なべさんぽ

ちょっと横道に逸れて散歩しましょう。

えなりかずきの呪いーマジメで何が悪い!ー

今回は「真面目」という言葉に関するお話です。
みなさんは「真面目な人」と聞いて一体どんな人物を思い浮かべますか?
「誠実で頼れる人」でしょうか?
「面白味がなくつまらない人」でしょうか?
また、自分が「真面目な人」だと評価されたら嬉しいでしょうか?嫌でしょうか?

 
 辞書をひくと真面目の項目には「誠実であること、真心がこもっていること」といったよいイメージの意味が載っています。しかし日常生活では、真面目は「つまらないこと、融通がきかないこと」といったよくない意味でも使われているように思えます。

 例えば、女たちがある男がいないところでその男の噂話をしているような状況を想像してみてください。
「ねえ、渡辺さんって、どう思う?」
「うーん、…仕事はきっちりしてるけどねぇ、悪い人じゃないとは思うけど…」
「けど?」
「けど、…ねえ?」
「…まあ、彼は、真面目だからねえ…」
というようなことを話しながらクスクス笑っている、そういった状況です。ありそうでしょう?

 真面目な男の方は自分が裏でこんな風に笑われていると考えたら、とても嫌ではありませんか?自分ではよいことだと思って真面目に一生懸命生きているのに笑われてしまうのですから当然嫌でしょう。また、「女に相手にされない男」というオマケのイメージまでくっついてきますから、たまりません。
 中には「真面目って嫌だな」と思って、自分に付いた嫌なイメージを払拭するため真面目とは逆の不真面目な人間になっちゃおう、グレてやる!と思う方がいらっしゃるかもしれません。


 実は、「真面目は嫌だな」と思う方は勘違いしています。「真面目」という言葉に「つまらないこと、融通がきかないこと」といった意味はないのです。

 上の女たちの会話をよく読んでみてください。「…」とか「けど」とか「ねぇ?」とか、やたらと言葉を濁しています。これはなぜかと申しますと「渡辺さんはつまらないし、融通がきかないし、男としては見られない」なんていうあからさまな悪口は、例え本人がその場にいなくても口に出すことが憚られます。だから反対に「真面目」というその人の美点を挙げて「渡辺さんは真面目なんだけど…」と直接の悪口を回避しようとしたのです。
 しかしこれだけでは不十分です。表現を間接的にしたのはよいのですが、「真面目なんだけど…」の「…」の部分に問題があります。「渡辺さんは真面目なんだけど…」の「…」の部分は「いいところといったらそれしかないんだよね」という悪口が省略された結果なのですが、このことは簡単にバレてしまいます。「真面目なんだけどって、けど、なんなんだよ!けど、男としては見られないって言いたいんだろう!」と突っ込まれたら言い逃れは難しいです。
 そこで「真面目だからねぇ…」という訳のわからない言い回しを編み出したのです。これは賢い。「けど…」に対しては「けど、なんだよ?」と言うことができますが、「だからねぇ…」に対しては訳がわからないためなんとも言ってみようがありません。例え「だから、なんだよ?」と言ったところで、「だから、いい人なのよ」とかわされてしまいます。

 このような経緯で「真面目」には「つまらないこと、融通がきかないこと」といった意味があるという錯覚が生まれたのです。
「真面目だ」と言われた方は誉められている、ただ、男としての魅力がない。もしそう評価されるのが嫌だったら、するべきことは男としての魅力を身に付けることです。グレて不真面目になったりしたら唯一の美点を失ってもうどうしようもないやつになるだけですから、そんなつまんないことはよした方がよいでしょう。



 さて、「『真面目』には『つまらないこと、融通がきかないこと』といった意味があるという錯覚が生まれた」と言いましたが、これを私は「えなりかずきの呪い」と呼んでいます。
 私は若い頃「真面目」と聞くと真っ先に「えなりかずき」が思い浮かんだものでした。
 
 「えなりかずき」とは俳優で、1990年から2011年までシリーズとして放送されたテレビドラマ「渡る世間は鬼ばかり」に子役として出演し有名になりました。この俳優について私がどんなイメージを持っていたのかというと「おばさんたちの言いなりになっていてつまらない上に若々しくない若者」です。
 私は「渡る世間は鬼ばかり」を見ていなかったのですが、親や兄弟、テレビの他の番組からの情報などで自分なりのえなりかずき像を作っていました。
 このドラマのCMはたびたび目にしていたので、泉ピン子赤木春恵角野卓造などの俳優が出演していることは知っていました。そしてなんとなく「恐いおばさんたちに男たちがどやされていて、逆らえないでいるお話」なのだろうと思っていました。
角野卓造がお父さんで、えなりかずきがその息子、泉ピン子がお母さんで赤木春恵はお祖母さんかと、年齢から推測した私は、泉ピン子赤木春恵を「恐いおばさんたち」だと思ったので、きっと角野卓造泉ピン子赤木春恵に頭が上がらないのだろうと考えました。
 お父さんがおばさんたちに対抗できなかったら、後ろ楯のないその息子のえなりかずきだっておばさんたちに対抗できません。若者の間ではやっているファッションや言葉遣いをしようものならおばさんたちに禁止されます。若者向けのドラマや映画、アニメを見ようものなら睨まれます。若者はおばさんたちが慣れ親しんだ文化にしか触れることが許されず、新しい文化を自分に取り込むことができなくなります。その結果、若い感性を発揮できないつまらない人間になり、若々しさも身に付きません。(もう一度断っておきますが、私はこのドラマを見てはいませんでしたよ。勝手に膨らませた想像です。)
 こんな想像からえなりかずきは「おばさんたちの言いなりになっていてつまらない上に若々しくない若者」だと私はイメージをしたのです。


 それでは「おばさんたちの言いなりになっていてつまらない上に若々しくない若者」がなぜ「真面目」と結び付くのかという問題です。これは簡単な話で、年長者のいうことをよく聞くことはよいことだという道徳によるものです。「おばさんたちの言いなりになっていてつまらない上に若々しくない若者」は年長者の意見を大事にする道徳的な若者と捉えることもでき、道徳を守る人は「真面目」なのですから、この二つは簡単に結び付きます。

 
 こうして私のなかで「真面目」と「えなりかずき」は結び付いたのでした。それだけならなにも問題はなかったのですが、困ったことに私は子どもの頃から人に「真面目だ」とよく言われてきた若者だったのです。
 私は人から「真面目」だと言われると、「えなりかずきみたいだ」といわれているような気がして、周囲の人は私のことを「おばさんたちの言いなりになっていてつまらない上に若々しくない若者」だと思っているんじゃあないかと怯えていました。また、真面目であることはよいことだからそうありたいのに、真面目であるとバカにされてしまう、そしてその原因がわからない、「真面目」とはまるで魔女に呪いをかけられてカエルになってしまった王子様のようだ、そう思ってもいました。そういう思いが昔あったものですから「『真面目』には『つまらないこと、融通がきかないこと』といった意味があるという錯覚が生まれた」ことを「えなりかずきの呪い」と呼んでいるです。



 さて、呪いとは原因が分かってしまえば解けるものですが、ここまでお読みになった方にはもう「えなりかずきの呪い」の原因はお分かりでしょう。原因は女たちが男としての魅力がない男を「真面目」と言ってしまったこと、そして「えなりかずき」という象徴の存在によって「真面目」の誤ったイメージが強化され広まってしまったことです。原因が分かりましたので、これで呪いは解けました。やったあ。

 呪いは今私がやっつけてしまいましたから、真面目な男はこれからは胸を張って真面目をやることができます。人から「真面目」だとクスクス笑われたら「真面目で何が悪い!」と堂々としていましょう。「もしかして、俺ってつまらないやつなのかな?」とちょっとばかり気にしながら。



 最後に俳優「えなりかずき」の変化について。数年前深夜にテレビをつけていたら、ドラマにえなりかずきさんが出演されていました。なんというドラマか忘れましたし、よくみてもいなかったのですが、彼が半裸の美女を抱き、すごく悪そうな顔をしていたシーンが印象に残っています。「真面目」な「えなりかずき」はもうそこにはいませんでした。 
 ひょっとしたら「えなりかずきの呪い」に悩んでいたのは私だけで、えなりかずきさんが悪そうな顔をして半裸の美女を抱くことが許されていた世間の方ではとっくにそんな呪いは解けていたのかもしれませんね。

悪いことをするとバチは当たるのか?

みなさんは、悪いことをするとバチが当たると思いますか?
思いませんか?
それとも、こんな非科学的な話自体がバカバカしいとお考えでしょうか?



 少し前になりますが、8月13日の読売新聞13面に「『バチがあたる』信じる本音は」というタイトルの記事が掲載されました。
 読売新聞が今年3~4月に行った世論調査によると「バチがあたることがある」と考える日本人が現在76%もおり、56年前に行った同じ調査の41%と比べ大幅に増加していることがわかりました。読売新聞の記者は「バチがあたる」という非科学的な信仰を多くの日本人が未だに信じていること、そして増えていることに驚き、その理由を考察しています。

 この記事の考察をまとめると、「バチがあたる」という宗教的な道徳観が復活したわけではなく悪い行いには「バチがあたるべきだ」と考える人が増えたから上記のような結果が出たのではないか、またその原因は「この不公正な社会を作り出した人には罰が与えられるべきだ」と考える社会・経済的に報われない人が増えたためだろう、ということです。



 宗教がどうしたとか、社会経済が云々という話はよくわかりませんが、私は悪いことをするとバチがあたると思います。神や仏が物理的に実在していて罰を下すのではなく、私たちの胸のうちからその罰はやって来ます。


 最近はある程度なんとかなってきましたが、私は他人の話を全然聞かない人で、他人を無視して好き勝手やってきました。他人の話はよくわからず、つまらないしためにもならないしで、話を聞くだけ時間の無駄だと思っていたからです。当然そんなことをしていたら人間関係は悪くなり、しょっちゅう孤立して寂しくなっていました。
 寂しくなるということは、他人をよく思っていなくても本当は仲良くしたかったからです。仲良くして好かれたい、役に立つ人間だと思われたい、そういう想いがあるからこそ、それが満たされない時に「さみしい」と思います。
 私のした悪いこととは「他人を求めている自分を認めずに他人と仲良くしなかった」ことです。そして私にどんなバチが当たったのかというと「孤立して寂しくなった」ことです。ほら、ちゃんとバチが当たっているでしょう?


 私たちは人です。人は人を求めます。人間関係でどんなに嫌なことがあったって、人と仲良くすることをどうしようもなく求めてしまう、だから神や仏がいなくたって胸の中にある自らの想いから「バチがあたる」のです。

 
 この話を人にしたら「じゃあもし『人と仲良くしたい』という自覚がない人が悪いことをしてもバチは当たらないのか?そういう奴ほど腹立たしいからバチが当たってほしいんだよな」と言っていました。

 もちろんそういう人にもバチは当たります。「人間になれない」というバチです。
 人と仲良くしたいという自覚がない人は嘘つきです。なぜなら人である以上「人と仲良くしたい」と思っているはずなのに「僕はあんなやつらと仲良くしたいなんて思っていない!」と自分に言い聞かせているからです。自分が人であるということを否定してしまっています。これではいつまでたっても人間らしい幸せを手に入れることはできません。ですから一見平気で悪いことをやっていそうな彼らにもやっぱりバチが当たっているのです。


「早く人間になりたい」

 アニメ「妖怪人間ベム」のなかに出てくるセリフです。このアニメは人でも動物でもない妖怪人間たちがいつか人間になれることを夢見て生きるお話です。最初のテレビ放送は1968年ですが、その後何回かリメイクされ、この秋には映画も放映されます。
 何度もリメイクされるということは、人間になれない妖怪人間に共感する人がたくさんいるということでしょうか。

 
 彼らはどんな罪を犯して妖怪人間になってしまったのでしょうか?きっと本人にはわからないでしょう。本当に哀れです。

作文キライ! 

 今年はコロナ禍の影響で少し様子が違いますが、去年までの夏休みなら今ごろ小学生は課題の作文で泣かされていることと思います。

みなさんは子どもの頃、
作文がお好きでしたか?
お嫌いでしたか?
どうとも思いませんでしたか?

私は嫌いでした。


 
 今の子供たちと同じように、私も小学校では読書感想文、意見文、将来の夢などいろいろなテーマで作文を書かされたものでした。私は作文が嫌いで、作文の課題がある度にウンザリしていました。

 なぜ作文が嫌だったのかというと、理由は2つあります。


 1つ目は、書くことがないことです。

 読書感想文や意見文には、自分の感じたことや考えたことをそのまま書くように先生から言われていました。しかし子どもの私には感性や知性がまだあまり育っていません。感想は「おもしろかった」「つまらなかった」程度ですし、意見なんてテーマに関する知識が足りないため提出できません。
 そのため、読書感想文はあらすじで字数稼ぎをし、意見文は賛成・反対にそれっぽい理由をでっち上げてくっつける、といった書き方をしていました。指定枚数に届かせるのになかなか骨が折れるので、とても嫌でした。


 2つ目の理由は、こちらの方が重大な理由ですが、作文は危険なことだからです。
 というのも、自分の感じたことや考えたことを人前に晒すには、小学生の私を取り巻く状況が悪すぎたのです。

 例えば「将来の夢」です。
 子どもの頃の私の将来の夢は「ステキなお嫁さんと結婚して幸せに暮らすこと」でした。
 子どもの私に将来の具体的なイメージはありませんでしたが、大人になったら結婚して家庭を築くのだろうとは思っていました。そして、結婚するのだったらステキな人がいいとも思っていたので、「将来の夢」と言われたら「ステキなお嫁さんと結婚して幸せに暮らすこと」になるのでした。


 小学生の男子が「ステキなお嫁さんと結婚して幸せに暮らしたい」と作文に書いて、もしそれがクラスメイトの他の男子に読まれてしまったらどうなるでしょうか?


 まず、騒がれます。
「おまえ、ケッコンしたいんだってー!?」
とギャーギャー騒ぐバカが出てきます。周りの男子もバカなので訳もわからず一緒になって騒ぎだします。騒ぎに気づいた女子にも注目され始めます。この時点でもう恥ずかしいです。

 次に、誰と結婚したいのかという詮索がなされます。
「誰とケッコンするんだ!?誰がスキなんだ!?」
とバカが更に騒ぎ立てます。「好きな人なんていない」と言ってもバカは収まりません。「はるかか?ようこか?」
と聞いてきて、私から答えが得られないとわかると
「わかった!ともみだ!」
と勝手に決めます。

「ちがう!!」
と私は必死で否定しますが、それがまたバカを調子づかせて、
「赤くなってる!やっぱりともみがスキなんだー!!」
と叫ばせます。バカでかい声です。
男子はやっぱりバカなので訳もわからずギャーギャー騒ぎます。「スキ」ということばに反応して、女子は静かにざわつき始め、お互いにコソコソなにかを囁きあっています。何を話しているのでしょう?

 私はもう恥ずかしいのと焦っているのとで、思わず
「スキじゃねーよ!あんなブス!!」
と叫んでしまいます。バカに対抗してバカでかい声で叫びます。私もバカです。
 ともみちゃんは状況はよくわからないけれども「ブス!!」という攻撃が自分に向けられたものだということはわかって、泣いてしまいます。かわいそうです。

 仲間が攻撃されたら女子は黙っていません。ボスが出てきて、
「ちょっとぉ、わたなべくん、ともみちゃんがかわいそうじゃない。謝りなさいよ!」
などと言ってきます。
 私は自分の方こそかわいそうだと思っているし、そもそも騒ぎを起こしたバカが悪いのに何で私が叱られなきゃいけないんだと腹立たしいしで、謝りません。それどころか、
「うるせぇ!ブスだからブスって言ったんだよ!!」
と火に油を注ぎます。バカです。それを聞いて、ともみちゃんを慰めていた他の女子も「ひどい…」とつぶやいたり、静かな非難の目を向けてきたり、先程とはちがう種類のざわめきが女子の間に広がります。
 
 私はまずいと思いましたがもう遅いです。事態は収拾がつかないところまで来てしまいました。何でこんなことになってしまったのかと後悔し、そんな状況に追い込まれてしまったことで情けなくなります。おまけに「ブス」に反応した男子がまた訳もわからずギャーギャー騒いでいて苛立たしいです。
 
 私は「うるさい!!」と怒鳴り、怒ったフリをして教室を逃げ出すしかないのでした。



と、このようなことになることが予想されます。作文は危険なんです。ですから私は「将来の夢」を正直には書かず、料理人だとか、プロ野球選手だとか、その時々にハマっていた職業を題材にやっぱりでっち上げを書くのでした。


 私は今では作文が好きです。自分の感じたことや考えたことを素直に表現して、それが人から受け入れられることは、とても心地よいことです。
 
 
 もし皆さんのなかに作文が嫌いなかたがいらっしゃったとしたら、それは子どもの頃の周りの状況が悪かったせいです。もうその悪い状況がなくなっているのなら、改めて作文をお書きになってみてはいかがでしょうか?
 
 あなたは案外、作文が好きかもしれませんよ。

ブログ開設のごあいさつ

みなさん、はじめまして。
渡辺と申します。
このたびはてなブログを開設しました。

このブログには私が日々の生活の中で感じたことや考えたことを書き綴る予定です。
自分が感じたことや考えたことは身近な人に話せばよいといつも思ってはおりますが、機会がなかったり、伝わらなさそうで話すことをためらったりと、なかなか話したいことが話せていない状況です。そのため文章を掲載できるブログを始めた次第です。

ブログタイトルの「なべさんぽ」とは、渡辺が自由に散歩するかのように書くブログ、という意味を込めてつけました。

このブログには私が書きたいことを書こうと思いますが、皆さんに私の想いがきちんと伝わり、面白いと思っていただける、そういう文章を書いていきたいと思います。

どうぞ、よろしくお願いします。