なべさんぽ

ちょっと横道に逸れて散歩しましょう。

【本編①】『もののけ姫』がわからないー少年を襲う理不尽ー

皆さま、こんにちは。

 前回は予告を無視して別のブログ記事を挟みましたが、今回から映画『もののけ姫』について語って参りたいと存じます。副題は「少年を襲う理不尽」です。まずはこの映画をご覧になっていない方、ご覧にはなったのだけれどもどんな映画かを忘れてしまった方のために粗筋をお話しします。

 

  1. あらすじ
  2. 理不尽に襲われる少年
  3. やり場のない怒り

 

1.あらすじ

古来の権威は地に堕ち各地を武人らが群雄割拠する戦国時代、戦、自然災害の頻発、疫病の蔓延で世は大いに乱れておりました。そんな時、東北蝦夷一族の少年アシタカは村を襲った祟り神を倒したため死に至る呪いを受け、呪いを解くための手掛かりを得ようと西へ旅立ちます。旅するうちにたどり着いたタタラ場でアシタカは、タタラ場の人びとが砂鉄を得ようと山を切り開いたこと、そのため山の神々と人間との戦いが起きていること、その戦いに人間でありながら神々の側に立つ少女サンが加わっていることを知ります。人間と神との狭間で苦悩するサンを見てアシタカは人間と神々の衝突を食い止めようと奮闘しますが、生活のため山を切り開かざるを得ないタタラ場、自分たちの山を守らんとする山犬神やイノシシ神たち、神々の中心にいて神聖な森に鎮座するシシ神、たたら場の鉄を狙う地侍、シシ神の首を得ようとする帝とその手先、それら人びとと神々は止めようのない運命に導かれて激突することになるのでした。

 

 2時間の映画をかなり省略してまとめましたが、各場面はそのときそのときで描写して参ります。粗筋で映画の雰囲気だけでもつかんでいただけたら幸いです。

 

 

 今回私が語りたいのは少年アシタカを襲う「理不尽」です。ボンヤリ映画を見ていたら素通りしてしまいますが、この映画は主人公アシタカにとって理不尽な出来事から始まり、そしてそれはとてもヘンなのです。

 

 

2.理不尽に襲われる少年

 アシタカは東北地方の村に暮らす蝦夷一族の少年です。大昔にヤマト(朝廷)との戦に敗れて以来、蝦夷一族は都から遠く離れた東北の地でひっそりと暮らしています。ここには文明的なものはあまり見られないものの、豊かな自然の中で人びとが平和に暮らしています。ある日の昼間、異変を察知した村の巫女が人びとを村へ呼び戻す間、アシタカは仕事に出ている村人たちに異変を知らせて回ります。アシタカが物見櫓で見張りのジージと森の様子を伺っていたところ、全身に赤黒い触手をまとった大猪のタタリ神が森から姿を現し、村に向かって一目散に駆け出します。アシタカはタタリ神を追いかけて怒りを鎮めるように呼び掛けますがその声は届かず、逃げ遅れた村娘たちを守るためにやむなく矢を放ってタタリ神を倒します。その際にアシタカは呪いを受けてしまいますが、巫女からこの呪いはアシタカを死に至らしめるものだと言われます。タタリ神が生まれた原因を探って呪いを解くことに希望を見いだしたアシタカは村を出て、西国に旅立つのでした。

 

 

 通常、「たたり」と聞くと、自分または自分に近しい者が神や他人に良からぬことをしてしまったために恨まれ祟られる、そう考えるのではないでしょうか。現代人は

「他人から憎まれるのは自分に何か落ち度があったからだ」

と考えています。自分が悪いことをなにもしていなければ恨まれず、何かしたからこそ憎まれるのだ、この考え方が基本となっています。ですから、自分が何かをした覚えがないのに憎まれたり攻撃されたりすることに困惑します。

 

 もちろん現代人といっても単純バカではないので、

「自分は自分には落ち度がなくても憎まれたり攻撃されたりすることがあるかもしれない」

と考えます。そのため恨みを買ったり攻撃されたりしないように普段の自分の振る舞いに気を付けはします。

 

 ただ現代人は

「攻撃されるにしても、相手は世間一般の理解が得られるような筋を通して攻撃してくるはずだ」

と思っています。「気に入らないから」とか「ムカつく」とかいった動機による攻撃は人びとの理解が得られませんから、攻撃をした人が世間から責められることになります。そのため攻撃をする人は、まるで攻撃される人に非があるかのような体裁を整えて攻撃します。「あいつがオレの悪口を吹聴している」とか「金を騙し取られた」とかいった「攻撃する正当なる理由」を掲げます。この「理由」は本当にその通りであることもあるし、小さなことを大袈裟に誇張していることもあるし、勘違いであることもあるし、真っ赤な嘘であることもあるしと様々で、そのいずれであるかを見抜くことは大変です。ですからこのように体裁を整えられると攻撃された人は反撃しづらく、世間も非難をしにくくなります。少しでも知恵があったら普通は世間一般の理解が得られるような自己正当化をしてから攻撃するものです。

 

 そんな現代人の我々にとって、映画冒頭の祟り神襲来は意味不明の事態です。まず蝦夷の村が襲われる理由が分かりません。そしてアシタカが呪われなければならない道理もありません。そしてそこには嘘の大義すら掲げられていません。

 

 もし、村の子供たちが神様の木に登って木の実を食べてしまい怒った神様が村を襲う、というのならば分かります。子供の行動が原因で神様を怒らせて村が襲われるという結果になるのですから、村が神様から攻撃を受けることに納得出来ます。

 

 また、アシタカがうっかり神域に入り込んで神の怒りを買ったために呪われた、これでも話は分かります。アシタカが神域に侵入したことが原因で怒った神様に呪われるという結果になるのですから、筋が通っています。

 

 このように、襲われる理由や呪われる理由がはっきりしていれば映画を見る人も納得して鑑賞していられるでしょう。しかるに『もののけ姫』はアシタカや村の人びとに全く落ち度がないのに村が祟り神に襲われた上アシタカが死に至る呪いを受けるという理不尽極まりない話なのです。そしてタタリ神は何の自己正当化もせず、世間一般の理解を得ようともせず、荒ぶる感情を撒き散らして無辜の民を残虐に痛ぶるだけなのです。「神様だって体裁ぐらい整えろよなー」です。

 

 アシタカの活躍によって村は助かりましたが、アシタカを襲う理不尽はこれにとどまりません。先ほど私は「アシタカは村を出て、西国に旅立つのでした」とお書きしましたが、実はアシタカは村を追放されています。巫女のヒイ様から「呪いを受けた者は村に置いておけない」と言われて追い出されたのです。ひどい。

 まあ、村に留まっていたとしても呪いはどうにもならないし、家畜(ヤックル)と金子(砂金)をそれなりにもらって送り出されたのですから、追放の件については目をつぶりましょう。仕方ありません。

 

 

 それよりもっとひどいのは、アシタカが旅をしていくなかで、アシタカは全く関係ないのに呪われたことが分かっていくことです。

 

 

3.やり場のない怒り

 タタリ神は元々はナゴの神という名の山の神様でした。鉄の原料となる砂鉄と木を得るためにタタラ場の人びとが山を切り開くため、山を守ろうとナゴの神はタタラ場の人びとと戦っていました。そこに石火矢衆を率いる烏帽子御前が現れ、ナゴの神に石火矢を打ち込みます。大怪我を負ったナゴの神は走りはしって逃げる内に恨みをつのらせタタリ神へと変貌し、蝦夷の村を襲ってアシタカに倒されたのでした。なんとアシタカが呪われた理由は単なる八つ当たりだったのです。ひどい。道理で体裁を整えて大義名分を掲げて攻撃してこなかったわけです。整えようがありませんものね。

 

 それでも、タタリ神が発生した原因はタタラ場にあるため、アシタカは呪いを受けた怒りをタタラ場の連中にぶつけることができます。「お前たちのせいだ!」と言ってスッキリしちゃえばよいのですね。しかしそれも叶いません。なぜならタタラ場もまた理不尽な世の中によって生み出された場所だからです。

 

 タタラ場は鉄を生産して売って得たお金で食糧や必要物資を賄っています。鉄の原料である砂鉄と燃料の薪は山から得なければなりません。タタラ場で働く人びとは売られた娘や没落した農工民、元武士や癩病(ハンセン氏病)、棟梁の烏帽子御前はおそらく没落した貴族なのでしょう、タタラ場は戦乱・災害・伝染病で生活の糧を失った人びとが生きていくために作り上げた生活の場です。しかも鉄生産で得た利益を地侍に狙われていたり、武力である石火矢衆は帝から借り受けているものであったり、その存立は非常に不安定です。世の理不尽を受けて追い詰められた人びとが生活のために山を切り開くことをどうして責められましょうか。アシタカはタタラ場に怒りをぶつけることもできません。

 

 

 アシタカは理不尽に呪われ、理不尽に追い出され、怒りのやり場もない状態です。なんてひどい話なのでしょうね。

 

 

 

 今回はここまでです。少年アシタカが旅立つきっかけはひどい理不尽に襲われたことだったのです。次回以降、かわいそうなアシタカを見守っていきましょう。