたりします。ご高説賜って大変ありがたく恐縮至極で、先生方を敬愛してやまないこの私ですが、恐れながら先生方のお耳に入れたいことがございまして、誠に僭越ながら、大変失礼とは存じますが、申し上げさせていただきますると、

「そんな難しいことオレにわかるわけねーだろ!」

です。ナントカ理論は先生方には簡単にわかるのかもしれませんが、一般人にはサッパリわかりません。だいたい映画はナントカ理論を適用して理解するものじゃなくて、一般人が自分の感情で理解するべきものです。ナントカ理論を持ち出してしまった時点で邪道に陥っていますから、先生方の解説も一種のオタク向け解説です。

 

 それではとオタク向けではない解説を探してみますと、これがございません。あることにはあるのですが、それらは映画の紹介に毛が生えた程度のものばかりで、映画を見た人のわからなさを解きほぐして共感を呼び覚ますものにはなっていません。

 

 今回私はオタク向け解説ではなく、ナントカ理論の適用でもなく、一般人が感覚として分かる『もののけ姫』の解説を書こうと思います。「解説」というより「感想」になりそうで、ありがたみがない文章になりそうですが、わからない解説よりわかる感想の方がよほど役に立ちますので思い切って書いちゃいます。

 

 

 

 次回から何回かに分けて書いて参ります。皆さまにお付き合いいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

『砂漠のカーリマン』ー「伝説」はけっこう現実的だー

 今年も残すところ後少しとなりましたが、皆さまはいかがお過ごしでしょうか?ここ数年は伝染病や戦争といった嫌なことが続いておりますが、来年こそはよい年になって欲しいものです。

 

 今回はマンガ『MASTER KEATON』の『砂漠のカーリマン』というお話を題材に「『伝説』はけっこう現実的だ」ということについてお話ししたいと思います。

 

  • 手品は「魔法」ですか?
  • 『砂漠のカーリマン』について
  • キートンの現実対処能力
  • カーリマン伝説と族長の迷い
  • 合理主義の作る新たな伝説

手品は「魔法」ですか?

 本題に入る前に、突然ですが「手品」です。「手品」とは、様々な不思議を引き起こして人々を驚かす、あの手品です。何もない帽子の中からハトが飛び出したり、ハサミで切ったはずのひもが継ぎ目無しにつながっていたり、客が選んだトランプのカードが当てられたり、硬貨が瞬間移動したりする、手品はこういった不思議なことをする見世物です。皆さんも子供の頃は手品を本当の魔法だと思って喜んだことでしょう。

 

 子供も大きくなって中学生ぐらいになると、手品には「種」というものがあって、手品師が客の目を欺いて魔法があるかのように見せていただけだということが分かります。そしてきっと皆さんはガッカリしたことでしょう。「あーあ、魔法じゃなかったんだ。やっぱりみんなの言うように魔法なんてなかったんだ」と。もしかしたら「手品師のヤツめ、よくも騙してくれたな!」と怒って、手品を見るたびに種を見破ってやろうと躍起になった方がいらっしゃるかもしれません。そういう方は魔法が本当はないことによほどガッカリしたのでしょう。

 

 ところで、大人になると皆さんは手品に対して妙な態度をとることになります。大人は手品を見るときに、魔法がないことを知っていながら、まるで手品が魔法であるかのように喜ぶのです。この態度は中学生からすると不思議です。「魔法はないと考える大人」と「魔法はあると考える大人」が同時に存在しているように見えるため、中学生からするとヘンなのです。そこで「大人は手品が魔法ではないと知っているのに、どうして手品を見て喜ぶの?」と中学生は大人に尋ねますが、「そういうもんだよ」とか「そんなことを訊くのは野暮だ」とかはぐらかされて、明確な答えを聞くことは出来ません。

 私がここでその答えを言ってしまうと「大人は見事に自分を騙す手品師のに感嘆している」です。中学生にとっては「知っている」ことに価値があります。だから手品には種があると知ると「なーんだ、つまらない」となります。しかし大人にとっては「できる」ことに価値があるため、手品に種があると知っていても、「まるで魔法であるかのように見せることができる」という手品師の腕に価値を見いだすのです。

 

 中学生と大人の違いは「知っているからエライ」と思うか「できるからエライ」と思うかの違いなのです。これは手品に限らず世の中の様々な場面で見られることですが、今回私がお話ししたいこともこのことと関わってきます。

 

 

『砂漠のカーリマン』について

 今回のブログの題名になっている『砂漠のカーリマン』は、マンガ『MASTER KEATON(マスターキートン)』の第6話です。

 『MASTER KEATON』は1988年から1994年まで小学舘のマンガ雑誌ビッグコミックオリジナル』で連載された勝鹿北星(かつしかほくせい)と浦沢直樹(うらさわなおき)によるマンガです。原作が勝鹿北星で作画が浦沢直樹ですが、浦沢直樹は『YAWARA!』や『20世紀少年』などでご存知の方も多いでしょう。『MASTER KEATON』はSAS(英国陸軍特殊空挺部隊)の元サバイバル教官という経歴を持つ考古学者で保険調査員の平賀=キートン・太一が数々の事件を解決するという娯楽マンガです。キートンは1980年のイラン大使館人質事件や1982年のフォークランド紛争を経験している元軍人らしい現実主義者でありながら、古代を中心とした昔の人々の暮らしに想いを馳せるロマン主義者でもあります。相反する2つの要素がキートンという1人の人間の中で両立していることがこの作品の魅力ですが、その魅力が遺憾なく発揮されているのが『砂漠のカーリマン』です。

 

 『砂漠のカーリマン』はマンガ版では第1巻に収録され、第5話『黒と白の熱砂』からの続きとなっておりますが、アニメ版ではこの両話を合わせて『砂漠のカーリマン』と称しています。ここではアニメ版に習って『黒と白の熱砂』と『砂漠のカーリマン』の両方をひとつにまとめてお話ししたいと思います。まずはあらすじです。

 

 

 中国新疆ウイグル自治区タクラマカン砂漠の日英合同発掘隊へ鑑定人としてロイズ保険組合から派遣されたキートン、その発掘隊には古代の紋章の解釈を巡ってキートンと対立する高倉教授がいたのでした。当時、中国政府が政治的に対立していた外国の発掘隊を受け入れることは珍しく、今回の発掘は高倉教授にとってはシルクロードの東西交流の跡を示す遺跡を見つけるよい機会なのでした。しかし発掘中に見つかった「壁」が邪魔になって思うように調査が進まず、ウイグル族の反対に遭って「壁」を壊すこともできません。実は「壁」はウイグル族の英雄サーディクの聖墓上にある礼拝所跡だったのです。調査の期限が迫っていることに焦った高倉教授はキートンが止めるのも聞かず壁を破壊し、それを見たウイグル族の長老は衝撃のあまり死んでしまいます。長老の息子で族長のアバスは怒り、高倉教授らをタクラマカン砂漠の真ん中に置き去りにします。砂漠からの生還は絶望的でしたが、キートンのサバイバル術によって困難を克服し、見事全員で生還を果たすのでした。

 

 

キートンの現実対処能力

 キートンらは荷物を(なんと靴までも)取り上げられた上で砂漠に置き去りにされますが、ほとんど文明の利器がない中でサバイバル術を駆使するところがこのお話の面白いところです。キートンは一体どんなサバイバル術を使ったのか、それをご紹介したいと思います。

 

1.砂漠でスーツ

 キートンはスーツ姿で発掘隊に参加しています。砂漠で発掘をするのなら作業着が良さそうなもので、高倉教授にもそのことを非難されます。しかし族長アバス曰く、

「背広に長袖、それに長ズボンは、実際には直射日光をさけ、通気性もいい」(『MASTER KEATON』第1巻5話『黒と白の熱砂』135ページ、1989年初版)

そうです。きちんと考えてスーツを着ていたのだとしたら、キートンは砂漠に適した格好をしていたのですね。

 

2.日中は穴に潜む

 一行は夜の内に砂漠に置き去りにされました。普通ならいち早く脱出するためすぐにでも砂漠を歩いて移動したくなります。砂漠が暑いといっても暑さを我慢すればよい、そう考えそうなもので、高倉教授と山本助教授も移動を始めそうになりますが、キートンは「砂漠では2時間で死んでしまう」と言って止めます。砂漠は日光を遮るものがなにもなく、気温が50度ぐらいになることがあり、水もない状態では、なるほど、人間はすぐに死んでしまうでしょう。そこで一行は日の差し込まない東西方向に穴を掘り、日中はそこに入って動かず、夜の間に移動することにします。日本で生活していたら想像できないような気候の違いをキートンは知っていたのですね。

 

3.北極星から現在地を知る

 直射日光を避けて夜に移動したとしても、どの方向にどのくらいの距離をどれだけの時間歩けばよいのか分からなければ迷子と同じです。体力と気力と時間が尽きて死んでしまうでしょう。キートンは手の指に重りを付けたひもを掛けて北極星の角度を測り、自分たちの現在位置がタクラマカン砂漠の南部、西域南道まで少なくとも60キロの地点だと割り出します。これで南に約60キロを二晩ほど歩けばよいことが分かりました。

 

4.副え木をする

 高倉教授が転んで足をくじいたとき、キートンは教授の足にネクタイを使って副え木をします。私はマンガを読んでいると、怪我をした部位を固定するために副え木して包帯をする場面をたまに見かけるのですが、包帯で副え木をするというのは難しいものです。ひもや包帯を結ぶことは結構な技術で、単にグルグル巻いて結べばよいというものではありません。外れないようにきちんと固定できる結び方を知っていなければできないことです。地味ではありますが「結ぶ」ことは立派な技術です。

 

5.食糧を得る

 人が生きていく上で欠かせないのが食べ物です。砂漠には植物がほとんどないため、食べ物になるのは動物だけです。動物を食べるとなると捕獲しなくてはなりませんが、道具をほとんど持たない人間が素手で動物を捕まえることは、まず不可能でしょう。キートンは罠を仕掛けてジャコウネズミを捕まえます。ジャコウネズミの血を生ですすり、水分と塩分を得たあと、焼いて食べました。マンガでたまに見る動物捕獲用の罠ですが、木の枝とひもだけで小動物の足を捉えるものが多い気がします。どうやって仕掛けるのか知りたいものです。

 

6.火をおこす

 昼は暑い砂漠ですが、放射熱により夜は寒くなります。暖を取らないと凍え死んでしまうでしょう。キートンは木と木を擦り合わせて火をおこします。太めの木を横にして置いて、細い枝を太めの木に垂直に立てて回転させることで摩擦熱をおこし、その熱を起点にして木屑や小枝を燃やして炎を生み出す、原始人がやる、あれですね。キートンは細い枝を回転させるのに別の枝とひもを補助として使っていますが、補助があっても慣れていないと火なんておこせません。かなり高度な技術と言えるでしょう。

 

7.皮をなめして靴と水筒を作る

 捕まえたジャコウネズミを食べた後、キートンはその皮をなめして靴と水筒を作ります。「なめす」とは動物の皮を革製品を作るために加工することです。獣皮に付いた肉や脂をこそげおとし、薬品を使ったり煙でいぶしたりして皮が腐らないようにすることで、靴やカバンの原材料である革ができます。キートンは肉と脂をこそげおとすだけでしたが、それを加工して靴と水筒を作ってしまいました。裸足で歩くのは足への負担になりますから、靴があると移動が楽になります。水筒があると、水を持って移動することが可能になります。我々はきちんとした材料と道具と設計図を用意されていたとしても靴と水筒なんて作れません。乏しい道具で材料も自ら確保して革製品を作ってしまうなんて、すごいですね。

 

8.蒸留器を作って水を精製する

 人間の生存にとって一番大事なものは「水」です。食糧がなくても人は1週間はもちますが、水を飲まないと通常3日で死亡すると言われています。砂漠だったら身体から水分が失われる速度が速いですから、3日と言わずもっと早い内に水分を確保しなければ命が危ないでしょう。しかし砂漠で水が見つかるわけはありません。水のある街にたどり着く前に時間切れになってしまう、そのことを危惧したキートンは、天然の蒸留器を作ります。

 まず、穴を掘ってその真ん中にビニール袋を設置します。次に穴の中のビニール袋の周りに小便をします。最後にその穴を防水ポケットを破り取ってつなげて作ったビニール布で覆います。すると砂に染み込んだ小便の水分が砂漠の熱で蒸発してビニール布に付着し、その水分が穴の真ん中に置いたビニール袋の中に落ちてたまります。「蒸留」というと理科の授業で習ったり実験をしたりするものですが、キートンは理科の知識を現実に適用して水を精製したのですね。

 こうして水を確保したキートンたちは、その水を水筒に入れて移動することが可能になりました。

 

9.武器を作って備える

 ウイグル族の族長アバスは

「安心しろ......傷つけるつもりはない。ここに、置き去りにしてゆくだけだ......」

「生きるか死ぬか、お前達の罪は砂漠が裁いてくれるだろう......」(同上、134ページ、135ページ)

と言って高倉教授一行を置き去りにしました。そのためキートン

「アバスが約束を守るとすれば、生還しさえすれば、我々に手を出さない。」(同上第6話『砂漠のカーリマン』157ページ)

と言って一行を励まします。しかしキートンは現実主義者です。「アバスが約束を守るとすれば」助かるのであって、「アバスが約束を守らなかったとしたら助からない」こともきちんと分かっていました。実はキートンタクラマカン砂漠に来たのは仕事だけではなく、キートンの持つタクラマカン砂漠出土の遺物が何であるかを確認するためでもあったのでした。その遺物が投槍器だとわかったキートンは、木の棒を槍に加工し、アバスが約束を守らずに襲いかかってきたときに備えて、戦う準備をします。アバスは銃を持つ軍人ですから、フラフラのキートンが槍で太刀打ち出来るとは思えません。それでも生きるために出来ることは何でもやろうというキートンの心構えには、敬服せざるを得ません。

 

 

カーリマン伝説と族長の迷い

 『砂漠のカーリマン』の主人公はキートンで、見所もキートンのサバイバル術なのですが、このお話にはもう1人の主人公がいます。それはウイグル族の族長アバスです。アバスはキートンと同じイギリスのオックスフォード大学で考古学を学んだ経歴を持ち、中ソ国境紛争では中国側に立ってソ連軍を撃退したこともある英雄です。ウイグル族が中国政府に支配されている現状を見て、アバスは西洋の合理主義と武力を用いたウイグル族の独立を目指しています。

 

 「合理主義」とは合理的であることを信条とすることで、「合理的」とは、ある目的のために無駄なく理屈に沿った行動をとることを意味します。「無駄なく理屈に沿った行動」の「無駄」とは「神、霊、妖怪、その他迷信、昔からの慣習、感情」などのことであり、それらを切り捨てて「不思議や奇跡に頼らず現実的にものを考えて目的を達成しよう」というのが合理主義者です。ですからアバスは「神や迷信や感情に捕らわれないで『独立』という目的のため冷静にものを考えて対処していこう」と考える人です。

 

 しかしそんなアバスは高倉教授たちが「壁」を壊したことに対する裁きを「砂漠」に任せます。砂漠に置き去りにして、死んだら「砂漠」が死ぬべきだと判断したから死ぬのだし、生き残ったら「砂漠」が生きるべきだと判断したから生きたのだ、という裁き方です。「砂漠」は「神」と言い換えてもよさそうですが、通常、合理主義者ならば罪人を裁判にかけて法律で裁いたり、秘密裏に罪人を抹殺したりするでしょう。それなのにアバスは裁きを「砂漠」=「神」に任せてしまうという前近代的な裁き方をしてしまいます。一見するとアバスはおかしな行動をとっているように見えますが、実はこれはアバスの胸の内にある「迷い」に関係がありました。

 

 アバスは中国からウイグル族が独立して独自の文化を持った国を作りたいと考えています。そのための手段として合理主義を用いようとするアバスですが、合理主義には「神、霊、妖怪、その他迷信、昔からの慣習、感情」などといった人間の文化を「無駄」として切り捨てる側面があります。アバスはウイグル族が好きで、ウイグル族が作ってきた文化が好きだからこそ独立を望んだのに、独立のための手段である合理主義を手にしたら自分の好きなウイグル文化が「無駄」なものに見えてきてしまった、という矛盾を抱えることになっていたのです。  自分はこのまま合理主義者でいてよいのか、この先一体どうしたらよいのか、アバスは自分が今後とるべき態度について迷いました。

 

 その迷いが垣間見られる2つの場面があります。

 

 まずは「砂漠に裁きを任せる」というやり方は合理主義者であるアバスらしくないと部下から言われてアバスが「カーリマン伝説」について語る場面です。

「親父が、よく話したもんさ。十世紀の伝説の人物、サーディクの物語をな。」(同上、151ページ)

 サーディクは10世紀のイスラム教徒で、神アッラーの教えを広めるため多くの仏教国と戦い、イスラム教徒を増やしていました。サーディクは女子供は決して傷つけないという信条を持っていましたが、仏教国ニヤとの戦いの最中、部下が誤って子供数十人を殺してしまいます。このことで自らを咎めたサーディクは、アッラーの裁きを受けるために腰布1枚身に付けただけの姿で砂漠に赴きます。自分が生きるべきか死ぬべきか神に問うためです。そして4日後サーディクは生還を果たします。この故事からサーディクは「砂漠の英雄=カーリマン」と呼ばれるようになります。

 

 このカーリマン伝説を語った後、アバスは部下にニヤリと笑いかけます(同上、152ページ)。この「ニヤリ」は、

「俺がそんな伝説を信じているわけはないだろう?父が死んだから父のようなやり方で奴らを裁いたが、本当はバカバカしいと思っているんだぜ。安心しろ、合理的方法でウイグル族の独立を達成しようというオレの気持ちは変わっていないんだ」

という「ニヤリ」です。合理主義を掲げるアバスについてきた部下を安心させるため、アバスはカーリマン伝説をおどけて語ってみせたのです。

 

 ところがアバスは1人きりになるとまた様子が変わります。これが2つ目の場面です。

「カーリマンか……」

「すべて………迷信だ……」

(同上、153ページ、154ページ)

 たった2コマで描かれる場面で、アバスはまた「カーリマン伝説」を否定する発言をしています。今度はおどけず、真面目な顔をしてつぶやくのです。

 自分の好きなウイグル文化を守ろうとして手にした合理主義がウイグル文化を否定してしまう、自分が何のために力を手にしたのか分からなくなってしまったアバスの寂しい姿です。

 

 アバスは神がかりの荒唐無稽な迷信を否定しようとあえて高倉教授たちの裁きを「砂漠」に任せました。高倉教授たちが死んでしまえば「ほら、砂漠で生き残るなんてやっぱり無理だろう?カーリマン伝説なんて思っていたとおり迷信なんだ、ふん、合理主義でやっていくのが現実的だね」と自分の迷いを吹っ切ることができますからね。

 

 

合理主義の作る新たな伝説

 ところが、そんなアバスにとって信じられないことが起きます。砂漠に置き去りにしてきた高倉教授たちがなかなか死なず、それどころか西域南道にどんどん近づいているのです。人間は砂漠では2時間で死んでしまうはずなのに生き残って移動している、もしかしたらやつらは助かるかもしれない、これではまるでサーディクの伝説と同じではないか、そんなバカな……

 

 アバスは高倉教授一行が生きていることに驚きますが、これは「砂漠で生き残るのは神の加護による奇跡だ」という理解の仕方をしているからです。読者はキートンのサバイバル術を見ているので、そこに「奇跡」なんて見出だしません。キートンは現実に確実に対処することで生き残ったのですから、これは神の力ではなく人間の力です。

 私は昔話や伝説を聞くと、「古い話だからかなり省略されているな」とか「昔の人は表現力が拙かったから具体的なことは語らなかったのだな」とか感じることがよくあります。神に祈っているだけでは砂漠で生きることはできないのですから、きっとサーディクも砂漠で生き残るために日よけの穴を掘ったり食糧や水を確保したりしたことでしょう。その描写が省かれているだけで、伝説上の人物だって現実に対処して生き残ったはずです。奇跡など起きておらず、サーディクもキートンも生き残るべくして生き残ったのです。

 

 高倉教授一行が西域南道にあと3キロまで迫った時、おそらく教授たちはもう動けなくなってしまったのでしょう、日暮れにキートンは1人で移動を始めます。キートン自身も体力の限界、足元がおぼつかなく杖をついてなんとか歩いていました。そこにアバスたちの姿が見えます。キートンはアバスたちが約束を守らず自分たちを始末しにきたと考え、杖にしていた槍を投槍器に装填し、戦闘態勢に入ります。

「槍をかまえてます。あいつまだ、戦おうとしています!!」(同上、161ページ)

 その姿を見たアバスはキートンたちが神の力ではなく人間の現実への対処能力を発揮して生き残ったことを悟り、感銘を受けます。そしてアバスは自分の好きなサーディクの「カーリマン伝説」が神がかりの荒唐無稽な迷信などではなく、キートンのような現実対処能力を持った人間の作った史実だったのだと確信したでしょう。アバスはもう自分はウイグル文化を否定する必要はないと理解し、合理主義とウイグル文化の両方の力でもって独立達成を目指そうと前向きな気持ちになることができたのです。

 

 最後にアバスは自分の迷いを断ち切って救いを与えてくれたキートンに敬意を表します。

「水を飲ませてやれ。あいつは、カーリマンだ。」(同上、162ページ)

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。手品師もキートンも「魔法」「奇跡」「神」ではなく、人間の力を使って「魔法」「奇跡」「神」を我々に感じさせてくれていたのだと分かっていただけたら幸いです。

 

 皆さんもアバスのようにかつて「伝説」に心を踊らせ、そしてその「伝説」が迷信なのだと知ってガッカリした経験はないでしょうか?もしかしたら「迷信」は昔の人の描写がいい加減なだけで、よく見たら現実的なものかもしれませんよ。

『頭がいい』ことはよいことか?ー『矛盾』について-

12月に入り急激に寒くなりましたが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか?体調を崩さないよう暖かい服装をしてくださいね。

 私は塾講師をしておりますが、二学期は中学生に古文漢文を教える機会が多く、今年もそうです。今回は漢文の授業で扱う故事成語『矛盾』を題材に

『頭がいい』ことはよいことか?
についてお話したいと思います。

 『矛盾』は古代中国の思想家である韓非が書いたお話です。ご存じの方も多いかと思いますが、まずはそのお話を以下に載せます。



楚の国の人で盾と矛とを売っている商人がいた。その人は盾を褒めて、
「この盾の堅いことといったら、どんな武器でも貫き通すことができないほどだ」
と言った。また、矛を褒めて、
「この矛の鋭いことといったら、どんなものでも貫き通すほどだ」
と言った。
それを見ていたある人が
「その矛でその盾を突いたらどうなるのか」
と聞いた。
その商人は答えることができなかった。
(訳は渡辺がしました)




 「矛盾」という故事成語
「つじつまが合わないこと」

「一貫性がないこと」
を意味します。上のお話で言えば
「なんでも防ぐ盾となんでも貫く矛が同時に存在するなんてことはあり得ない」
ということを指して言います。自分の話のつじつまが合わないことを指摘されて武器商人は困ってしまった、これが『矛盾』のお話の面白いところですね。

「つじつまが合わないこと」や「一貫性がないこと」をわかりやすく説明している点において、『矛盾』のお話は優れていると思います。しかしこのお話しは単純でわかりやすいだけに、かえって困った問題を抱えています。


 「なんでも防ぐ盾」と「なんでも貫く矛」は理屈の上では同時に存在できません。「なんでも防ぐ盾」が存在するのなら、あらゆる矛はこの盾によって防がれてしまうことになり、「なんでも貫く矛」は存在しないことになります。反対に「なんでも貫く矛」が存在するのなら、あらゆる盾はこの矛によって貫かれてしまうことになり、「なんでも防ぐ盾」は存在できません。理屈はそうです。しかし、実際に武器・武具が売られる状況を考えると話は変わってきます。
 
 
 まず「なんでも防ぐ盾」や「なんでも貫く矛」なんて現実には存在しないので、上のように理屈で考えることは空理空論です。漫画やゲームやアニメではありませんからね。まあ、「なんでも貫く矛」や「なんでも防ぐ盾」に近い「最強の武器」や「最強の武具」と呼ばれるものは時代時代に存在はするでしょう。「最強の武器」や「最強の武具」は男の子の憧れるところです。しかし、現実の戦闘においてそれらがどれ程の意味を持つかはわかりません。
 
 1対1の決闘なら、武器・武具の強さは勝敗にある程度関わってきますが、「決闘」なんてことをする人たちはみんなお金持ちですから、双方よい武器・武具を使っていてあまり性能に差はないでしょう。勝敗は「使うやつの腕次第」になると思います。また、戦争だったら戦闘は1人の戦士がするものではなく、大勢の兵士が集団で行うものです。人や馬や武器を集めるのにもお金がかかり、戦略や戦術も様々です。少数の強い武器より多数の弱い武器で戦う方が有利なことだってありますから、あまり「最強の武器」「最強の武具」に意味はありません。

 
 だいたい『矛盾』のお話に出てくるのは武器商人で、「商人」は自分の持つ商品を売り込むのが仕事ですから自分の商品をよく言うに決まっています。

「うちの矛が1番いいよ!どこのよりもいいよ!」
と。

「うちの矛は田中商店の矛に比べて弱く、重く、使い勝手が悪い上に高いです。だから皆さん、田中商店の矛を買いましょう」

なんてことを言うバカはいません。自分の商品を悪く言うにしても、同時によいところを挙げて、かえって買い手の信用を得ようとします。

「うちの矛は田中商店の矛に比べたら少し貫く力が弱いですが、丈夫で手入れも簡単で使い勝手がよいです。安く大量生産出来ますから、大勢の兵士を抱えている武将にお勧めです」

というように。
 だから「なんでも防ぐ盾」と「なんでも貫く矛」を言葉通りに捉えるやつがバカなのであって、商人を責めるのはおかしいでしょう。

 
 私は上で『矛盾』の解釈を、
「自分の話のつじつまが合わないことを指摘されて武器商人は困ってしまった、これが『矛盾』のお話の面白いところですね」
とお書きしましたが、これは『矛盾』のお話を「理屈のための理屈」で解釈したものです。『矛盾』のお話は「その商人は答えることができなかった。」で終わっていて、それを「自分の話のつじつまが合わないことを指摘されて商人が困ってしまった」と解釈したわけですが、現実で武器・武具が売られる状況を考えると「理屈のための理屈をこねる世間知らずを前にして、商人は面倒臭くなったから無視した」が妥当な解釈でしょう。


 「頭がよい」ことはそれだけでよいことと考えられがちですが、実は「現実とのつながりを持つ限りにおいて」という条件がついています。それを忘れると理屈のための理屈に陥って、現実を生きている真っ当な人から笑われることになります。頭がよい皆さんにはその事を忘れずに日々をお過ごしいただきたいと存じます。

 今回はこの辺で失礼します。

『紅の豚』は何故ブタになったのか?

 最近実写版『耳をすませば』が公開されましたが、今回の話題はジブリつながりということで「『紅の豚』はなぜブタになったのか?」です。

 

 前回のブログで扱った『シン・ゴジラ』は6年前公開の映画でしたが、『紅の豚』は30年前の1992年公開というもっと古い映画です。このブログの読者の中には当時子供だった方やまだ産まれていなかった方もいらっしゃると思いますが、テレビで何度も放映されている映画ですから、ご存知の方も多いでしょう。

 この映画を観た方の中にはきっと「『紅の豚』の主人公はなぜブタの姿をしているんだ?」という疑問を抱いた方もいるかと存じます。私もそのうちの一人で、長年疑問を胸に抱いてきましたが、公開から30年たった今日まで誰も明確な回答を与えてくれていません。そこでもうガマンが出来なくなった私がこの問題にケリを付けようというわけです。

 

 結論から先に申し上げますと、「ブタとは『役に立たない人間』のことであり、役に立つ人間であることを拒否したからブタになった」です。

 

  • 映画の概要
  • ブタとは何か?
  • ポルコ・ロッソはなにゆえ役立たずなのか?
  • 「正しい教え」に関する難しい話
  • ポルコの歩む道

 

 

映画の概要

 観たことがない人と内容を忘れてしまった人のためにまずは映画の概要をお書きします。

 

 1992年公開の『紅の豚』は宮崎駿監督率いるスタジオジブリ制作のアニメーション映画で、アドリア海を舞台に飛行艇乗りのブタが己の誇りを懸けて闘う活劇です。

 

 主人公ポルコ・ロッソは飛行艇乗りのブタで、アドリア海を荒らす海賊ならぬ空賊相手に賞金稼ぎをしていました。ポルコは第一次世界大戦の英雄で腕のよい飛行艇乗りでしたが、戦争で仲間を失い絶望を味わったため前向きに生きることが出来ません。想い人であるホテルアドリアーノのおかみマダム・ジーナに対しても態度を決めかね、のらりくらりと誤魔化すばかりです。ある時ブタが邪魔で仕方なくなった空賊たちはアメリカ人の飛行艇乗りミスターカーチスを雇ってブタを倒そうと画策します。ポルコは不調の飛行艇を修理しようとミラノへ飛んでいる最中にカーチスの襲撃を受け、撃墜されてしまいます。無事に生きていたポルコは昔馴染みを頼ってミラノへ行き、そこでかつて同じ部隊に所属していたピッコロの娘フィオの設計によって飛行艇を修復します。国家に非協力的なポルコはミラノで秘密警察に目を付けられて逮捕されそうになりますが、戦友でイタリア空軍少佐フェラーリンの協力で難を逃れ、フィオを伴いミラノを脱出することに成功します。アドリア海に戻ったポルコはカーチスに再戦を挑み、見事撃破してアドリア海飛行艇乗りの誇りを取り戻すのでした。

 

 この映画の不思議なところは主人公のブタがまるで人間であるかのように振る舞っていて、登場人物の誰もがそのことを不思議がらずに受け入れている点です。ブタが服を着て2本足で歩いて人間の言葉を話していたら普通は驚きます。しかるに、映画の中で言葉を話すブタに対して誰も驚かないし疑問を抱いていない。これはかなりおかしいことです。

 

 こういうことを書くと「お話なんだからそういうものでしょ?まったく、野暮なこと言うなよなー」と誰かが言ってきそうですが、まあ、そうですね。私は空想のお話に対して「現実的じゃない!」と文句を付けているのですから、野暮というか、大人げないというか、少なくとも粋ではありません。じゃあこのブログを書くことをやめちゃおうかとも思いますが、「『紅の豚』の主人公はなぜブタの姿をしているんだ?」という疑問を抱いてしまった時点でもう手遅れで、私は野暮天であることが確定しています。私と同じ疑問を抱いてしまったそこのあなたも、残念ながら私と同じ野暮天仲間です。諦めましょう。野暮だの粋だのを気にして何もしないより、疑問を解消するためにあれこれ考えてみた方がよいでしょう。疑問が解消すればお話を素直に楽しめるようになり、野暮を克服できるかもしれませんからね。

 

 

 ブタとは何か?

 この映画の主人公の歩いてしゃべるブタですが、このブタはポルコ・ロッソ(マルコ・パゴット)という名前の人間です。人間なので歩いてしゃべるのは当たり前ですが、じゃあなんで見た目がブタなのかというと、魔法だか呪いだかでブタの姿になったそうです。

 

 人間を物理的にブタの姿に変える方法など現実にはないので、この「魔法」だか「呪い」だかは心理的なものです。つまりポルコ・ロッソは実際にブタの姿をしているのではなく、

 

自分のことをブタ野郎だと思っているから映画ではそれがブタの姿として表現されている

 

ということになります。

 

 このように申し上げてもピンとこないと思いますので、ちょっと映画から離れて、

ブタとは一体何を表現するものか

について考えたいと思います。

 

 豚は四足歩行の哺乳類で、イノシシを改良して産み出された食肉用の家畜です。ピンクで体毛が薄く、体型はずんぐりしていて、「豚鼻」と呼ばれる上を向いた鼻が特徴的です。

 この豚ですが、人を罵るときに「このブタ野郎!」というように遣われることがある言葉です。つまり悪口ですが、この悪口は一般的に人の容姿についての悪口だと思われていて、豚のように太っていたり顔が潰れて鼻が上を向いていたりすると「ブタ」と言われてしまいます。

 しかしこれは間違いです。豚が太っていて鼻が上を向いているからといってそれがそのまま悪口になるとは限りません。太っているのなら牛やカバやトドだってそうです。鼻が上を向いていたって、場合によっては「愛嬌がある」と言われることもあり、豚のことを「かわいい」という人だっています。豚の見た目が特段醜いわけではありません。

 

 「このブタ野郎!」が相手の外見ではなく何を罵っているのかと申しますと、「役立たず」であることです。

 

 豚は家畜ですが、家畜には豚以外にも牛、鶏、馬、ロバ、羊、ヤギなどがいます。「家畜」というと「エサをもらって他人に従うだけで自分がないヤツ」という悪口にも遣われ、それ自体で蔑まれるべき存在です。それにも関わらずブタだけが特段蔑まれるというのは、これら家畜の中で豚だけが仕事をしていないからです。牛はお乳を出し、土を耕すのに使われ、荷物運びもします。鶏は卵を産み、鳴き声で人々に朝が来たことを告げ知らせます。馬は平地で素早く、ロバは険しい山道で荷物を運びます。羊は毛が糸の材料になり、ヤギもお乳を出します。皆何か役に立つ仕事をしています。

 しかるに、豚だけが仕事をしません。豚はエサを食べてブクブク太って食肉になるしかなく、役立たずです。だから「このブタ野郎!」は「この役立たず!」という意味になります。

 

 ポルコ・ロッソは自分のことを豚と同じ「役立たず」だと考えているため、物語の語り手の視点であるアニメの映像ではポルコが豚の姿で描かれています。また、ポルコ本人にも、物理的には自分が人間として見えていますが、気持ちの上では自分がブタに見えています。そして周囲の人々の目にもポルコは人間として映っていますが、「オレはブタ野郎だ…」というポルコの卑屈さがその表情に現れているため、彼のことをブタと呼んでいるのです。

 

 

ポルコ・ロッソはなにゆえ役立たずなのか?

 自分のことを「オレはブタ野郎だ…」と考えて卑屈になっているからポルコ・ロッソはブタの姿で描かれていることが分かりました。これで「『紅の豚』の主人公はなぜブタの姿をしているんだ?」という疑問は解決しました。しかし、こう考えると更なる疑問が浮上してきます。それは

ポルコはなぜ自分のことをブタ野郎=役立たずだと思っているのか?

です。

 

 ポルコ・ロッソは賞金稼ぎをして生活しています。飛行艇の操縦技術は随一で、空賊たちやイタリア空軍からは一目置かれています。無人島で孤独に暮らしていますが、友人や仲間に恵まれていて、女にもモテます。時々は街へ出て買い物をしたり飛行艇のローンを支払っていたりします。こういう生活の様子を見ていると、ポルコ・ロッソが「役立たず」だとは思えません。むしろ有能でカッコいい男です。それなのになぜポルコは自分のことを「役立たず」だと思っているのでしょうか?それはポルコが

「役に立つ」人間であることを拒否している

からです。

 

 『紅の豚』は世界恐慌の起こった1929年頃のお話です。不景気のただ中でみな不安から何かにすがりたくなっており、台頭してきたファシズムが国家のために生きるべきだという「正しい教え」を広めている、そういう時代です。「国家のために生きる」とは農業で食料を生産することや商工業で国を経済的に豊かにすること、あるいは植民地獲得戦争に兵隊として参加すること、または文化・芸術で国の威信を高めることなどですが、これらの仕事に従事して国家の役に立つことこそ人としての正しいあり方なのだと政府は喧伝していました。ポルコの仕事は賞金稼ぎのため、上のどれにも当てはまりません。空賊と戦うことは面白い見世物で「文化・芸術」に当てはまりそうですが、ポルコは別に国家の威信を高めるために戦っているわけではありませんから該当しません。第一次世界大戦に従軍した英雄であり今も賞金稼ぎとして名を売っているポルコに対してイタリア政府としては国家に協力してほしいと思います。しかしポルコはそれに応じません。そのためポルコはお尋ね者になってしまい、フェラーリン少佐いわく「反国家非協力罪、密出入国、退廃思想、ハレンチで怠惰なブタでいる罪、猥褻物陳列」で逮捕状が出され秘密警察に追われることになります。「気を付けろ、奴らはブタを裁判にかける気はないぞ」とのことなので、捕まったら拷問を受けて殺されてしまうのでしょう。

 

 「そんなに危険な目に遇うくらいなら国家に協力すればよいのに…」と普通なら考えますが、ポルコには出来ないわけがあります。第一次世界大戦最後の夏、25歳前後のポルコは部隊で偵察飛行中に敵と遭遇し戦闘になります。戦闘機はどんどん撃墜され大勢の兵が死に、ポルコも三機に追われて必死で逃げ回り死の恐怖を味わいます。なんとか生き残ったポルコでしたが、その戦闘で共に従軍した友人メルリーニを失うことになります。メルリーニは戦闘の二日前にジーナと結婚したばかりでした。戦争に参加したって誰も幸せにならないことを悟ったポルコは国家の広めている「正しい教え」なんか信じませんし、戦争を遂行する国家に協力することなんて出来ません。ですから「役立たず」としてお尋ね者になったとしても、国家の定義する「役に立つ」人間であることを拒否するのです。

 

 

「正しい教え」に関する難しい話

※ここは『紅の豚』本編には直接は関係のない少し面倒な話になります。難しい話が嫌な方は飛ばして下さい。

 

 『紅の豚』の世界では国家という「正しい教え」がありましたが、それは物語の中や遠い過去にだけ存在するものではありません。映画が公開されたのは1992年、旧ソビエト連邦が崩壊した後であり日本のバブル景気が弾けている時期でしたが、これらは「正しい教え」が終わってしまったことに対応して起こった出来事です。

 

 それまでヨーロッパ世界では社会主義を掲げる旧ソビエト連邦率いる東欧と資本主義を掲げるアメリカ率いる西欧が対立する冷戦が起きていました。社会主義

「国家が経済活動を管理し、財産は国民で共有し富は平等に分配すべきだ」

という考え方のことで、資本主義は

「個人が自由に経済活動を行い、得た富の私有を認めるべきだ」

という考え方のことです。

 社会主義国家は、国家が農工商業を管理して働く人に平等に給料を払うという経済体制でした。これは人びとが飢えに苦しむような貧乏な時代にはある程度うまくいきました。しかしだんだん東欧が豊かになってくると、もっと豊かになることを目指せない経済のもと人びとの頑張る気が起きなくなります。そしてその生産性の低さから経済が破綻して、東欧諸国は次々に社会主義を放棄、ソビエト連邦も1991年に消滅し構成国がそれぞれ独立しました。

 東欧に対抗する西欧は資本主義によって経済を発展させてきました。個人が財産を増やせることは大変魅力的だったため経済は盛んになり、西欧と同じく資本主義の日本でも国民総中流と言われるほど国民がお金持ちとなりました。日本はヨーロッパではありませんが、西欧諸国と貿易して当時は世界経済の覇権を取っていて、資本主義世界の裏のボスでした。しかしお金余りから投機が加熱、バブル景気が起きて弾け、経済に深刻な傷を負いました。日本人は「儲けたお金をどう使うか」ということを考えられず、儲けたお金を使って「もっと儲ける」という金儲けの自己目的化に陥りました。しかし日本経済に拡大の余地はもうなくなっていて、無理に株や土地に投機し、経済に破綻を招いたのです。資本主義世界の裏の覇者日本もソビエト連邦同様に倒れてしまったのです。

 

 冷戦は政治・経済の考え方の違いによって起きていた対立ですが、社会主義・資本主義の「◯◯主義」とは「正しい教え」のことです。「正しい教え」を信奉していると、教えの通りに行動すればよいだけなので非常に楽です。自分で感じ・考え・行動するという人間にとって当たり前の義務は、当たり前だけどけっこう難しく、達成が困難なものなので、やらなくてすむものならばやりたくないものです。しかしポルコもソビエト連邦も日本も1992年の時点で「正しい教え」には無理があることがわかってしまいました。こうなったらもう我々は「自分で感じ・考え・行動する」という人間にとって当たり前の義務を履行するしかありません。

 

 ポルコがブタであるのは、正しく人間たらんとして一般人の信奉する「正しい教え」を拒否したからなのです。人が奉じるべき教えを信じなかったらその人は人間以下の扱いを受けます。それが「役立たず」の「ブタ野郎」で、ポルコはブタであることによって「自分で感じ・考え・行動する」ことを選んだのです。

 

 

ポルコの歩む道

 「正しい教え」の説く「役に立つ」人間であることを拒否したポルコですが、そんなポルコは「思い出」を大事にして生きようとしました。

 

 ポルコには友だちと一緒に空を飛んだ思い出があります。劇中にはジーナと若い男4人で撮った写真が出てきます。この写真のポルコの顔は黒ペンで消されてしまっていて、更に残りの3人の男は全員死んでしまっています。昔を知っているのはもうポルコとジーナだけです。老人ならばそれも当たり前で諦めも付くでしょうが、ポルコの年齢は36歳くらいです。その若さで友人のほとんどに死なれてしまうとは悲惨です。

 そんなポルコがお尋ね者になってまで自由に空を飛ぼうとするのは不思議ですが、ポルコは思い出を忘れないために飛んでいるのです。かつて友だちと一緒にアドリア海を飛んで「気持ちいいね、キレイだね」と言い合った、その事こそが生きる上で大事なことなんだと言いたいのです。そしてもし機会があったら「気持ちいいね、キレイだね」と言い合える人にまた新たに出会えたら、若い娘フィオを前にして人間に戻ってしまうポルコはそんなステキな未来を夢見ていたかもしれません。

 

 「正しい教え」ではなく「ステキな思い出」を生きる指針にする、これがポルコの生き方です。「正しい教え」が終わってしまった現代に生きる私たちもポルコの生き方を参考にしたいものです。

 

 

 

 今回はここまでです。皆さんの抱いた「『紅の豚』はなぜブタになったのか?」という疑問が解消されていたら嬉しく存じます。

 ありのまま人として生きることはなかなか困難なもので、時代や状況からブタとして生きるしかなくなってしまうこともあります。私や皆さんがブタになってしまうかもしれませんし、もしかしたら既にブタになっている方がいらっしゃるかもしれません。でも心配はいりません。例えブタなってしまったとしても、人知れず胸の内に赤い火を灯し続ける「紅の豚」として生きる道をポルコがもう示してくれているのですから。

 

それでは。

『シン・ゴジラ』を観て抱えたモヤモヤ

大雨が続くイヤな時期になりました。皆様いかがお過ごしでしょうか?

 

 今回は映画『シン・ゴジラ』についてのブログです。この映画の公開は6年も前のことであり、皆さんはそんな前の映画について今さら語ることなどないだろうと思われるかもしれませんが、私が映画公開当時には言葉にできなかったモヤモヤが最近ようやく言葉になってきましたので、ここにお書きしたいと存じます。

私がお話ししたいことは

「なぜ長谷川博己ゴジラが現れたと確信できたのか?」

と、

「観客はゴジラが出てくると分かっているけれど、ゴジラが出てくるとは思っていない」

です。

 

なぜ長谷川博己ゴジラが現れたと確信できたのか?

 『シン・ゴジラ』をご覧になっていない方、観たけれどもう忘れてしまった方のために、まずは映画の概要をご説明します。

 

 『シン・ゴジラ』は2016年に公開された東宝の特撮怪獣映画で、日本に突如現れた怪獣「ゴジラ」と戦う人々を描いた作品です。監督は樋口真嗣氏、脚本担当で総監督を務めたのが『新世紀ヱヴァンゲリヲン』シリーズで知られる庵野秀明氏です。「ゴジラ」は日本の代表的な怪獣映画シリーズで、街の模型を着ぐるみの怪獣が壊す様を、まるで本物の街を本物の怪獣が破壊しているかのように撮影した映像により人気を博してきました。毎回ゴジラと闘う人々のドラマが描かれ、それは科学者だったり、自衛隊員だったり、巻き込まれてしまった市井の人々だったりと様々ですが、今回ドラマの中心となるのは政治家と官僚で、政治家と官僚たちが首相官邸で対応に追われる様子を全面的に押し出していることが『シン・ゴジラ』の特徴と言えます。出演は長谷川博己竹野内豊石原さとみ市川実日子高良健吾高橋一生津田寛治余貴美子平泉成大杉漣などで、端役を含めて300人以上の俳優が出演している大作です。

 

 

 さて、私はこの映画を公開当時映画館で観たのですが、映画の冒頭で「なぜ長谷川博己ゴジラが現れたと確信できたのか?」という疑問を抱きました。冒頭は以下のような場面です。

 

 東京湾アクアラインで海底トンネルの崩落が起き、日本政府はこれを海底から熱水が噴出して起きた事故だと判断します。インターネット上の目撃情報や投稿動画から巨大生物出現の情報を得た衆議院議員内閣官房副長官矢口蘭堂(やぐちらんどう)は、巨大生物が出現したと考えて対処すべきだと進言しますが、閣僚からは笑われて相手にされません。しかしテレビの報道で巨大生物の尻尾の映像が流れると政府は巨大生物の存在を認め、その対処へと動き出します。

 怪獣の存在を訴える人がお偉いさんに鼻で笑われる、という怪獣映画ではお馴染みの場面ですね。

 

 矢口蘭堂を演じるのは当時40歳手前の中堅俳優長谷川博己(はせがわひろき)で、私は役名なんかいちいち覚えられないので「矢口蘭堂」を「長谷川博己」と思って観ていましたが、この長谷川博己、なんだかおかしいのです。いつもの私なら怪獣の存在を訴える人に感情移入してしまうので、「何を、馬鹿馬鹿しい!」と笑い飛ばすお偉いさんに対して「ほんとだよぉ!怪獣は本当にいるんだってばぁ!」と訴えたくなります。しかし今回私はお偉いさんの方に感謝移入して「怪獣なんているわけないじゃん、本当に馬鹿馬鹿しいよなー」と思ってしまいました。長谷川博己側ではなくお偉いさん側に立ってしまい、長谷川博己側には絶対に立ちたくないとまで思いました。私にここまで思わせてしまった長谷川博己はとてもヘンです。

 

 

 長谷川博己(メンドクサイので役名ではなく俳優名でお書きします)はインターネット上の目撃情報や投稿動画から巨大生物が現れたと確信しましたが、これが問題です。一般的にインターネットのSNS上に投稿された情報は、信頼性が低いとされています。SNSには匿名で情報を発信する人や顔と名前をさらしているけど何者かよく分からない人などが多数いて、発信された情報が発信する人の誠実さを測ることができないため信用できないからです。大体「巨大生物が現れた」なんてこと、知り合いが顔と名前をさらして目の前で話しても信用できませんから、匿名や知らない他人ならなおさらですね。また、動画投稿サイトに巨大生物の動画が上がっていたとしても、今は映像加工の技術水準が高く、巨大生物の映像が本物かどうか判別することは不可能でしょう。

 

 それなのに長谷川博己はそれらを信じて巨大生物がいると思い、大臣や総理に向かって巨大生物が存在すると言ってしまいました。これは40前の大人がやることではありません。だから私は「この人はなんなんだ?」と思って、映画が終わっても6年間胸にモヤモヤを抱え続けてしまったのです。

 

観客はゴジラが出てくると分かっているけれど、ゴジラが出てくるとは思っていない

 ここまでの私の話を読んで、「ええ?『ゴジラ』にゴジラが出てくるのは当たり前でしょう?情報の信用度を云々したって、どうせゴジラが出てくるのだからいいじゃないか」こう思った方はいらっしゃるでしょうか?きっといらっしゃると思います。そこで

「観客はゴジラが出てくると分かっているけれど、ゴジラが出てくるとは思っていない」ことについてお話しします。

 

 

 『ゴジラ』を観に行く観客は、映画の中に当然ゴジラが出てくるものと分かっていますし、実際に期待どおりゴジラは出てきます。『ゴジラ』という題名を持った映画なら必ずゴジラが出てくるに決まっています。私もそこに異存はありません。

 

 もしゴジラが出てこない『ゴジラ』という題名の映画が公開されたらどうなるか、ちょっと考えてみましょうか。

 

 例えば、街が破壊されて人々が「大怪獣ゴジラ」が現れたと大騒ぎをしている、しかし実は街を破壊したのは地震や台風や土砂崩れなどの自然災害で、ゴジラは人々の恐れが生み出した幻影であった、なんていう内容の映画があったとします。題名が『ゴジラ』だから観客はいつもの大衆娯楽映画だと思って観に行きますが、その映画にゴジラは一切出てきません。映画が終わって「なんだったんだ?」と思って家に帰りテレビを付けたら、ちょうどその『ゴジラ』の監督がインタビューを受けていて、「ボクは人々の心の中にある恐怖心をゴジラとして描いたんだ。もっとも、君たちには理解できないかもしれないけどね」などと前衛芸術家みたいなことを言ってカッコ付けている。それを見た観客は激怒、「バカヤロー!オレはゴジラを見に行ったんだ!ゴジラがガオー、ドカーンってやるのが見たかったんだぞ!よくも騙したな!金返せっ!」東宝には苦情が殺到し映画は公開中止、社長が謝罪会見を開く羽目になるのでした。

 

 こういうことになっては大変ですから、題名が『ゴジラ』の映画には当然ゴジラが出てきます。だから観客はゴジラ映画にゴジラが出てくると分かっています。しかしこれは映画の外側での話です。観客が映画の世界に入って楽しむためには、単にゴジラを出せばよいというものではありません。意外かもしれませんが、観客は、自分はゴジラが現れることを分かってはいながら

「映画内の人物は怪獣が現れるなんて思っていないはずだ」

と考えています。

 

 非日常を楽しむために映画を観に行く観客が映画の登場人物には常識的な考え方を求めているとは、一見するとおかしなことかもしれません。ですが、よく考えてみたらおかしくともなんともなく、当然のことです。

 

 観客が映画を観るときには映画内の登場人物に共感して、「自分と似たような人が活躍している」ことを楽しみます。「自分と似たような人」ではなく「自分の周りにいる人に似たような人」でもよいですし、「どこにでもいそうな普通の人」でもよいです。映画の登場人物には観客が生活している日常とつながっていてもらわないと観客は共感ができないため、とにかく「実際にいそうな人」が求められます。「自分とは全然関係ない人」が活躍する映画を観たって共感ができず、ちっとも面白くありません。だから観客は、映画の登場人物には怪獣が存在しないような常識的世界観を持っていて欲しがるのです。これが「(現実の)観客はゴジラが出てくると分かっているけれど、(登場人物に共感して一体化している観客は)ゴジラが出てくるとは思っていない」という二重性を生み出しているのです。

 

 今回長谷川博己はインターネット上の目撃情報や投稿動画から巨大生物が現れたと確信しましたが、この現実でそんなもの信じる人はいません。子供は信じるかもしれませんが、40手前の大人が信じたとしたら、その人はどうかしています。観客は主人公である長谷川博己に共感できず、置いてけぼりを食ったまま話が進んでしまいます。

 

気の弱そうなおじさんが共感を生む

 ではどうすれば観客が長谷川博己に共感できたのかと言うと、実際の破壊の跡や目撃者の必死の訴えなんかがあれば、きっと共感できたと思います。

 

 例えば、長谷川博己が破壊された東京湾アクアラインの近くで長さ10m幅7m5本指の巨大な足跡を見つけて驚く、という場面があれば、観客は「これを見たから長谷川博己は巨大生物の出現を確信したのだな」と思えます。実物の証拠を見たらいかなる常識人でも巨大生物の存在を信じざるを得ないからです。

 

 また、目撃者の証言があれば、観客は「そんな馬鹿な、でももしかしたら……」という形で巨大生物の存在を信じる方に傾きます。目撃者の証言は実物の証拠ではないのでやや弱いですが、それでも必死に訴える人がいたら信じそうになりますし、巨大生物の存在を信じるところまではいかなくても、何かとんでもないことが起きたということは分かります。

 

 もちろん、どんな人が証言するかによります。見るからにバカっぽいギャル男がヘラヘラ証言しても誰も信じません。「いやっ、マジやべーんすよ!なんか、スゲーでけーヤツがいて、ブッ壊したんすよ!いやっ、もう、マジでスゲーんすよ!」などと言われても、観客は「夢や妄想と現実の区別がつかない子供なのかな?」と思うか「ひどい災害が起きているのにふざけたことを言う不謹慎なヤツだ」と不快になるかのどちらかでしょう。

 

 こういうときの目撃者は気の弱そうなおじさんがよいでしょう。おじさんは現実を生きていて普通はおかしなことを言いませんから、信用度がギャル男より高いです。

 そして「気の弱そうな」ところが重要です。普通の人は怪獣を見たとしても、それを他人に話しはしません。まず怪獣を見た自分の目が信じられずに幻覚を見たものと考えるでしょう。仮に自分の目を信じて怪獣の存在を確信したとしても、「怪獣を見た」と言ったところで信用されずバカにされるだけですから、他人に話すことはないでしょう。普通の人は仕方なく怪獣のことは自分の腹の中にしまっておきます。しかし気の弱いおじさんは怪獣を見た恐怖に自分1人では耐えられず、怪獣を見たことを他人に話してしまいます。例えば、こんな感じです。

 

 

山田(収容された病院で皆が押し黙っている中、1人だけ頭を抱えてブルブル震えている)

長谷川博己(歩み寄って)「……あの、失礼ですが、少しお話よろしいですか?」

山「……!?えっ!?」(長谷川の方を向く)

長(一礼して)「私、今回のトンネル事故調査委員をしております、矢口と申します。事故当時山田さんはトンネル内にいらっしゃったそうですね?今皆さんにお話を伺っているところなのですが、山田さんがご存知のことをお聞かせ願えませんか?」

山(長谷川と秘書たちを確認してから頭を振り)「知らねぇ!なんも知らねぇ!」(下を向いてまた震え出す)

長「……おい、ちょっと外してくれないか?(去っていく秘書たちを尻目に、声をひそめて)山田さん、どんなことでもかまいません、何か知っていることがあるのなら、私に話してくれませんか?」

山「!?……(上目遣いで長谷川を見て)…知らねえ……なんも、知らねえんだ……」

長(黙って山田を見つめる)

山「……あ、あのよう…………(周囲を気にして)見たんだ…」

長「見た?何を見たんです?」

山「…その……かいじゅう……怪獣だ」

長「?カイジュウ?…怪獣ですか?」

山「うん!」

長「……本当に?」

お「ほ、本当だ!本当に見たんだ!信じてくれ!……デカくて黒い足が壁を蹴破って入ってきて、オレビックリしてブレーキ踏んだんだ…ほんとにでっかくて、ゴツいんだ、本当だ、信じてくれよぉ!」

長「それから、どうなりました?」

山「それから……あんまりビックリしたもんだから、オレ固まっちまって…そしたらすぐに水がバーっと入ってきて、飲み込まれて、わけがわからなくなっちまって……」(また震えて頭を抱える)

長(黙って何かを考える)

 

 

 こんな場面があれば長谷川博己が「巨大生物が出たと考えるべきだ」と総理大臣に進言したとしても、観客はさほどヘンには思わないでしょう。観客とはこのように「(現実の)観客はゴジラが出てくると分かっているけれど、(登場人物に共感して一体化している観客は)ゴジラが出てくるとは思っていない」という面倒なもので、制作者はそこを考えて映画を作らないと、6年後にネチネチ言い出す男が出現してしまうのです。私は未だに「長谷川博己はたいした根拠もなく発言しただけなのにそれがたまたま当たっていたからといってでかいツラをするいけ好かない野郎」だと思っていますよ。

 

 

 今回はここまでです。私の6年間のモヤモヤを晴らすだけの記事にお付き合いくださりありがとうございました。

【最終回】詩的表現が『わかる』ー強く美しい人ー

暑さが一段落し涼しい風も吹き始めたこの頃ですが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

今回は「詩的表現が『わかる』」の最終回です。8ヶ月かかった連載も今回でようやく終わります。やっとです。皆さんに申し上げるべきこともいろいろとございますが、あいさつは後にして、早速内容に入っていきたいと思います。



 私の更新速度が遅かったせいで、そろそろ皆さんは『カエルの王さま』の筋を忘れてしまったことと存じますから、またまた粗筋をお書きしたいと思います。



 昔あるところに1人の王さまが住んでいました。王さまにはお姫さまがたくさんいましたが、末のお姫さまはとても美しい方でした。
 このお姫さまはお城近くの森でまりつき遊びをすることを好んでいましたが、あるときこのまりが泉の中に落っこちてしまいました。お気に入りのまりを失ってお姫様がしくしく泣いているとカエルが現れ、まりを取ってきてくれると言いました。お姫さまはカエルのお友達になること、一緒の食卓で同じ食器で食事をすること、一緒の床で寝ることを条件にカエルにまりを取って来てもらいました。ところがお姫さまは約束を破り、カエルを置いて帰ってしまいました。
 明くる日、カエルはお城まで追いかけてきてお姫さまに約束を果たすよう言いました。お姫さまは嫌がりましたが、事情を聞いた王さまはお姫さまに約束を守るよう言いつけました。お姫さまは仕方なくガマンしてカエルと一緒に食事をしましたが、一緒に寝るときになってお姫様はガマンしきれなくなり、カエルを壁に叩きつけました。するとカエルは人間の王子さまになりました。実はカエルは悪い魔女の魔法にかけられていた王子さまだったのでした。二人は結婚して王子さまの国で幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。

(参考図書:「完訳 グリム童話集1」金田鬼一訳 岩波文庫 1979年改訂)



 私は『カエルの王さま』を現実に引き付けて解釈するという方針で、この物語を読み解き始めました。するとここに登場する「カエル」は「カエルのような風貌の醜い男」ということになり、私はこの男が醜いと言って悪口を書き立てました。ところが私の悪口に皆さんが付いてこられなくなったため、途中で「美醜の問題」について長々と語り、皆さんにある程度美醜の判断力がついた時点で、再び『カエルの王さま』に戻ったのでした。私は「カエルのような風貌の醜い男」の醜さは男の心のありようがそのまま姿に反映された結果だと言い、醜いくせに美しいお姫さまを口説こうとする男を非難しました。そしてこの男の手助けをする王さまのことも「判断力のない人」だとバカにしました。今は『カエルの王さま』の最後の場面の謎である「なぜ王子さまにかけられていた魔法が解けたのか」という問題についてお話しするところでした。


思い出していただけたでしょうか?




 では、なぜ魔法が解けたのかということについてお話ししていきます。王子さまはお姫さまにビンタをされて魔法が解けたわけですが、これは「強く美しい人」にぶたれて嬉しくなっちゃったからです。
 
 「ぶたれて嬉しくなっちゃった」なんて書くと、皆さんは「王子さまはマゾヒストなのか?」とか「ヘンタイなのか?」とかお思いになるかと存じますが、その通りです。王子さまはマゾヒストであり、マゾヒストは一般的には特殊性癖とされていますから、ヘンタイでしょう。そしてこのヘンタイは「立派であろうとして失敗したヘンタイ」なのです。
 


 話が急で皆さんはさぞお困りのことと存じます。「王子さまはマゾヒストでヘンタイです」といきなり言われてもよくわからないでしょうし、そこに「立派であろうとして失敗した」なんて説明がくっついていたら混乱するでしょう。皆さんはそもそもマゾヒストやSMプレイのことなんかよくわからないでしょうから、私の言っていることが何一つわからなくて迷子の気分だと存じます。

 そこで一旦横道に逸れて「そもそもSMとはなんぞや?」ということをお話ししたいと思います。『カエルの王さま』の本筋から外れた話になりますが、これはお話ししておかなくてはならないことなので、何とぞ御容赦ください。

 
 


 
 SMプレイは一般的には「S(サディスト)がM(マゾヒスト)をいたぶる性的行為」です。S(サディスト)は人をいたぶることが好きな者、M(マゾヒスト)は人からいたぶられることが好きな者です。SはMに暴力を振るったり暴言を吐いたりして喜び、MはSに暴力を振るわれたり暴言を吐かれたりして喜びます。
 
 どちらが男でどちらが女か、異性同士か同性同士か、素人同士でするのか玄人が加わるのか、どこでどういう風にやるのかなど、その形態は様々ですが、「女王様がブタ野郎をいたぶる」という設定が一般的には知られているでしょう。女王様が首輪に繋がれた男に対して「このブタが!」と罵ってムチを振るい、ヒールで踏んだり溶けたロウを背中に垂らしたりする、男はいたぶられるたびに「はい!私は醜いブタですぅ!」とか「ごめんなさい!」とか悲鳴を上げる、しかし全然嫌がっていないし喜んでいる、マンガや映画やテレビではこのような状況が描写されることがあるので、皆さんもなんとなくご存知ではないでしょうか?

 
 皆さんはSMをご存知ですが「知っている」だけで、当人たちがどういう気持ちでやっているのかという内実は「わからない」かと存じます。まず、人をいたぶって喜んだり人にいたぶられて喜んだりすることは通常の頭では理解不能です。そして「女王様」だとか「ブタ野郎」だとかいう日常とはかけ離れた演劇的設定があると、その世界には簡単には入っていけません。だからSMはわかりにくいのですが、SMを「性的行為」と捉えることからこのわかりにくさは生まれています。一般的にはこんなことは言われませんが、SMは実は「性的行為」ではなく「教育」であり、そういう目で見るとよく分かるものなのです。
 
 
 
 SMが「教育」であるとはどういうことか、そのことを「女王様がブタ野郎をいたぶる」という設定に絞ってご説明いたします。

 まず「ブタ野郎」ですが、「野郎」は男のことです。「ブタ」は残飯をあさってブクブク太っているから醜い生き物の代表で、そうすると「ブタ野郎」は「醜い男」のことになります。ここで注意が必要なのは、ブタは太っているから醜いのではなく、卑しいから醜いのだということです。ブタは雑食で、何でも食べます。だから昔は残飯や屑野菜などの人が食べないような「いらないもの」を与えられて飼育されました。粗末な食事を「ブタのエサ」といいますが、「いらないもの」から成る粗末な食事をフガフガ食べてブヒブヒ太っていくブタの有り様は、気高さとは無縁の卑しさで満ちています。だからブタの醜さとは卑しさのことです。「ブタ野郎」は「卑しい男」といった方がよいかもしれません。
 
 
 さて、この卑しいブタ野郎ですが、動物のブタとは違う点があります。それは「誇りを持ちたい」と思っている点です。
 
 このブタ野郎はなんとなく「自分はダメなやつだ」と気付いています。何について「ダメ」なのかは人によりますが、「男であること」や「大人であること」や「父親であること」や「仕事人であること」など、確固とした立場を得ることに失敗して、信念がなくフラフラしているがゆえに「ダメ」なのです。これは苦しい状態ですから、ブタ野郎はこの「ダメ」な自分を何とかして、誇りをもって生きられるようになりたいと考えています。

 「ダメ」な自分を直すにはまず心の底から「自分はダメだ、イヤだ、何とかしたい」と思わなくてはなりません。そうしないと改善する方向に動けません。しかしかわいそうに、ブタ野郎は「なんとなく」しか「自分はダメなやつだ」と思っていません。それというのも、ブタ野郎を「ダメだ」と指摘してくれる人や叱ってくれる人が周囲にいないからです。心の底から「ダメ」だと自覚したいのにそれができない、これでは「ダメ」な状態から抜け出せません。困ったブタ野郎は自分を「ダメだ」と叱ってくれる女王様を求めてSM倶楽部に足を運びます。「ブタ野郎」は「誇りを持ちたい」と思うまっとうな人間なのです。

 
 それでは次に「女王様」です。「女王様」は「王女様」や「お妃様」とは違います。「王女様」は「王様の娘」で「お妃様」は「王様の妻」ですが、「女王様」は「女の王様」です。この違いは何を示すのかというと、女王様は「強さ」と「美しさ」を兼ね備えた特殊な存在だということです。
 
 王宮における女たちは美しい存在です。化粧・服装・言葉遣い・立ち居振舞いを学び、実践し、美しくあることに大変な気を遣います。女たちは現実社会からは遠ざけられていますから、現実において何事もなし得ません。しかしだからこそ理想の美しさを体現することに心血を注ぎ、男たちに対抗しうる力を付けています。それに対して男たちは社会的存在です。現実社会の政治を司るのが男で、その頂点に立つのが王様です。王様は現実社会で人々を統率する役割ですから、ナヨナヨしていては務まりません。優れた知力・体力・気力を持つことが理想とされる王は、したがって強さの象徴です。
 
 女王様は女の持つ美しさと王様の持つ強さを兼ね備えた、大変優れた人間なのです。
 
 
 
 ここでSMの根本的な謎である、なぜブタ野郎は女王様にいたぶられたがるのか、という話ですが、その理由は、「強く美しい人に叱られたい」からです。
 
 ブタ野郎は「自分はダメだ」ということをはっきりさせたくて、自分を叱ってくれる人を求めています。このブタ野郎は人の子なので両親がいますが、両親では叱る力が足りませんでした。お父さんは立派で強い人でしたが、美しくありませんでした。「仕事はできるけどダサい」わけです。ブタ野郎はお父さんの「仕事ができる」という部分は尊敬していましたが、ダサいところはイヤでした。だからお父さんに叱られてもこたえません。「あんたみたいなブスに何か言われる筋合いなんてないわ!」というわけです。またお母さんは美しい人でしたが、現実を生きていくにはあまりにナヨナヨしていました。「美しく着飾っているけれどマヌケ」です。ブタ野郎はお母さんの美しいところは尊敬していましたが、マヌケなところを見て頼りなく感じていました。だからお母さんに叱られてもこたえません。「てめえみてえな世間知らずが偉そうに指図するんじゃねぇ!」です。

 ブタ野郎にとってお父さんとお母さんは共に不十分です。だからどちらの言うことも聞きたくありません。皆さんは「そんなムチャな」とお思いになるかと存じます。一般的に、完全な人間というものは存在しません。人は足りない部分を補いあって生きるものであり、子育ても同様です。しかるに、どうやらブタ野郎の両親はあまり仲がよくないようで、互いの足りない部分を補いあって子育て出来なかったようです。また、親戚やご近所さんの協力を仰ぐことも出来ず、夫婦の不備を補う人が周囲にいなかったのでしょう。こうして不満をためた息子は「完全な人間」を求めるというムチャを犯すようになってしまいました。ブタ野郎は自分で自分を律することができないから他人に叱ってもらうくせに、叱ってくれる他人にうるさい注文を付けるというワガママなヤツなのです。

 存在するはずがない完全な人間を求めるなどというムチャは、通常ならば挫折します。当然です。存在しないものは見つかるはずがないのですから。しかしブタ野郎は完全な人間を見つけてしまいました。それが女王様です。女王様は強さと美しさを兼ね備えた存在です。強さと美しさをどちらも持っているということはブタ野郎にとって「完全」ということであり、唯一ブタ野郎を叱る資格を持った人間なのです。したがってブタ野郎は女王様に叱られるのなら納得します。いいえ、納得するどころか泣いて喜んで叱られに行きます。そして自分のダメさ加減を自覚し、ダメな自分を克服して立派な男になろうとします。

 しかしブタ野郎は長い時間をかけてブタ野郎になりました。そのためちょっとやそっとでは人間に戻れません。だから女王様にぶたれているうちは「立派であろうとして失敗したヘンタイ」状態です。たくさんぶたれて、踏まれて、ムチ打たれて、罵られる経験を積んでようやくダメな自分を自覚出来るのです。一度転んだ人間は立ち上がるのに時間がかかりますが、これは仕方のない話で、そのように苦労して立ち上がるのが人間というものです。



 

 さて、SMプレイの説明はこの辺にして、『カエルの王さま』に戻りたいと思います。王子さまは「お姫さまにぶたれて嬉しくなっちゃった」から魔法が解けたというお話でしたが、それは王子さまがブタ野郎と同じくマゾヒストだったからですね。

 王子さまは自分のダメさ加減を自覚したくて、自分を叱ってくれる人を求めていました。自分の両親(他国の王様とお妃様)はその役目を果たすには力不足だったため、家出して他所の国に行って女王様を探していました。そしてお姫さまに出会ったのです。
 
 お姫さまは宮廷の女の子ですから、当然美しく着飾り、立ち居振舞い・言葉遣いも美しいです。そして「カエルのような風貌の醜い男」にかまってあげるほどの懐の広さがあり、醜いものは醜いと断じる厳しさを持っています。懐の広さと厳しさは「強さ」です。そのため王子さまはお姫さまを女王様と同じ「完全な人間」だと考え、お姫さまに付きまといます。そして王子さまは狙い通り、お姫さまにムチ打たれ、踏みつけられ、罵られて、自分のダメさを自覚し、人間に戻ることが出来たのです。これが、王子さまにかけられた魔法が解けた理由です。


 
 「ええっ、王子さまがお姫さまにいたぶられている場面なんかあったっけ?」と戸惑う方がいらっしゃると思いますので、王子さまがお姫さまにいたぶられている場面を振り返りたいと思います。
 
 まずはお話が始まる場面です。お姫さまは泉に金のまりを落としてしまい、カエルのような風貌の醜い男=王子さまに金のまりを取ってきてもらいます。その際お姫さまは王子さまと「おともだちになること、一緒に食事をすること、一緒に寝ること」を約束しましたが、約束を破って帰ってしまいます。これが1つ目のムチです。醜いくせに美しいお姫さまと対等に交渉しようとした身の程知らずの王子さまに対して、お姫さまは手厳しい一撃を加えたのですね。嬉しくなった王子さまは「ああ、あの人ならダメなボクをもっと叱ってくれるに違いない」と考えてお姫さまを追いかけます。
 
 次に、カエルのような風貌の醜い男=王子さまがお姫さまをお城まで追いかけてきた場面です。ここで王子さまはお姫さまに約束を果たすように迫りますが、これはただのポーズです。王子さまは「約束を果たせ!」と口では言うものの、「こんなダメなボクの言うことを聞いて欲しくない」と思っていて、拒まれることを期待していました。しかしここで邪魔が入ります。王さまです。王さまはお姫さまに「王子さまとの約束を果たせ」などと余計なことを命じます。お姫さまも王さまには逆らえないので、しぶしぶ王子さまと食事をします。王さまの思わぬ介入でお姫さまが約束を守るハメになったので、王子さまはガッカリです。「ああ、姫よ、あなたはその程度で折れてしまうような人なのか…」しかししかし、お姫さまの心は折れていませんでした。お姫さまは食事中ずっと「イヤだ!」という態度を見せ、王子さまに対して軽蔑の眼差しを向け続けていたのです。これが第2のムチです。期待していた状況とは違うものの、困難に見舞われてもなお自分を見失わずに立派な態度を貫くお姫さまを見て、王子さまは大喜びです。「ああ、もっと蔑んでぇ!ゴミを見るような目でボクを見てぇ!あなたに見下されたい!」これで王子さまはお姫さまを信頼するようになりました。あとは思いっきり叱ってもらうだけです。

 最後にお姫さまと王子さまは寝室に行くことになります。お姫さまは「一緒に寝る」という約束を守るよう王さまから命じられたため、イヤイヤ寝室に王子さまを連れていきます。もちろん、イヤイヤ連れていったので、お姫さまは王子さまを自らベッドに招くなんてことはしません。自分だけベッドに入って、王子さまは部屋の隅に立たせてそのままです。つまりは放置プレイで、これが第3のムチです。寝室で二人きりになって今まさに男女の関係にならんというところでお預けを食らった生殺し状態の王子さまは大興奮です。「さすがはお姫さま、王さまに命令されたって形だけしか従わない!ダメなボクなんかを絶対に受け入れないんだ!ああ、気高い!」

 興奮した王子さまは欲張って、もっとお姫さまから叱られたがります。そのためにお姫さまを怒らせようと「王さまに言いつけるぞ」とお姫さまに言います。これは醜い。王子さまは自分に力がないくせに、王さまという権威を笠に着て言うことを聞かせようと威張ったのです。虎の威を借る狐ですね。王子さまの狙い通りお姫さまは激怒し、王子さまに思い切りビンタをします。これが第4のムチです。そのあまりの勢いに王子さまは壁に叩きつけられ、床に倒れ込んでしまいます。これは大変です。お姫様は約束を守りたくないがために暴力を使ってまで王子さまを拒んだのですから、これが王さまにバレたら罰を受けること必至です。ああ、どうしましょう。
 しかし、かえってこれが功を奏しました。罰を受けることを厭わず醜き者に対して怒りを爆発させたお姫さまを見て、王子さまは感銘を受けました。お姫さまの怒りは王子さまに「人はどんな困難な状況にあっても美しくあるべきだ」という強い想いを伝え、「その通りだ!」と共鳴した王子さまは「ボクはダメなんだ!このダメさを克服して美しくなるぞ!」と、とうとう自分が「ダメ」だということを自覚したのでした。


 
 以上が王子さまがカエルから人間に戻ることが出来た経緯です。御納得いただけたでしょうか?おそらく多くの方が「納得できるかバカヤロー!」と思っていらっしゃるかと存じます。私はあまり一般的ではない話ばかりしたため、話の内容が皆さまの頭にすんなりとは入っていかなかったことと存じます。少し時間をおいていただければ、少しずつ頭に入り、腹にも落ちてくることと思いますので、王子さまが人間に戻ることが出来た経緯はここまでにしたいと存じます。そしてこの「詩的表現が『わかる』」のブログも、書くべきことは全て書ききりましたので、ここで終わりにいたします。
 

 


 
 


 
 皆さま、令和四年のお正月からここまで私の話に長々とお付き合い下さり、誠にありがとうございました。このブログはもともと、詩的表現がわからない人に対して『カエルの王さま』における表現を解説するという触れ込みで始まりました。それがいつの間にか「美しいとはなんだ?」とか「中学生は横暴だ」とか「『ブサイク芸人』はいかに醜いか」とか「SMプレイとは教育だ」とか話題がコロコロ変わって、皆さんを困惑させる展開が続くものとなっていきました。更新の速度はだんだん遅くなり、文章もどんどん乱れていき、書く方も読む方も「本当に最後まで書ききれるのか?」と疑うほどの危うさを持ったブログでした。

 皆さんは私が場当たり的に思い付いたことを書き連ねているだけだとお思いかと存じますが、半分はその通りです。最初から最後まで計画通りに文章を書いたとしたら、書く方も読む方も成長しませんから、思い付いたことの中で必要そうなことは全部お書きしました。決して皆さんは無駄な手間をお取りになったわけではございませんから、その点はご安心ください。
 
 このブログに書いた半分は思い付きですが、もう半分は、『カエルの王さま』を現実的に解釈することで詩的表現を一般人でも理解出来るようにする、という想いで書き続けて参りました。「変身」や「魔法」などといった不思議なことが、決して昔の人の妄想ではなく、人の心のなかで起きていることの表現だと示そうという姿勢でおりました。その点については場当たり的ではなく、一貫した態度をとれたのではないかと思っております。

 
 

 繰り返しになりますが、ここまでお付き合い下さり、誠にありがとうございました。「詩的表現が『わかる』」が皆さんの今後の人生の後押しになったであろうことを願い、また、皆さんの今後の健闘を祈り、この一連のブログを終えたいと存じます。また、次のブログもお読み下されば幸いです。

では。