なべさんぽ

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【本編①】詩的表現が『わかる』ー詩人との闘いー

 さて、今回はいよいよ『カエルの王さま』の読み解きに入っていきます。『カエルの王さま』はグリム童話の巻頭を飾る作品で、童話の代表格と言えます。
 
 童話にはよく荒唐無稽な設定や展開があります。この荒唐無稽さは通常は「まあ、子供向けの話だから…」と流されてしまうようなもので、まともに相手にされません。もしくはあまりにも普遍的な人の気持ちを描いたもののため今さらワザワザその表現を言葉にして説明しようなどと誰も思わない、というものかもしれません。いずれにしても童話の荒唐無稽さは詩的表現ですので、ここではその表現を真面目に取り上げていきたいと思います。


まずは粗筋から紹介いたします。



 昔あるところに1人の王さまが住んでいました。王さまにはお姫さまがたくさんいましたが、末のお姫さまはとても美しい方でした。
 このお姫さまはお城近くの森でまりつき遊びをすることを好んでいましたが、あるときこのまりが泉の中に落っこちてしまいました。お気に入りのまりを失ってお姫様がしくしく泣いているとカエルが現れ、まりを取ってきてくれると言いました。お姫さまはカエルのお友達になること、一緒の食卓で同じ食器で食事をすること、一緒の床で寝ることを条件にカエルにまりを取って来てもらいました。ところがお姫さまは約束を破り、カエルを置いて帰ってしまいました。
 明くる日、カエルはお城まで追いかけてきてお姫さまに約束を果たすよう言いました。お姫さまは嫌がりましたが、事情を聞いた王さまはお姫さまに約束を守るよう言いつけました。お姫さまは仕方なくガマンしてカエルと一緒に食事をしましたが、一緒に寝るときになってお姫様はガマンしきれなくなり、カエルを壁に叩きつけました。するとカエルは人間の王子さまになりました。実はカエルは悪い魔女の魔法にかけられていた王子さまだったのでした。二人は結婚して王子さまの国で幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。

(参考図書:「完訳 グリム童話集1」金田鬼一訳 岩波文庫 1979年改訂)



 まず物語の序盤にお姫さまとカエルが登場します。この二人はごく自然に会話をしておりますが、皆さんにここで確認していただきたい重要なことがあります。それは

「現実でカエルが人間の言葉を話すはずがない」

ということです。
 
 
 
……皆さんどうですか?「この人は何を言っているんだ?」とお困りになったでしょう?

 
 私が「現実でカエルが人間の言葉を話すことはない」などという当たり前の事実をさも重要な事実であるかのように申し上げるので、皆さんは呆れてしまったことと思います。また、私のことをものすごい馬鹿だと思ったかもしれません。中には「こっちを馬鹿にしているのか!」とお怒りの方がいらっしゃるかもしれません。
 

 皆さんの困惑や嘲笑や怒りはもっともで私は申し訳なく思いますが、これにはわけがございます。

 

 そのわけをお話しするためにまず私は皆さんにお聞きしたいのですが、皆さんの中でカエルがお姫さまとごく自然に会話をしていることを不思議に思った方はいらっしゃいますか?どうですか?
 
 
 
 おそらく大半の方は「お話なんだから、そういうもんだ」と考えて受け入れてしまったことと思います。皆さんは「現実でカエルが人間の言葉を話すはずがない」ことをご存知です。そして「現実」と「お話」とを区別する「常識」と「良識」がございますから、「カエルが口を利くお話」と「カエルが口を利かない現実」とを簡単に分けることができたと思います。

 
 それはそれでとても大事なことなのですが、しかし、それ「だけ」では『カエルの王さま』を読み解くことが出来ません。相手である詩人のことも考えなくてはなりません。


 皆さんは自分の身に付けている「常識」や「良識」が世にあまねく行き渡っているとうっかり考えがちですが、詩人に「常識」や「良識」はございません。「こんな当たり前のことは言わなくても分かるだろう」と思っていたら全く分かっていなかった、あるいはとんでもなく自分にとって都合のよいようにものを考えてそれを恥とも思っていなかった、そういう詩人はいくらでもいます。
 
 皆さんは現実において仕事をしていたり日常生活を営んだりしていますから、「現実」と「お話」を区別することなんて簡単です。「現実」と「お話」の区別がつかなかったら生活が壊れてしまいますから、「簡単」どころか「当たり前」だと考えていて、その区別に大変な注意を払っている、「常識」や「良識」が身に付いている、とはそういうことです。

 
 しかし詩人は違います。「現実」なんかどうでもよくて「常識」や「良識」なんて知ったこっちゃないんです。自分が「現実」と「お話」を一緒にしてしまうことで一般人の生活を破壊することになったとしても平気です。なぜなら詩人の世界には「他人」がいなくて「自分」しかおらず、詩人は「自分が幸せになれないのならこの世界なんか滅びてしまえ!」くらいに考えているのです。それでいて罪悪感など毛ほども持ちあわせておらず、自分の正しさを信じて疑いません。
 
 やつらは自分の快感のためならどんな無茶でも平気でします。例えば「現実でカエルが人間の言葉を話すことはない」という事実を無視して、「カエルが口を利く」ことをあたかも現実であるかのように語ります。こちらは初め「お話の世界のことを言っているのかな?」と思いますが、詩人は「この現実でカエルは口を利く」と言います。次にこちらは「ふざけてるのかな?」と考えますが、詩人は大真面目です。そしてこちらはそのこと自体を悪いとは思いませんが、仕事や日常生活をその世界観で押し通されると色々困ったことが起きるのでやめてほしいと考えます。そして「そういうことはそういうことにふさわしい時と場所を考えて言おうよ」と諌めますが、詩人は時と場所を考えず、いつでもどこでも「この現実でカエルは口を利く」と言い張ります。こちらが困惑して、それでも妥協案を出したというのに、いつでもどこでも「この現実でカエルは口を利く」という世界観を強要してくるのです。



 詩人と対決することはとても大変なことだと分かっていただけたでしょうか?我々一般人はとんでもないヤツを相手にしなくてはならないのです。1対1だとこちらの頭はやられてしまって確実に飲まれます、負けます。
 
 一般人が詩人と面と向かって話をすると、わけのわからない話を捲し立てられるためまず不信感が訪れます。次に、こちらを無視してわけのわからない世界観を崩さないため、不信感が不快感に変わり、怒りがこみ上げてきます。怒りたくなりますが、もし常識的な一般人がその場に自分1人しかいなかった場合、自分以外誰1人として詩人のことを咎める者はおりません。始末の悪いことに、詩人はわけのわからない世界観を共有する仲間を連れていることが多く、一般人は詩人の間にあって孤立しがちです。そのことに気づくと怒りがしぼんできて、「自分が間違っているのか?」とだんだん不安になってきます。ついには「自分はきっと時代についていけない頭の古い人間なんだ」と思い込んで口を閉ざし、詩人に敗退するのです。
 
 1人で詩人と向き合うと大抵このような結果になります。詩人の現実を破壊する力を前にして不安になっていては勝てる戦いにも勝てません。ですから我々は団結して不安を払拭しなくてはなりません。そのためにまずどんな些細なことでもよいから当たり前のことを我々の間で共有する、という行為が必要です。




「現実でカエルが人間の言葉を話すはずがない」

 私がこの当たり前の事実を提示した理由は、我々一般人の間で当たり前を共有して心を強くすることが大事だと皆さんにお知らせするためだったのです。


 

 
 さて、改めて『カエルの王さま』の序盤です。カエルとお姫さまはごく自然に会話をしていますが、これはヘンです。「現実でカエルが人間の言葉を話すはずがない」のですから。よいですね。このことをしっかりと胸に刻んでおきましょう。ではこの場面を我々に分かる「現実」の言葉に置き換えたいと思います。そうすると、


実はここで「カエル」と言われている存在は人間の姿をしていて、カエルの姿をした生き物なんてどこにもいなかった、したがってお姫さまはカエルと会話をしていたのではなく、「カエルのような風貌の醜い男」と会話をしていた


ということになります。


 
「そんなことどこに書いてあるんだ?私の読んだ『カエルの王さま』には確かに『カエル』だと書いてあって、実はカエルが人間の王子さまだと分かるのは最後だったぞ。挿し絵もカエルだったし。あんまり勝手な解釈をするのもどうかと思うけど…」

 
 賢明な方はこうお考えになるでしょう。しかし私の解釈はあまり「勝手」ではございません。
 
 『カエルの王さま』は『グリム童話』に納められているお話の1つですが、19世紀初頭に刊行された『グリム童話』はグリム兄弟がドイツで収集した民話がもとになっています。童話も民話も同じようなものですが、民話は民衆の間に伝わってきたお話であり、多くの人の生活実感の中から産まれてきたお話です。「こういうことあるよな」とか「こういうことありそうだよな」という人々の想いを仮託されているのが民話ですので、荒唐無稽な表現もその根っこは「現実」にあります。ですから現実に存在しない「人間の言葉を話すカエル」を現実に存在する「カエルのような風貌の醜い男」だと考えたって一向にかまわないのです。

 だいたい詩的表現は「この表現は現実ではこれこれのことを指しているのです」などと親切に説明してくれません。むしろ「そんなこと自分で考えろよ!」と突き放してきます。不親切かもしれませんが、向こうがそう言ってきているのだから仕方がありません。こっちはこっちで考えるしかないのです。ですから私にはその不親切さに怒って「カエルなんかいない!醜い男のことを『カエル』と言っているんだ!」と決める権利があるのです。

 それに、不親切には何か事情があるかもしれません。例えば、こういうことを考えてみてください。
 現実にカエルのような風貌をした男がいたとして、その人に向かって「あなたカエルみたいね」などとあからさまに言えるでしょうか?言えませんね。言えたとしてもそれは家族や友達といったごく親しい相手でしょう。他人だったら普通はコソコソと「あの人カエルみたいね」とささやきます。ケロケロケロッピみたいなかわいいカエルなら「カエルみたいね」は誉め言葉にもなりますが、ヒキガエルのことだったら悪口にしかなりません。もしみんなが面白がっているお話の中に「カエルのような風貌の醜い男」が登場したらと、現実における「醜い男」は「みんなで俺の悪口を言っているのか!」と怒っちゃいます。悪口をあからさまにしないためにドイツの人々は
「これは醜い男の話ではなくて本当のカエルの話なんだ」
ということにして本音を隠した、そんな事情があったかもしれません。
そう考えると不親切さに対する腹立ちも少しは紛れることでしょう。


 

 まだ納得のいかない方もいらっしゃるかもしれませんが、取りあえず解釈の仕方は「現実の方に引っ張る」というやや強引な方法をとっていきたいと思います。
 
 その「現実の方に引っ張る」やり方でお姫さまとカエルの会話を解釈した結果、お姫さまは「カエルのような風貌の醜い男」と会話していることがわかりました。そうすると、今度は会話の内容に問題が出てきます。

 
 上の粗筋に書かれた会話の内容は
「お姫さまはカエルのお友達になること、一緒の食卓で同じ食器で食事をすること、一緒の床で寝ることを条件にカエルにまりを取って来てもらいました。」
となっております。この書き方だとお姫さまからカエルに条件を提示したように見えるかもしれませんが、実際は逆で、岩波文庫の本文ではカエルがお姫さまに条件を提示しています。カエルはお姫さまに対して、まりを取って来る代わりに

お友達になること
一緒の食卓で同じ食器で食事をすること
一緒の床で寝ること

を要求したのです。私が問題としているのはここです。


 
 カエルが本物のカエル、仮にヒキガエルだったとしましょう、それなら問題はあまりございません。ヒキガエルとお友達になったり食事をしたり一緒に寝るたりすることは、人によって反応は様々で「嫌だなぁ」とか「気持ち悪いなぁ」とか「楽しいなぁ」とか「面白いなぁ」とかあるでしょう。反応は様々ですが、「動物を相手に本気にはならない」という点で皆共通しています。「まあ、所詮爬虫類相手だしな…」との思いが頭にあるので、一緒に遊んだり食事をしたり寝たりするにしても、軽い気分で嫌がったり楽しんだりするだけで済みます。「嫌だ」と思っても「ちょっと嫌だけど、我慢できないほどではないな」くらいなもので、「心底嫌だ」とは思わないでしょう。


 
 しかし、このカエルが「カエルのような風貌の醜い男」だったら話が大きく変わってしまいます。私は上でカエルの要求を

お友達になること
一緒の食卓で同じ食器で食事をすること
一緒の床で寝ること

などと可愛らしい言葉で書きましたが、「カエル」を「人間の男」に置き換えたらこれらの要求は

デートしろよ
飯行こうぜ
寝ようぜ

ということになってしまいます。とんでもない要求です。特に3つ目の「寝ようぜ」はもっと露骨に言うと「ヤらせろ」で、3つの要求をまとめると「俺の女になれよ」です。これは大問題です。「カエルのような風貌の醜い男」がお姫さまに「俺の女になれよ」などと言っているのです。ギョッとします。醜い男が若くてきれいな女の子に男女の仲を迫るという状況は、想像するだにおぞましいです。普通なら「気持ち悪い」だとか「嫌だ」とか嫌悪感を覚えます。「ちょっと嫌だけど…」どころではなく「心底嫌だ」です。『カエルの王さま』は童話なのに冒頭から恐ろしい場面を描いていたのですね。


 
 今の私の話をお読みになって、皆さんはどうお感じになりましたか?

 醜い男が若くてきれいな女の子に男女の仲を迫るという状況を想像して、きっと「嫌だ」とか「気持ち悪い」とか感じたと思います。しかし、例えそう感じていたとしても私の問いかけには困って黙り込んでしまったのではないでしょうか?あるいは「嫌なんだけどねぇ、そうなんだけどねぇ、うーん…」という、はっきりしない、奥歯にものの挟まったようなモゴモゴしたお返事しか出来ないと思います。
 
 なにしろこのブログは「詩的表現が『わかる』」です。そんなブログを読む皆さんは「詩的表現」なるものがよくわからないはずで、従って詩的表現に深く関わる美醜もよくわからないはずです。私がお姫さまのことを「若くてきれい」と言ったり、男のことを「カエルのようで醜い」と言ったりするたびに、「そうなの?」とか「そんなこと言って大丈夫なの?」とか思って戸惑ったり慌てたりしたことと思います。「美醜もよくわからない」とお書きしましたが、皆さんは美醜が全くわからないわけではなく、なんとなくはわかります。皆さんも「若くてきれいなお姫さま」が好きで「カエルのような風貌の醜い男」は好きではない、そういう感情はお持ちです。ですが皆さんは自信がなくて、ご自分の美醜の判断をはっきりと口に出してよいか迷ってしまう、だから皆さんは私の問いかけの前に口ごもるのです。




 お気持ちは分かりますが、このまま迷われていては困ります。


実は『カエルの王さま』は


「美しき者は善であり、醜き者は悪である」


という価値観によって作られたお話で、美醜の判断を下せることがこのお話を『わかる』条件となります。ですから皆さんが美醜の判断に迷い続けていたら話が先に進みません。


 そこで次回、皆さんの美醜の判断に自信をつけるため、美醜の問題をお話ししていきたいと思います。