なべさんぽ

ちょっと横道に逸れて散歩しましょう。

【本編⑧】詩的表現が『わかる』ー判断力のない王さまー

 木々の葉が青々として爽やかな初夏ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。また更新にずいぶん時間がかかってしまいましたが、「詩的表現が『わかる』」の第9回目です。


 前回は『カエルの王さま』物語冒頭の問題点についてお話ししました。その問題点とは「お姫さまが親切にも男に醜さを自覚させ、美しくなるための道さえ教えてくれたにも関わらず、醜い男が逆ギレした」ことでした。

 問題点が分かったところで、今回は「カエルのような風貌の醜い男」がお城までお姫さまを追いかけて来たところへ話を進めたいと思います。やっと進みました。
 まず、以前書いた粗筋より少し詳しくこの場面を書いてみます。


 
 カエルから金のまりを受け取ったお姫さまはすたこらさっさとお城に帰ってしまいます。カエルはあわててお姫さまを追いかけますが、人間とカエルとでは足の速さが違うため追い付けません。諦めたカエルはすごすごと泉の中に戻るのでした。翌日、お姫さまが王さまや家来たちとお食事をしているとカエルがやって来て、昨日の約束を果たすようお姫さまに言いました。困ったお姫さまが王さまに事情を話すと、王さまはカエルとの約束を果たすようにお姫さまに言いつけました。そしてお姫さまは嫌々ながらカエルと食事をします。食事が終わるとカエルは一緒に寝ることを求めてきます。あまりにイヤでお姫さまは泣き出してしまいますが、王さまは怒ってお姫さまを叱りつけ、カエルと一緒に寝ることを言いつけます。仕方がなくお姫さまはカエルと共に寝室へ向かうのでした。
 
 

 「カエルのような風貌の醜い男」が自分の醜さを自覚せず、身の程知らずにも過大な要求をし、自分の醜さを教えてくれた親切なお姫さまに逆ギレしてお城まで追いかけて来た、これがまずこの場における第1の問題点です。これは前回お話ししたのでもうよいのですが、この場にはカエル男の他にもう1人おかしな人物がいます。それは王さまです。
 

 お城まで追いかけて来たカエルに怯えているお姫さまに事情を聞いた王さまはこう言います。

「おやくそくしたことは、どんなことでも、そのとおりにしなくてはいけません」
(引用元「完訳 グリム童話集1」金田鬼一訳 岩波文庫 1979年改訂)

 こう王さまから言われてしまったためお姫さまはカエルと食事をすることになりますが、この王さまの発言はヘンです。王さまは、約束したことは「どんなことでも」守らなくてはならないと言っていますが、そんなことはありません。約束とは、約束を交わす二人がお互いを信用することで成り立ちます。信用がない間柄で約束はできません。一旦約束したとしても、状況によってはやっぱりダメだと取り消してもよいですし、無茶な要求は「無茶だ」と言って突っぱねてもよいのです。今回のお姫さまとカエルとの約束は、約束の内容が一方的にカエルに有利になっています。だからお姫さまも約束を破ったわけですが、こんな不当な約束は客観的に見ても「約束」として成り立っていません。王さまは不当な約束果たすよう娘に迫るカエルに対して抗議すべきでしょう。一旦約束したら「どんなことでも」そのとおりにしなくてはいけないと言う王さまの発言は極端です。

 

 さらに王さまはそのおかしな言動を見せます。「一緒に寝よう」とカエルに言われて泣き出してしまったお姫さまに対して、王さまは腹をたてて

「だれにしろ、じぶんがこまっていたときに力をかしてくれたものを、あとになって、ばかにして相手にしないという法はない」(引用元:同上)

と叱りつけます。
 
 ここで王さまはまず状況をよく理解していません。王さまは「こまっていた」お姫さまにカエルが「力をかしてくれた」と考えているのですが、それは勘違いです。お姫さまは金のまりを失って困ってなどいませんでした。新しいまりを買うか、家来に頼んでまりをとってきてもらえばよかっただけです。困っていたのはむしろカエルの方です。カエルは醜く歪んだ見た目と性格のため誰からも相手をされず、じめじめした泉に潜んでいました。孤独で寂しかったカエルの方こそ困っていました。そして「まりを取ってくる」ことを通じてカエルと関わりを持ったお姫さまこそ「力をかしてくれた」人なのです。王さまはまずこの状況が読めていません。
 そして王さまは非常識です。娘にイヤな相手と食事をさせるだけならまだよいでしょう。イヤなことをガマンして面倒事をやり過ごすことも時には必要ですから。しかし、娘が泣いてイヤがっているのに「そいつと寝ろ!」と叱りつける父親が一体どこの世界にいるのでしょう?
 
 
 不当な約束を果たすように迫るカエルを叱りつけず、反対に自分の娘を叱りつけて約束を果たせと言う王さまは明らかにヘンなのです。なぜ王さまはこんなヘンなことを言うのでしょうか?
 
 私には王さまが判断力のない人であり、目の前で起きている状況を自分で把握して自分で考えて対処することが苦手なのだ、としか思えません。
 

 
 物事をキチンと判断することは難しいです。相手の話を聞いて状況を理解し、自分の頭で考えて、適切な対処をする、こういうことを行わなければなりません。
 
 「相手の話を聞く」ことがまず難しいのですが、それというのも他人は自分の思った通りに話すもので、聞き手が理解しやすいように話してなどくれないからです。「話し合い」とは立場の異なる者同士の間で行われるものです。そこで使うべき言葉は、自分と似た者同士の集まりである内輪のものであってはならず、自分とは立場の違う他人が理解できるものでなければなりません。「話し合い」が難しいのは、「自分の言葉は相手に通じているのか?」という自問をしながら相手に説明をしなくてはならないからですが、そんな技術を持った人はあまりいません。何かを訴える人は大体の場合において内輪の言葉で話してしまうため、聞く方は一向に相手の話が理解できません。だから他人の話は分かりにくくて聞くことすらイヤなものです。
 
 
 ガマンして相手の話を聞いたとしましょう。がんばりました。エライです。今度はその話をもとに「自分の頭で考え」なくてはなりませんが、これもまた難しいのです。
 
 通常、人はあまり「自分の頭で考える」ということをしません。「自分の頭で考える」ことは習慣や理論や教義にしたがって判断することではありません。習慣は日常生活から生まれるもの、理論は学問から生まれるもの、教義は宗教から生まれるものと、それぞれ出自は異なりますが、これらは皆「他人の考え」という点で共通しています。「他人の考え」は大人が子供や若者に伝えるもので、主に大人が経験してきた困難への対処法です。生活上の困難に対処ができる「他人の考え」はけっこう役に立つものですから、「他人の考え」に従うだけでも生きていく分には困りません。
 
 困るのはその先で、「個人の想い」が絡んだ問題が起きたときです。「他人の考え」は「個人の想い」を汲み取りません。「他人の考え」は、大人が経験してきた「多くの人に共通して起こる困難への対処法」であるため、「個人の想い」には対応していないのです。ある想いを抱えてしまった個人やその個人と関わる周囲の人に必要とされるのが、「自分の頭で考える」ことです。
 
 『カエルの王さま』の話で言うと、お姫さまとカエル男の間では「男女の仲になりたいかどうか」や「約束が成立するほどの信頼関係があるかどうか」などが問題になっています。これらは「個人の想い」ですから、対応を迫られた王さまは「自分の頭で考え」て対処しなくてはなりません。しかし王さまは「一旦約束したことは守るべきだ」という教えにしたがって判断してしまいます。そのせいで自分の娘に「その男と寝ろ!」などというムチャクチャを言うことになっているのです。これではまるで「ママに教わったことを言葉通りにとらえる幼児」です。「一旦約束したことは守るべきだ」という教えそれ自体は間違ってもいないことですが、通常は「約束を守れるかどうかは状況による」という条件がくっついています。「状況による」の部分が「自分の頭で考え」なさいということで、王さまはそれができませんでした。出来ないどころか怒ってしまいましたが、これは「自分の頭で考え」られないという自分の弱点がバレそうになったため、怒鳴って誤魔化したのですね。

 

 よくもまあそんな人が王さまをやっていられるものだと思いますが、我々も王さまを笑ってはいられません。

 現代は豊かな時代です。人は豊かになると他人との関わりが減ります。貧乏な人が多い時代だと少ない資源を分け合うために他人と話し合うことが多くあります。この話し合いに失敗すると「食うに困る」という事態が起こりますので、必死の思いで皆話し合いをします。また、「貧乏でみんな苦しい」という共通項がありますので、それを軸にすれば話し合いも進めやすい状況がありました。もちろん貧乏なので、ここに「個人の想い」を汲み取る余裕などありません。豊かになって初めて「個人の想い」を汲み取ろうという発想も出てきますが、豊かになると今度は話し合いが消えてしまいます。なにしろ資源はたくさんあるのです。貧乏時代に比べたら、なんでも出てくる打出の小槌があるかのような豊かさを感じています。そうすると資源を分け合うための話し合いは必要性が薄れます。豊かな時代は「個人の想い」を汲み取るための話し合いが必要になっているはずですが、「個人の想い」は「貧乏を克服した後のご褒美」だと理解され、あまり重要なものだとは考えられません。「個人の想い」を重要だと考える人が「もっとよく話し合いましょう!」と言っても「何を?」と返されてしまいます。これは話し合いの軸となる「貧乏」が消えて、何を基準にして話し合えばよいのか分からなくなってしまったためです。貧乏を克服して「個人の想い」を汲み取る余裕ができたら、汲み取るための手段である話し合いを失うなんて、なんとも皮肉な話です。
 
 
 だったらどうすればよいのかというと、新しい基準を見つければよいのですね。その基準とは「美しいかどうか」です。豊かになったら人に必要とされることは美しくあることだけです。金は持っているが趣味の悪い人は「成金趣味」と言われて蔑まれます。金を持つ人はその金を持つにふさわしく美しくあることが求められるのです。皆さんは現代人なので皆お金持ちです。しかし皆さんは「美しい」がよくわからないからこのブログを読んでいます。ですから皆さんは成金状態かもしれません。もしそうだとすると皆さんは「美しいかどうか」という話し合いの基準をお持ちでないので、王さまと同じく判断力のない人ということになりましょう。我々現代人は王さまを笑っていられないのですね。
 

 

 今回はここまでです。
 王さまが判断力のない人であり、目の前で起きている状況を自分で把握して自分で考えて対処することが苦手なために、『カエルの王さま』のこの場面はヘンな展開をすることになりました。

 次回は最終回の予定で、カエル男とお姫さまの最後の対決の場面です。また更新に時間がかかりそうですが、なにとぞ御容赦ください。