なべさんぽ

ちょっと横道に逸れて散歩しましょう。

野牛金鉄と斜視のおじいさんー「さむい」は「さみしい」ー

そろそろ涼しいを通り越して寒い季節になってきます。コートやジャケットといった上着が手放せません。雨は降るし台風は来るしで、秋は出掛けづらい日も多いです。

それでも私は秋が好きですが、秋の好きなところはほどよく寒いところです。ほどよく寒いときはなんとなくさみしい気持ちになることがあります。そんなときは子供の頃の思い出がわき上がってきて、胸がジンとして少し幸せな気分に浸れます。「さむい」という言葉は人に「さみしい」を思い出させるためにあるのではないかとさえ思います。

今回は寒いときのかなり個人的なさみしいエピソードをお書きします。



 今から8年から9年前、私が23歳もしくは24歳の秋のことです。休日の夕方4時頃、私は東陽町の喫茶店ベローチェで1人コーヒーを飲みながら考え事をしておりました。
 当時大学を休学しアルバイトをしながら生活していた私は休日にすることがなく、1日ブラブラ散歩をし、家に帰る途中で喫茶店に立ち寄ったのでした。寒いなかを歩いてきたので暖かい店内の空気とコーヒーの熱さにホッと安心し、タバコを吸って目を閉じながらゆったり考えていました。このとき私が考えていたことは、この先どうやって生きていこうかという深刻なものではなく、なんと能天気にもアニメ『忍たま乱太郎』に登場する剣豪「野牛金鉄(やぎゅうきんてつ)」のことでした。


 『忍たま乱太郎』はNHKEテレで放送している子供向けアニメで、戦国時代の忍者学校「忍術学園」を舞台に忍者のたまご「忍たま」たちの日常を描くコメディです。私が子供の頃からやっている長寿番組で、小学生の私はよくこの番組を見ておりました。『忍たま乱太郎』は主人公の乱太郎・きり丸・しんべえが送るほのぼのとした日常におかしな人物が現れおかしな事件を起こす、という筋書がワンパターンの番組なのですが、登場人物たちの名前に言葉遊びが使われるのがおもしろさの1つです。

 例えば、忍術学園5年生の不破雷蔵(ふわらいぞう)先輩、忍者料理研究家の黒古毛般蔵(くろこげぱんぞう)先生、ドクタケ忍者隊隊長の大黄奈栗野木下穴太(おおきなくりのきのしたあなた)、剣士の兼八洲以呂波(かねやすいろは)など、言葉遊びで名前がつけられた人々がいます。
 不破雷蔵先輩は四字熟語の「付和雷同(ふわらいどう)」という言葉のとおり、自分の考えがなく他人の意見に左右される頼りない先輩です。黒古毛般蔵先生は下手物料理ばかりを作るので、生徒たちは先生の作る料理を黒焦げのパンのごとく嫌がって食べたがりません。大黄奈栗野木下穴太隊長は有名な童謡から名付けられたミュージカル好きの忍者で、兼八洲以呂波は「金、安い、ロハ(=只、ただ)」を組み合わせただけの名前で、お金好きのきり丸になつかれてしまう人です。



 そんな登場人物の一人に「野牛金鉄(やぎゅうきんてつ)」という剣豪がいました。子供の頃の私はこの剣豪の名前に上で挙げた四人と同じくなにか言葉遊びが隠されているに違いないと思っていました。しかし当時はその言葉遊びがどういったものか分かりませんでした。深く考える頭もなかったので、モヤモヤした謎をそのまま胸に抱えていたのでした。
 子供の頃の謎がなぜその秋の喫茶店に出現したのか、よくはわかりません。この先の人生がどうなるかわからなくて心細かったせいか、あるいは東陽町に私の出身地である地方都市新潟の面影を見たからか、はたまた秋の寒さのせいか。いずれにせよ、さみしくて子供帰りしたくなったのでしょう。私はスマートフォンで調べることもせずに一生懸命うんうん唸って考えていました。


「野牛金鉄」についてしばらく考え、私は「野牛金鉄」の由来は「近鉄バファローズ」だと思い付きました。

 「野牛(やぎゅう)」は有名な剣豪「柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)」の「柳生」をもじったものだということは少し考えたら簡単にわかりました。次に「金鉄(きんてつ)」です。「きんてつ」と言えば「近鉄」すなわち近畿鉄道です。子供の私は近畿鉄道は知りませんでしたが、近畿鉄道が所有するプロ野球球団「近鉄バファローズ」なら知っていました。ところで「バファローズ」は「バファロー」の複数形で、「バファロー」とは「野牛」のことです。つまり「近鉄バファローズ」を「柳生」の「やぎゅう」という音に寄せて「近鉄野牛」になり、ひっくり返って「野牛近鉄」、最終的に「野牛金鉄」となったのです。


 
 「野牛金鉄」の由来がわかった私はこの発見に大喜びです。なにしろ子供の頃から胸に抱いていたモヤモヤとした謎を自力で解くことができたのです。発見の喜びそれ自体に加えて「自分で解けた」といううれしさもありますから、それはそれは喜びました。あまり嬉しいものですから、しばらくの間私は1人で、

近鉄バファローズ」→「近鉄野牛」→「野牛近鉄」→「野牛金鉄」

という野牛金鉄の発生過程を頭の中で繰り返し確認していました。そうやって喜んでいたら突然、

「てめぇ、なにニヤニヤしてんだ」

と静かながらも怒ったような声が聞こえました。驚いた私が閉じていた目を開けると、目の前に色つき眼鏡を掛けたお爺さんが立っています。知らない人です。歳は70くらいで、髪は短くて白く、茶色いシャツとジャケットを着ています。

 私は初めは驚き、そして困ってしまいました。なにが起きたのかわからないのです。お爺さんはきっと私に怒っているのでしょう。しかし私は一人で考え事をしていただけなので、お爺さんに怒られるようなことはしていません。そうかといってこのお爺さんが理由なく因縁をつけてくるとも思えません。なにしろ見た目が普通のお爺さんなのです。
 一体なにが起きているのだろうかと少しの間呆然としていた私ですが、色つき眼鏡の奥にあるお爺さんの目が斜視であることに気付きました。そこでピンときました。このお爺さんは私に笑われたと勘違いしているのだな、と。


 斜視というと、黒目がやや外側もしくは内側に寄っている目のことです。斜視の人は黒目の位置が一般的に想定される位置と違うため他人から驚かれ、表情から感情を読み取りにくいため恐れられます。それでも「斜視」という言葉を知るようになれば他人は「そういうものがあるのだ」と分かり驚かなくなりますし、斜視の人と付き合いがあれば感情の読み取り方もわかり恐れなくなります。
 しかし子供や若者は経験不足のため、斜視に驚き恐れます。そして自分が怖がりだということを隠すため、「こんなやつ怖くないや」と斜視の人をバカにしたりいじめたりします。今はテレビやインターネットで簡単に情報が手に入る時代となりましたから斜視の人を恐れる子供や若者は少ないでしょうが、お爺さんが生まれたのはテレビもない時代です。子供の頃から若いときにかけては相当バカにされたりいじめられたりしたに違いありません。大人になって周りの人間が落ち着いてからもお爺さんはいつも「バカにされているのではないか?」という疑念を抱きながら生きてきたのではないでしょうか。若いときに受けた仕打ちというものはなかなか忘れられるものではありませんから。
 そんなお爺さんの前に1人ニヤニヤしている若者が現れた。本を読んでいるわけではなくスマートフォンを見ているわけでもなく、ただコーヒーを飲みタバコを吸いながらニヤニヤしている。だから神経が過敏になっているお爺さんは「きっと俺のことをバカにしているんだな、文句を言ってやる!」と勘違いをした。私はそう考えました。
 まさか私が野牛金鉄の謎が解けて喜んでいるだけだとはお爺さんも思わないでしょう。これは誤解を解かなくてはいけない、そう思って私は「あなたを見て笑っていたのではありませんよ」と言おうとしました。


 しかしそう思った瞬間、私はとんでもないことに気付きました。もし私がお爺さんに「私はあなたを見て笑っていたのではありませんよ」と言ったら、私は一人で笑っていたことを認めてしまうことなります。しかもお爺さんの言葉によれば「ニヤニヤ」とです。そのときの状況を合わせて考えれば私は「相手をしてくれる友達もなくすることもないため楽しいことを考えて1人で笑っているさみしい男」というとんでもなく哀れな存在になってしまいます。こんなこと私に認められるはずありません。
 そうするとお爺さんがとても嫌なやつに思えてきました。「なにニヤニヤしてんだ」としか言っていないお爺さんですが、それは私にとっては「お前は哀れな男だ」と言われたに等しいのです。先程までのお爺さんへの同情は吹き飛んで、私は怒りました。「俺が一人でニヤニヤしている哀れな男だと?冗談じゃないぞ」との思いで、お爺さんの目を睨み付けて言い放ちました。


「笑ってませんけど!」


 今度はお爺さんが驚く番です。自分をバカにして笑っている若者がいるから「なにニヤニヤしてんだ」と文句を言う、そうしたら当然若者からの反応があるはずで、それは「すいません」という謝罪や「笑ったが悪いか!」といった生意気な反抗になるはずだ、もし自分の誤解であったのならば「違いますよ」だとか「なんですか?」とかいった別の反応が返ってくるはずである、しかるに今目の前にいる若者は「笑ってませんけど!」などとそもそも笑っていたこと自体を否定している上に逆ギレしている、一体これはどうしたことだろう…
お爺さんは呆然として動くことも話すことも出来なくなってしまいました。


 一方私は「笑ってませんけど!」といった後は黙り込んで、お爺さんの出方をうかがっていました。きっと「笑ってたじゃないか」だとか言い返してくるに違いない、でも俺は1人で笑ってたことなんか絶対に認めないぞ、だいたいなんで知らないヤツに『哀れな男』だと認定されなければいけないんだ、そんなことを思って怒りにうち震え、お爺さんを強く睨み据えました。来るならこい、いつでもこいと、興奮して臨戦態勢です。


 一般人はこんなアブナイ人にかかわり合うべきではありません。しばらくして正気に返ったお爺さんは、やはり不穏なものを感じ取ったのでしょう、クワバラクワバラとばかりに黙って静かに去っていきました。チラチラ私の方を振り返り、釈然としないようすでしたが、そんなこと私には関係ありません。こうして私は一方的に自分の名誉を守ったのでした。


 
 お爺さんが去った後、私は「ざまあみろ」と勝ち誇り、いい気分です。興奮したため少し疲れ、その少しの疲労感がかえって体に心地よく、夢見がちにまた考え事へ戻っていきました。
 

 今度はなにを考えたのかというと、今起きたお爺さんと私のすれ違いについてです。
 片一方は「俺を見て笑ったな」と思って怒っているのにもう片一方は「そもそも笑ってなんかいない」と主張してしかも何故か怒っている、このすれ違っている状況がとても面白かったのです。「野牛金鉄」の名前の由来を発見したときと同様に、「すれ違う二人」という面白い状況を発見した私は、自分の発見に大喜びです。「二人の話が噛み合っていないなあ、二人とも勘違いしているなあ、しかも二人のうち1人は俺なんだよなあ、ナンダコレ」と繰り返し繰り返し考えてキャーキャー喜びました。



そうして私はやっぱり1人でニヤニヤしてしまいましたとさ。

さみしい秋のお話でした。