なべさんぽ

ちょっと横道に逸れて散歩しましょう。

子供の学び方ー空気を「発見」するのはけっこう大変だー

東京と千葉は涼しくなりました。道を歩けばキンモクセイの香りが漂ってきて、もう秋なのだということが知られます。

花の香りというものは空気にのって我々の鼻に届けられるものですが、今回はこの「空気」がテーマです。

つかぬことを伺いますが、みなさんは空気の存在をいつ頃「発見」されましたか?


 なぜ私がこのような質問をしたのかと言いますと、私が空気を「発見」したときにはとても嬉しかったもので、どなたか同じような経験をしていないかと確認したくなったからです。


 私が「空気」という言葉を知ったのがいつ頃かはよく覚えておりません。ただ、小学4年生頃まで、私は「空気」とは「なんにもない」ことであると思っておりました。
 小学生の私は叔父によくプールに連れていってもらっていて、水のなかに潜ることに親しんでおりました。水のなかに潜っていると息苦しくなりますが、それは「水を飲むと苦しくなってしまうからだ」と思っていました。水中にいると水を飲んでしまって苦しい、陸上にいるときは水がないから苦しくない、そんな経験から空気とはまず「水中ではない空間」だと考えました。それでは水中ではない空間には何があると考えたのかというと「なんにもない」です。


 「空気を吸う」だとか「空気がおいしい」だとか、空気の存在を前提にした表現を知っていましたし、「呼吸」は自分自身していることだという自覚もありました。風は何かの流れなのだろうけど、なんの流れかわからないという疑問も持っていました。しかし空気は目には見えません。私は「見えないものはない」と思ってしまう子供だったので、言葉や経験や疑問を全部無視して
「空気とは『なんにもない』ことである」
と断定してしまったのです。


 そんな私がどうしてで空気が「ある」ものだと知ったのかというと、ドラえもんのマンガがきっかけでした。
 祖父の家には父が子供の頃に集めたドラえもんの漫画があり、私は祖父の家に行くたびにこれを読んでいました。

 ドラえもんにはいくつか宇宙に行くお話があります。宇宙に行くお話のなかに、「どこでもドア」で宇宙にいこうとして、宇宙空間に勢いよく吸い込まれそうになるというエピソードがありました。
 ドラえもんのび太くんの部屋と宇宙空間をどこでもドアでつないだのですが、部屋の空気が真空である宇宙空間に吸い込まれて、ついでに回りのものやドラえもんたちも吸い込まれそうになったのです。あわててドアを閉めたドラえもん

「宇宙には空気がないってことをすっかり忘れていたよ」

と言います。


 私は小学5年生くらいの時にこのエピソードを読んだのですが、このドラえもんのセリフに混乱しました。私は空気とは「なんにもない」ことだと思っています。それなのに「宇宙には空気がない」とドラえもんは言う。私からするとドラえもんは「宇宙には『なんにもない』がない」と言っているのです。
「『なんにもない』がないなんて無茶苦茶だ」
と混乱してしまいます。

 勘違いと思い込みで生きていた私ですが「『なんにもない』がないなんて無茶苦茶だ」と考える頭も持ち合わせていましたのは救いでした。しばらくしたら、「空気」とは「なんにもない」ことではなく、反対に目には見えないけど「ある」なにものかに「空気」という名前がついているのだと気づきました。
 
 「空気」が「ある」ものだとわかった私は、今まで無視していた言葉や経験や疑問を思い出して検討し直しました。

「空気は『ある』ものだから、吸ったり味わったりして『おいしい』なんてことが言えるんだ」
「呼吸って空気を吸ったり吐いたりしているんだよな。なんにもなかったら吸ったり吐いたりできないもんな」
「風は空気の流れなんだ。風が吹いているときは空気っていう『ある』ものがぶつかるから木も揺れるんだな」
「手で扇ぐと風が起こるけど、これは手で空気を動かしているんだな。空気は『ある』ものだから触れるし手で動かせるんだ」

といった具合に、一人であれこれ考え、納得し、喜んでいました。

なぜ嬉しかったのかと言いますと、「なんにもない」だと思っていた空気が「ある」ものだとわかったら、色々なことに辻褄があってきて、これはすごい「発見」だと思ったからです。


 言葉とは勉強して頭で理解すれば使えるという単純なものではなく、現実を生きる中で経験を重ねてやっと理解できるという性質のものです。現代では子供には経験するべき現実というものが少なく、言葉を使って現実を理解することがほとんどできません。子供が空気を「発見」するのも一苦労なのです。だからたまに言葉と現実が結び付いたときには自分の理解に興奮して、「すごい発見をした」と喜ぶのです。


 私はもう子供ではないので経験するべき現実がたくさんあり、わからなかった言葉を理解する機会がたびたびあります。もう言葉を理解することが珍しいことではありませんが、それでもひとつの理解が訪れたときには「発見」を嬉しく思ってしまいます。これが私のいきる喜びであり、今日を生きる活力となっています。


 
 みなさんも私が空気を発見したのと同じように何かを「発見」した経験があるかと思います。例えそれが小さな発見、ありふれた発見だったとしても、その発見の経験があなたが今生きている現実を言葉で理解するための原動力になっているはずです。ですからたまには子供の頃の自分の発見を思い出して、誇ってみてください。
「俺は空気を発見したんだぞ」と。