なべさんぽ

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【本編⑤】詩的表現が『わかる』ー再び『カエルの王さま』ー

 東京・千葉は暖かくなり、20度を越える日もございましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか?

 
 この続き物のブログも六回目になりましたが、そろそろ皆さんはお疲れかと存じます。と申しますのも、このブログの題名は「詩的表現が『わかる』」で、グリム童話『カエルの王さま』に書かれている詩的表現を一般人に分かるように読み解いていく、という趣旨だったはずなのに、いつの間にか人の内面を分析する抽象的な話になっているのです。疲れるはずです。正直なところ、私も疲れて嫌になってきました。

 そこで今回からは『カエルの王さま』の読み解きに戻りたいと思います。まだ「美醜の問題」のうちの「美醜の判断」のお話が終わっておりませんから、中途半端だという印象を受けるかもしれません。しかし「美醜の判断力」をつけるには実践が1番よい方法です。『カエルの王さま』を読み解きながら、「美醜の判断」についてお話ししていきたいと思います。

 以下に「美醜の問題」の項目を再掲します。


①美醜の語りづらさ
 A.生活優先
 B.「人の見た目に関して悪口を言ってはいけない」という道徳
 C.中学生の横暴
 D.怠け者の理屈とズルい取引
②美醜の判断
 a.「頭がよい」人
 b.「容姿」は生まれつき
 c.和田アキ子の怯え



②-b「容姿」は生まれつき
 さて、『カエルの王さま』の読み解きを進めたいと思いますが、みなさんは話の内容をもうとっくにお忘れかと存じます。なにしろ2ヶ月も前のことですからね。以下に粗筋を再びお書きしますので、それを読んで思い出していただきたいと思います。

 

 昔あるところに1人の王さまが住んでいました。王さまにはお姫さまがたくさんいましたが、末のお姫さまはとても美しい方でした。
 このお姫さまはお城近くの森でまりつき遊びをすることを好んでいましたが、あるときこのまりが泉の中に落っこちてしまいました。お気に入りのまりを失ってお姫様がしくしく泣いているとカエルが現れ、まりを取ってきてくれると言いました。お姫さまはカエルのお友達になること、一緒の食卓で同じ食器で食事をすること、一緒の床で寝ることを条件にカエルにまりを取って来てもらいました。ところがお姫さまは約束を破り、カエルを置いて帰ってしまいました。
 明くる日、カエルはお城まで追いかけてきてお姫さまに約束を果たすよう言いました。お姫さまは嫌がりましたが、事情を聞いた王さまはお姫さまに約束を守るよう言いつけました。お姫さまは仕方なくガマンしてカエルと一緒に食事をしましたが、一緒に寝るときになってお姫様はガマンしきれなくなり、カエルを壁に叩きつけました。するとカエルは人間の王子さまになりました。実はカエルは悪い魔女の魔法にかけられていた王子さまだったのでした。二人は結婚して王子さまの国で幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。

(参考図書:「完訳 グリム童話集1」金田鬼一訳 岩波文庫 1979年改訂)


 
 粗筋は以上です。そうです、こんな話でした。
 粗筋を思い出したのはよいのですが、どこまで読み進めたのかということは覚えておいででしょうか?粗筋を忘れているくらいですから、どこまで読んでいたのかもお忘れのことと存じます。そこで、私が【本編①】詩的表現が『分かる』ーカエルの王さまー の中でお話ししたことも短くまとめます。
 
 
 初めに、『カエルの王さま』の冒頭でお姫様がカエルとごく自然に会話していることに注目し、「現実でカエルが口を利くことはない」という当たり前の事実を確認しました。詩人の常識外れの言動に惑わされないように、当たり前の事実を確認して我々一般人の結束を固めたわけです。「現実でカエルが口を利くことはない」という事実から、お姫様はカエルと話していたのではなく「カエルのような風貌の醜い男」と話していると考えるのが妥当だということになりました。
 次に、お姫様と「カエルのような風貌の醜い男」との会話の内容が問題になりました。『カエルの王さま』の中でカエルは金のまりを取ってくる代わりに、お姫様に対して「お友達になること、一緒の食卓で同じ食器で食事をすること、一緒の床で寝ること」を要求していました。カエルを「醜い男」だと考えると、この要求は「デートしろよ、飯行こうぜ、寝ようぜ」すなわち「俺の女になれよ」になりました。この事に対して、私は以下のように書きました。


……「カエルのような風貌の醜い男」がお姫さまに「俺の女になれよ」などと言っているのです。ギョッとします。醜い男が若くてきれいな女の子に男女の仲を迫るという状況は、想像するだにおぞましいです。普通なら「気持ち悪い」だとか「嫌だ」とか嫌悪感を覚えます。「ちょっと嫌だけど…」どころではなく「心底嫌だ」です。『カエルの王さま』は童話なのに冒頭から恐ろしい場面を描いていたのですね……


 私は男に対して「醜い」だとか「気持ち悪い」だとか「おぞましい」だとか散々悪口を書いております。そのため皆さんは「そんなこと言ってしまって大丈夫なの?」と怖じ気づき、二の足を踏んでしまった。しかし『カエルの王さま』は「美しきものは善であり、醜きものは悪である」という精神に貫かれたお話であり、美醜の判断ができないと読み解けません。だから私が皆さんに「美醜の問題」を話すことになった、そういう経緯でした。
 思い出していただけましたか?「ああ、そうだった」という方はこのまま読み進めてください。「そうだったっけ?」と思い出せない方は、もう一度【本編①】をお読み下さい。このブログの更新はゆっくりですから、時間はたっぷりとございます。焦らずに戻って読み返してみましょう。
 
 

 さて、ここまでブログを読んできた皆さんは、人を「醜い」と判断することに対して抵抗感が減っていると思います。もう「カエルのような風貌の醜い男」の醜さを直視することもできましょう。それではこの男の見た目について考えていきましょう。
 
 皆さんは「カエルのような見た目」と言われて、それがどんなものか想像できるでしょうか?一口に「カエル」と申しましても様々な種類があって、アマガエル、トノサマガエル、ウシガエル、アカガエルなどございますから、どのカエルを思い浮かべればよいのか迷うでしょう。ですが「醜い」といったらヒキガエルです。この男はヒキガエルのような見た目をしていると考えられます。
 
 なぜヒキガエルかと申しますと、まずはその神秘性です。謎のカエルである「ガマガエル」の正体がヒキガエルではないかと言われていて、そのためヒキガエルには神秘的な色がまとわりついています。
 「ガマガエル」とは日本や中国で昔から名前が知られているカエルのことです。落語「ガマの油」にその名が現れるので、ご存知の方も多いかと存じます。「ガマの油」とはガマガエルの体液から作られる万能薬です。万能薬の材料になるのですから、とても不思議な生き物です。ところが、ガマガエルはその存在が不確かです。私はてっきり「ガマガエル」という種類のカエルがいるものだと思っていたのですが、調べてみてもそんなカエルは見つかりませんでした。どうやらガマガエルは龍や河童や天狗のような伝説の存在のようです。
 ただ、このガマガエルはヒキガエルのことではないかと言われています。根拠もよくわからない説ですが、もしガマガエルのモデルがヒキガエルなのだとすると、ヒキガエルには昔の物語に出てくる幻の生き物の神秘性がまとわりついてきます。グリム童話も昔の物語ですから、そこに登場する謎のカエルはきっとヒキガエルでしょう。
 
 次にその見た目です。ヒキガエルの皮膚は茶色に黒のまだら模様です。粘液に覆われてヌルヌルしており、ブツブツとイボもついています。そんな見た目の生き物には近づきたくないし、触りたくもないという方が多いのではないでしょうか。「ヌルヌルイボイボの両生類なんていくらでもいるぞ」と思う方や、反対に「カエルなんてみんな気持ち悪いよ」と思う方などは、ヒキガエルを醜いカエル代表扱いすることに異論があるかもしれません。しかし、ヒキガエルが我々に親しみを抱かせる見た目ではないことにはご同意いただけるかと思います。大事なのは次です。
  
 ヒキガエルが醜いと言われる3つ目の理由は、人間に似ていることです。
 ヒキガエルの顔は、への字に結ばれた大きな口と細い黒目が特徴的です。への字に結ばれた大きな口は、なにかに不満を抱いていて不機嫌であることを表しています。眼球は大きくて目立つのに黒目の部分が細いので、まるで目を細くしてにらんでいるように見えます。この細い黒目とへの字の口許から、ヒキガエルは何かこちらに対して良からぬことを考えているのではないかという恐い印象を受けます。そして体型はずんぐりむっくりしているため、太った小男のようです。
 まだらでヌルヌルイボイボした肌の太った小男が不機嫌そうな顔でこちらをにらんでいる、しかも正体の分からない怪しい男である、ヒキガエルはこのように人間に似ているのです。人間とはかけ離れた動物だったら「醜い」とは言われません。通常、人は自分とは関係のないものに対して美醜を言うことがありません。関係のないものにはあまり興味が持てず、美醜の判断をしようという気が起こりませんからね。それに対してヒキガエルは人間に似ているため、関係のあるものとして人に迫ってきます。だから人に「醜い」と言わせるほどの興味をかきたてるのです。



 『カエルの王さま』に出てくる「カエルのような風貌の醜い男」はヒキガエルのような見た目で、「まだらでヌルヌルイボイボした肌を持つ太った小男」で、「不機嫌そうな顔でこちらをにらんでいる」、しかも「正体の分からない怪しい男」であることがわかりました。そんな男が若く美しいお姫様に「俺の女になれよ」と言ったのですから、私が「嫌だ」とか「気持ち悪い」とか「おぞましい」とか言っていた訳が分かっていただけたでしょうか?


 
「うーん、でもやっぱり見た目で人を差別しちゃいけないんじゃあ……」
 まだそんな風に考えている方はいらっしゃいますか?いらっしゃいませんか?きっとまだいらっしゃるでしょうねぇ……
 仕方がありません。ではここから「カエルのような風貌の醜い男」の何がいけないのかを書き立てていき、みなさんのためらいを払拭したいと思います。
 
 
 まずはその服装です。
 ヒキガエルは茶色に黒のまだら模様をした皮膚をしていますが、これをそのまま男の皮膚の状態とすることは出来ません。ヒキガエルは裸のため全身の皮膚がむき出しですが、男は人間のため、服を着ているからです。したがって「茶色に黒のまだら模様」なのは男の皮膚ではなく服装なのです。では、茶色に黒のまだら模様をした服とはどんな服かと申しますと、汚れた服です。この男は性格が暗いため、暗めの色、目立たない模様の服を着ています。それは「茶色」の服です。そして身なりを気にしないため、服を洗っていません。そのため服は汚れて「黒のまだら模様」が付きました。汚ないですね。きっと風呂にも入っていないでしょうから、顔や手といった皮膚がむき出しになっている箇所も「茶色に黒のまだら模様」に汚れているかもしれません。
 
 次にその肌です。今申し上げましたが、この男は風呂に入っていないため肌が汚れて黒ずんでいる箇所があります。それだけでなく、脂でベトベトしております。いえ、ベトベトを通り越してヌルヌルです。
肌が脂まみれだったらニキビもできます。そのためイボイボがあります。
 
 そして性格です。この男は自分の服装や衛生状態に無頓着です。ダサくてばっちいヤツですが、自分が他人からどう見られているかということを気にしていないため、本人は全く気にしておりません。なんで他人の目を気にしないかというと、この男は「他人」が分からないからです。この男にとって、世界に存在する人間は自分ただひとりであり、「他人」が存在しないのです。たとえ他人のようなものがいたとして、それは背景の書き割りか小道具のようなもので、その他人を人間だと思っていません。人間ではない背景や小道具から見つめられたり「汚い」と言われたりしたところで平気です。だからこの男は自分がダサくてばっちくても平気なのです。
 
 他人を人間とは認めていない正体不明の男が不機嫌そうな顔でこちらをにらんでいると考えると、大変恐ろしいです。何をたくらんでいるのか、良からぬことをするつもりなのではないか、周囲の人間はそう考えて怯えます。そんな風に周囲の人間を怯えさせていて平気でいられるダサくてばっちいヤツは「醜い」と言われてしかるべきでしょう。以上が、私が「カエルのような風貌の醜い男」のことをケチョンケチョンに言っていた理由なのです。


 

 ついでに、ここで皆さんが男の容姿を「醜い」と判断することをためらった理由もお話ししたいと思います。皆さんは「『容姿』は生まれつき」と思っていて、「人が生まれもった外見を『醜い』なんて言ったらかわいそうだ」と考えていたのです。
 皆さんは「努力」を重視しています。性格、運動能力、服装、化粧の仕方などの努力次第である程度なんとかなるものは努力によって磨くべきだとお考えです。性格、運動能力、服装、化粧の仕方などを向上させようとしない「努力嫌い」の人に対しては、非難の目を向けることにためらいはないでしょう。
 反対に、皆さんは努力によってはどうにもならないことに文句をつけはしません。努力によってどうにもならないことの一例が「生まれもった容姿」です。人の顔や体型は骨格によって決まっています。「顎が出ている」「鼻が低い」「顔が大きい」「足が短い」「背が低い」といった、一般的によしとされない容姿の特徴は、栄養状態にもよりますが、ほとんど生まれつきのものです。皆さんはまさか「努力が足りないから背が低いのだ」とか「努力が足りないから顔が大きいんだ」とか、おっしゃることはないでしょう。一般的によしとされない容姿は生まれつきのものであるため、その容姿を持っている人を「努力が足りない」と非難することなど出来ないでしょう。
 皆さんは、私が「カエルのような風貌の醜い男」のことを「生まれもった容姿が醜い」と言っていると考えていたと思います。だから私に対して「それはひどいんじゃないの?」と考え、男の容姿が「醜い」と判断することをためらったのです。
 
 しかし、上でお話ししたように、私が「醜い」と言っていたのは「外見に現れた男のあり方」でした。これは生まれもった容姿とは関係がありません。性格や感性や価値観といった「男のあり方」がまだらの服装やヌルヌルイボイボした肌となって外見に現れている、こういうことでしたら皆さんも男を「醜い」と断じることができるでしょう。
 
 私が「醜い」と言うのは「外見に現れた男のあり方」です。このことをよく覚えておいていただきたいと思います。

 


今回はここまでです。
次回、最後に残った②-c「和田アキ子の怯え」をやっつけてしまいます。やっつけてしまう程度の内容で申し訳ありませんが、「美醜の問題」にもう少しお付き合い願いたいと存じます。