なべさんぽ

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人を弔うということ-蛭子能収の自嘲-

 東北や日本海側で大雪が降るほどの寒さがやって来ましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。暖かくして体調にお気をつけください。

 

 お盆でもございませんが、今回の話題は『人を弔うということ』です。映画『もののけ姫』について書くと言っておきながら急に別のブログを挟んで申し訳ございません。『もののけ姫』には人の死が多く描かれるため、以前書きかけてそのままにしていたこの記事を出すことにしました。どうかお付き合い下さい。

 

 

 

 人が亡くなると死者を『弔う』ことになりますが、亡くなった方を弔う気持ちがよくわからないという方はいらっしゃいませんか?

 

 私たちは葬式に出席したり墓参りに出かけたり法要を営んだりと人の死を弔う機会を様々に持ちますが、それらの行事に参加した際に居心地の悪さを感じる方がいらっしゃるかと思います。人が亡くなっても自分の中に悲しみがなく、亡くなった人に対して安らかに眠って欲しいという気持ちも沸いてこない、そのため自分がどうしてお弔いに参加しているのかよくわからないし、どんな態度でいればよいのかわからないから居心地が悪く感じる、そういう方です。

 

 人を弔えない方はわざわざその事を他人に話しませんから実態はよくわかりませんが、実はけっこう大勢いらっしゃると私は思います。そこで今回は「葬式で笑ってしまう」というタレントの蛭子能収(えびすよしかず)さんを取り上げて、死者を弔えない方の気持ちを探っていきたいと存じます。

 

結論から先に先に申し上げますと

「エビスさんは葬儀が馬鹿馬鹿しいから笑う」

「葬儀はお便所についていってあげることである」

です。

  • 蛭子能収とは何者か?
  • 蛭子能収はなぜ葬式で笑うのか?
  • 参列者の気持ち
  • 葬式の意義
  • 人の気持ちを無にする科学技術
  • 1人でお便所にいけない女子
  • お便所についていってあげよう

 

蛭子能収とは何者か?

 私が今回唐突に取り上げた蛭子能収(えびすよしかず)なる人物は、1947年に熊本で生まれた漫画家兼タレントです。1973年に漫画雑誌『ガロ』でデビューしたヘタウマ漫画の旗手でありますが、テレビ東京の『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』をはじめとしたバラエティ番組に多数出演しているため漫画家としてよりタレントとしての顔の方が知られているでしょう。穏やかな笑顔ととぼけた言動が視聴者に支持され、「エビスさん」と呼ばれる75歳の老人です。

 

 しかしこのエビスさん、その穏やかな表情とは裏腹に、あまりの自由奔放さと著しい倫理観・世間体の欠如により「芸能界一のクズ」と呼ばれるとんでもない人物なのです。以下エビスさんの驚くべき発言・行動を紹介したいと思います。

 

・1998年新宿歌舞伎町の雀荘で賭け麻雀をしていたところを逮捕される。警察官に対して「この人たちがやろうって言ってきたんです!」と一緒に麻雀をしていた人たちに責任を押し付けようとする。警察官に反省の弁を述べる際、「もう二度とギャンブルはしません、賭けてもいいです」との迷言を放つ。その後謝罪会見の際に「みんなやってるのになんで俺だけこんな目に遭うんだ」などと反省の色なし。タレント活動自粛謹慎中に海外カジノでギャンブルに興じる。

・テレビ出演での失言。募金を目的とした日本テレビの『24時間テレビ』に出演時に「オレ、金ないから募金しないよ」と宣言する。出演番組内で難民キャンプの食料配給場面を映像で見ている際に「全部腐ってたら面白いね」と言い放つ。バラエティ番組で大竹まことから激しくツッコミを受けた際、当時死亡交通事故を起こして謹慎があけたばかりだった大竹まことに対して「人殺しのクセに…」と呟く。

・実の息子を漫画内で丸焼きにする。息子の結婚式のスピーチで「今日の式は中の下ぐらいのレベルですね」と言って新婦親族を怒らせる。孫たちには興味がなく、名前を覚えていない。

・気に入らない人間は漫画の中で殺す。漫画家デビューする前、職場の気に入らない上司を漫画の中でたびたび殺していた。息子が幼い時、息子の友人が蛭子が楽しみにしていたプリンを食べてしまったため、漫画内で同じような状況を設定して息子の友人を殺す。「漫画の中だったら自由に人が殺せるんです」などと発言。

朝鮮半島軍事境界線を訪れる旅行ツアーに参加した際、真っ直ぐ歩けという支持を無視してジグザグ歩きをしニヤニヤしていて米軍兵士に殴られる。

・葬式で笑う。「人が死ぬと楽しい。ついおかしくて笑ってしまう」との発言。母親の葬式で兄と二人して笑う。1999年ビートたけしの母親の葬儀に参列した際、笑いを押さえるもニヤニヤしてしまい遺族を激怒させる。

 

 いかがでしょうか?エビスさんの発言・行動に皆さんは驚かれたことと思います。もっとも、上にお書きしたことはご本人がテレビや著書の中で直接語ったことばかりではなく、周囲の人間が面白おかしく尾ひれをつけて流した噂や未確認情報も多く混ざっていますから、全てが事実であるとは言い切れません。また、上述した発言・行動の中にも、表でそのまま発言してしまうから周囲の非難を受けるだけで、頭の中や胸の内に留めておくか内輪だけで話す分にはそれほど問題ない、というものもございます。ですから、上に書かれていることだけからエビスさんを非難することはできないでしょう。それでもエビスさんがとんでもない噂が多く流されてしまうほどの変わった人物であることはお分かりいただけたかと存じます。

 

 さて、注目したいのはエビスさんの「葬式で笑ってしまう」という発言です。人を弔う気持ちのわかる人は葬式では沈痛な面持ちで神妙な態度をとることでしょう。それができず、反対に笑ってしまうというエビスさんはきっと人を弔う気持ちがわからない人です。エビスさんの「葬式で笑ってしまう」という行動について考えることで、人の死を弔えない方の内実やその原因を知ることができるかもしれません。

 

 ここからは2019年刊行エビスさん71歳の時の著書『死にたくない』に書かれていることをもとにエビスさんの死者への態度を見ていきましょう。

 

 

蛭子能収はなぜ葬式で笑うのか?

 まずは、エビスさんは本当に葬式で笑うのか、ご本人の発言から確かめてみましょう。

 

「僕は葬式に行くと、葬儀の最中に必ず笑ってしまうのです。これはもうなぜなのか自分でもよくわかりません。子どものころからの悪いクセで、笑いだしたらもうどうしても止まらなくなるのです。」(『死にたくない』蛭子能収、2019年初版、角川新書、26ページ、11行目)

 

 葬式で笑いが止まらなくなるとご本人がおっしゃっていますから、噂はどうやら本当のようです。しかも意図せず笑ってしまい、「笑いだしたらもうどうしても止まらなくなる」らしいのです。エビスさんは葬式で笑う様子を以下のように述べています。

「(以前参列した葬式にて)隣席で『蛭子さんダメだよ、ダメだよ!』と、力の限り腕をつねられているのに、それでも笑いを止めることができず、やがて呼吸もどんどん苦しくなって、自分のほうがこの葬式で逝ってしまうのではないかということもあったほどです」(同上、27ページ、11行目)

 笑ってしまうのがクセであっても、止めることができたり、周りに気付かれないほどに押さえることができたりするのならば問題ありません。しかしエビスさんは自分でも止められないほどの激しい衝動によって笑ってしまい、他人の力を借りても止められないと言うのです。頑張って止めようとすると呼吸が苦しくなって死にそうになるとのことですから、よほどの衝動が突き上げてくるのでしょう。

 

 

 こうエビスさんの証言を見てくると、エビスさんがなぜ葬式でそれほどまでに激しく笑ってしまうのか、その理由が気になります。

 ご本人も気になるようで、ご自分で分析していらっしゃいます。

「たぶん、僕は建前で悲しいふりをするのが苦手で、なのにそこにいる全員が揃いも揃って見事に神妙な顔をしているのを目にすると、もう葬式全体が『喜劇』のように見えてくるんです。(中略)また、そんな儀式に参加して一生懸命まわりと同じように振舞おうとしている自分のことも、ひたすらおかしくなってしまう。」(同上、27ページ、15行目)

 エビスさんは他人の死をあまり悲しいとは思わない人なので、葬式に参加したら悲しいフリをすることになります。そして他の参列者も自分と同じように悲しくないはずだから、自分と同じく悲しいフリをしているはず、つまり「ウソをついている」のだと思っています。エビスさん自身はウソをつくのが苦手で悲しいフリをすることに苦労しているというのに、他の参列者たちは平気で悲しいフリをしている、それを見ると葬式が「死者を弔うという名目で悲しくもない人たちがわざわざやって来てウソをつくための集まり」というように見える、このことをエビスさんは「喜劇」と言っているのですね。たしかに、大勢の人たちが死者を囲んでわざわざウソをつきあう集まりがあったとしたら「こいつら、なにやってるんだよ?」と馬鹿馬鹿しくなって笑っちゃいますね。

 

 そしてエビスさんはそんな馬鹿馬鹿しい集まりにわざわざ参加して周りに合わせようとしている自分のことがおかしくなるとも言っています。ですから、エビスさんはウソで悲しいフリをする参列者たちを馬鹿にして笑っており、同じくウソで悲しいフリをする自分自身をも馬鹿にして自嘲している、こういうことになります。ご本人は

「誤解してほしくないのは、葬式で悲しんでいる人たちが滑稽に見えるとか、おかしいというわけじゃありません」(同上、28ページ、10行目)

とおっしゃっていますが、これはウソです。人の気持ちとは行動に現れます。厳粛な場で笑うということはその場にいる人々を馬鹿にすることですから、行動から考えるとエビスさんが参列者たちを馬鹿にしていることは明らかです。「行動から切り離された気持ち」などというものは幻想ですので、そんなものを根拠にした言い訳は通りません。

 

 

 

参列者の気持ち

 ウソで悲しいフリをする参列者たちを馬鹿にして笑っており、同じくウソで悲しいフリをする自分自身をも馬鹿にして自嘲している、これがエビスさんが葬式で笑う理由でした。こう説明されると、エビスさんが葬式で笑ってしまう仕組みは分かります。仕組みは分かりますが「だからエビスさんが葬式で笑うことはまともなことだ」とは思いません。エビスさんが葬式で笑う理由というものはエビスさんの胸の内だけにあるもので、本人にとっては当然のことかもしれませんが、周囲の人々から見たらヘンなものかもしれません。かもしれない、ではなく、ヘンでしょう。そのためエビスさんの気持ちだけでなく他の参列者の気持ちも考えてみる必要があります。

 

 他の参列者はエビスさんと違って葬式が喜劇には見えません。だから他の参列者からすると、葬式でゲラゲラ笑っているエビスさんはヘンな人に見えます。この違いは両者の葬式に対する見方の違いから来ています。エビスさんは

「葬式は人が亡くなって悲しみを抱く人々が集まって行うものだ」

と考えています。亡くなった人と個人的な結び付きが強く深い悲しみを抱くもの同士が故人を偲ぶために集まるのが葬式で、それこそが葬式の意義だ、だから悲しくもないのに参列して真面目な顔をしているのはおかしなことだ、こう考えます。それに対して他の参列者は

「葬式はただの葬式だ」

と考えています。悲しいか悲しくないかに関わらず人が亡くなったら執り行うべきもので、葬式の意義なんて特に気にしない、これが一般的な葬式観です。一般的に人は物事の意義や意味などを考えなくても行動できます。一般人は日常生活や時々開催される行事が滞りなく進めばそれでよいので、意義・意味の検討をいちいちしませんし、しなくてもこなすことが可能です。考えることが得意ではないからそうせざるをえない、という面もございますが、本人たちにとってはそれをする必要がないからしないのです。

 

 それに対してエビスさんは漫画家すなわち表現を仕事とする人です。表現を仕事とする人は物事に意義・意味を見出だして、それをもとに表現をします。葬式に対してエビスさんは「葬式は人が亡くなって悲しみを抱く人々が集まって行うものだ」という意義を見出だしました。だから葬式に参列した際には、その葬式が意義を正しく表現していないとバカバカしくなって笑います。エビスさんの笑いは「意義がないがしろにされているぞ!」という抗議の表現なのです。

 

 一般人は葬式の意義を考えずに葬式に参列できると申し上げましたが、私のこの発言は

「一般人は物事の意義を必要としない」

ということではなく

「一般人は物事の意義を意識しない」

ということであって、一般人にとっても物事の意義は実は必要なことです。意識はしなくとも、人の行動の根っこにはなんらかの意義や意味が潜んでいるものです。その意義や意味が揺らいでしまうと、行動が乱れます。私がこのブログの冒頭で

「私たちは葬式に出席したり墓参りに出かけたり法事を営んだりと人の死を弔う機会を様々に持ちますが、それらの行事に参加した際に居心地の悪さを感じる方がいらっしゃるかと思います」

と申し上げたのは、葬式の意義を意識しない一般人も、葬式の意義が揺らいでいる現代では辛かろうと思ってのことです。

 

葬式の意義

 では、一般人の葬式での振る舞いの底に潜む意義とは一体なんでしょうか?それは

「葬式は亡くなった人の霊を慰めるために執り行うものだ」

というものです。これは昔の葬式が持っていた意義ですね。亡くなった人の霊を放っておくとタタリが起きるから、共同体に属する人々の手によってあの世に送る儀式を執り行う、それが葬式でした。ここに悲しい・悲しくないという個人的な感情は関係ありません。放っておかれた霊が世に災厄をもたらす危険なものとなることを防ぐためには亡くなった人がどんな人であったとしても送らなくてはなりませんでした。だから葬式は危険を取り除く真面目で真剣な儀式で、悲しくなくたって神妙な顔をするのは当然でした。かつての葬式は、真面目な顔をして参列し神妙な態度で臨んでも居心地の悪さを感じさせるものではなかったのです。

 

 

 私のこの説明で皆さんが「なるほど」と納得すればこれで話は終わります。皆さんが

「エビスさんは『悲しい』ことにこだわりすぎているのだな」

とか

「自分も『霊を慰める』という発想がなかったから、葬式で居心地が悪かったのだな」

とか

「今度葬式に行くときは『霊を慰める』と思って出てみようかな」

とかいった感想をお持ちになれば、「葬式での居心地の悪さ」という問題は解決します。

 

 ところが、そうはいかないでしょう。と申しますのも、「死者の霊を慰める」ことは昔の葬式が持っていた意義であって、それがまだ残っているにせよ、今では「死者の霊を慰める」と言われてもよくわからない方が多いからです。

 

 現代では「霊」を本気で信じる人は減っています。人は死んだらそこでおしまいでその後は何もない、人が死後に行くと言われる三途の川や天国・地獄などは「昔の人の作り話」だ、作り話を本気にすることはできない、こう考えるのが一般的です。だから昔の葬式の意義がそのまま通用しにくいのです。

 エビスさんも言っています。

「(葬式について)たしかに、故人との最後のお別れの機会なので、『いま行かずしていつ行くのか?』という気持ちはなんとなく理解できます。でも、死んだ時点ですでに別れちゃっているわけだし、生きている人がわざわざ集まって死んだ人を見に行くのも……って思うのです。それなら、生きているうちに会った方がいいじゃないですか」(同上、26ページ5行目)

 死んだらその後にはなにも残らないと考えていたら、「葬式で故人とお別れする」と言われてもよくわからないでしょう。もういない人の亡骸を囲んで、まるでその人が生きているかのように儀式を行うことは滑稽です。ちょうど着ぐるみのネズミを前にして「中には人が入っているのに、なぜ本物のネズミが生きて動いてしゃべっているという設定に私が付き合わねばならないんだ?」と思うと冷めてしまう、そういう感覚と似ています。私は上でエビスさんが葬式で笑う理由を

「ウソで悲しいフリをする参列者たちを馬鹿にして笑っており、同じくウソで悲しいフリをする自分自身をも馬鹿にして自嘲している」

とお書きしましたが、

「もう存在しない人をまるで存在するかのように扱うことが馬鹿馬鹿しい」

ことも笑う理由の1つでしょう。

 

 

人の気持ちを無にする科学技術

「もう存在しない人をまるで存在するかのように扱うことが馬鹿馬鹿しい」

と聞いて「それはひどい!」とお怒りになる方がいらっしゃるかと思います。確かにひどいですね。しかしこれはエビスさんのような表現を仕事にする人だけでなく、今や一般人の間にだって広く普及した考え方かもしれません。それというのも、最近では葬儀を近親者のみで執り行い、知人を呼ばない葬式が増えているからです。近親者のみで葬式をする人たちは、おそらく

「死人はもういないし、霊を慰める社会的な行事なんて時代遅れだし、そんなもののために他人を呼ぶのもなあ…近しい人たちだけで故人を偲ぶだけにしようか」

と考えているのでしょう。皆さんの中にもこの気持ちがわかる方がいらっしゃるかと存じます。「霊を慰める」という昔の葬式の意義がなくなったら、このように感じても仕方ないですね。

 

 「霊を慰める」ことに意義を見いだせない人が増えた背景には科学技術による社会の発展があります。

 私たちが現在のような暮らしをできるのは自然科学(理科と数学)が発展して技術として応用できるようになったためです。スマホ・コンピュータといった電子機器や冷蔵庫・テレビ・洗濯機・電子レンジ・エアコンといった家電は科学技術によって生み出された大変便利な道具です。電車・車・飛行機・船といった輸送機やビル・橋・マンションといった建築などの大きなものにも科学技術は用いられています。ペットボトル・食品トレー・ラップ・ペン・ジャージなどは石油科学製品ですし、加工食品は工場でロボットによって生産されています。そして照明や家電、電子機器や機械を動かすのに必要な電気が各地の発電所から送電線によって各家庭・工場に送られています。当然、医療機器や薬品も科学の産物です。最近では投資・株式・証券・保険を扱う金融分野でも科学技術が用いられています。現代を生きる私たちは具体的な成果を見せてくれる科学技術の力を大変信頼するようになりました。

 

 科学が私たちの生活のあらゆる場面に入り込んでくると、科学が扱わない物事の地位は相対的に下がります。

 

 私たちは科学技術を扱う専門家でなくとも、科学技術がどういう考え方で成り立っているかを知っています。科学は基本的に理科と数学からできており、私たちはそれらを学校で習うためです。

 

 理科には滑車や波など物体の運動を扱う物理、水素・酸素・炭素など物質の性質を学ぶ化学、動植物の諸器官の働きや遺伝の法則性などを説明する生物、天体の動きや大地の動きを知ることができる地学という4分野がありました。数学には正負の数・文字式・方程式・二次関数・指数対数関数・三角関数微分積分・数列などの複雑な計算分野、合同・相似・円・ベクトルなどの図形分野、確率・数列・統計などの変わった分野がありました。覚えているでしょうか。皆さんも中学校で理科と数学を学ぶに当たり苦労された思い出があると思います。高校で理科と数学をさらに詳しく学んだ方は、もっと大変だったでしょう。

 

 理科と数学は人の気持ちを扱いません。理科は目に見える具体的な物事だけを扱い、数学は反対に抽象的な目に見えない物事しか扱いませんが、両者は理屈を扱う点と人の気持ちを扱わない点で共通しています。数学は数字とアルファベットと抽象的な図形のみの世界ですから、「怒り」「うれしさ」「悲しみ」といった感情や「神話」「英雄譚」といった物語が入り込む余地がありません。理科も「質量保存の法則」や「慣性の法則」は人の感情と関係ありませんし、「遺伝」は「神が人類を繁栄させるため」に起こることではありません。物質も単に「水素は酸素と共に燃えて水になる」だけで「霊の働き」などはなく、地震は地殻の運動であって「神の怒り」などではありません。

 

 理科と数学の世界では「霊」や「天国・地獄」など人の気持ちが生み出したものは基本的に「ない」ことにされます。科学は理科と数学の世界ですから科学にとって人の気持ちは「ない」に等しいものとなります。科学は人の気持ちが生み出したあらゆるものを「無価値」や「幻覚」もしくは「無意味な妄想」などと判断します。「霊」「天国・地獄」の他にも「妖怪」「おばけ」「神話」「伝説」「物語」「美」「善悪」「感情」など洋の東西を問わず、あらゆる文化的営みは科学にとって「無意味」なのです。

 

 少し前まで科学的ものの考え方は少数の知識人だけが知っているようなものでした。そしてその考え方を実生活の中に取り込んでいる人は更に少数派で変わり者でした。しかしここ最近になって科学の考え方とそれを取り込んだ生活が一般人の間にも一気に広まっており、「霊を慰める」気持ちが分からない人をどんどん増やしています。エビスさんのような変わった人がテレビに出て持て囃されているのがその証拠です。

 

 このままいくとどんどん「人の気持ち」は時代遅れで無意味なものとなり、「死者を弔う」気持ちもしぼんでいってしまうことでしょう。そうなったら私たちは一体どうやってお葬式と付き合っていけばよいのでしょうか?

 

 

1人でお便所にいけない女子

 その答えは「葬式はお便所にいけない子を落ち着かせるための儀式である」と考えて葬式に参列することです。

 科学技術の発展した現代では科学的考え方が一般にも普及し、この流れはもう止められません。時間が後戻りすることもありませんから、昔に帰ることもできません。科学を否定したり昔に帰ろうとしたりすることは無理です。ですから科学と矛盾しない「葬式はお便所にいけない子を落ち着かせるための儀式である」という意義が新たに必要とされます。

 

 小中学生の時にいつも誰かと一緒にいる女子たちがいたと思います。決して1人で行動せず、お便所に行く時も誰かと一緒です。幼児が1人で便所に行けないのなら分かります。幼児にとって便所で用を足すのは大仕事で、誰かについて来てもらわないと不安なのも理解できます。しかしそれなりの年齢になった女子たちがいつも連れだって便所に行くのはヘンです。皆さんはそんな女子たちを見て「便所ぐらい1人で行けないのかよ?」と思ったことはないでしょうか。

 

 彼女らが連れだって便所に行く理由は単純で、「孤立するのが不安だから」です。別に1人で便所に行ったからといって仲間外れにされるわけではありません。そうではなく、自分が誰からも見られていない時間が少しでもあると「孤立した」と感じてしまい、それが不安なのです。

 1人で便所に行ける人は1人になっても孤立を感じません。「1人だな」と思ったとしても、「今は1人だけど、みんながいる教室にまた戻れる」と当たり前に思っています。ですから不安なんて感じません。それに対して女子たちの感じる「孤立」は「みんながいる教室にはもう戻れない」という絶望です。彼女らはなんと「1人で便所に行ったら、もうみんながいる教室には帰れない、そうしたら一生1人で過ごさなければならなくなる」と思っているのです。ですから大変な不安を抱えていて、お友達と一緒でなければお便所には行けないのです。一緒に付いてきてくれるお友達はいわば命綱で、その命綱があるからこそ彼女らはお便所から教室へと生還出来るのです。

 「便所に行くぐらいでそんな大袈裟な」と皆さんはお考えになるかもしれません。実際に大袈裟ですし、私も便所に行くのに大騒ぎする人のことは理解しがたいですし、そんな人と仲良くできるとも思えません。しかし1人でお便所に行けない女子たちは確かに存在しますし、何らかの考えがあって連れションをしているわけです。仕方がないから彼女らの考えを想像した結果、「いつも連れだってお便所に行く」という行動は「1人でお便所に行ったら二度と教室には帰れない」という思想の現れだという結論に至ったのです。まったく、困ったものです。

 

 いつも連れだってお便所に行く女子たちは孤立することの不安を抱えている、ということに御納得いただけたことにしてしまって話を進めます。連れション女子がなんだってお葬式と関係があるかと言いますと、お葬式も連れションと同じく孤立の不安を解消するものだからです。

 

 死とは怖いものです。死んだらどうなってしまうのかが誰にも分かりません。しかも誰も手助けすることはできず、誰も付いてきてくれず、たった1人で臨まなければなりません。死ぬ時に完全消滅してしまって何も感じなくなるのならよいけれど、もし意識が残っていて地獄に行ってしまったらどうしよう?天国も地獄もなく、何もないところで意識が永遠に孤独を感じ続けることになったらどうしよう?よく考えたら、例え意識が完全消滅するとしてもそれはそれで怖いな……死は「孤立」の恐れを感じさせることですから、死について考え出すと不安が際限なく沸き起こってきます。この不安をなだめるために葬儀というものはあります。「死んだら永遠に1人で過ごさなければならなくなる」と不安がっている人に対して、死ぬ時には葬式できちんとお見送りをし、49日・一周忌・三回忌などの法要で定期的に死者を偲び、たまにはお墓参りをして死者に会いに行き、お盆に死者が帰って来た時には迎え入れる、そうした儀式をすることで、死者は死んだ後も生者の世界と繋がっていることを伝えて不安を解消してやるのです。これは「1人でお便所に行ったら二度と教室には帰れない、一生1人で過ごさなければならなくなる」と孤立への不安を抱える女子のお便所についていってあげて、その怯える気持ちをなだめてあげることと同じです。

 

 「勝手に不安がっているヤツのことなんか知らないよ。単純に甘えているだけじゃないか。私は別に死ぬことは不安じゃないから葬式になんか参列したくないね。連れションしたいヤツは勝手にすればいい。私は関係ない!」

 こう考える方もいらっしゃると思いますが、連れションは決して女子たち以外の人に関係ないことではないのです。

 

 私は上で、昔の葬式が持っていた意義は「葬式は亡くなった人の霊を慰めるために執り行うもの」だと言い、その後で「放っておかれた霊は世に災厄をもたらす危険なものとなってしまう」とも申し上げました。これはタタリのことですが、具体的には病気が流行ったり、死者が出たり、家が没落したりすることです。タタリは現代ではもう信じられていないことですが、実は現代でも起こり得ることです。

 タタリというと「死者の霊がこの世に災厄をもたらす」と言われるものですが、これは間違っていて、正確には「不安を抱えた生きている人間が勝手にパニックになって様々な問題が起こる」ことです。タタリを起こすのは「死者の霊」ではなく「生者の不安」の方なのです。

 

 例えばある人が死に、その人の葬式は粗末なものだった、法要も営まれず、墓参りもされず、お盆にもその人のことが思い出話にも上らない、そんな死んでからいい加減に扱われている人がいたとしましょう。その人の家族や友人、知人の中にも「1人でお便所に行けない女子」のように孤立への不安を抱えやすい人が1人くらいはいます。そんな連れション女子がもし死者がこの世に生きる人と会う機会を得られていない様を見たら、「ああ、死んだら永遠に1人で過ごさなければならなくなるんだ!私も死んだら永遠に1人なんだ!どうしよう…」と大きな不安を抱えることになるでしょう。不安を抱えた女子は行動や会話がおかしくなり、日常生活を安定して営めなくなります。

 

 不安から胸に何か重たいものを感じ、食欲が落ちてご飯があまり食べられなくなったり、夜もよく眠れなくなったりします。朝起きることが辛くなり、日中もボンヤリして身体に力が入らず、頭もよくは回りません。ボンヤリしていたら他人の話を聞くことができませんし、頭が回らないと考えて話すことが出来ません。仕事や家事や勉強がうまくできなくなり、他人との日常的なやり取りもままなりません。食べられず眠れない状態が長く続くと体調を崩しますし、仕事や家事や勉強や他人との日常的やり取りがうまくできないと自信を失って気持ちが落ち込んだりします。これは身体的にも精神的にも大変辛い状態です。この状態が長く続くと病気にかかったり精神を患ったりするでしょうし、悪くすると死んでしまうこともあります。これがタタリによる「死者の発生」です。

 

 そしてタタリは1人の人間だけでなく、周囲の人間にも伝播します。と申しますのも、1人の人間の不調が周囲に与える影響は大きいものだからです。主婦・主夫が心身の健康を害したら、食事・掃除・洗濯その他の家事が行き届かなくなり、家族は汚い家の中で十分な食事も取れず、乏しい衣服で日々を過ごさなければならなくなるでしょう。その状態が長く続けば家族は病気になってしまうかもしれません。タタリで「病気が流行る」とはこんなことです。

 

 また、一家の稼ぎ頭が働けなくなったら、家族の生活を支える収入がなくなります。そうすると貯金を切り崩して生活しなければならず、食べ物や衣服は粗末なものしか買えなくなります。それでも買えている内はまだよいもので、貯金が尽きたら物や家を売らねばならなくなり、住む場所を失った一家は路頭に迷います。これがタタリによる「家の没落」です。

 

 

 「不安を抱えた人が心身に不調を来し、それが周囲の人に影響を与える」と考えると、タタリは荒唐無稽な話ではないのです。

 

 ですから「タタリなんて関係ない!」と考えている皆さんも、家族や親戚や職場や学校に不安を増大させた連れション女子(女子とは限らず大人の男という場合もあります。もうお分かりかとは思いますが、念のため)が不調になると、影響を受けるかもしれないのです。

 

 

お便所についていってあげよう

 エビスさんは葬式について「悲しくもないのに悲しい振りをするのが滑稽だ」とか「もう存在しない人間をまるで存在するかのように扱うのが馬鹿馬鹿しい」とか思っているので、葬式で笑ってしまうのでした。そしてそれは「葬式は亡くなった人の霊を慰めるために執り行うものだ」という昔の葬式が持っていた意義が現代ではもう失われてしまったことが原因でした。そして現代では葬式で笑い出すことはしないけれども、エビスさんのような考え方の人が増えているのでした。

 

 そんな現代を生きる我々がお葬式とどう付き合えばよいのかというと、「1人でお便所に行けない女子たちの不安をなだめる」つもりで参列する、これが答えのひとつです。「人は死んだら永遠に1人で過ごさなければならなくなるのかな…」と不安がっている人に対して、「そんなことはない、葬式でお見送りするし、法要でもお墓参りでもお盆でもまた会えるし、永遠に1人ってことはないさ」と示す、これが葬式の意義です。

 

 葬儀を営む時の私たちの心構えをもっと分かりやすく言うと、「お便所についていってあげる」気持ちになることです。これは死者に対してではなく、生きている連れション女子に対しての気持ちです。お便所についていって、前で待っていてあげる、

「ねぇ、そこにいるのー?」と聞かれたら、

「はいはい、いますよー」と答えてあげる、

なかなかオシッコが出ないようだったら、

「でねぇか?シーッ、はいシーッ」と言って促してやる、

この時の気持ちで葬儀に出ればよいのですね。

 「それはそれで馬鹿馬鹿しいだろう…」と思うかもしれませんが、お便所についていってあげるだけでタタリを防げると思ってみてください。お便所についていくだけで死者は出ず、病気が流行らず、没落する家族が減る、そう考えたら馬鹿馬鹿しいことをやるのも悪くないんじゃないでしょうか?

 

 皆さんもぜひ「はい、シーッ」って言ってあげてくださいね。

 

 

 

 

 今回はこれで終わりです。葬式で笑ってしまうエビスさんのことを考えることは、現代を生きる私たちの葬式への態度を考えることにつながりました。そして葬式は1人でお便所に行けない女子についていってあげることなのだと分かりました。

 

 私は葬式で笑うエビスさんを不謹慎だとかとんでもない人だとか言いましたが、大の大人たちがみんなで連れション女子に「シーッ」と言っているのが葬式だと考えると、葬式っておかしくて笑っちゃいますね。フフッ。