なべさんぽ

ちょっと横道に逸れて散歩しましょう。

英語の過去形と人の気持ち

今回は塾講師らしく、英語の文法の話をしようかと思います。テーマは「過去形」です。


私は中学生の頃から「英語の『過去形』はヘンだ」と思っていました。


 過去形とは過去の事実を表すときに使われる文法のことで、英語では主に動詞の変化によって表現されます。過去形が使われるときは通常、
「walk(歩く)」→「walked(歩いた)」
「love(愛する)」→「loved(愛した)」
のように、動詞に「ed」や「d」が付け加えられます。また、
「see(見る)」→「saw(見た)」
「go(行く)」→「went(行った)」
のように、動詞が不規則な変化をすることもあります。
 現在形は現在の事実や習慣を表し、
I go to school every day.
(私は毎日学校に行きます。)
のように使われますが、過去形は過去のある時点での事実を表し、
I went to school last Sunday.
(私はこの前の日曜日に学校へ行った。)
のように使います。


 ここまで習った中学1年生の私は「ふーん」と思っただけだったのですが、この後に出てきた「過去形のようなもの」に戸惑いました。私が教科書で出会ったのはこんな文です。

Could you tell me the way to the station?
(駅までの道順を教えていただけませんか?)


「could」は「can」の過去形です。
「can」は動詞に「できる」という意味を加える助動詞で、例えば
I can speak English.
(私は英語を話すことができる。)
という風に使います。これを過去形に直すと、
I could speak English 20 years ago.
(私は20年前は英語を話すことができた。)
となります。


 しかし学校の教科書では「could」はまず初めに

Could you tell me the way to the station?
(駅までの道順を教えていただけませんか?)

という形で出てきます。日本語訳を見る限り「過去」の要素はありません。しかも先生は、canを使うよりcouldを使った方が丁寧な尋ねかたになる、と言うのです。私は「なんで過去形を使っているのに過去の話にならないんだ?なんで過去形を使うと丁寧な表現になるんだ?」と不思議に思いました。

不思議に思った私ではありましたが、英語に対してそれほど探究心もなかったので「まあいいや」で済ませてそのままにしておきました。



 それから20年近くたちましたが、英語の過去形について最近分かったことがあります。それは「英語の過去形とは心の奥にあるものを取り出すときに使うものだ」ということです。


私は最近まで「事実」と「気持ち」を「関係のない別の物」であると、あまりにも単純に捉えていました。それというのも、「事実」は動かしようのない確固としたものだけれど、「気持ち」は時と場合と人によって異なるあいまいなものだ、そう考えていたからです。
 しかし働くようになって人と関わることが多くなるとどうも様子が違います。働く場では、相手が私の示す「事実」に納得するという人の「気持ち」が大事になるのです。私は「事実」と「気持ち」の区別はできないものだ、いや、「気持ち」が「事実」に勝るんだ、もっと言うと、「気持ち」という土台の上に「事実」が作られるんだ、そう考えるようになりました。
 「だったら俺もそうしよう」ということで、自分の気持ちを満たすために本当かどうかわからないようなことをこのブログに書き綴っているのではありますが、長くなりそうなのでこの辺で英語の過去形に戻ります。


先ほど挙げた例文を再び書きます。

①I went to school last Sunday.
 (私はこの前の日曜日に学校へ行った。)

②Could you tell me the way to the station?
 (駅までの道順を教えていただけませんか?)

①が「過去の事実」を示すときに使われる過去形で、②が「丁寧なお願い」を表現する「過去形のようなもの」です。
一見すると関係のない「事実」の文と「気持ち」の文ですが、どちらも「心の奥にあるものを取り出している」点で共通しています。


 まず①は「過去の事実」を表す表現ですが、「過去」とはその辺に物理的に転がっているものではなく、人の心の中の「記憶」として存在します。「記憶」は普段意識されるものではなく、過去の記憶を話すときには思い出すこと、すなわち「こころの奥にある記憶を取り出す」ことを必要とします。


 次に②は「丁寧なお願い」の表現ですが、「丁寧なお願い」は「本当に頼みたいんだ」という気持ちを示すものです。だからやはりこれも「心の奥にある気持ちを取り出す」ことが必要です。


 したがって私は「過去形とはこころの奥にあるものを取り出すときに使うものだ」と考えるのです。
ここまで考えて、まだ他にもあったことを思い出しました。仮定法過去です。


高校に入ってから習う文法で仮定法過去というものがあり、
I wish I were a bird.
(もしも私が鳥だったらなあ。)
という風に使います。これは「現実とは異なる願望」を表すものですが、be動詞の過去形「were」が使われています。心の奥にある「願望」を取り出しているので、やはり過去形が使われるのでしょう。



いかがでしょうか?英語の文法1つ取ってもそこに人の気持ちを見ることができます。

世の中には他にどんな気持ちの表現があるのでしょうね。みなさんもぜひ探してみてください。

野牛金鉄と斜視のおじいさんー「さむい」は「さみしい」ー

そろそろ涼しいを通り越して寒い季節になってきます。コートやジャケットといった上着が手放せません。雨は降るし台風は来るしで、秋は出掛けづらい日も多いです。

それでも私は秋が好きですが、秋の好きなところはほどよく寒いところです。ほどよく寒いときはなんとなくさみしい気持ちになることがあります。そんなときは子供の頃の思い出がわき上がってきて、胸がジンとして少し幸せな気分に浸れます。「さむい」という言葉は人に「さみしい」を思い出させるためにあるのではないかとさえ思います。

今回は寒いときのかなり個人的なさみしいエピソードをお書きします。



 今から8年から9年前、私が23歳もしくは24歳の秋のことです。休日の夕方4時頃、私は東陽町の喫茶店ベローチェで1人コーヒーを飲みながら考え事をしておりました。
 当時大学を休学しアルバイトをしながら生活していた私は休日にすることがなく、1日ブラブラ散歩をし、家に帰る途中で喫茶店に立ち寄ったのでした。寒いなかを歩いてきたので暖かい店内の空気とコーヒーの熱さにホッと安心し、タバコを吸って目を閉じながらゆったり考えていました。このとき私が考えていたことは、この先どうやって生きていこうかという深刻なものではなく、なんと能天気にもアニメ『忍たま乱太郎』に登場する剣豪「野牛金鉄(やぎゅうきんてつ)」のことでした。


 『忍たま乱太郎』はNHKEテレで放送している子供向けアニメで、戦国時代の忍者学校「忍術学園」を舞台に忍者のたまご「忍たま」たちの日常を描くコメディです。私が子供の頃からやっている長寿番組で、小学生の私はよくこの番組を見ておりました。『忍たま乱太郎』は主人公の乱太郎・きり丸・しんべえが送るほのぼのとした日常におかしな人物が現れおかしな事件を起こす、という筋書がワンパターンの番組なのですが、登場人物たちの名前に言葉遊びが使われるのがおもしろさの1つです。

 例えば、忍術学園5年生の不破雷蔵(ふわらいぞう)先輩、忍者料理研究家の黒古毛般蔵(くろこげぱんぞう)先生、ドクタケ忍者隊隊長の大黄奈栗野木下穴太(おおきなくりのきのしたあなた)、剣士の兼八洲以呂波(かねやすいろは)など、言葉遊びで名前がつけられた人々がいます。
 不破雷蔵先輩は四字熟語の「付和雷同(ふわらいどう)」という言葉のとおり、自分の考えがなく他人の意見に左右される頼りない先輩です。黒古毛般蔵先生は下手物料理ばかりを作るので、生徒たちは先生の作る料理を黒焦げのパンのごとく嫌がって食べたがりません。大黄奈栗野木下穴太隊長は有名な童謡から名付けられたミュージカル好きの忍者で、兼八洲以呂波は「金、安い、ロハ(=只、ただ)」を組み合わせただけの名前で、お金好きのきり丸になつかれてしまう人です。



 そんな登場人物の一人に「野牛金鉄(やぎゅうきんてつ)」という剣豪がいました。子供の頃の私はこの剣豪の名前に上で挙げた四人と同じくなにか言葉遊びが隠されているに違いないと思っていました。しかし当時はその言葉遊びがどういったものか分かりませんでした。深く考える頭もなかったので、モヤモヤした謎をそのまま胸に抱えていたのでした。
 子供の頃の謎がなぜその秋の喫茶店に出現したのか、よくはわかりません。この先の人生がどうなるかわからなくて心細かったせいか、あるいは東陽町に私の出身地である地方都市新潟の面影を見たからか、はたまた秋の寒さのせいか。いずれにせよ、さみしくて子供帰りしたくなったのでしょう。私はスマートフォンで調べることもせずに一生懸命うんうん唸って考えていました。


「野牛金鉄」についてしばらく考え、私は「野牛金鉄」の由来は「近鉄バファローズ」だと思い付きました。

 「野牛(やぎゅう)」は有名な剣豪「柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)」の「柳生」をもじったものだということは少し考えたら簡単にわかりました。次に「金鉄(きんてつ)」です。「きんてつ」と言えば「近鉄」すなわち近畿鉄道です。子供の私は近畿鉄道は知りませんでしたが、近畿鉄道が所有するプロ野球球団「近鉄バファローズ」なら知っていました。ところで「バファローズ」は「バファロー」の複数形で、「バファロー」とは「野牛」のことです。つまり「近鉄バファローズ」を「柳生」の「やぎゅう」という音に寄せて「近鉄野牛」になり、ひっくり返って「野牛近鉄」、最終的に「野牛金鉄」となったのです。


 
 「野牛金鉄」の由来がわかった私はこの発見に大喜びです。なにしろ子供の頃から胸に抱いていたモヤモヤとした謎を自力で解くことができたのです。発見の喜びそれ自体に加えて「自分で解けた」といううれしさもありますから、それはそれは喜びました。あまり嬉しいものですから、しばらくの間私は1人で、

近鉄バファローズ」→「近鉄野牛」→「野牛近鉄」→「野牛金鉄」

という野牛金鉄の発生過程を頭の中で繰り返し確認していました。そうやって喜んでいたら突然、

「てめぇ、なにニヤニヤしてんだ」

と静かながらも怒ったような声が聞こえました。驚いた私が閉じていた目を開けると、目の前に色つき眼鏡を掛けたお爺さんが立っています。知らない人です。歳は70くらいで、髪は短くて白く、茶色いシャツとジャケットを着ています。

 私は初めは驚き、そして困ってしまいました。なにが起きたのかわからないのです。お爺さんはきっと私に怒っているのでしょう。しかし私は一人で考え事をしていただけなので、お爺さんに怒られるようなことはしていません。そうかといってこのお爺さんが理由なく因縁をつけてくるとも思えません。なにしろ見た目が普通のお爺さんなのです。
 一体なにが起きているのだろうかと少しの間呆然としていた私ですが、色つき眼鏡の奥にあるお爺さんの目が斜視であることに気付きました。そこでピンときました。このお爺さんは私に笑われたと勘違いしているのだな、と。


 斜視というと、黒目がやや外側もしくは内側に寄っている目のことです。斜視の人は黒目の位置が一般的に想定される位置と違うため他人から驚かれ、表情から感情を読み取りにくいため恐れられます。それでも「斜視」という言葉を知るようになれば他人は「そういうものがあるのだ」と分かり驚かなくなりますし、斜視の人と付き合いがあれば感情の読み取り方もわかり恐れなくなります。
 しかし子供や若者は経験不足のため、斜視に驚き恐れます。そして自分が怖がりだということを隠すため、「こんなやつ怖くないや」と斜視の人をバカにしたりいじめたりします。今はテレビやインターネットで簡単に情報が手に入る時代となりましたから斜視の人を恐れる子供や若者は少ないでしょうが、お爺さんが生まれたのはテレビもない時代です。子供の頃から若いときにかけては相当バカにされたりいじめられたりしたに違いありません。大人になって周りの人間が落ち着いてからもお爺さんはいつも「バカにされているのではないか?」という疑念を抱きながら生きてきたのではないでしょうか。若いときに受けた仕打ちというものはなかなか忘れられるものではありませんから。
 そんなお爺さんの前に1人ニヤニヤしている若者が現れた。本を読んでいるわけではなくスマートフォンを見ているわけでもなく、ただコーヒーを飲みタバコを吸いながらニヤニヤしている。だから神経が過敏になっているお爺さんは「きっと俺のことをバカにしているんだな、文句を言ってやる!」と勘違いをした。私はそう考えました。
 まさか私が野牛金鉄の謎が解けて喜んでいるだけだとはお爺さんも思わないでしょう。これは誤解を解かなくてはいけない、そう思って私は「あなたを見て笑っていたのではありませんよ」と言おうとしました。


 しかしそう思った瞬間、私はとんでもないことに気付きました。もし私がお爺さんに「私はあなたを見て笑っていたのではありませんよ」と言ったら、私は一人で笑っていたことを認めてしまうことなります。しかもお爺さんの言葉によれば「ニヤニヤ」とです。そのときの状況を合わせて考えれば私は「相手をしてくれる友達もなくすることもないため楽しいことを考えて1人で笑っているさみしい男」というとんでもなく哀れな存在になってしまいます。こんなこと私に認められるはずありません。
 そうするとお爺さんがとても嫌なやつに思えてきました。「なにニヤニヤしてんだ」としか言っていないお爺さんですが、それは私にとっては「お前は哀れな男だ」と言われたに等しいのです。先程までのお爺さんへの同情は吹き飛んで、私は怒りました。「俺が一人でニヤニヤしている哀れな男だと?冗談じゃないぞ」との思いで、お爺さんの目を睨み付けて言い放ちました。


「笑ってませんけど!」


 今度はお爺さんが驚く番です。自分をバカにして笑っている若者がいるから「なにニヤニヤしてんだ」と文句を言う、そうしたら当然若者からの反応があるはずで、それは「すいません」という謝罪や「笑ったが悪いか!」といった生意気な反抗になるはずだ、もし自分の誤解であったのならば「違いますよ」だとか「なんですか?」とかいった別の反応が返ってくるはずである、しかるに今目の前にいる若者は「笑ってませんけど!」などとそもそも笑っていたこと自体を否定している上に逆ギレしている、一体これはどうしたことだろう…
お爺さんは呆然として動くことも話すことも出来なくなってしまいました。


 一方私は「笑ってませんけど!」といった後は黙り込んで、お爺さんの出方をうかがっていました。きっと「笑ってたじゃないか」だとか言い返してくるに違いない、でも俺は1人で笑ってたことなんか絶対に認めないぞ、だいたいなんで知らないヤツに『哀れな男』だと認定されなければいけないんだ、そんなことを思って怒りにうち震え、お爺さんを強く睨み据えました。来るならこい、いつでもこいと、興奮して臨戦態勢です。


 一般人はこんなアブナイ人にかかわり合うべきではありません。しばらくして正気に返ったお爺さんは、やはり不穏なものを感じ取ったのでしょう、クワバラクワバラとばかりに黙って静かに去っていきました。チラチラ私の方を振り返り、釈然としないようすでしたが、そんなこと私には関係ありません。こうして私は一方的に自分の名誉を守ったのでした。


 
 お爺さんが去った後、私は「ざまあみろ」と勝ち誇り、いい気分です。興奮したため少し疲れ、その少しの疲労感がかえって体に心地よく、夢見がちにまた考え事へ戻っていきました。
 

 今度はなにを考えたのかというと、今起きたお爺さんと私のすれ違いについてです。
 片一方は「俺を見て笑ったな」と思って怒っているのにもう片一方は「そもそも笑ってなんかいない」と主張してしかも何故か怒っている、このすれ違っている状況がとても面白かったのです。「野牛金鉄」の名前の由来を発見したときと同様に、「すれ違う二人」という面白い状況を発見した私は、自分の発見に大喜びです。「二人の話が噛み合っていないなあ、二人とも勘違いしているなあ、しかも二人のうち1人は俺なんだよなあ、ナンダコレ」と繰り返し繰り返し考えてキャーキャー喜びました。



そうして私はやっぱり1人でニヤニヤしてしまいましたとさ。

さみしい秋のお話でした。

子供の学び方ー空気を「発見」するのはけっこう大変だー

東京と千葉は涼しくなりました。道を歩けばキンモクセイの香りが漂ってきて、もう秋なのだということが知られます。

花の香りというものは空気にのって我々の鼻に届けられるものですが、今回はこの「空気」がテーマです。

つかぬことを伺いますが、みなさんは空気の存在をいつ頃「発見」されましたか?


 なぜ私がこのような質問をしたのかと言いますと、私が空気を「発見」したときにはとても嬉しかったもので、どなたか同じような経験をしていないかと確認したくなったからです。


 私が「空気」という言葉を知ったのがいつ頃かはよく覚えておりません。ただ、小学4年生頃まで、私は「空気」とは「なんにもない」ことであると思っておりました。
 小学生の私は叔父によくプールに連れていってもらっていて、水のなかに潜ることに親しんでおりました。水のなかに潜っていると息苦しくなりますが、それは「水を飲むと苦しくなってしまうからだ」と思っていました。水中にいると水を飲んでしまって苦しい、陸上にいるときは水がないから苦しくない、そんな経験から空気とはまず「水中ではない空間」だと考えました。それでは水中ではない空間には何があると考えたのかというと「なんにもない」です。


 「空気を吸う」だとか「空気がおいしい」だとか、空気の存在を前提にした表現を知っていましたし、「呼吸」は自分自身していることだという自覚もありました。風は何かの流れなのだろうけど、なんの流れかわからないという疑問も持っていました。しかし空気は目には見えません。私は「見えないものはない」と思ってしまう子供だったので、言葉や経験や疑問を全部無視して
「空気とは『なんにもない』ことである」
と断定してしまったのです。


 そんな私がどうしてで空気が「ある」ものだと知ったのかというと、ドラえもんのマンガがきっかけでした。
 祖父の家には父が子供の頃に集めたドラえもんの漫画があり、私は祖父の家に行くたびにこれを読んでいました。

 ドラえもんにはいくつか宇宙に行くお話があります。宇宙に行くお話のなかに、「どこでもドア」で宇宙にいこうとして、宇宙空間に勢いよく吸い込まれそうになるというエピソードがありました。
 ドラえもんのび太くんの部屋と宇宙空間をどこでもドアでつないだのですが、部屋の空気が真空である宇宙空間に吸い込まれて、ついでに回りのものやドラえもんたちも吸い込まれそうになったのです。あわててドアを閉めたドラえもん

「宇宙には空気がないってことをすっかり忘れていたよ」

と言います。


 私は小学5年生くらいの時にこのエピソードを読んだのですが、このドラえもんのセリフに混乱しました。私は空気とは「なんにもない」ことだと思っています。それなのに「宇宙には空気がない」とドラえもんは言う。私からするとドラえもんは「宇宙には『なんにもない』がない」と言っているのです。
「『なんにもない』がないなんて無茶苦茶だ」
と混乱してしまいます。

 勘違いと思い込みで生きていた私ですが「『なんにもない』がないなんて無茶苦茶だ」と考える頭も持ち合わせていましたのは救いでした。しばらくしたら、「空気」とは「なんにもない」ことではなく、反対に目には見えないけど「ある」なにものかに「空気」という名前がついているのだと気づきました。
 
 「空気」が「ある」ものだとわかった私は、今まで無視していた言葉や経験や疑問を思い出して検討し直しました。

「空気は『ある』ものだから、吸ったり味わったりして『おいしい』なんてことが言えるんだ」
「呼吸って空気を吸ったり吐いたりしているんだよな。なんにもなかったら吸ったり吐いたりできないもんな」
「風は空気の流れなんだ。風が吹いているときは空気っていう『ある』ものがぶつかるから木も揺れるんだな」
「手で扇ぐと風が起こるけど、これは手で空気を動かしているんだな。空気は『ある』ものだから触れるし手で動かせるんだ」

といった具合に、一人であれこれ考え、納得し、喜んでいました。

なぜ嬉しかったのかと言いますと、「なんにもない」だと思っていた空気が「ある」ものだとわかったら、色々なことに辻褄があってきて、これはすごい「発見」だと思ったからです。


 言葉とは勉強して頭で理解すれば使えるという単純なものではなく、現実を生きる中で経験を重ねてやっと理解できるという性質のものです。現代では子供には経験するべき現実というものが少なく、言葉を使って現実を理解することがほとんどできません。子供が空気を「発見」するのも一苦労なのです。だからたまに言葉と現実が結び付いたときには自分の理解に興奮して、「すごい発見をした」と喜ぶのです。


 私はもう子供ではないので経験するべき現実がたくさんあり、わからなかった言葉を理解する機会がたびたびあります。もう言葉を理解することが珍しいことではありませんが、それでもひとつの理解が訪れたときには「発見」を嬉しく思ってしまいます。これが私のいきる喜びであり、今日を生きる活力となっています。


 
 みなさんも私が空気を発見したのと同じように何かを「発見」した経験があるかと思います。例えそれが小さな発見、ありふれた発見だったとしても、その発見の経験があなたが今生きている現実を言葉で理解するための原動力になっているはずです。ですからたまには子供の頃の自分の発見を思い出して、誇ってみてください。
「俺は空気を発見したんだぞ」と。

創作『キレやすい台風』

 日ごとに涼しさが増し、秋めいて参りました。毎年秋には日本列島に台風が来襲しますが、先日台風に関するお話を作りましたのでブログにあげておきます。

 私は塾講師をしておりますが、小学4年生の国語の授業で、変な言葉からお話を書くということをしました。そこで私は『キレやすい台風』というお題でお話を書きました。だから変な題名になっております。
 




『キレやすい台風』

 ある夏のことです。カンカン照りが続いて村は干上がってしまい、田んぼの稲たちはみんな元気がありません。困った村人たちは神社に集まってお祈りをしました。

「神さま、神さま、このままカンカン照りが続いたら、秋にお米の収穫ができません。どうか雨を降らせてください」

 お祈りを聞いていたのは神社に住む天狗どんです。さっそく出かけていき、山のてっぺんから空に向かって呼びかけました。

「おおい、雲くん、雲くん、カンカン照りで村のみんなが困っているんだ。こっちに来て雨を降らせてくれないか」

 するとたちまち空が暗くなり、雨が降りだしました。稲たちは元気を取り戻し、葉がつやつやに輝いています。
 天狗どんは雨のお礼を言おうとしましたが、なんだかようすがおかしいことに気づきました。。雨はザバザバ降っているし、風がビュービュー吹いているのです。

「おーい、天狗どん、天狗どん、ボクだよ、台風だよ」

 なんと、やって来たのは雲くんではなくて台風くんでした。
「雲くんが留守だったから僕がかわりに来たんだ。お役にたてたかな」

 雨が降ったのはよかったけど、ザバザバ降る雨で稲たちはアップアップ溺れそうだし、ビュービュー吹く風で村の家たちはガタガタふるえています。あわてて天狗どんは言いました。

「おおい、台風くん、台風くん、困るなあ、ザバザバ降る雨で稲たちはアップアップ溺れそうだし、ビュービュー吹く風で村の家たちはガタガタふるえているよ。悪いけど、帰ってくれないかな」

 それを聞いた台風くんは、顔を赤くして言いました。

「なんだい、せっかく来てやったのにその言いぐさは、フンだ」

そうして怒って帰ってしまいました。



 しばらくすると、またカンカン照りが続いて村は干上がってしまい、田んぼの稲たちはみんな元気がなくなってしまいました。困った村人たちはまた神社に集まってお祈りをしました。

「神さま、神さま、このままカンカン照りが続いたら、秋にお米の収穫ができません。どうかまた雨を降らせてください」

 お祈りを聞いていた天狗どんはさっそく出かけていき、山のてっぺんから空に向かって呼びかけました。

「おおい、雲くん、雲くん、カンカン照りで村のみんなが困っているんだ。こっちに来て雨を降らせてくれないか」

 するとたちまち空が暗くなり、雨が降りだしました。稲たちは元気を取り戻し、背筋がピンと伸びています。
 天狗どんは雨のお礼を言おうとしましたが、なんだかようすがおかしいことに気づきました。。雨はバチバチ降っているし、風がビュンビュン吹いているのです。

「おーい、天狗どん、天狗どん、ボクだよ、台風だよ」

なんと、やって来たのは雲くんではなくてまたしても台風くんでした。

「雲くんが留守だったから、またボクがかわりに来たんだ。お役にたてたかな」

 雨が降ったのはよかったけど、バチバチ降る雨で稲たちは痛そうだし、ビュンビュン吹く風で村の家たちはグラグラゆれています。あわてて天狗どんは言いました。

「おおい、台風くん、台風くん、困るなあ、バチバチ降る雨で稲たちは痛そうだし、ビュンビュン吹く風で村の家たちはグラグラゆれているよ。悪いけど、帰ってくれないかな」

 それを聞いた台風くんは、顔を真っ赤にして怒鳴りました。

「なんだいなんだい、せっかく来てやったのにその言いぐさは、フンだ、フンだ」

 そうして怒って帰ってしまいました。




 しばらくすると、またまたカンカン照りが続いて村は干上がってしまい、田んぼの稲たちはみんな元気がなくなってしまいました。困った村人たちはまたまた神社に集まってお祈りをしました。

「神さま、神さま、このままカンカン照りが続いたら、秋の収穫ができません。どうかまたまた雨を降らせてください」

お祈りを聞いていた天狗どんはさっそく出かけていき、山のてっぺんから空に向かって呼びかけました。

「おおい、雲くん、雲くん、カンカン照りで村のみんなが困っているんだ。こっちに来て雨を降らせてくれないか」

 するとたちまち空が暗くなり、雨が降りだしました。稲たちは元気を取り戻し、穂をジャラジャラ言わせて笑っています。
 天狗どんは雨のお礼を言おうとしましたが、なんだかようすがおかしいことに気づきました。雨はドバドバ降っているし、風がゴーゴー吹いているのです。

「おーい、天狗どん、天狗どん、ボクだよ、台風だよ」

 なんと、やって来たのは雲くんではなくてまたまた台風くんでした。

「雲くんが留守だったから、またまたボクがかわりに来たんだ。お役にたてたかな」

 雨が降ったのはよかったけど、ドバドバ降る雨で稲たちは流されそうだし、ゴーゴー吹く風で村の家たちは今にも飛ばされそうです。あわてて天狗どんは言いました。

「おおい、台風くん、台風くん、困るなあ、ドバドバ降る雨で稲たちは流されそうだし、ゴーゴー吹く風で村の家たちは今にも飛ばされそうだよ。悪いけど、帰ってくれないかな」

それを聞いた台風くんは、顔から湯気を吹き出して叫びました。

「どうしてみんなボクに『あっちいけ』っていうんだよ」

 すると、ドバドバ降る雨は滝となって辺りを流れ、ゴーゴー吹く風は龍となってそこらを飛び回りました。天狗どんは龍に弾かれて、あっちのお山まで飛んでいってしまいました。
 山は崩れ川はあふれ、そこらじゅう水浸しの泥まみれ。稲たちは滝に打たれて田んぼごと流されてしまい、家たちはみんな龍に壊されてしまいました。

 
 結局その秋にお米の収穫はできませんでしたとさ。

カラオケは恥ずかしい②ー鬼龍院翔の告白ー

前回に引き続いて、今回もカラオケのお話です。


 前回、人前で歌うことが苦手な人に「選曲を考えること」と「自分の声を冷静に聴くこと」をお勧めしました。これらはそれぞれ「流行りの曲や流行ったことがある曲を歌わなくてはならないという思い込み」と「自分の声は変だという思い込み」を解くための方法ですが、これら2つだけではカラオケの苦手を克服するには足りないと思いましたので、追加の方法を書きます。


それは、
ゴールデンボンバーの曲を歌うこと」
です。


 これは「選曲を考えること」とも関連があるのですが、カラオケの苦手を克服するにはゴールデンボンバーが効果的なのです。
 なぜゴールデンボンバーなのか、その理由はゴールデンボンバーには

「『好きな歌手の曲をカッコよく歌いたいけど怖くて歌えない』という音楽ファンの胸の内」

を歌った曲があるからです。


 ゴールデンボンバーには『TSUNAMIのジョニー』『tomorrow never world』『Ultra Phantom』といった一群の曲があります。これらは有名バンドの曲に似せたタイトルと音楽と歌詞を持つ曲です。
 例えば『TSUNAMIのジョニー』はサザンオールスターズの『TSUNAMI』と桑田佳祐(サザンオールスターズのヴォーカル)名義の『波乗りジョニー』とを組み合わせた曲名なのですが、前奏を聴いただけでもう桑田佳祐の曲に似せたとはっきりわかるくらい似ています。歌詞は桑田佳祐がよく扱う夏の湘南海岸での恋を歌ったもので、言葉のひとつひとつも桑田佳祐風です。「桑田佳祐に影響を受けて作られたゴールデンボンバー独自の曲」ではなく、「丸パクり」と言えるようなもので、この曲を作った鬼龍院翔さんもその事を隠そうとはせず、むしろわざと聴く人にバレるように作られています。
 『tomorrow never world』はMr.Childrenの『tomorrow never knows』と『innocent world』を組み合わせた曲名、『ultra PHANTOM』はB'zの『ultra soul』と『LOVE PHANTOM』を組み合わせた曲名です。それぞれやはりMr.Children風、B'z風の曲です。

 こんな曲たちをなぜゴールデンボンバー鬼龍院翔さんが作ったのかというと、「『好きな歌手の曲をカッコよく歌いたいけど怖くて歌えない』という音楽ファンの胸の内」を掬い上げるためです。


 
 ゴールデンボンバーはビジュアル系エアーバンドです。メンバーは鬼龍院翔(キリュウイン ショウ)、喜矢武豊(キャン ユタカ)、歌広場淳(ウタヒロバ ジュン)、樽美酒研二(ダルビッシュ ケンジ)というよくわからない名前の4人で、お化粧をし派手な衣装を着て耽美な世界観を演出するビジュアル系バンドです。しかしそうでありながらヴォーカルの鬼龍院翔さんが歌を歌う以外、他の3人は楽器を演奏するフリをするだけで実際に演奏をしないエアーバンドです。美しいもの(ビジュアル系)と滑稽なもの(エアーバンド)が混ざっていると変な気がしますが、ゴールデンボンバーとは「美しいものを目指して挫折した」ことを打ち出している変なバンドなのです。
 ビジュアル系バンドをやって美しい世界観を作ろうとしたゴールデンボンバーのメンバーたちは、「楽器がうまいわけでもないし、もともと美しさなんて自分達には似合わない」と思っている。だからビジュアル系バンドなんてやめてしまおうと思ったけれど、ふざけながらもやっぱりビジュアル系バンドをやる。なぜそんなことをやるのかというと、美しいものを目指して挫折した人たちはゴールデンボンバーの他にもたくさんいて、そんな人たちに「美しいものを目指したあんたは間違っていない」と言うため、それがゴールデンボンバーの存在理由です。

 
 
 私はビジュアル系バンドはよくわかりませんが、サザンオールスターズなら知っていて好きです。カラオケに行ったときにはよく歌いますが、以前は歌えませんでした。

「僕が桑田佳祐の曲を歌うなんて滑稽だ、人からバカにされちゃうよ」

と思っていて、サザンオールスターズの曲を自分が歌うことに恥ずかしさと恐怖を感じていたからです。
 しかしあるときゴールデンボンバーの『TSUNAMIのジョニー』に出会いました。この曲を聴いた私は

「僕がサザンオールスターズの曲を歌うなんて滑稽だ、でもちょっとふざけながら歌うのなら許してもらえるかもしれない、じゃあそんな曲を作って歌えばいいんだ」

鬼龍院翔さんが私に秘密を告白してくれているような気になりました。私は

「鬼龍院さんも恥ずかしいんだ、怖いんだ、僕だけじゃなかったんだ、ああ、よかった」

と思って安心しました。そこでサザンオールスターズを歌うかわりに『TSUNAMIのジョニー』をよく歌っていました。歌いやすい曲なので歌っていると気持ちよくなりました。それと共に、なんだかゴールデンボンバーのメンバーに守られているような気がして心強く、うれしくもなりました。
 私は最初に、ゴールデンボンバーには「『好きな歌手の曲をカッコよく歌いたいけど怖くて歌えない』という音楽ファンの胸の内」を歌った曲がある、と言いました。そんな曲を歌うことはカッコ悪いかもしれません。しかしカッコ悪い自分を許してくれる人がいるということは本当にありがたいことです。ゴールデンボンバー鬼龍院翔さんに語りかけられ、守られた経験が大いに励みになり、歌の練習に打ち込んだ私は今では好きな曲を歌えるようになりました。もちろんサザンオールスターズ桑田佳祐の曲もです。




 
 ここで紹介した3曲以外にもゴールデンボンバーにはよい歌があります。
 もしあなたが『好きな歌手の曲をカッコよく歌いたいけど怖くて歌えない』と怯えているのであれば、ゴールデンボンバーの曲を聞いて、できることなら歌ってみてください。恥ずかしさと恐怖心を解くことができ、もしかしたら「美しいものを目指す勇気」さえ出てくるかもしれませんよ。

カラオケは恥ずかしいー自分を桑田佳祐と勘違いした男の話ー

日ごとに気温が下がり、秋が近づいていることを実感するこの頃です。「芸術の秋」と言われるように、秋には文化的な活動が盛んに行われますが、私は歌が好きなので今回は歌に関するお話です。

みなさんはカラオケはお好きでしょうか?お嫌いでしょうか?


今はカラオケで歌うことが好きな私も5年前までカラオケが嫌いでした。理由は2つあります。

 
 まず歌を歌いたいとも人の歌う歌を聴きたいとも思わなかったからです。
 
 私は音楽を聴くこと自体は好きで、CDを何枚も持っていて、よく聞いていました。しかし、音楽は好きだけど歌詞がよくわからない曲が多く、その曲を歌う自分というものが想像できず、人前で歌おうという気がありません。人とカラオケに行っても、歌を歌いたいという気持ちがありませんから、歌っているときに「俺は何をやっているのだろう?」「どういった気持ちを歌にのせればよいのだろう?」と困っていました。
 人が歌っているのを聞いても、たとえ音楽はよかったとしても歌詞がよくわかりませんから、「どういうつもりで歌っているのだろう?」と、受け止め方がわからずに居心地の悪さを感じていました。

 
 二つ目は、こちらの方がより大事な理由ですが、自分は変な声だと思っていて、自分の歌声を人に聞かれたくなかったからです。
 
 私は一人でCDを聴いているときに調子がよいと歌を口ずさむことがありました。そんなときは本当によい気分で、胸がジンとするものでした。
 しかし、カラオケで歌うときは違いました。マイクを通してスピーカーから聞こえてくる自分の声というものは、自分の聞き慣れた自分の声とは違うのです。これには驚きます。なんとか普段の自分の声に戻そうとするのですがうまくいきません。「自分は変な声なんだ」とショックを受けます。そして「こんな変な声なのに人前で歌っていたんだ。ああ、恥ずかしい」と思い、人前で歌うことを避けていました。



そんな私がなぜ歌を歌うことが好きになったのかというと、上の二つの理由に対応して、やっぱり二つあります。



 1つ目は自分が気持ちをのせられる歌を歌うようになったことです。

 私は「人にうける歌を歌わなくてはいけない」と思い込んでいました。流行りの曲やかつて流行った曲を歌わないと、笑われるか、反応に困られてしまうのではないかと恐れていました。
 しかしある時私は歌手の由紀さおりさんがお姉さんの安田祥子さんと一緒に歌った唱歌のCDを手に入れました。そのCDに収められている「花」「朧月夜」「旅愁」などを聴いているうちに「この歌なら歌えるぞ」と思い、唱歌を歌うようになりました。唱歌はリズムもメロディも単純で馴染みのあるものですから「誰にでも開かれている歌」という気がして、歌いたいという気持ちがわいてきます。歌詞がわからなくても「季節はいつだろう?」「誰の気持ちを書いた歌詞なのだろう?」などと考えながら歌っていると、だんだん歌が身に染みてきて、気持ちを歌にのせられるようになります。私は由紀さおりさんと安田祥子さんをお手本にして唱歌を練習し、歌える歌を増やしていきました。
 いまでは童謡、アンパンマンジブリ昭和歌謡、演歌、Jポップと、歌える歌の種類も数もとても多くなりました。



二つ目は、自分の声は変ではなく普通だと分かったことです。これは私が唱歌を練習し始めるより前の話で、こちらの方がより大事な理由です。

 27歳の秋、私は1人でカラオケに行きました。1人でも人ともカラオケにはめったに行きませんでしたが、ちょうど塾講師の仕事を始めたときで、人前で声を出さなければならない状況に追い込まれていたため、発声練習も兼ねてカラオケで歌うことにしたのです。
 カラオケの機械に曲を入れて、音楽が流れてきて、私は歌い出しました。マイクを通してスピーカーから聞こえてくる自分の声にはやはり違和感があってとても嫌でしたが、唐突に「俺、桑田じゃない!」と思いました。

 私はサザンオールスターズ桑田佳祐が好きで、サザンオールスターズの曲と桑田佳祐名義の曲をよく聞いていましたが、CDを聴きながらいい気分になって歌を口ずさんでいるうちに、いつの間にか桑田佳祐と自分を一体化させていました。「桑田佳祐はいい声だ」と思っていた私は、「こんな風にいい声で歌いたい」と願うようになり、それが「自分は桑田佳祐と同じようにいい声で歌っているはずだ」と自分を理想化していったのです。ところが私と桑田佳祐の声は実際には違いますから、理想とは違う自分の声を変だと感じていたのです。
 その事に気づいて私はショックでした。自分の声が理想的ではないことの悲しさ、自分のことを桑田佳祐だと勘違いしていた愚かな自分に対する恥ずかしさ、自分と桑田佳祐との間には距離があることを知った寂しさ、そういった気持ちが一気に押し寄せてきて、歌っている途中で私は泣きそうになりました。
しかし、曲が流れている中、男が歌わずに一人でメソメソ泣いていたらみじめになってしまいますから、私は強がって歌い続けました。
 
 歌っているうちにだんだん落ち着いてきた私は自分の声を冷静に聞けるようになっていました。冷静になって自分の声を聞くと、なんと「普通」でした。あんなに変だと感じていた自分の声は「普通」だったのです。自分の声をきちんと聞いたのは初めてだったので新鮮ですらありました。そして「悪くない」と思えるほどでした。調子にのって「もしかしたら由紀さおりに似ているかも」と思ったりして、上機嫌です。「変な声じゃないのなら人前で歌ってもかまわないな」と思った私はそれからカラオケで歌うことが習慣となり、たびたび人をカラオケに誘って歌を披露するようになりました。あんなに嫌だったのに人前で歌うことが平気になり、むしろ好きになっていました。自分の声を恥じずに歌えることがとてもうれしかったのです。




いかがでしたか?

カラオケがキライという方、人前で歌うのは恥ずかしいという方、ぜひ選曲を考えたり、自分の声を冷静に聞いたりしてみてください。
あなたの歌は自分が思っているより悪いものではないかもしれませんよ。

オバケがわからないー「頭がいい人」の孤独と虚無ー

お盆はとうに過ぎましたが、今回は「オバケがわからない」というタイトルです。

 
 
 オバケは通常「いる」「いない」といった文脈で語られることが多く、「わかる」「わからない」という風には語られません。それというのも、オバケが「わかる」「わからない」ということで問題になるのは「頭がいい人」であり、「頭がいい人」は通常オバケの話をしないので、オバケが「わかる」「わからない」という軸が見えなくなっているからです。
 私は、オバケがわからないのは問題だ、と思っています。そしてオバケがわからなくなっている「頭がいい人」のありようが問題だとも思っています。その事について今回は書いていきたいと思います。

 

 まず、「頭がいい人」と言ってどういう人のことを思い浮かべるでしょうか?
 
 勉強ができる、考える力がある、仕事の段取りがよい、要点を押さえた説明ができる、先のことを予測できる、行動に無駄がない、相手の気持ちを汲み取れる、論理的である、など様々なイメージがあるかと思います。
 いろいろなイメージがあるかと思いますが、ここでは「論理的に考え行動できる現実的な人」のことを「頭がいい人」と言ってしまいます。裏返すと「感情的に考え行動してしまう非現実的な人」が「頭がよくない人」になるでしょう。

 「頭がいい人」と「頭がよくない人」はもとから異なった性質を持って生まれたように思われていますが、これは違います。生まれたときは皆「頭のよくない人」です。「頭がいい人」は「論理的に考え行動できる現実的な人」になる訓練を受けてきから「頭がいい人」になったのであり、同じ人間であることに変わりはありません。

 「論理的に考え行動できる現実的な人」であることは誠に結構なことですが、「頭がいい人」はそうなる過程で「感情的に考え行動してしまう非現実的な面」を切り捨ててきています。そのため「感情的に考え行動してしまう非現実的な人」たちのことが理解できなくなり、孤独を感じています。それとともに、自分の中にある「感情的に考え行動してしまう非現実的な面」に気づくことができず、虚しさを抱えてもいます。だから私は「『頭がいい人』のありようは問題だ」と申し上げたのです。



 さて、ここでオバケの話です。

 「頭がいい人」は通常オバケの話をしないと申し上げましたが、もちろんこちらから質問したらオバケについて答えてはくれるでしょう。「頭がいい人」に「オバケはいるか?」と尋ねると、真面目に「いない」といいます。もしくは「いるかもねぇー?」とニヤニヤしながらこちらをからかうように答えます。
 この二つの答えはどちらも「オバケはいない」と思っていることを示しているように見えますが、違います。どちらの答えも「オバケがわからない」を示しているのです。
 
 オバケとは「感情的に考え行動してしまう非現実的な人」の世界に住んでいるものです。「論理的に考え行動できる現実的な人」の世界の住人ではありません。オバケについて「いる」「いない」と語る資格があるのは「感情的に考え行動してしまう非現実的な人」であり、「論理的に考え行動できる現実的な人」である「頭がいい人」にはその資格がありません。だから本来「頭がいい人」はオバケについて「わからない」と言うしかないのです。
 「頭がいい人」は「頭がよくない人」と同じ土俵には立てず、仲間外れです。しかもこれはオバケに限った話ではありません。「頭がいい人」は感情的で非現実的な話全てについて「わからない」としか言えないのです。切り捨ててしまったのですから。「頭がいい人」も「頭がよくない人」も同じ人間ですから、私は仲間外れなんてひどい話だと思います。


 そこで私は「頭がいい人」の仲間はずれ状態を何とかしたいのですが、どうすればよいのかというと、「頭がいい人」に「感情的に考え行動してしまう非現実的な面」を取り戻せばよいのです。私がオバケを持ち出してきたのは、「頭がいい人」の住む「現実」を突き崩すにはこういう非現実の極みをぶつけるのが一番よいからです。

 

 それでは「頭がいい人」にオバケが「わかる」よう、オバケの話をしてみましょう。



①「この前家に帰るとき髪が長くて白い服を着た女が通り道に立っていてさ、目を合わせないようにして急いで帰ったよ。怖かったな~」

 まず、「頭がいい人」にオバケの話をそのまましても通じません。①の話を聞いても「頭がいい人」は「幻覚でも見たのだろう」と人間の神経の異常という科学的な結論を出すか、「変質者が出たんだな」という事件にしてしまうか、①の話をしている人が一杯食わせようと企んで嘘をついていると思うか、いずれにしても現実のなかに回収してしまいます。
 そして「頭がいい人」はオバケが犬や猫と同じく物理的に存在するかのように語る①のような人がキライです。彼にとってオバケは犬や猫の存在する現実にはいないものなのですから、それを犬や猫と同列に語られたら不快に思います。彼の世界観が否定されるわけですから、孤独を感じて反発するだけです。
 ではこれならどうでしょうか?



②「昨日夢の中で白髪のおばあさんに追いかけられて必死で逃げてさ、パッと目が覚めて自分の部屋に戻ってきたんだけど、おばあさんがまだそこにいたんだよね。しばらくしたら完全に目が醒めて消えたんだけど、怖かったわ」

 これも人間の神経の異常という科学的な結論を出されてはしまいますが、「頭がいい人」は②の話をした人には好意的です。何故なら②の話は現実を侵していないからです。
 
 
 ②の話をした人はオバケを犬や猫と同列に語ってはいません。オバケは夢の中から出てきたものであり、現実に一瞬存在しましたが、その現実というのも寝惚けて見た現実です。ですから、②の話は全て夢の中の話であり、現実を侵していません。②の話をした人は「オバケは現実ではなく夢の中の存在だ」という話ぶりなので、「頭がいい人」はこの人には好意的になります。「頭がいい人」は現実を侵さない限りにおいて「感情的で非現実的なこと」を否定しません。「現実にはないことなんだけど、この話は面白いな」と楽しむことができます。



③「この前小説を読んだんだけど、幽霊に追いかけられた人が道路に飛び出して交通事故にあうっていう話があったんだよ。俺は幽霊が見えないし幽霊なんていないって思うんだけど、俺の娘は見えるみたいでさ。娘が幽霊に怯えて危ない目にあったらどうしようって怖くなっちゃった」

 この話はどうでしょう?
 まず、③の話をしている人は、自分の体験ではなく小説の幽霊話をしています。小説は作り話ですから、作り話であることが初めからわかっているなら「頭がいい人」も受け入れやすいです。
 また、③の話をしている人は自ら「幽霊なんていない」と言っていますから、この人は「頭がいい人」と同じく現実に所属しています。この点も安心感を与え、「頭がいい人」に孤独を感じさせません。
 そして③の話には唐突に現実が現れます。自分の娘という現実で、この娘というのが幽霊が見える人だというのです。「幽霊が見える自分の娘」という他人について③の話をする人は「わからない」ことを表明しています。「俺は幽霊が見えないし幽霊何ていないって思うんだけど、俺の娘は見えるみたいでさ」の部分が「わからない」の表明です。特に「みたいでさ」という表現からは娘さんとの間に距離があることが見てとれます。幽霊が「わかる」か「わからない」かで、身近な人との距離ができてしまう寂しさに「頭がいい人」は共感するでしょう。

 
 しかし最後に問題が発生します。「娘が幽霊に怯えて危ない目にあったらどうしようって怖くなっちゃった」の部分ですが、ここで幽霊と現実が交錯してしまうのです。
 「幽霊に怯えて」は感情的で非現実的なこと属するのですが、「危ない目にあう」は現実に属します。しかも困ったことに、その交錯は③の話者ではなく身近な他人(話者の娘)によって引き起こされるのです。
 
 ここで「頭がいい人」は困ります。
 身近な人が「感情的で非現実的な」理由から現実に影響を与える場合、「頭がいい人」は無力です。なにせ「感情的で非現実的な面」を切り捨てたがため、他人の「感情的で非現実的な面」もわからなくなっていますから、対処ができません。

 もし③の話の娘が「頭がいい人」の娘だったとしたらどうでしょう。彼は危うい自分の娘を放置するか、「わかる」ために努力するか、という選択肢の前に立たされます。選択肢の前に立たされて困りますが、彼に「放置する」という選択は出来ないでしょう。危うい娘がいたらなんとか守ってやりたいと思うのが親ですから、「感情的で非現実的なこと」を「わかる」ようになる努力を始めることと思います。「頭がいい人」は頑張り屋さんですから。



 「頭がいい人」の仲間はずれ状態を解消するには、彼が自ら「感情的で非現実的な面」を取り戻したくなるようなオバケの話をしてあげればよい、これが結論です。




 もしあなたの身近に「頭がいい人」がいたら、きっと孤独と虚無を抱えていますから、③のようなオバケの話をしてあげてください。切り捨ててしまった「感情的で非現実的な面」を取り戻す方向に動き出すかもしれません。

 もしこれを読んでいるあなたが「頭がいい人」であったならば、もうあなたは孤独ではないことがおわかりになったでしょう。自らの「感情的で非現実的な面」を取り戻して、虚無感を払拭してください。

 健闘を祈ります。