なべさんぽ

ちょっと横道に逸れて散歩しましょう。

【本編⑨】詩的表現が『わかる』ー魔法と魔女ー

日本全国で暑さが続くこの頃ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか?体調を崩してはいませんか?くれぐれもお身体には気をつけて下さいね。
今回は『詩的表現がわかる』の最終回、の予定でしたが、また終わらなかったので次回を最終回にしたいと思います。申し訳ありませんが、今少しお付き合いください。


 
 前回はカエルがお城まで追いかけてきた場面についてお話ししました。カエルの無茶な要求を嫌がるお姫さまに対して「そいつと寝ろ!」と言い付ける王さまは判断力のない人なのだということでした。今回はその続きです。まずはカエルとお姫さまが寝室に行った後の場面の筋を少し詳しくお書きします。



 お姫さまはカエルを部屋のすみへおいて寝床へ横になりましたが、カエルは寝床へ入りたがりました。もし入れてくれなかったら王さまに言いつけるとカエルが言いましたので、お姫さまはすっかり腹を立てて、カエルをひろいあげ、壁に叩きつけました。するとカエルは美しい王子さまに変身しました。王子さまは、悪者の魔女の魔法にかかっていて、お姫さま以外には自分を救えなかったと言い、二人は仲良しのおともだちになりました。王さまも王子さまを気に入り、二人は結婚して、王子さまの国へ行きましたとさ。



 お姫さまは王さまの言いつけで「カエルのような風貌の醜い男」を自分の部屋に連れていきます。お姫さまは男をイヤイヤ部屋に入れましたので、当然のことながら男を自分の寝床には招きません。それなのに男はお姫さまに対して「寝床に入れろ」と言い、「もし自分を寝床に入れなかったら王さまに言いつける」などと言うのです。
 
 私は「カエルのような風貌の醜い男」のことを「イヤだ」とか「気持ち悪い」とか散々に悪口を書いてきましたが、ここまでくると悪口を書く気にもなれません。むしろこの男が哀れに思えてきました。この男にはここまでのお姫さまの態度がずっと見えておらず、一人相撲をとり続けているからです。
 
 お姫さまの態度は一貫して「あんたの女になるのなんかイヤだ」です。もしお姫さまのことを好きな男がいて、このお姫さまの態度を見ていたとしたら、「どうしたらお姫さまに自分のことを気に入ってもらえるか」と考えて、気に入ってもらうための行動をとるはずです。しかしこの男にはお姫さまの気持ちを動かそうという素振りが全く見られません。反対に、この男の行動は「俺とお前は男女の仲になるという契約を結んだ。お前にはその契約を履行する義務がある」というなんの情緒も色気もないものです。挙げ句の果てには「王さまに言いつける」です。これは「強制執行を申し立てるぞ!」という脅しですが、「強制執行」とは何事でしょうか?男が裁判所にお姫さまの契約の不履行を訴え出ると、裁判所が「姫よ、その男と男女の仲になりなさい」と命令を下し、派遣された執行官が嫌がるお姫さまを拘束して無理矢理ことに及ばせ、また別の執行官がその様を記録し、報告書にまとめて裁判所に提出するのでしょうか?バカなんですか?大体「王さまに言いつける」なんて言うことは、「自分にはお姫さまに好かれるだけの魅力がない。だから法律を使って強制的にヤってやる」と白状しているようなもので、情けないったらありゃしません。「男女の仲」に契約やら行政やら法律やらを持ち込むような野暮天がお姫さまに好かれるはずはないのに、そこに気付かない、いや、そもそもお姫さまに好かれようという発想すらないのです。そんな男を見ていると、この男は他人のいない1人の世界の住人なのだと思われ、「哀れ」という言葉が出てきてしまいます。

 

 さて、このあとお姫さまは迫り来る男に対してとうとう怒りを爆発させてしまいます。『カエルの王さま』のお話だと男は「カエル」なので、お姫さまはカエルを手で持ち上げて壁に叩き付けて潰します。実際にはカエルは「カエルのような風貌の醜い男」ですから、壁に叩き付けて潰すことはできません。きっとお姫さまはビンタをしたのでしょう。

「さあ、これで楽ができるだろ。いやらしいかえるったらありゃしないわ」

 醜いものが美しいものを踏みにじろうとしたときに毅然とした態度をとる、なんとも立派なお姫さまです。

 
 

 『カエルの王さま』のお話では、壁に叩き付けられたカエルはその瞬間に人間の王子さまに変身します。そして王子さまは「悪者の魔女」の魔法にかかっていてカエルの姿をしていたがお姫さまによって魔法が解けた、と言います。お話しならばこれでよいかもしれませんが、現実に即して考えると、ここにはよくわからない点が二点あります。
 
 1点目は王子さまが「悪者の魔女」の「魔法」にかけられていた点です。「魔女」や「魔法」が現役だった昔ならいざ知らず、現代において「魔女」だの「魔法」だの言われたって、現代人にはピンときません。皆さんは人間が魔法によってカエルになったと言われても、「昔はそういうことがあると信じられていたんだな。まあ、現代人の自分には関係のないことだけれど」という感想を持つだけでしょう。
 
 2点目は、「魔法」があったとして、なぜその魔法が解けたのかわかりません。「魔法」というと不思議で神秘的なものですから、それを解くには不思議で神秘的な技術が必要なはずです。しかし王子さまにかかった魔法はお姫さまのビンタという物理的攻撃によってあっさり解けてしまいます。不思議も神秘もあったものではありません。まるで作家が面倒臭がって結末をテキトーに書き上げたみたいです。不思議や神秘を持ち出すのなら、もっとちゃんとやってほしいものです。

 
 
 これらわかりにくい2点ですが、やはり現実の方に引っ張ってきちんと考えると、そうおかしな話ではありません。
 
 

 まずは王子さまが「悪者の魔女」の「魔法」にかけられてカエルになっていた点です。
 
 当たり前のことですが、人間を物理的にカエルに変化させる「魔法」などありません。これはよいですね。人間がカエルに変身することは不可能で、人間をカエルに変化させる方法もありません。あくまでも我々の生きる現実の方に引っ張って考えます。王子さまの言葉をそのまま受け取ってはいけませんよ。
 「魔法」が物理的に人を変化させるものではないとしたら、これは心理的なもので、気持ちの問題です。「魔法にかかってカエルの姿をしていた」は「気持ちの変化によって『カエルみたい』と言われるような格好・顔付き・存在になっていた」です。

 私が本編⑤でお話ししたように、「カエルのような風貌の醜い男」は「まだらでヌルヌルイボイボした服装・肌を持つ太った小男」で、「不機嫌そうな顔でこちらをにらんでいる」、しかも「正体の分からない怪しい男」でした。そしてこの男が醜い理由は、「他人」の存在を認めていないためでした。
 「他人」の目を気にしないため服装に無頓着で、風呂にも入らず肌が汚れています。
 「他人」が人間だとはわからないため自分以外の人間を背景の書き割りくらいにしか思っておらず、しかもこの男は背景である人間は主人公たる自分をチヤホヤすべきだと考えています。それなのに周囲の人間は自分をチヤホヤしないどころか相手にさえしない、そんなことは間違っている、こう不満を抱いており、不機嫌そうな顔付きで人をにらみつけています。
 この男は「他人」に対して自分を表現する必要性がわからないため、服装・表情・発言・行動・態度などがメチャクチャで、正体不明の怪しい男と人の目に写っています。
 
 このように王子さまは「他人の存在を認めていない」ということが原因で「カエルのような風貌の醜い男」になっていました。このことを考えると「魔法」とは「ものの考え方によって見た目が変わる現象」のことだと言えます。これだったら現実に起こりうることですからおかしな話ではありませんね。「ものの考え方によって見た目が変わる」ということは本人には自覚されず、不思議な現象に思われるものです。だから王子さまは不思議さを表すために「魔法」なんて言葉を使っていますが、端から見ている人にとっては不思議でもなんでもない現象です。「魔法」なんて言葉を前にして、あまり怯えないようにしましょう。
 
 
 
 それでは「悪者の魔女」に移ります。王子さまは「悪者の魔女」に「魔法」にかけられていました。「魔法」は「ものの考え方によって見た目が変わる現象」でしたが、この現象の原因が「悪者の魔女」だと王子さまは言っているのですね。「悪者の魔女」によって「ものの考え方」を変えられてしまって、見た目も変わってしまった、と。ということは、「悪者の魔女」は王子さまの「ものの考え方」を歪めることができるほど王子さまに影響力のある人物です。また、「魔女」ですから、きっと女なのでしょう。
 
 ものの考え方を歪めてしまうほど強い影響力を男の子に及ぼすことができる女というと、現代では母親ということになっています。昭和のサラリーマン家庭は母親が専業主婦として家の中のこと一切を取り仕切ることが一般的で、したがって子育ての責任も母親にあるとされてきました。子供が悪いことをしたり、おかしな性格になったら、それは母親の教育が悪いということになりました。平成を経た令和の現在でも母親の責任は盛んに語られていて、教育系の本やインターネット記事には、口うるさい母親の支配によって子供が歪められてしまうという話がよく書かれています。こんな状況で「悪者の魔女」と聞いたら、それは子供を支配しようとする恐ろしい母親のことだと思ってしまいます。
 
 しかしこんなのウソだというのはすぐ分かる話で、それというのも男の子は女の言うことなんか一切聞かないからです。男の子は自分のことを「男」だと思っています。だから男が好きで、大人の男に認められたいと思っています。大人の男からの言葉に価値を見いだし、大人の男の言うことを聞こうとします。むしろ大人の男の言うことに従える自分を誇らしいとさえ感じます。ところが教育担当の母親は女です。女である母親が男の子に何かを言っても、男の子は女の言葉に価値を見いだしませんから、母親の言葉は理解できません。理解できないどころか「なんで僕が女の言うことを聞かなくちゃいけないんだ」と反発します。だから男の子は母親の言うことを聞かないのです。
 
 男の子が母親の言うことを素直に聞くご家庭があったとしても、それは男の子が母親の言葉を受け入れているからではありません。父親が教育を母親に委任していることを男の子が理解していて、母親のことを「父親の代行」だと思っているからです。男の子は母親の背後に父親の姿を見ていて、母親の言葉は父親の言葉だと考える、だから母親からの教育を受けることができてまともに育ちます。父親が母親に子供の教育を委任していない場合、男の子は母親の言うことを聞きませんから、父親が直接男の子を教育することになります。この場合も男の子は教育を受けることができていますから、まともに成長します。父親がいない家庭の場合、そこにいる大人は母親だけです。男の子は母親の言うことを聞きませんから、まともに成長できません。ただ、親戚に「重鎮」のような男がいたり、学校にイカツい男の先生がいたり、近所に武道の師範がいたりして、男の子がその男を父親と見なした場合、男の子はその人から教育を受けることになるので、まともに成長できます。父親がいる・いないに関わらず、母親が父親らしい面を持っている場合にも男の子の教育は可能です。社会において確固とした父親像が存在していて、母親がその父親像を息子の前で演じることが出来れば、息子は母親を父親とみなすことができるためです。

 先ほどから私は「まともに成長」ということを何度も申し上げておりますが「まともに成長する」とは「誇りを持つ」ようになることです。男の子に関して言うと、「ぼくは大人の男になるんだ」と希望をもって生きていけるようになることを指しています。例えば男の道徳に「女に優しくしろ」というものがあります。男の子が母親や姉妹やよその家の女の子とケンカをしたとして、あまりに腹が立って手が出そうになったとします。その時に「女に優しくしろ」という男の道徳を思い出したら、我慢して手を引っ込めます。また「ヒキョウはいけない」という道徳もあります。勉強が嫌いな男の子がいて、勉強から逃げ出そうとしたとします。その時に「ヒキョウはいけない」という道徳を思い出したら、我慢して勉強に取り組みます。「ぼくは大人の男になるんだ」と希望をもって生きていくことは、大人の男にふさわしく自分の行動を変えていくことです。これがまともな成長で、成長できたと実感できたら男の子は自分に誇りが持てます。
 
 父親から教育を受けられなかった男の子は成長目標を見失います。目標がなければそれに向かって自分の行動を変えていくことができず、したがって誇りを持つ機会が得られません。そうなったら男の子は空虚を抱えることになります。成長しようというエネルギーだけはあって、しかし方向性が見いだせない、そうなった男の子はカンシャクを爆発させるようになるか、あるいは絶望からなげやりになり、フヌケてのらりくらりするばかりかのどちらかとなります。これは、女を殴れば勉強もサボりっぱなしで平気というような、自分で自分を律することができない状態です。息子がこんな状態だったら母親が心配するのは当然のことで、母親は息子にあれこれお小言を言います。「バカなことはやめなさい」とか「自然にしていて」とか「シャキッとしなさい」とか「ハッキリ言いなさい」とか。当然息子は耳を貸しませんが、母親から自分の悪いところを指摘されていることは理解できますから、それが気に入りません。成長目標を見失って空虚になっているかわいそうな自分は保護され優しくなぐさめられてしかるべきなのに、母親は自分に優しくないどころかいつも小言を言っている、この人には人の血が通っているのか、いや、この人は人間じゃない、きっと魔女だ、というわけで母親は魔女認定されてしまいます。王子さまの場合は母親はお妃さまです。お妃さまからあれこれお小言を言われたことを逆恨みしてお妃さまを「悪者の魔女」と言っていますが、王子さまに「魔法」をかけたのはお妃さまではありませんね。王さまが成長目標を示さなかったことから自分に誇りを持つ機会を失い、したがって他人も尊重することができなくなった王子さまが自分で自分に「魔法」をかけてカエルになってしまったのです。
 



 
 短いですが、今回はここまでです。次回は、なぜ王子さまにかけられた魔法は解けたのか、というお話しをしてこの「詩的表現が『わかる』」を終えたいと思います。

【本編⑧】詩的表現が『わかる』ー判断力のない王さまー

 木々の葉が青々として爽やかな初夏ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。また更新にずいぶん時間がかかってしまいましたが、「詩的表現が『わかる』」の第9回目です。


 前回は『カエルの王さま』物語冒頭の問題点についてお話ししました。その問題点とは「お姫さまが親切にも男に醜さを自覚させ、美しくなるための道さえ教えてくれたにも関わらず、醜い男が逆ギレした」ことでした。

 問題点が分かったところで、今回は「カエルのような風貌の醜い男」がお城までお姫さまを追いかけて来たところへ話を進めたいと思います。やっと進みました。
 まず、以前書いた粗筋より少し詳しくこの場面を書いてみます。


 
 カエルから金のまりを受け取ったお姫さまはすたこらさっさとお城に帰ってしまいます。カエルはあわててお姫さまを追いかけますが、人間とカエルとでは足の速さが違うため追い付けません。諦めたカエルはすごすごと泉の中に戻るのでした。翌日、お姫さまが王さまや家来たちとお食事をしているとカエルがやって来て、昨日の約束を果たすようお姫さまに言いました。困ったお姫さまが王さまに事情を話すと、王さまはカエルとの約束を果たすようにお姫さまに言いつけました。そしてお姫さまは嫌々ながらカエルと食事をします。食事が終わるとカエルは一緒に寝ることを求めてきます。あまりにイヤでお姫さまは泣き出してしまいますが、王さまは怒ってお姫さまを叱りつけ、カエルと一緒に寝ることを言いつけます。仕方がなくお姫さまはカエルと共に寝室へ向かうのでした。
 
 

 「カエルのような風貌の醜い男」が自分の醜さを自覚せず、身の程知らずにも過大な要求をし、自分の醜さを教えてくれた親切なお姫さまに逆ギレしてお城まで追いかけて来た、これがまずこの場における第1の問題点です。これは前回お話ししたのでもうよいのですが、この場にはカエル男の他にもう1人おかしな人物がいます。それは王さまです。
 

 お城まで追いかけて来たカエルに怯えているお姫さまに事情を聞いた王さまはこう言います。

「おやくそくしたことは、どんなことでも、そのとおりにしなくてはいけません」
(引用元「完訳 グリム童話集1」金田鬼一訳 岩波文庫 1979年改訂)

 こう王さまから言われてしまったためお姫さまはカエルと食事をすることになりますが、この王さまの発言はヘンです。王さまは、約束したことは「どんなことでも」守らなくてはならないと言っていますが、そんなことはありません。約束とは、約束を交わす二人がお互いを信用することで成り立ちます。信用がない間柄で約束はできません。一旦約束したとしても、状況によってはやっぱりダメだと取り消してもよいですし、無茶な要求は「無茶だ」と言って突っぱねてもよいのです。今回のお姫さまとカエルとの約束は、約束の内容が一方的にカエルに有利になっています。だからお姫さまも約束を破ったわけですが、こんな不当な約束は客観的に見ても「約束」として成り立っていません。王さまは不当な約束果たすよう娘に迫るカエルに対して抗議すべきでしょう。一旦約束したら「どんなことでも」そのとおりにしなくてはいけないと言う王さまの発言は極端です。

 

 さらに王さまはそのおかしな言動を見せます。「一緒に寝よう」とカエルに言われて泣き出してしまったお姫さまに対して、王さまは腹をたてて

「だれにしろ、じぶんがこまっていたときに力をかしてくれたものを、あとになって、ばかにして相手にしないという法はない」(引用元:同上)

と叱りつけます。
 
 ここで王さまはまず状況をよく理解していません。王さまは「こまっていた」お姫さまにカエルが「力をかしてくれた」と考えているのですが、それは勘違いです。お姫さまは金のまりを失って困ってなどいませんでした。新しいまりを買うか、家来に頼んでまりをとってきてもらえばよかっただけです。困っていたのはむしろカエルの方です。カエルは醜く歪んだ見た目と性格のため誰からも相手をされず、じめじめした泉に潜んでいました。孤独で寂しかったカエルの方こそ困っていました。そして「まりを取ってくる」ことを通じてカエルと関わりを持ったお姫さまこそ「力をかしてくれた」人なのです。王さまはまずこの状況が読めていません。
 そして王さまは非常識です。娘にイヤな相手と食事をさせるだけならまだよいでしょう。イヤなことをガマンして面倒事をやり過ごすことも時には必要ですから。しかし、娘が泣いてイヤがっているのに「そいつと寝ろ!」と叱りつける父親が一体どこの世界にいるのでしょう?
 
 
 不当な約束を果たすように迫るカエルを叱りつけず、反対に自分の娘を叱りつけて約束を果たせと言う王さまは明らかにヘンなのです。なぜ王さまはこんなヘンなことを言うのでしょうか?
 
 私には王さまが判断力のない人であり、目の前で起きている状況を自分で把握して自分で考えて対処することが苦手なのだ、としか思えません。
 

 
 物事をキチンと判断することは難しいです。相手の話を聞いて状況を理解し、自分の頭で考えて、適切な対処をする、こういうことを行わなければなりません。
 
 「相手の話を聞く」ことがまず難しいのですが、それというのも他人は自分の思った通りに話すもので、聞き手が理解しやすいように話してなどくれないからです。「話し合い」とは立場の異なる者同士の間で行われるものです。そこで使うべき言葉は、自分と似た者同士の集まりである内輪のものであってはならず、自分とは立場の違う他人が理解できるものでなければなりません。「話し合い」が難しいのは、「自分の言葉は相手に通じているのか?」という自問をしながら相手に説明をしなくてはならないからですが、そんな技術を持った人はあまりいません。何かを訴える人は大体の場合において内輪の言葉で話してしまうため、聞く方は一向に相手の話が理解できません。だから他人の話は分かりにくくて聞くことすらイヤなものです。
 
 
 ガマンして相手の話を聞いたとしましょう。がんばりました。エライです。今度はその話をもとに「自分の頭で考え」なくてはなりませんが、これもまた難しいのです。
 
 通常、人はあまり「自分の頭で考える」ということをしません。「自分の頭で考える」ことは習慣や理論や教義にしたがって判断することではありません。習慣は日常生活から生まれるもの、理論は学問から生まれるもの、教義は宗教から生まれるものと、それぞれ出自は異なりますが、これらは皆「他人の考え」という点で共通しています。「他人の考え」は大人が子供や若者に伝えるもので、主に大人が経験してきた困難への対処法です。生活上の困難に対処ができる「他人の考え」はけっこう役に立つものですから、「他人の考え」に従うだけでも生きていく分には困りません。
 
 困るのはその先で、「個人の想い」が絡んだ問題が起きたときです。「他人の考え」は「個人の想い」を汲み取りません。「他人の考え」は、大人が経験してきた「多くの人に共通して起こる困難への対処法」であるため、「個人の想い」には対応していないのです。ある想いを抱えてしまった個人やその個人と関わる周囲の人に必要とされるのが、「自分の頭で考える」ことです。
 
 『カエルの王さま』の話で言うと、お姫さまとカエル男の間では「男女の仲になりたいかどうか」や「約束が成立するほどの信頼関係があるかどうか」などが問題になっています。これらは「個人の想い」ですから、対応を迫られた王さまは「自分の頭で考え」て対処しなくてはなりません。しかし王さまは「一旦約束したことは守るべきだ」という教えにしたがって判断してしまいます。そのせいで自分の娘に「その男と寝ろ!」などというムチャクチャを言うことになっているのです。これではまるで「ママに教わったことを言葉通りにとらえる幼児」です。「一旦約束したことは守るべきだ」という教えそれ自体は間違ってもいないことですが、通常は「約束を守れるかどうかは状況による」という条件がくっついています。「状況による」の部分が「自分の頭で考え」なさいということで、王さまはそれができませんでした。出来ないどころか怒ってしまいましたが、これは「自分の頭で考え」られないという自分の弱点がバレそうになったため、怒鳴って誤魔化したのですね。

 

 よくもまあそんな人が王さまをやっていられるものだと思いますが、我々も王さまを笑ってはいられません。

 現代は豊かな時代です。人は豊かになると他人との関わりが減ります。貧乏な人が多い時代だと少ない資源を分け合うために他人と話し合うことが多くあります。この話し合いに失敗すると「食うに困る」という事態が起こりますので、必死の思いで皆話し合いをします。また、「貧乏でみんな苦しい」という共通項がありますので、それを軸にすれば話し合いも進めやすい状況がありました。もちろん貧乏なので、ここに「個人の想い」を汲み取る余裕などありません。豊かになって初めて「個人の想い」を汲み取ろうという発想も出てきますが、豊かになると今度は話し合いが消えてしまいます。なにしろ資源はたくさんあるのです。貧乏時代に比べたら、なんでも出てくる打出の小槌があるかのような豊かさを感じています。そうすると資源を分け合うための話し合いは必要性が薄れます。豊かな時代は「個人の想い」を汲み取るための話し合いが必要になっているはずですが、「個人の想い」は「貧乏を克服した後のご褒美」だと理解され、あまり重要なものだとは考えられません。「個人の想い」を重要だと考える人が「もっとよく話し合いましょう!」と言っても「何を?」と返されてしまいます。これは話し合いの軸となる「貧乏」が消えて、何を基準にして話し合えばよいのか分からなくなってしまったためです。貧乏を克服して「個人の想い」を汲み取る余裕ができたら、汲み取るための手段である話し合いを失うなんて、なんとも皮肉な話です。
 
 
 だったらどうすればよいのかというと、新しい基準を見つければよいのですね。その基準とは「美しいかどうか」です。豊かになったら人に必要とされることは美しくあることだけです。金は持っているが趣味の悪い人は「成金趣味」と言われて蔑まれます。金を持つ人はその金を持つにふさわしく美しくあることが求められるのです。皆さんは現代人なので皆お金持ちです。しかし皆さんは「美しい」がよくわからないからこのブログを読んでいます。ですから皆さんは成金状態かもしれません。もしそうだとすると皆さんは「美しいかどうか」という話し合いの基準をお持ちでないので、王さまと同じく判断力のない人ということになりましょう。我々現代人は王さまを笑っていられないのですね。
 

 

 今回はここまでです。
 王さまが判断力のない人であり、目の前で起きている状況を自分で把握して自分で考えて対処することが苦手なために、『カエルの王さま』のこの場面はヘンな展開をすることになりました。

 次回は最終回の予定で、カエル男とお姫さまの最後の対決の場面です。また更新に時間がかかりそうですが、なにとぞ御容赦ください。

【本編⑦】詩的表現が『わかる』ーお姫さまの親切ー

 お正月から始めたこの「詩的表現が『わかる』」という続き物のブログですが、もう桜が散る時期になってしまいました。更新に時間がかかりましたが、ようやく【本編⑦】です。前回で「美醜の問題」は終わり、今回からは完全に『カエルの王さま』に戻りたいと思います。

 『カエルの王さま』をどこまで読んでいたのかと申しますと、なんとまだ物語の冒頭です。「お姫様と『カエルのような風貌の醜い男』との会話には問題がある」と私が申し上げて、そこから全く先へ進んではいないのでした。それというのも「問題」の大前提となる「カエルのような風貌の醜い男」という表現に皆さんが引っ掛かってしまい、この表現を飲み込んでもらうために【本編②】から【本編⑥】まで使って「美醜の問題」を私が語っていたからでした。皆さんはもう「美醜について語ること」と「美醜について判断を下すこと」にためらいはなく、カエルのような風貌の男が「醜い」ということを受け入れることができたと思います。もしかしたら、まだ完全に納得していない方がいらっしゃるかもしれません。個人個人で納得の度合いに差はあることと存じますが、皆さんが私の話に納得したという前提で話を進めたいと思います。

 

 さて、お姫様と男の会話には問題があります。私は「気持ち悪い」だとか「イヤだ」とか申し上げましたが、これだけではなんのことかよくわからないでしょう。何が問題なのか、具体的にご説明したいと思います。

 
 まず、男の要求は過大です。
 男が女に「俺の女になれよ」と言うこと自体は問題ではありません。いい女がいたら近づきたくなるもので、自分のものにしようとすること自体は変ではありませんし、悪いことでもありません。しかしその近づき方には気を付けなくてはなりません。
 「カエルのような風貌の醜い男」はまりを取って来る代わりに「俺の女になれよ」と言っていて、お姫さまに取引を持ちかけています。取引とはお互いに等価の物を交換することですから、男は「まりを取って来る」ことと「俺の女にな」ることとを等価だと考えている、そういうことになります。人と人との関係は大体取引ですから、男女関係が取引であってもおかしくはありませんが、ここで考えたいのは「俺の女になること」と「まりを取ってくること」は果たして等価なのか、ということです。
 まりは童話の中に「金のまり」と書かれていて、確かに高価なものです。しかしお姫さまは王さまの娘でお金持ちですから、まりをなくして困るということはありません。なくしたらまた買えばよいものです。しかも男は「いい男」ではなく「醜い男」ですから、男の彼女になったところでお姫さまに利点はありません。だから「まりを取ってもらう」ことと「男の彼女になること」はお姫さまにとって等価ではなく、過大な要求です。身の程を知らずに「金のまり」と「俺の女になること」を等価だと考えている男のありようは見ていて気持ちのよいものではありません。私が「気持ち悪い」とか「イヤだ」とか申し上げたのはまずこの点です。


 

 次に考えたいのは、なぜかお姫さまが男の要求を飲んでしまった点です。今申し上げたように、「金のまり」と「俺の女になること」は明らかに等価ではありません。この取引はお姫さまにとって損で、こんな取引をしたらバカです。それなのにお姫さまは男と取引する約束を交わしてしまいます。これはおかしいです。一体なぜお姫さまは男との取引に応じてしまったのでしょうか?
 実はお姫さまが男の要求を飲んだ理由はけっこう簡単でして、お話の中のお姫さまのセリフでわかります。
「蛙のおばかさんが、なにをべちゃくちゃいうことやら。かえるはかえるどうし、水のなかにかたまって、オレキレキ・アナタガタってないてるんじゃないの。人間のおなかまいりなんか、できやしないわ」(同上、19ページ)
 お姫さまは「カエルのような風貌の醜い男」の要求を受け入れる気なんかさらさらなかったのですね。まりをもらったら要求は無視してしまって、それでなんとかなると考えていたのです。お姫さまはたかがまりのために自分を差し出すほどバカではなく、取引のなんたるかをきちんと知っていたようです。


「じゃあ初めから約束なんかしなきゃいいじゃないか。約束したのに、相手を見下しているからといってその約束を破るなんて、お姫さまはひどい。『カエルのような風貌の醜い男』がかわいそうじゃないか。」

 こうお感じになった方はいらっしゃるでしょうか?ここまでの私の文章を読んで来て、まともな感性を持った方なら、ある程度そう考えるかもしれません。実際このあとお姫さまは王さまにカエルとの約束を果たすことを命じられ、窮地に陥ります。カエルの要求が過大だからといって、約束を反故にしてよいわけがない、王さまはそう考える人なのですね。「そりゃそうだ」と王さまに共感する方は多いでしょう。
 

 こう書いてくると「男の要求は過大だが、男を騙したお姫さまも悪い」というように見えますが、そう言いきってしまう前に考えてみたいことがあります。それは、「お姫さまの言動がヘンだ」ということです。
 
 お姫さまは王さまの娘なのでお金持ちです。金のまりは高価ですが、なくしたらまた買えばよいほどのものでしかありません。お姫さまは男の彼女になることを約束してまりを取ってきてもらわなくてもよいのです。もし、なくしたまりがどうしても惜しいのならば、お城にいる家来に言い付けてまりを取ってこさせればよいでしょう。しかもお姫さまは若くて美しく、ずっと格下の醜い男と関わらなければいけない理由なんかありません。無視してもよいし、格下の癖に対等な取引を持ちかける身の程知らずの男に激怒したっていいのです。それにも関わらずお姫さまはわざわざ男の彼女になることを約束して金のまりを取ってきてもらい、わざわざその約束を破るという手間をかけて、男と関わろうとしています。お姫さまの行動は明らかにヘンです。これは一体どういうことでしょうか?

 

 実はお姫さまは「親切」だから男を相手にして「あげた」のです。
 普通の人間なら自分よりずっと格下の醜い男と関わろうとしません。人は美しいものが好きですから、醜いものは視界にも入れたくはなく、醜いものが近付いてきたら距離をとります。ましてや、醜いくせに対等な口を利こうとする身の程知らずの男なんかがいたら、不愉快極まりないです。また、醜い人間と関わるとその醜さが自分に感染してしまうのではないか、という恐れもあります。人は付き合う人間から影響を受けてしまうもので、よい影響も悪い影響も受けます。特に悪い影響は簡単に感染しますから、警戒せねばなりません。そのため普通の人は醜い男がいたら距離を取り、関わりを持とうとはしません。

 

 しかしお姫さまは醜い男と関わっても平気です。お姫さまは若くて美しいので、その美しさを犯すことのできる醜さなどありません。つまりお姫さまは無敵です。だからお姫さまは醜い男と関わって平気なのです。無敵のお姫さまは自分の感性に正直に行動しました。お姫さまは「この男は自分の醜さが分からないんだ」と思い、「醜いこの人にイジワルをして身の程を分からせてやろう」と考えた、だからわざわざ男にまりを取ってきてもらい、わざわざ約束を破り、「おまえなんか、その程度の扱いしか受けられないほど醜いんだぞ」と教えてあげたのです。なんと親切なのでしょう。
 「カエルのような風貌の醜い男」はタダでお姫さまにイジメていただけて幸せです。まともな人間だったらここで改心することでしょう。
「ああ、僕はお姫さまにまともに相手をしてもらえる身分ではないのだなあ……悲しいなあ…つらいなあ…悔しいなあ……でも、そのことをわざわざ教えてくれたお姫さまって、とても親切だなあ…………よし、今はダメな男だけど、僕はいつかお姫さまにまともに相手をしてもらえるような男になるぞ!」
と、自分の現在の立ち位置を確認し、いい男になるための修行を始める、通常ならばそういうハッピーエンドを迎えるところです。

 
 ところがどうでしょう?男はお姫さまの親切に感謝するどころか、「約束を守れ!」とお城に押し掛けてくるのです。親切でイジメテもらったのに、男はその恩を仇で返したのです。なんと恥知らずなのでしょう!そんなんだから他人からまともに相手にされないのです。他人からまともに相手にされないくせに、親切な人が相手をしてくれたらその親切な人を踏みつけて優越感に浸ろうとするとは、極めて薄汚い、卑劣な人間です。「てめえ、立場わかってんのか!!」です。世の中にはわざわざお金を払ってまで女王様にムチでおケツをぶっ叩いてもらっている哀れな男もいるというのに、男はお姫さまにタダでイジメてもらったことを感謝もせず、あろうことか逆ギレしたのです。正気の沙汰ではありません。
 

 かなり感情的になってしまって何が何やらよくわからなくなってしまったので、簡単にまとめます。

 『カエルの王さま』物語冒頭のお姫さまと「カエルのような風貌の醜い男」とのやり取りにおける問題点とは、「美しいお姫さまが親切にも男に醜さを自覚させ、美しくなるための道さえ示してくれたにも関わらず、醜い男が逆ギレした」ことです。この事に対して私は「気持ち悪い」とか「イヤだ」とか言っていたのです。
 
 
 

 今回はここまでです。物語冒頭の問題点が分かったところで、次回はお話を先に進めていきたいと思います。

【本編⑥】詩的表現が『わかる』ー和田アキ子の怯えー

寒い日と暖かい日が交互に続き、三寒四温という言葉が実感されるこの頃ですが、皆さまいかがお過ごしでしょうか?

 前回は『カエルの王さま』を読みながら「美醜の問題」をお話ししましたが、今回はその続きです。

 「カエルのような風貌の醜い男」の「醜い」は容姿のことですが、その容姿とは「生まれもった容姿」ではなく「外見に現れた男のあり方」を指していました。男のあり方に問題があり、それが服装や肌や表情といった外見に醜く現れているのですね。
 今回は現実における「醜い男」の一例を挙げて、醜いあり方とはどういうものかを具体的に想像していただこうと思います。

 その具体例とは稲田直樹です。
 


②-c和田アキ子の怯え

 稲田直樹とは吉本興業所属のお笑い芸人です。同じく吉本興業所属の河井ゆずると二人で「アインシュタイン」というお笑いコンビを組んで漫才をしています。私は「アインシュタイン」の漫才を観たことがないので面白いのかどうかよくわかりませんが、数々の賞を受賞しているらしいので、それなりに面白いのだと思われます。
 私がなぜよくわからないお笑い芸人を取り上げたのかと申しますと、この稲田直樹が「ブサイク芸人」として有名だからです。実際、稲田直樹は「吉本ブサイク芸人ランキング」(及び上方漫才協会大賞ブサイク芸人ランキング)で何度も1位を獲得している人で、大変特徴的な外見をしています。極端にしゃくれた顎、並びが悪くボロボロの歯、色の暗い肌、薄い頭髪などを持ち、1度見たら忘れられない顔です。   
 しかし、私は稲田直樹が特徴的な顔だから「醜い男」の例に挙げたのではありません。
 皆さんは稲田直樹のような特徴的な顔を持つ人にあまり会ったことがないかもしれませんが、「あまりない」だけであって、何人か特徴的な顔の人に会った経験はあるでしょう。特徴的な顔の人に対して、会った当初は「変わった顔だな」と思って驚いたと思います。人は自分の知らないものに驚いたり、知らないことを怖がったりするものです。それでも何度か会って相手の人となりが分かってきたら、見た目にだんだん驚かなくなり、怖くもなくなります。見慣れたら驚きませんし、分かれば怖くないからです。このように顔面の造形が特徴的だと見慣れないから驚くことや分からないから怖がることはありますが、「顔面の造形が特徴的」=「醜い」にはなりません。
 それではなぜ私が稲田直樹を「醜い男」の例に挙げたのかと申しますと、稲田直樹は「ブサイク芸人」として有名で、「ブサイク」を名乗る芸人のあり方に醜さが隠れているためです。
 

 
 そもそも芸人とは芸を売り物にする職業のことです。お笑い芸人とは漫才をする漫才師やコントをするコメディアンのことですが、通常、お笑い芸人の顔面の造形は細工がよかろうが悪かろうが問題とされません。客が芸人に求めるのは「芸」であって「顔面の造形」ではないからです。客は芸人がいかに見事な芸を見せてくれるかを期待して劇場に足を運びます。客は舞台で芸人の見せる芸が面白ければ喜び、つまらなければガッカリしますが、芸人の顔面の造形なんかどうでもよいと思っています。客が「顔面の造形」を求めるとしたら美男や美女の役を演じる俳優です。だから二枚目俳優を見たい人はテレビドラマや映画や演劇の舞台を見ます。
 ところが、お笑い芸人たちやその周囲の人間たちは何かを勘違いしていて、「お笑い芸人には二枚目俳優や美女役の俳優と同じような顔面の造形が求められているはずだ」と考えているようなのです。
 「吉本ブサイク芸人ランキング」で稲田直樹は1位を何度も獲得していると先ほど申し上げましたが、吉本興業のランキングものは他にもあって、それは「吉本男前芸人ランキング」です。こちらのランキングには稲田直樹の相方である河井ゆずるが上位入賞を果たしておりますが、そもそもお笑い芸人の顔面の造形をあれこれ言うランキングの存在はヘンです。顔面の造形が求められるのは二枚目俳優や美女役の俳優のはずです。俳優の「美男ランキング」や「美女ランキング」が存在するのなら分かります。また、芸人に求められるのは芸の見事さなので、「芸人おもしろランキング」や「漫才上手ランキング」が存在するのなら、これもわかります。しかし芸人の「ブサイクランキング」と「男前ランキング」の存在は意味不明です。芸人に顔面の造形など求められていないにも関わらず、まるで顔面の造形が求められているかのようにランク付けをする企画はヘンです。ヘンですが、実際に存在してしまっています。こんなランキングが存在する理由は、お笑い芸人たちやその周囲の人間が「お笑い芸人には二枚目俳優や美女役の俳優と同じような顔面の造形が求められているはずだ」と考えている、それしかありません。まるで自意識過剰な中学生の発想ですが、ヘンなランキングが存在する以上、そういうことになってしまいます。
 
 
 「ブサイク芸人」は「お笑い芸人には二枚目俳優や美女役の俳優と同じような顔面の造形が求められているはずだ」ということを前提に存在することが分かりましたが、これで困ってしまうのは客で、芸人の過剰な自意識に巻き込まれて嫌な思いをすることになります。
 例えば、皆さんがお笑い芸人の漫才を観に行って、そこに「ブサイク芸人」なるものが登場したとします。この「ブサイク芸人」は自分の顔が醜いと言って嘆いています。皆さんはそれを聞いて「あんたの顔面なんて、別にどうでもいい」と思って、ただ「おもしろい漫才が観たい」と思って観ています。漫才をみていると、芸人はそこここに自分の顔に対する嘆き節を入れてきます。「これは一体なんだろう?」と皆さんは困惑して「ブサイク芸人」の顔を見てみますと、なんだか目付きが悪いです。その顔はなんだかよく分からないけど怖いです。皆さんは「いやだなあ」と思いますが、なぜ芸人がそんな目付きをしているのかよくわからないので「もしかしたら、あの顔付きは漫才の一環で、しばらく観ていたら嫌な顔付きの理由がわかるのかも」と考えて静観します。しかし、嫌な顔付きの謎が解けないまま漫才は終わってしまい、「なんだったんだ?」と釈然としないまま帰ることになります。
 「ブサイク芸人」は「お笑い芸人には二枚目俳優や美女役の俳優と同じような顔面の造形が求められているはずだ」ということを前提に存在しているため「客は俺のことを醜いと思っているはずだ」と考えて防御の姿勢をとります。それが自分の顔に対する嘆き節です。さらに「俺のことを一方的に醜いと思いやがって、このやろう!」という客に対する敵意が生まれ、目付きが悪くなります。
 それに対して客はお笑い芸人の顔面の造形なんてどうでもよくて、おもしろい芸が観たいだけです。客は「お笑い芸人には二枚目俳優や美女役の俳優と同じような顔面の造形が求められているはずだ」と考えている「ブサイク芸人」の胸のうちなんか知りません。客は勝手な前提を作られて、勝手に嘆かれて、勝手に睨まれるのです。たまったものではありません。
 稲田直樹の醜い点は、相手のことを考えずに勝手な前提を作って一方的に相手に敵意を抱き、歪んだ顔を向けている、その点です。これが「外見に表れた男のあり方」が醜い例です。
 
 

 この過剰な自意識の被害者も例に挙げておきましょう。それは和田アキ子です。
 
 私が以前日曜日のお昼にテレビを見ていると、『アッコにおまかせ』にアインシュタインの二人が出演していました。『アッコにおまかせ』は歌手の和田アキ子が司会を務めるお笑い系ニュース番組なのですが、その放送のなかで和田アキ子稲田直樹に向かってこんなことを言っていました。

「おまえ、初めて見たときはビックリしたけど、慣れるとなかなかかわいく見えるな」

 この和田アキ子の発言は、顔面の造形が特徴的だと見慣れないから驚くけど、相手の人となりが分かってくればもう驚かない、ということを意味します。
 しかし、和田アキ子の発言が意味することはそれだけでしょうか?長年芸能界で生きてきた和田アキ子は顔面の造形が特徴的な人には何度も会って慣れているはずですから、そうそう驚かないし怖がらないはずです。その和田アキ子が自分よりずっと年下の稲田直樹に「ビックリした」理由は「顔面の造形が特徴的だから」という単純なものではないでしょう。そして稲田直樹は「ブサイク芸人」を名乗るヘンな芸人です。「ブサイク芸人」は過剰な自意識で他人に敵意を向ける困った存在です。これらの事実を合わせて考えると、和田アキ子は「『ブサイク芸人』に勝手な敵意を向けられて、その理由が分からず怯えた」、それが「ビックリした」という発言に表れたのでしょう。

 


 物事の筋目を見誤ると、女番長を怯えさせるほどの醜さを産み出しかねない、今回はこのことを覚えておいていただけたらと思います。
 
 そして今回で「美醜の問題」は終わりです。次回からは『カエルの王さま』をまた読んでいきます。




 終わりに、稲田直樹について書き足したいと思います。

 稲田直樹は芸人になるまで自分の顔面の造形が特徴的だということに気付かなかったそうです。それも当然で、稲田直樹は二枚目俳優をやっていたわけではないので、誰からも整った顔面の造形を要求されなかったからですね。そして、芸人になって自分の顔について嘆いたら客が喜んだため「ブサイク芸人」になったそうです。おそらく客が「喜んだ」のは見慣れぬものに対する不安を稲田直樹が解消してくれたからでしょう。最後に、稲田直樹は漫才の中で自分の顔を嘆くことを減らしているそうです。客が芸人の過剰な自意識を嫌がり、面白い芸を見たがっているだけだということがわかったからでしょうね。
 
 もう「ブサイク芸人稲田直樹」はいないようです。稲田直樹には今後も芸人たちのつまらない自意識に巻き込まれず、芸に精進していって欲しいものです。

【本編⑤】詩的表現が『わかる』ー再び『カエルの王さま』ー

 東京・千葉は暖かくなり、20度を越える日もございましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか?

 
 この続き物のブログも六回目になりましたが、そろそろ皆さんはお疲れかと存じます。と申しますのも、このブログの題名は「詩的表現が『わかる』」で、グリム童話『カエルの王さま』に書かれている詩的表現を一般人に分かるように読み解いていく、という趣旨だったはずなのに、いつの間にか人の内面を分析する抽象的な話になっているのです。疲れるはずです。正直なところ、私も疲れて嫌になってきました。

 そこで今回からは『カエルの王さま』の読み解きに戻りたいと思います。まだ「美醜の問題」のうちの「美醜の判断」のお話が終わっておりませんから、中途半端だという印象を受けるかもしれません。しかし「美醜の判断力」をつけるには実践が1番よい方法です。『カエルの王さま』を読み解きながら、「美醜の判断」についてお話ししていきたいと思います。

 以下に「美醜の問題」の項目を再掲します。


①美醜の語りづらさ
 A.生活優先
 B.「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳
 C.中学生の横暴
 D.怠け者の理屈とズルい取引
②美醜の判断
 a.「頭がよい」人
 b.「容姿」は生まれつき
 c.和田アキ子の怯え



②-b「容姿」は生まれつき
 さて、『カエルの王さま』の読み解きを進めたいと思いますが、みなさんは話の内容をもうとっくにお忘れかと存じます。なにしろ2ヶ月も前のことですからね。以下に粗筋を再びお書きしますので、それを読んで思い出していただきたいと思います。

 

 昔あるところに1人の王さまが住んでいました。王さまにはお姫さまがたくさんいましたが、末のお姫さまはとても美しい方でした。
 このお姫さまはお城近くの森でまりつき遊びをすることを好んでいましたが、あるときこのまりが泉の中に落っこちてしまいました。お気に入りのまりを失ってお姫様がしくしく泣いているとカエルが現れ、まりを取ってきてくれると言いました。お姫さまはカエルのお友達になること、一緒の食卓で同じ食器で食事をすること、一緒の床で寝ることを条件にカエルにまりを取って来てもらいました。ところがお姫さまは約束を破り、カエルを置いて帰ってしまいました。
 明くる日、カエルはお城まで追いかけてきてお姫さまに約束を果たすよう言いました。お姫さまは嫌がりましたが、事情を聞いた王さまはお姫さまに約束を守るよう言いつけました。お姫さまは仕方なくガマンしてカエルと一緒に食事をしましたが、一緒に寝るときになってお姫様はガマンしきれなくなり、カエルを壁に叩きつけました。するとカエルは人間の王子さまになりました。実はカエルは悪い魔女の魔法にかけられていた王子さまだったのでした。二人は結婚して王子さまの国で幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。

(参考図書:「完訳 グリム童話集1」金田鬼一訳 岩波文庫 1979年改訂)


 
 粗筋は以上です。そうです、こんな話でした。
 粗筋を思い出したのはよいのですが、どこまで読み進めたのかということは覚えておいででしょうか?粗筋を忘れているくらいですから、どこまで読んでいたのかもお忘れのことと存じます。そこで、私が【本編①】詩的表現が『分かる』ーカエルの王さまー の中でお話ししたことも短くまとめます。
 
 
 初めに、『カエルの王さま』の冒頭でお姫様がカエルとごく自然に会話していることに注目し、「現実でカエルが口を利くことはない」という当たり前の事実を確認しました。詩人の常識外れの言動に惑わされないように、当たり前の事実を確認して我々一般人の結束を固めたわけです。「現実でカエルが口を利くことはない」という事実から、お姫様はカエルと話していたのではなく「カエルのような風貌の醜い男」と話していると考えるのが妥当だということになりました。
 次に、お姫様と「カエルのような風貌の醜い男」との会話の内容が問題になりました。『カエルの王さま』の中でカエルは金のまりを取ってくる代わりに、お姫様に対して「お友達になること、一緒の食卓で同じ食器で食事をすること、一緒の床で寝ること」を要求していました。カエルを「醜い男」だと考えると、この要求は「デートしろよ、飯行こうぜ、寝ようぜ」すなわち「俺の女になれよ」になりました。この事に対して、私は以下のように書きました。


……「カエルのような風貌の醜い男」がお姫さまに「俺の女になれよ」などと言っているのです。ギョッとします。醜い男が若くてきれいな女の子に男女の仲を迫るという状況は、想像するだにおぞましいです。普通なら「気持ち悪い」だとか「嫌だ」とか嫌悪感を覚えます。「ちょっと嫌だけど…」どころではなく「心底嫌だ」です。『カエルの王さま』は童話なのに冒頭から恐ろしい場面を描いていたのですね……


 私は男に対して「醜い」だとか「気持ち悪い」だとか「おぞましい」だとか散々悪口を書いております。そのため皆さんは「そんなこと言ってしまって大丈夫なの?」と怖じ気づき、二の足を踏んでしまった。しかし『カエルの王さま』は「美しきものは善であり、醜きものは悪である」という精神に貫かれたお話であり、美醜の判断ができないと読み解けません。だから私が皆さんに「美醜の問題」を話すことになった、そういう経緯でした。
 思い出していただけましたか?「ああ、そうだった」という方はこのまま読み進めてください。「そうだったっけ?」と思い出せない方は、もう一度【本編①】をお読み下さい。このブログの更新はゆっくりですから、時間はたっぷりとございます。焦らずに戻って読み返してみましょう。
 
 

 さて、ここまでブログを読んできた皆さんは、人を「醜い」と判断することに対して抵抗感が減っていると思います。もう「カエルのような風貌の醜い男」の醜さを直視することもできましょう。それではこの男の見た目について考えていきましょう。
 
 皆さんは「カエルのような見た目」と言われて、それがどんなものか想像できるでしょうか?一口に「カエル」と申しましても様々な種類があって、アマガエル、トノサマガエル、ウシガエル、アカガエルなどございますから、どのカエルを思い浮かべればよいのか迷うでしょう。ですが「醜い」といったらヒキガエルです。この男はヒキガエルのような見た目をしていると考えられます。
 
 なぜヒキガエルかと申しますと、まずはその神秘性です。謎のカエルである「ガマガエル」の正体がヒキガエルではないかと言われていて、そのためヒキガエルには神秘的な色がまとわりついています。
 「ガマガエル」とは日本や中国で昔から名前が知られているカエルのことです。落語「ガマの油」にその名が現れるので、ご存知の方も多いかと存じます。「ガマの油」とはガマガエルの体液から作られる万能薬です。万能薬の材料になるのですから、とても不思議な生き物です。ところが、ガマガエルはその存在が不確かです。私はてっきり「ガマガエル」という種類のカエルがいるものだと思っていたのですが、調べてみてもそんなカエルは見つかりませんでした。どうやらガマガエルは龍や河童や天狗のような伝説の存在のようです。
 ただ、このガマガエルはヒキガエルのことではないかと言われています。根拠もよくわからない説ですが、もしガマガエルのモデルがヒキガエルなのだとすると、ヒキガエルには昔の物語に出てくる幻の生き物の神秘性がまとわりついてきます。グリム童話も昔の物語ですから、そこに登場する謎のカエルはきっとヒキガエルでしょう。
 
 次にその見た目です。ヒキガエルの皮膚は茶色に黒のまだら模様です。粘液に覆われてヌルヌルしており、ブツブツとイボもついています。そんな見た目の生き物には近づきたくないし、触りたくもないという方が多いのではないでしょうか。「ヌルヌルイボイボの両生類なんていくらでもいるぞ」と思う方や、反対に「カエルなんてみんな気持ち悪いよ」と思う方などは、ヒキガエルを醜いカエル代表扱いすることに異論があるかもしれません。しかし、ヒキガエルが我々に親しみを抱かせる見た目ではないことにはご同意いただけるかと思います。大事なのは次です。
  
 ヒキガエルが醜いと言われる3つ目の理由は、人間に似ていることです。
 ヒキガエルの顔は、への字に結ばれた大きな口と細い黒目が特徴的です。への字に結ばれた大きな口は、なにかに不満を抱いていて不機嫌であることを表しています。眼球は大きくて目立つのに黒目の部分が細いので、まるで目を細くしてにらんでいるように見えます。この細い黒目とへの字の口許から、ヒキガエルは何かこちらに対して良からぬことを考えているのではないかという恐い印象を受けます。そして体型はずんぐりむっくりしているため、太った小男のようです。
 まだらでヌルヌルイボイボした肌の太った小男が不機嫌そうな顔でこちらをにらんでいる、しかも正体の分からない怪しい男である、ヒキガエルはこのように人間に似ているのです。人間とはかけ離れた動物だったら「醜い」とは言われません。通常、人は自分とは関係のないものに対して美醜を言うことがありません。関係のないものにはあまり興味が持てず、美醜の判断をしようという気が起こりませんからね。それに対してヒキガエルは人間に似ているため、関係のあるものとして人に迫ってきます。だから人に「醜い」と言わせるほどの興味をかきたてるのです。



 『カエルの王さま』に出てくる「カエルのような風貌の醜い男」はヒキガエルのような見た目で、「まだらでヌルヌルイボイボした肌を持つ太った小男」で、「不機嫌そうな顔でこちらをにらんでいる」、しかも「正体の分からない怪しい男」であることがわかりました。そんな男が若く美しいお姫様に「俺の女になれよ」と言ったのですから、私が「嫌だ」とか「気持ち悪い」とか「おぞましい」とか言っていた訳が分かっていただけたでしょうか?


 
「うーん、でもやっぱり見た目で人を差別しちゃいけないんじゃあ……」
 まだそんな風に考えている方はいらっしゃいますか?いらっしゃいませんか?きっとまだいらっしゃるでしょうねぇ……
 仕方がありません。ではここから「カエルのような風貌の醜い男」の何がいけないのかを書き立てていき、みなさんのためらいを払拭したいと思います。
 
 
 まずはその服装です。
 ヒキガエルは茶色に黒のまだら模様をした皮膚をしていますが、これをそのまま男の皮膚の状態とすることは出来ません。ヒキガエルは裸のため全身の皮膚がむき出しですが、男は人間のため、服を着ているからです。したがって「茶色に黒のまだら模様」なのは男の皮膚ではなく服装なのです。では、茶色に黒のまだら模様をした服とはどんな服かと申しますと、汚れた服です。この男は性格が暗いため、暗めの色、目立たない模様の服を着ています。それは「茶色」の服です。そして身なりを気にしないため、服を洗っていません。そのため服は汚れて「黒のまだら模様」が付きました。汚ないですね。きっと風呂にも入っていないでしょうから、顔や手といった皮膚がむき出しになっている箇所も「茶色に黒のまだら模様」に汚れているかもしれません。
 
 次にその肌です。今申し上げましたが、この男は風呂に入っていないため肌が汚れて黒ずんでいる箇所があります。それだけでなく、脂でベトベトしております。いえ、ベトベトを通り越してヌルヌルです。
肌が脂まみれだったらニキビもできます。そのためイボイボがあります。
 
 そして性格です。この男は自分の服装や衛生状態に無頓着です。ダサくてばっちいヤツですが、自分が他人からどう見られているかということを気にしていないため、本人は全く気にしておりません。なんで他人の目を気にしないかというと、この男は「他人」が分からないからです。この男にとって、世界に存在する人間は自分ただひとりであり、「他人」が存在しないのです。たとえ他人のようなものがいたとして、それは背景の書き割りか小道具のようなもので、その他人を人間だと思っていません。人間ではない背景や小道具から見つめられたり「汚い」と言われたりしたところで平気です。だからこの男は自分がダサくてばっちくても平気なのです。
 
 他人を人間とは認めていない正体不明の男が不機嫌そうな顔でこちらをにらんでいると考えると、大変恐ろしいです。何をたくらんでいるのか、良からぬことをするつもりなのではないか、周囲の人間はそう考えて怯えます。そんな風に周囲の人間を怯えさせていて平気でいられるダサくてばっちいヤツは「醜い」と言われてしかるべきでしょう。以上が、私が「カエルのような風貌の醜い男」のことをケチョンケチョンに言っていた理由なのです。


 

 ついでに、ここで皆さんが男の容姿を「醜い」と判断することをためらった理由もお話ししたいと思います。皆さんは「『容姿』は生まれつき」と思っていて、「人が生まれもった外見を『醜い』なんて言ったらかわいそうだ」と考えていたのです。
 皆さんは「努力」を重視しています。性格、運動能力、服装、化粧の仕方などの努力次第である程度なんとかなるものは努力によって磨くべきだとお考えです。性格、運動能力、服装、化粧の仕方などを向上させようとしない「努力嫌い」の人に対しては、非難の目を向けることにためらいはないでしょう。
 反対に、皆さんは努力によってはどうにもならないことに文句をつけはしません。努力によってどうにもならないことの一例が「生まれもった容姿」です。人の顔や体型は骨格によって決まっています。「顎が出ている」「鼻が低い」「顔が大きい」「足が短い」「背が低い」といった、一般的によしとされない容姿の特徴は、栄養状態にもよりますが、ほとんど生まれつきのものです。皆さんはまさか「努力が足りないから背が低いのだ」とか「努力が足りないから顔が大きいんだ」とか、おっしゃることはないでしょう。一般的によしとされない容姿は生まれつきのものであるため、その容姿を持っている人を「努力が足りない」と非難することなど出来ないでしょう。
 皆さんは、私が「カエルのような風貌の醜い男」のことを「生まれもった容姿が醜い」と言っていると考えていたと思います。だから私に対して「それはひどいんじゃないの?」と考え、男の容姿が「醜い」と判断することをためらったのです。
 
 しかし、上でお話ししたように、私が「醜い」と言っていたのは「外見に現れた男のあり方」でした。これは生まれもった容姿とは関係がありません。性格や感性や価値観といった「男のあり方」がまだらの服装やヌルヌルイボイボした肌となって外見に現れている、こういうことでしたら皆さんも男を「醜い」と断じることができるでしょう。
 
 私が「醜い」と言うのは「外見に現れた男のあり方」です。このことをよく覚えておいていただきたいと思います。

 


今回はここまでです。
次回、最後に残った②-c「和田アキ子の怯え」をやっつけてしまいます。やっつけてしまう程度の内容で申し訳ありませんが、「美醜の問題」にもう少しお付き合い願いたいと存じます。

【本編④】詩的表現が『わかる』ー頭がよい人ー

 今回も前回の続きです。

 『カエルの王さま』を読み解いている途中で美醜の判断を皆さんに下してもらう必要が生まれましたが、それはなかなか難しいことでした。そのため、先に「美醜の問題」を片付けてしまおうということで前回まで「美醜の語りづらさ」の原因を説明して参りました。

 ①-Aでは皆さんが生活を優先するあまり美醜についてよく考えてこなかったことが原因のひとつだとお話しし、①-BとCでは「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳の存在が原因の2つ目だとお話ししました。①-Dでは「他人の醜いところを指摘しない代わりに自分の醜いところを指摘されない」というズルい取引をしてしまったことが3つめの原因だとお話しました。

 皆さんが美醜について語りづらい原因をご説明しましたので、皆さんは自分自身の状況をある程度は掴めたかと存じます。

 ここからは「自分の美醜に関する判断が正しいのかどうか迷う」こと、すなわち美醜の判断の問題についてお話ししていきたいと思います。
 
 以下に項目を再掲します。

①美醜の語りづらさ
 A.生活優先
 B.「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳
 C.中学生の横暴
 D.怠け者の理屈とズルい取引
②美醜の判断
 a.「頭がよい」人
 b.「容姿」は生まれつき
 c.和田アキ子の怯え

 

②-a.「頭がよい」人
 
 皆さんが美醜の判断に迷う原因の1つは、昔に比べて皆さんの頭がよくなり美醜のことがよくわからなくなってしまったことです。意外かもしれませんが、人は頭がよくなると美醜のことがよくわからなくなってしまいます。
 
 「頭がよい」というと、勉強ができる、考える力がある、仕事の段取りがよい、要点を押さえた説明ができる、先のことを予測できる、行動に無駄がない、相手の気持ちを汲み取れる、論理的である、などといったよいイメージがあるかと思います。「仕事ができる」といってもよいですが、それは頭のよさに由来するものなので、ここでは「頭がよい」という言葉を使いたいと思います。
 
 「頭がよい」人は生まれつき頭がよいのだと思われがちですが、実は産まれたときは頭がよくはなく、頭がよくなるための鍛練を積んだために頭がよくなったのです。人は産まれたときは皆等しく「頭がよくも悪くもない」人で、鍛練を積んだか積んでないかによって頭がよくも悪くもなるものです。その「鍛練」とは何かというと「自分の感情を抑えて事実を客観的に見る」というものです。
 
 「事実を客観的に見る」というと、①-Cでお話しした中学生の自己形成の仕方と似ています。他人の目を考えたり現実と格闘したりして、客観的な指標による自己評価をする、というものでしたね。中学生の自己形成と頭がよくなるための鍛練は基本的には同じものです。この2つのどこが違うのかと言いますと、「他人の目」や「現実」の範囲です。中学生の自己形成における「他人の目」「現実」の範囲は自分の家・学校とその周辺だけで、そこにいる人は自分の家族・親戚・友達・学校の先生などです。こう書くとひどく狭いように感じられますが、普通の人間が生きていくにはこれくらいで足ります。
 
 頭がよくなるための鍛練における「他人の目」「現実」は自分の家、学校だけでなく、学校の勉強内容、大人の会話、新聞・テレビ・本・インターネットからの情報が加わります。これらは中学生の周囲にだって存在しますが、普通の中学生は自分の興味のあること以外、これらのほとんどを「自分に関係ないもの」として処理するため、存在しないに等しいです。頭がよくなるための鍛練をしている人は自分の興味のないことであっても、これらを「自分に関係あるもの」と考え、自己形成の糧とします。

 例えば、学校で習う国語の文法です。これは学校の授業におけるつまらないものの代表格です。皆さんも文節・主語述語・修飾語・動詞形容詞形容動詞・活用・副詞・助詞助動詞・敬語などを学校で習った覚えがあると思います。国語の文法には「文節は『ネ』を挟める箇所で区切る」「主語と述語はきちんと対応しなくてはならない」「動詞は語尾を活用する」「『まるで』は『~のようだ』と一緒に使う」「『とか』は2つ以上セットで使う」「謙譲語は自分を一段低くするときに使う」など数多くの規則がありましたね。通常はこんなつまらないものをたくさん覚えていられないので、テスト前に暗記して、テスト後には忘れてしまいます。
 
 「頭がよくなるための鍛練」をしている人にとっても、もちろん国語の文法はつまらないものです。つまらないから嫌で、暗記なんかしません。それでもこの人はテストで好成績を修める上にテスト後も忘れることがありません。なぜかというと、この人は文法規則を「頭の中に入れる」ことはせず、実際に「使っている」からです。文章を書くときには主語述語の対応に注意する、『まるで』と『~のようだ』を一緒に使う、『とか』は2つ以上セットで使う、尊敬語と謙譲語を区別する、などといったことを実際にしています。人との会話のときも、文章ほど厳密には考えませんが、ある程度国語の文法を意識しながら話をします。実際に使っているのだから国語の文法は身に付き、暗記なんかしなくても覚えていられるし忘れることはありません。
 
 「頭がよくなるための鍛練」をしている人は現実的です。普通の中学生が「先生は頭がおかしいから意味もない文法の暗記なんかを僕たちにさせるんだ!」と考えている一方で、この人は「現実を生きている大人がそんな無意味なことするわけないだろう」と考えます。そして「大人が『覚えろ』と言うことは必ず現実で使われているはずだ」と推測し、「現実で使われているものは自分も使えるようにならなくてはいけない」と自分の身に付ける方向へ動き出します。「推測」とお書きしましたが、この人は「大人の様子」、例えば両親や親戚、近所の人、友達の親、学校の先生、またテレビ・インターネットで目にする人々、新聞・本の文章に登場する人々とその文章を書いている人々などの言動をもとに「推測」しています。多くの例を参照していますから、その推測にはかなりの確証があり、一見つまらなくて役に立たなそうな国語の文法でも一生懸命身に付けようと努力出来るのです。

 「頭がよ」くなるための鍛練には「自分の感情を抑える」ことが必要です。国語の文法の話で言うと、この人は「つまらない」という自分の感情を自分の行動の基準としていません。その代わり、文法の勉強の必要性を示す「大人の様子」を行動の基準としています。「自分」より自分を導く「大人」の判断を優先しているのですね。「自分の感情」のままに行動する人と「大人の判断」に従って行動する人のどちらがより高い能力を身に付けられるかというと、もちろん後者です。「頭がよい」人はこのような鍛練を続けることで頭がよくなったのです。



 「頭がよい」人は高い能力を身に付けることに成功した人ですが、うまくいかなかったこともあります。それが「美醜の判断」です。
 
 「美醜」は人の感性に関することです。美醜の判断は充分に感性が育っている人間がすることです。「自分の感情」を抑えてきた「頭がよい」人には感性が充分に育っていませんから、美醜の判断ができません。「頭がよい」人が「美醜の判断」をできるようになるためには「自分の感情」を解放して感性を育てていく必要があります。
 
 しかしここが難点です。「頭がよい」人は「自分の感情」を解放することが簡単にはできないのです。その理由は3つあります。
 
 
 1つ目は「今までの自分のやり方を変えたくない」ことです。「頭がよい」人は「自分の感情を抑えて事実を客観的に見る」という方法で頭がよくなり、高い能力を獲得してきました。「獲得して『きました』」とお書きしたのは、長い時間をかけて自分を鍛えてきたことを強調するためですが、長い間続けてきたことは簡単にやめることができません。
 
 習慣を変えることは不安です。習慣は、そのやり方で上手くいくからこそ習慣となった方法です。習慣を身に付けている人は通常、「今までのやり方で上手くいってきたのに、やり方を変えて失敗したら嫌だな」と考えます。ですから習慣になっていることをやめるには、相当の理由がなければいけません。
 
 美醜とは「趣味」です。「趣味」は「仕事」に劣るという話は①-Aでしましたが、「頭がよい」人も「大人」に属しているため、「仕事」が「趣味」より優先だということを理解しています。「頭がよい」人は、「自分の感情を抑えて事実を客観的に見る」という方法を使って「仕事」の領域で成功を修めてきました。したがって、「頭がよい」人は「趣味」である美醜なんかのために「仕事」を成功に導いた「自分の感情を抑えて事実を客観的に見る」方法をやめようなどとは思いません。「頭がよい」人にとって「美醜」は、いままでのやり方を変えるほどの「相当の」理由にはならないのです。
 
 
 理由の2つ目は「バカだと思われたくない」ことです。「頭がよい」人は人前で感情をあらわにする人のことをだいたいバカだと思っていて、そのバカの仲間になりたくないのです。
 
 「頭がよい」人は現実的です。人の「感情」に関することは「趣味」の領域だと理解しています。そして「現実」に属する自分の「仕事」が第1で、「趣味」である「感情」は2の次だと考えています。そのため「現実」にある「仕事」をおろそかにして「趣味」でしかない「感情」に走る人をバカにしています。
 
 ここでご注意いただきたいのは、「頭がよい」人は「『現実』にある『仕事』をおろそかにして『趣味』でしかない『感情』に走る人」をバカにしているのであって、「人間の感情」そのものをバカにしているわけではないし、「仕事をきちんとした上で感情も豊かな人」のこともバカにしていない、という点です。
 
 ①-Aでもお書きしましたが、人は極端です。仕事が第1、趣味は2の次ですが、人は楽しい趣味に熱中して仕事をおろそかにする傾向があります。だから人は「趣味は仕事に比べて劣ったもの」という価値観を生み出し、生活が破綻しないための安全装置としました。仕事と趣味のどちらかに片寄りすぎず、バランスよく生活できることが理想ですね。
 
 「頭がよい」人は頭がよいので、自分が極端な性質を持った人間であることを自覚していますし、仕事と趣味のバランスがとれた理想の生活を目指したいと考えています。実は「頭がよい」人は趣味に属する「感情」も好きで、感情豊かな人間になりたいとさえ思っています。だから「感情豊かな人」をバカになどしておらず、むしろ憧れています。
 
 ところが、「頭がよい」人からすると、人前で感情をあらわにする人間は大抵の場合は仕事をおろそかにしている人間のように見えます。「頭がよい」人は「まともな人間なら、感情をあらわにするにしても『仕事をきちんとやった上で感情を出している』ことが見てとれるはずだ」と考えています。しかし「頭がよい」人は感情をあらわにするほとんどの人間から感情「しか」見てとれません。それもそのはずで、感情を発散しているときに人は「自分が感情だけの人間だと思われたら嫌だな。仕事もきちんとやっていることを示さなきゃいけない」なんてことをわざわざ考えませんし、「仕事もきちんとやっていることが分かる感情の表現」なんてできないからです。「自分が感情だけの人間だと思われたら嫌だな。仕事もきちんとやっていることを示さなきゃいけない」などと回りくどいことを考えるのは「頭がよい」人くらいで、「頭がよい」人なら「仕事をきちんとやった上で感情を出している」と示す能力があるかもしれませんが、一般人には無理です。ですから「頭がよい」人が人前で感情をあらわにする人から感情「しか」読み取れないのも当然です。

 このため「頭がよい」人は人前で感情をあらわにする人のことを、「仕事をおろそかにして趣味に走るバカ」だと考えます。そして「このバカどもと同じになりたくない」と考えます。ここで「頭がよい」人に「俺は『仕事をきちんとやった上で感情を出している』ことを示すぞ!」という気概があれば、バカどもを気にせず自分の感情を解放していけるのですが、それは身近に仲間となるような「頭がよい」人が他にもいて初めて可能なことです。仲間の理解があれば自分のやっていることに意味があると感じることができ、心強く、自分の道を進めます。しかし大抵の場合、「頭がよい」人は孤立しています。自分の感情を抑えてきた「頭がよい」人は、他人と気持ちを通じさせるということもしてこなかったので、孤立していることがほとんどです。たったひとりでバカどもの中に取り残されてしまった「頭がよい」人は多勢に無勢、バカどもに負けてくじけてしまいます。「きっと『仕事をきちんとやった上で感情を出している』と示したって誰にも分かってもらえない」と考えて、諦めてしまいます。「仕事をきちんとやった上で感情を出している」ことを示す道が断たれてしまった以上、感情の表現は「感情『しか』見てとれない」表現しか残りません。その表現を使うことは他のバカどもの仲間入りすることを意味します。「頭がよい」人はバカどもの仲間になることを拒否しますから、感情表現ができなくなってしまいます。
 
 「頭がよい」人が感情を解放できない理由には、その生真面目さと回りくどいものの考え方があるのです。
 

 3つ目の理由は、自分の才能に絶望していることです。
 
 私は「頭がよい」人にとって「『他人の目』『現実』は自分の家、学校だけでなく、学校の勉強内容、大人の会話、新聞・テレビ・本・インターネットからの情報」も加わるとお書きしました。先ほどはその例として国語の文法を挙げましたが、他にもたくさんあります。新聞を読むときには国内外の政治状況をチェックし、殺人・窃盗・汚職・詐欺などの社会的事件にも注目し、どこそこの企業の社長が交代しただの業績がどうだの株価が上がった下がっただのといった経済情報にも目を通します。新聞から得た情報をテレビやインターネットのニュースで再確認したり更に詳しい情報を調べたりします。本からは古今東西の物語や最新科学の知見、歴史上の偉人の生き方などを知ります。今はお堅い「情報」を挙げましたが、「頭がよい人」は新聞のスポーツ面とテレビ欄と四コマ漫画も読みますし、テレビのドラマやバラエティ番組、ワイドショーなども見ます。漫画も読めばライトノベルも読むし、週刊誌を読んだりネット掲示板に書き込んだりします。必ずしも目にしたことのすべてを理解しているわけではありませんが、多くの物事に興味をもって情報を取り込みます。「頭がよい」人にとっての「他人の目」と「現実」はこのようにとても多くの情報から構成されていて、その世界観はとても広いものです。
 
 広い世界観を持っていると多くのことが理解でき、物事を見通す力を持つことができます。理解力や物事を見通す力があるから「頭がよい」人は「仕事ができる」人になります。ですから一見すると、広い世界観を持つことはよいことのように思えます。しかし広い世界観を持つことには「自分がとても小さな存在だと知って無力感を覚える」という副作用があります。
 
 多くの物事を知ることの中には、多くの偉人を知ることも含まれます。「偉人」はエラい人やスゴい人のことで、生きている人も亡くなった方も含みます。「頭がよい」人は偉人が好きで、自分も偉人のように立派になりたいと考えています。そのため仕事に一生懸命打ち込み、高い能力を発揮することになりますが、これは仕事が得意分野だから可能なのであって、苦手分野となると話は別です。
 
 「頭がよい」人は感情を抑え込んでいるため感性が育っておらず、美醜の判断力がありません。美醜は芸術分野ですから、「頭がよい」人は芸術が苦手です。芸術が好きではあり、よくわかるようになりたいのですが、自分の中で芸術をうまく位置づけられないためモヤモヤしています。「芸術は好きなんだけど、なんとなく『いい』としか言えないんだよな」と。芸術分野にも偉人は多くいて、それは画家だったり役者だったり音楽家だったりします。「頭がよい」人にとって芸術家の偉人は理解を越えた存在です。仕事に関する偉人はある程度理解ができて目指すことも可能ですが、芸術分野の偉人は理解すらできません。そうなると、「世界中に芸術家がいて、みんなが芸術家を称賛しているのに、僕にはちっとも分からない…」と悲しくなってしまいます。
 
 どっかの「偉人」を見上げて劣等感を覚えているより身近なものを「美しい」と称えればよい、そう考える方がいらっしゃるかもしれません。もちろんその通りで、「頭がよい」人も同じように考えます。「頭がよい」人は広い世界観を持っていて、自分の身近なことも「自分に関係ある」と思っています。ところが困ったことに、「頭がよい」人は身近な「美しい」も分からないのです。

 例えば花です。花はそこら中にあって、学校や公園の花壇、街路樹、民家の庭などで栽培されていたり、野生で咲いていたりします。季節によって咲く花は変わっていき、1年中私たちの目を楽しませてくれます。今の時期ですと、東京・千葉では梅の花が咲き始めています。梅の花はそのかわいらしい姿とほのかな香りで、これからだんだん春が近づいてくることを告げ知らせてくれます。
 
 一般的に人は花を見ると「ああ、きれいだなぁ」と思って気持ちよくなります。ちょっと散歩してみればわかりますが、どこの家でも庭や玄関先には花があります。奥さんやおばさんやお婆さんがせっせと育てているのです。みな花が美しいと思っていて、庭を美しく飾ろうとしているのです。奥さんやおばさんやお婆さんたちは普通の人たちです。特殊な才能を持っているから「花が美しい」と感じることができるわけではありません。だってどこの家でも花を育てているのですからね。
 
 それに対して「頭がよい」人は花を見ても「ああ、きれいだなぁ」と思って気持ちよくなることがありません。花を見ると「花が咲いているな」とは思います。「花が咲いているな」は単に事実を認めただけで、そこから「きれい」や「かわいい」や「美しい」という気持ちが出てきません。たとえ「きれい」や「かわいい」や「美しい」と思ったとしても、それは「感じた」のではなく、「こういうものを一般的に『美しい』と言うのだろう」という事実の確認、もしくは推測です。
 
 「頭がよい」人は「頭がよい」という特殊能力を持った人です。長い間苦労して「頭がよい」という特殊能力を得たため、自分に自信を持っています。「頭がよい」ということはスゴいことですから、自信も持つことでしょう。ところが、その「スゴい」自分が「花が美しい」という当たり前のことを実感できないのです。普通の人々、奥様やおばさんやお婆さんたちにだって分かる「花が美しい」が、特殊能力を持っていて「スゴい」はずの自分には分からないのです。このことは「頭がよい」人を悲しい気持ちにします。

 「頭がよい」人は、自分から遠い「芸術」も自分に身近な「花が美しい」も分からないという事実を前にして、「僕には『美しい』を理解する才能がないんだ」と思い、絶望します。「頭がよい」人は広い世界観を持っているため、自分から遠い世界からも身近な世界からも自分の感性を否定されてしまったと思うと「世界のすべてから否定された」と思い、普通の人よりも大きな衝撃を受けてしまうのです。全世界から否定されたらそれは大変な衝撃でしょう。絶望した「頭がよい」人は無力感を覚え、「美しい」を理解することを諦めます。そのため感情を解放して感性を育てようという気が起こらないのです。


 
 「今までの自分のやり方を変えたくない」こと、「バカだと思われたくない」こと、「自分の『美しい』を理解する才能に絶望している」こと、以上3つの理由により「頭がよい」人は「美醜の判断」を諦めてしまっています。
 
 ここまで長たらしく分かりにくい文章を読んでこられた皆さんも、きっと「頭がよい」人でしょう。ご自分が「頭がよい」人なのだと自覚して、「美醜の判断」ができなくなってしまった理由をご確認いただければと思います。



 

 今回はここまでです。「美醜の問題」はあと1、2回で片付きますので、もうしばらくお付き合いいただければと思います。

【本編③】詩的表現が『わかる』ーズルい取引ー

今回も前回の続きです。


 『カエルの王さま』を読み解いている途中で美醜の判断を皆さんに下してもらう必要が生まれましたが、それはなかなか難しいことでした。そのため、先に「美醜の問題」を片付けてしまおうということで前回から「美醜の語りづらさ」の原因を説明して参りました。

 ①-Aでは皆さんが生活を優先するあまり美醜についてよく考えてこなかったことが原因のひとつだとお話しし、①-BとCでは「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳の存在が原因の2つ目だとお話ししました。下に「美醜の問題」の項目を再びお書きします。



①美醜の語りづらさ
 A.生活優先
 B.「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳
 C.中学生の横暴
 D.怠け者の理屈とズルい取引
②美醜の判断
 (②の細かい項目は今回は省略します。)

今回は①-Dからお話ししていきたいと思います。




①-D怠け者の理屈とズルい取引
 
 皆さんが美醜について語りづらい理由の3つ目は「ズルい取引」をしてしまったことです。

 

 私は前回①-Bで「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳のお話をしました。この道徳には醜い人間と直接喧嘩することを防いだり、横暴な中学生を抑えたりする役目があるということでしたが、「横暴な中学生」に再びご注目いただきたいと思います。
 
 思春期の中学生は現実と格闘することで根拠のある自信をつけて自己形成していくものですが、現実と格闘することなく自尊心ばかりを肥大化させていく愚か者がおります。後者は現実と関わっておらず、自分を客観的に評価できないため、その自尊心は「俺はエラい、なぜなら俺はエラいからだ」というヘンなものになります。そんなヘンなものを誰も認めるはずがございませんから、この中学生は自分のエラさを実際の行動によって証明しなくてはいけなくなります。どうやって証明しようとするのかというと、「他人を馬鹿にする」という横暴な振舞いによってです。「俺は人より上なんだ」と言えばそれが証明になると思っているのですね。バカですね。そんな嫌なものを見せつけられたらまともな人間は腹が立ちます。大人は「思い上がんなよ、このやろう!」との怒りをもって叱りつけます。このバカは色々な点について人をバカにするのでその都度叱られるのですが、人の見た目の悪口を言ったときは「人の見た目を悪く言うな!」と叱られることになります。前回はそういうお話でした。

 
 
 さて、横暴な中学生を叱りつけることには体力と気力が必要です。いくら叱りつけても懲りずに何度も同じことを繰り返すのが愚かな中学生ですから、叱る方は何度も同じことで叱らなくてはなりません。叱るのにも体力を使うので疲れます。また人を叱るということは人としての正しいあり方を他人に示すことですから、勇気がいります。その勇気を何度も示し続けなくてはならなかったら、気力が削がれます。ですが愚かな中学生を野放しにしておいてよいはずがないので、大人は叱り続けなくてはなりません。
 
 大人といっても疲れきってしまうと休みたい気持ちが出てきます。休んで体力と気力が回復した後にまた叱り出すのならよいですが、一旦休んだらそのまま休み続ける人もいます。これは「休む」ではなく「怠ける」です。怠けることは楽なので、人は簡単に「怠ける」に陥りがちです。しかしただ怠けていると他の大人に「怠けるな!」と叱られてしまうかもしれないし、「自分はよくないことをしているな」と自分で自分を責めることになるかもしれません。そのため、怠け者は怠けることを正当化する理屈が欲しくなります。その理屈の代表が「過去の自分も愚かだった、だから自分は今の愚かな中学生をあまり非難してはいけない」です。

 この理屈は巧妙です。人は誰しも完璧ではなく、特に若いときには悪いことをした覚えがあります。だから一見すると「過去の自分も愚かだった、だから自分は今の愚かな中学生をあまり非難してはいけない」というセリフは「自分は、かつて自分が愚かだったことを自覚している謙虚な人間なんだ」と周囲に示す言葉として聞こえてしまいます。謙虚さを示されると周囲の大人は困ります。「謙虚」とはよいことです。それを「悪い」とはなかなか言えません。謙虚さを否定したら、自分が傲慢な人間のように思えてしまいます。周囲の大人は「なんかヘンだなぁ…」と思いつつも怠け者に対して攻めあぐねます。
 

 
 周囲の大人が怠け者を攻めづらい理由は「謙虚さ」以外にもあって、それは「過去の自分も愚かだった、だから自分は今の愚かな中学生をあまり非難してはいけない」という言葉に隠された、あるズルさです。
 
 
 前回のブログでこの横暴な中学生の話を読んだときに、皆さんの中でギクリとした方はいらっしゃいませんでしたか?過去の自分を振り返って「自分も昔は横暴だったな」と考え、「この文章は過去の自分がやったことを責めているんじゃあないか?」と思って怯えた、そういう「ギクリ」です。
 
 過去の自分の過ちを責められることはつらいことです。過去のことは取り返しがつかないことがほとんどです。相手に謝ろうにも機会がないし、もう連絡が取れなくなっていることも多く、大抵の場合はどうしようもありません。過去の過ちを一旦認めたら、償う機会を持たないまま、一生その罪を背負って生きなければならなくなります。できることならば避けたいでしょう。
 
 自分が横暴な中学生を叱るときには、過去の自分と今目の前にいる横暴な中学生が重なって、自ら過去の自分の過ちを責めているような気分になるかもしれません。嫌なことです。人の過ちを咎めることにはこんな危険があるのですね。
 
 
 その危険を避ける簡単な方法があります。「なあ、俺はお前の悪いところを非難しないよ?その代わりにさあ、お前も俺の悪いところを非難しないで欲しいんだ」と言って、中学生や周囲の大人、自分の良心と「取引」するのです。もちろんズルです。この「他人を責めない代わりに自分も責められない」というズルい取引を交わしてしまったらもう自分は他人から責められる恐れがありません。
 
 そしてこの取引は魅力的です。人は生きていれば何らかの過ちを犯す可能性が常に付きまといます。良心を持った人ならば自分は過ちを犯しているのではないかと怯えたり、過去の過ちを後悔したりすることがあります。自分の過ちがバレなければよいですが、バレて人から責められたらどうしようと、常に不安を抱えビクついて生きています。しかし、周囲の人間とこの取引を交わせば、自分はもう責められることがありません。何か過ちを犯したとしても、他人は見て見ぬふりをしてくれるため、それを無かったことにできてしまいます。こうなったら「過ちを責められるのではないか」という不安が消えてしまうのです。なんとありがたいことでしょう。「他人を責めない代わりに自分も責められない」というズルい取引はとても魅力的なのです。
 
 怠け者の「過去の自分も愚かだった、だから自分は今の愚かな中学生をあまり非難してはいけない」という理屈の背後には「他人を責めない代わりに自分も責められない」という取引が潜んでいます。取引とはいっても、これは怠け者本人が心の中で勝手に交わしてしまった取引なので、契約書や口頭での約束などの具体的な形を取りません。私は先ほど、怠け者は「なあ、俺はお前の悪いところを非難しないよ?その代わりにさあ、お前も俺の悪いところを非難しないで欲しいんだ」と「言って」取引をすると申し上げましたが、実際にはこのセリフを「言い」ません。心の中でこのセリフを唱えて、一人決めしてしまう、それだけで取引が可能です。この取引は具体的な他人と交わすものではなく、怠け者が自分の頭の中で勝手に作り上げた架空の他人と交わすだけで成立するものなのです。「そんな馬鹿な!」と思うかもしれませんが、本人がそう思い込んでしまっている以上仕方がありません。こうして具体性を欠いた取引が成立してしまいます。

 具体的な形がない取引に対しては周囲の大人は無力です。止めさせようとしても、その止めさせる対象がないとなったら、どうしようもありません。

 また、下手を打つと周囲の大人もこの取引に巻き込まれます。怠けたい気持ちは誰の心にもあります。普段はその気持ちを抑えていますが、「他人を責めない代わりに自分も責められない」という取引を目の前にちらつかせられたらどうでしょう?とても魅力的な取引ですから、いつの間にか自分も取引をして怠け者になってしまっていた、ということは充分にありえます。怠け者には近づくこと自体が危険です。ですから通常は怠け者と距離を置くしか対処法はなく、怠け者を叱ってもとに戻すことは難しいのです。


 しかしこんな取引損だということは簡単にわかる話で、「他人を責めない代わりに自分も責められない」という取引には、事の成り行きとして「自分が被害を受けたときにその被害を訴えられない」ことと「他人が被害を受けたときに見て見ぬふりをする」こと、そして「自分が被害を受けたときに皆が見て見ぬふりをする」ことが含まれます。

 他人を責めないのですから、自分が被害を受けても相手を責めることはできません。自分以外の誰かが被害を受けていても、加害者を責めることをしませんから、ただ眺めるだけです。被害者から助けを求められても、どうしてやることもできません。そして被害を受けている他人を助けないのですから、当然自分も助けてもらえません。「自分の過ちを責められない」ことと「自分が被害を受けた時に自力で自分を守れず誰からも助けてもらえない」ことを取引してしまうことはどう考えても大損です。おとなしく自分の過ちを責められていた方がよいのではないかと思います。
 

 


 勘のよい方ならもうお気づきかと思いますが、美醜に関してもこれと似たようなことが起きます。
 
 
 美醜を語る際には、語られる対象だけでなく、それを語る自分の立ち位置も問題とされます。我々は神様ではなく、この現実を生きている人間なので、「自分だけは評価の対象にならない」などという特権は持てません。ですから美醜を語る際には「自分も美醜の評価の対象になる」という意識が必要です。
 
 「意識」というと自分の頭の中や胸の内にある見えないもののように思えますが、「『自分も美醜の評価の対象になる』という意識」は目に見える具体的な振る舞いのことです。人は通常、「自分も美醜の評価の対象になる」のだったら、「美しい」と評価されたいし、「醜い」と評価されたくないと考えます。そのため「自分も美醜の評価の対象になる」と考えている人は、美しくなろうとします。自分の身なりや表情、発言や行動に気を配って、周囲の人から美しく思ってもらえるようにします。「今の季節に合っていて、自分に似合う服を着よう」とか「気持ちを顔つきで表そう」とか「今の状況にピタリと当てはまる言葉はなんだろう?」とか「読む人が心地よくなる字を書こう」とか、考えて実行します。自分に自信のない方だったら、せめて自分の醜いところは減らそうと、やはり身なりや表情や発言・行動から醜いところをなくそうとします。「服のほこりは払っておこう」とか「きちんと相手の顔を見て挨拶しよう」とか「汚い言葉は使わないようにしよう」とか「相手が読める字を書こう」とか、控え目ながらも、考えて実行します。「『自分も美醜の評価の対象になる』という意識」があるかないかは、以上のように「美しくあろうとする振る舞い」または「醜いところをなくそうとする振る舞い」があるかないかで判定できる具体的なことなのです。
 
 したがって、美醜について語る資格があるのは普段から自分の美しさを磨いている人か、自分の醜いところをなくそうとしている人だけです。

 美しくあろうとする振る舞いや醜いところをなくそうとする振る舞いの見られない人が美醜の評価をしても、その評価は他人からあまり信頼されません。「自分も美醜の評価の対象になる」という意識がない人は、周囲の人から「この人は『自分だけは評価の対象にならない』と考えているのではないか?」と疑われます。「疑われ」ると書きましたが、この疑惑は正当です。「自分だけは評価の対象にならない」と考えているからこそ「自分も美醜の評価の対象になる」という意識=振る舞いが見られないという逆も真ですから。神様みたいな特権意識で美醜を語ったら、他人が信頼するはずはなく、鼻で嗤われるかもしれません。
 
 

 美醜を語るには普段から自分の美しさを磨かなくてはなりませんが、皆さんは「美醜」がよくわからないからこんなブログを長々と読まされていたのでした。そんな皆さんが「美しさを磨」こうとしたら、大変です。

 まず、目指すべき方向を見つけるのに苦労します。進むべき方向がわからないときは思い付きであれこれ試すしかありませんが、これは不安です。思い付きとは根拠に乏しいもので、上手くいく保証なんか与えてくれません。上手くいく保証のないことをしていると「自分のやっていることには意味があるのか、無駄なんじゃないか」という不安が付きまといます。

 また、他人から「ダメ」なヤツだと思われる恐れがあります。「あれこれ試す」とは具体的な行動を取ることです。今まで自分のあり方を気にしなかった人が急に服を買ったり、にこやかになったり、言葉遣いを改めたり、字の練習を始めたりしたら、どうしたって他人の目について「あの人はどうしたんだろう?」と思われます。他人はしばらく眺めてから「この人は自分を変えようとしているのだな」と気付きます。そして他人は「ダメだこりゃ」と判断します。必ず「ダメ」だと判断します。目指すべき方向が分からなくてあれこれ試している状態の人はまだ結果を出していませんし、方向すら定まっていないため期待も持たれません。方向が定まれば、他人から「お、これは上手くいくかもな」という期待を持たれるかもしれませんが、そうでない試行錯誤の段階では「ダメ」です。あれこれ試している人は、よくわからないことを無理してやっているのに「ダメ」と言われてしまうのです。これは嫌です。

 「言われてしまう」とお書きしましたが、実際に言われる場合もあるし、自分で勝手に「言われるかも」とか「あのニヤついた顔は自分に『ダメ』と言おうとしている顔だ!」とか、まるで「言われた」かのように思い込む場合もあります。大抵の場合は後者で、本人の単なる思い込みです。まともな大人は「自分を変えよう」としている人にわざわざ「ダメ」だと言いません。試行錯誤の苦労は割りと誰もが経験しているもので、何事も初めは「ダメ」で苦しいということは常識です。そのため大人は「『ダメ』だけど、『よくあろう』とする意思は悪くない」と思って黙っています。

 わざわざ「ダメ」だと言ってくるのは横暴な中学生くらいなものです。横暴な中学生は自分より下の人間を常に探していますから、少しでも隙を見せると踏みつけにしようと襲い掛かってきます。「おまえ、美しくなろうとしてるのか?ははっ、お前なんかが美しくなれるわけないじゃないか!恥ずかしいヤツだな、このブスッ!」くらいのことは言ってきます。もちろん、自分のことは棚に上げて、神様になったかのような高みから見下してきます。こんな豚野郎の相手をする必要はありませんが、しつこく絡んでくるのでウンザリします。しかも試行錯誤をしている人は自分でも自分が「ダメ」な状態だということを知っているので、そこを突かれると弱いです。相手がろくでもないヤツだと頭ではわかっていたとしても、「やっぱり自分は美しくなんかなれないのかも」と気持ちが落ち込んでしまいます。



 美醜がよくわからない人は以上のように苦労します。目指すべき方向を見つけるためにあれこれ試し、不安を覚えながら試行錯誤し、結果が出なくて「ダメ」を突きつけられ、中学生相手に防戦を強いられる、これでは疲れてしまいます。「疲れちゃうから、美醜について語るのなんかよしてしまおう」と怠ける気持ちが出てくるでしょう。「私には美醜がよくわからないので美醜について語りません」と言って黙り込み、美しくなることを目指さず、美醜について語ることも諦めます。




 「私には美醜がよくわからないので美醜について語りません」は「過去の自分も愚かだった、だから自分は今の愚かな中学生をあまり非難してはいけない」と似ています。

 「私には美醜がよくわからない」と「過去の自分も愚かだった」は「自分は大した人間ではない」との謙遜です。「ので」と「だから」は理由説明の接続語です。「美醜について語りません」と「自分は愚かな中学生をあまり非難してはいけない」は自分のやるべきことを放棄するという宣言です。よく似ているでしょう?


 「過去の自分も愚かだった、だから自分は今の愚かな中学生をあまり非難してはいけない」の背後には「他人を責めない代わりに自分も責められない」というズルい取引が潜んでいました。同様に「私には美醜がよくわからないので美醜について語りません」の背後にもズルい取引が潜んでいて、それは「他人の醜いところを指摘しない代わりに自分の醜いところを指摘されない」です。「なあ、俺はお前の醜いところを指摘しないよ?その代わりにさあ、お前も俺の醜いところを指摘しないで欲しいんだ」と言って周囲の人と取引するのですね。「言って」とお書きしましたが、もちろん実際には言わず、自分の中で勝手に作り上げた架空の他人と取引を交わすのです。

 「他人の醜いところを指摘しない代わりに自分の醜いところを指摘されない」という取引は「他人を責めない代わりに自分も責められない」という取引と同じく、損です。この取引をすると、醜い人間の存在を黙認することになります。そうすると、醜い人間が堂々と表を闊歩することで自分が嫌な気分になったとしても、嫌な顔をできなくなります。また、醜い人間の振る舞いに困っている他人がいても、助けることはできません。そして他人を助けないのですから、自分も助けてもらうことはできません。「自分の醜いところを指摘されない」ことと「醜い人間に苦しめられても自力で自分を守れず誰も助けてくれない」こととを取引したら大損ですね。おとなしく自分の醜いところを指摘されて泣く方がよいのではないかと思います。


 皆さんが美醜について語りづらい理由は他人とこの「ズルい取引」を交わしてしまっているからかもしれません。ご自分の胸の内をよく点検して、くれぐれもお気をつけ願いたいと存じます。


 

 

 今回はここで終わりですが、理屈っぽい上に気分が暗くなるような話だったので、最後にちょっとした救いになることをお書きしたいと思います。
 
 

 「美しくなろう」とすると苦しくなって、美しくなることを諦めるために体のよい理屈を求めてしまいます。それを防ぐ方法として、「マシになろう」ぐらいに考えておく、というものがございます。

 人は極端なので「英雄か、ドブ泥か」といった二者択一に陥りがちで、美醜についても「美しいか、醜いか」と考える傾向にあります。この「美しいか、醜いか」は「私という存在は美しいか、醜いか」なのですが、「私という存在」などという抽象的なものを相手にしたっていいことありません。

 ですから「私の『この部分』は美しいか、醜いか」と考えたらどうでしょう。服装はどうか、顔つきはどうか、言葉遣いはどうか、字の書き方はどうかと具体的な項目1つ1つについて検討し、美しい部分があったら喜ぶ、醜い部分があったら直す、ということを続けて、少しでも「マシ」になることを目指す、というやり方です。「美しい人」を目指すとなると目標が高くて手に届かない気がし、気持ちが続きません。しかし「マシな人」だったら簡単になれそうで、気持ちが折れることなく継続して目標を目指せるかと思います。



 続けていればそのうちに皆さんは部分的に美しい「マシな人」ではなく、総合的に見て「美しい人」になれるかもしれません。

健闘を祈ります。



次回は「②美醜の判断」に入りたいと思います。