なべさんぽ

ちょっと横道に逸れて散歩しましょう。

「さむい」がわからないー頭と心で「わかる」ことー

もうすっかり暖かくなって、いよいよ春になったというこの頃です。私も上着をコートからジャケットに切り替えました。

毎回私はブログの冒頭でそのときの天気や気温の話を書きますが、それはなぜなのかというのが今回の話題です。



私は「さむい」がわからない人間でした。



 私は幼稚園児のとき、一年中どの季節でもでも半袖短パンでした。真冬でもです。私がこどもの頃住んでいたのは新潟ですから、冬は当然寒いはずです。それなのになぜ私が真冬でも半袖短パンだったのかというと、熱かったからです。自分の体がいつでも火照っていて、私は常に「あつい、あつい」と言っていました。
 自分の体の熱さばかりが気になっていたので、体の外側にある気温、夏の暑さや冬の寒さがわかりません。従って真冬に長袖長ズボンを身に付ける必要もわかりませんでした。

 そんな私ですが、小学生になると冬に長袖を着て長ズボンを履くようになりました。これは私が寒さを感じるようになったからではなく、母親に嫌な顔をされていることに気付いたからです。
 私は寒さを感じることはありませんでしたが、「さむい」とはどういうことかを頭では理解していました。そして一般的に寒いときには厚着をするものだということも知っていました。だから寒さがわからない自分、そしてその事を隠そうともしない自分は世間からバカだと思われていて、その事を母親は嫌がっているのだ、私はそう思いました。わざわざ世間からバカだと思われる必要はないし、母親から嫌な顔をされる必要もない、そう思った私は冬には長袖長ズボンを身に付けるようになりました。


 しかし私は「さむい」を頭で理解しているだけで、心から「さむい」と思うようになったわけではありませんでした。「さむい」が心でわかったのは30歳を過ぎてからでした。


 20代の頃、私はやることがなく、暇さえあればいつも散歩をしていました。おもに千葉県の市川や船橋、松戸などを散歩していましたが、東京都の江戸川区にある葛西臨海公園にもたまにいきました。葛西臨海公園には花畑があって、春には菜の花、秋にはコスモスが咲きます。
 30歳を過ぎてから散歩で葛西臨海公園に行ったことがあるという話を知り合いにしていた私は、ふと「そういえば、花畑が夏と冬にはどうなっているか知らないな」と思いました。なぜ知らないのかと考えてみたら、夏と冬は葛西臨海公園に行ったことがないからでした。そしてもっとよく考えてみたら、そもそも夏と冬はあまり散歩をしていないことに気付きました。それはなぜかと考えたときに、「夏は暑くて冬は寒いからだ」という結論に至りました。
 その事がわかって私は「俺も寒いと熱いがわかるようになったんだ」とよろこび、その後はやたらと人に天気の話やら気温の話やらをするようになりました。



「何当たり前のことがわかって喜んでいるんだ」とお思いになる方がほとんどだと思いますが、これは私にとっては大きな成長だったのです。


 世の中には色々な人がいて色々な価値観があり人同士はなかなかわかりあえない、そんな嘆きを聞くことがあります。でもそんな嘆きをいう人たちだってそのわかりあえない相手と「さむい」ことは共有できます。暑さ寒さを感じるということは人としての当たり前の感覚ですから。

「今日はさむいですね」
「ええ、本当にさむいですね」

といった会話が可能です。しかし私の場合は、

「今日はさむいですね」
「……え、あ、……ああ、さむいですね!」

という会話になります。
 初めの『……』は、「さむいですね」と言われてもピンと来ないから戸惑っているところです。『え、あ』の部分は「こういうときは何か返事をしないといけないのだった」と気付いた反応です。次の『……』は「何て言おうか」と悩んでいるところです。結局『ああ』のところで「さむいですね」のおうむ返しをすればよいのだとわかるのですが、返事が遅れたことに焦って変に力が入ります。それが最後の『!』です。
 「世の中には色々な人がいて色々な価値観があり人同士はなかなかわかりあえない」どころの話ではありません。人としての基本的な感覚、「さむい」や「あつい」すら人と共有できないのです。いわんや価値観をや、です。「人と共有できない」の度合いが違います。


 こどもの頃の私は「さむい」がわからなくても平気でしたが、成長するにつれて「自分は当たり前のことがわからない」と悩むようになっていました。上に書いたように人との会話が噛み合わなくて困っていたからです。そのため私は「当たり前のことが当たり前にわかるようになる」を目標としてたてていて、これを少しでも達成しようとしていました。そんな私が30を過ぎて遂に「さむい」がわかるようになったのです。この喜びといったらありません。




私がブログの冒頭で天気の話や気温の話を書くわけは、「さむい」や「あつい」を頭で考えて言うのでなく、心から感じて言うことができるようになった喜びの表れです。みなさま、どうか毎回お付き合いくださればと存じます。




ところで、私は「皆さんは当然『さむい』が心からわかっている」という前提で書いてきましたが、本当にそうでしょうか?1度よく考えてみることをお勧めします。人と何かを共有できているという思い込みにすがる臆病者より、人と共有できていないことを嘆くことができる人の方が成長しますからね。それでは。