なべさんぽ

ちょっと横道に逸れて散歩しましょう。

【序】詩的表現が『わかる』ーカエルの王さまー

 新年明けましておめでとうございます。今年も当ブログをよろしくお願いします。
 ここ数年コロナ禍でなかなか明るい気持ちにはなれませんでしたけれども、今年はよい年になるといいですね。


 
今回は

「詩的表現が『わかる』」

で、詩的表現がよくわからないという方のためにグリム童話『カエルの王さま』を『わかる』ように読みといていく、という文章の序章です。

 

 なぜこのテーマで私がブログを書くのか、その説明として、まず

「詩的表現が『わかる』」ことにはどのような意味があるのか
という話から始めたいと思います。

  • なぜ詩的表現を『わかる必要があるのか?』
  • 詩人との対決

なぜ詩的表現を『わかる』必要があるのか?

 皆さんは小中学校で国語の時間に詩を習ったことがあると思います。人がある想いを表現するために数行から数十行に渡って書いた言葉の断片、それが詩です。
 とても短い言葉を綴った短歌や俳句というものがありますが、これも詩の1種です。また、絵本や児童文学などのお話、高校の現代文の教科書に載っているような小説も、それ自体を詩とは言い難いですが、詩的表現が使われています。もっと広く見ていくと歌の歌詞も詩であり、学校で習うものから演歌・歌謡曲・J-POPの歌詞まで、みんな詩と言えます。このように詩や詩的表現は学校で習うだけでなく様々な場所で見られるものです。


 詩的表現は胸に秘められた人の想い、つまり感情を表現した言葉ですから事務的な言葉や日常語とは違っています。そのため日々の生活に追われている一般人にとって、詩的表現は仕事や日常生活とは関係のない言葉、したがって自分とは関係のない言葉です。仕事や日常生活において胸に秘めた自分の想いを表現することなんてあまりありませんからね。だいたい詩的表現は分かりにくく、一般人である我々の方を向いてくれていません。こちらを向いてくれない相手を理解しようなんて普通の人は思いませんから、「関係のない言葉」だとみなされるのも仕方のないことでしょう。
 
 
 詩的表現がよく出てくるものに「文学」があります。例えばフランツ・カフカの『変身』ですが、冒頭から主人公が虫になってしまっています。現実で虫に変身することなんてありませんからもう分かりません。
「これはなんだろう?」
と思って読み進めていっても一向に理解できず、
「いつ面白くなるのだろう?」
とガマンして読んでみても面白くならず、気が付いたらお話が終わっています。わからない・つまらない文章を読むのは苦痛で、そんな読書に時間をとられたら損した気分になります。
 「文学」とは大抵このようにわからない・つまらないものです。そのくせ「文学」は
「教養として読むべき本だ」
とか
「これを知らないと恥ずかしい」
などと我々に迫ってきて、偉そうな顔をしています。流せる人は「ふーん、そうなの?」と流しますが、腹が立つ人は
「うるせぇ!このポエム野郎が!」
と怒っちゃったりします。
 
 「文学」ではない詩的表現もわかりにくいです。例えば「流行りの歌」です。「流行りの歌」というと大抵は「若者の間で流行っている歌」で若者の想いを歌ったものですが、これもわかりにくい詩の代表格です。「なんだろう?」と思って見たり聞いたりしていても、一向にその「若者の想い」が具体的な形をとってきません。
「ありのままでいたい」
だとか
「あなたに会いたい」
だとか言っていて、何をどうしたいのか、何をどうして欲しいのか言いません。「わかんねえな」と思っていると
「大人は汚い…」
などと言い出し始めるので、流せる人は「まあ、若者だから…」と流しますが、腹が立つ人は
「だから何をどうして欲しいのかはっきり言えよ!このヒキョーモノォ!」
と怒っちゃいます。



 よくわからない詩的表現と付き合うことは大変なので、距離を置くというのは1つの手でしょう。「ポエムやりたい人は勝手にやってくださいな。こっちはこっちで楽しくやるからさ」と言って適当に付き合えば問題なく日常を過ごせます。
 しかし、そううまくはいきません。詩的表現とは詩人の「ある想い」を表現したものです。つまり他人に
「この想いをわかってよ!」
と呼び掛けるために産み出されたものです。ですからもし我々一般人が詩的表現を「わからない」と言って敬遠して距離をとっていると、
「わかってよって言ってるじゃないの!!」
と向こうの方から語気を荒らげて追いかけてきます。もしくは
「誰も私のことをわかってくれない……」
と言って塞ぎ込んでしまい、自分の世界に閉じ籠ってしまいます。いずれにしても周囲の人が対応に困ることになります。
 
 

 「周囲の人が対応に困る」と言いましたが、これは一部の人間だけの問題ではありません。なぜかと言いますと、「詩人」というのは特殊な人々ではなく我々の身近に大勢いるものだからです。
 人間は仕事や日常生活以外の部分でなんらかの想いを抱いてしまうものです。その想いを隠している人もいれば、自分がある想いを抱いているという自覚がない人もいます。そう考えると詩人は潜在的にかなりたくさんいるはずです。そのため我々一般人が詩的表現と距離を置き続けるとイライラして怒り出す人が増えたり、鬱々として塞ぎ込む人が増えたり、世の中全体が不穏になります。ですから我々一般人が詩的表現を理解することは詩人の想いを受けとめ、その怒り・嘆きを静め、世に平穏をもたらすことに繋がります。これが詩的表現を「わかる」ことの意味です。

 

 私は今の世の中が不穏だと思いますが、その原因は行き場を失った詩人の想いがさまよっているためだと考えます。だから私は皆さんに詩的表現を理解していただいて、詩人の怒り・嘆きを静め、世に平穏をもたらしたいと思います。そのために皆さんが詩的表現を理解するのに役立つ情報を提供しようというのが今回のブログです。
 

 
 

詩人との対決

とは申しましても、このブログは

詩的表現の「解説」

ではございません。

詩人と「対決」

するブログです。
 

 上で書きましたように詩的表現は分かりにくくつまらないため「詩なんか関係ない」とか「わからない」とか「詩は嫌いだ」とか感じている方も多いかと存じます。私は「理解していただ」きたいと書きましたが「理解してほしい」いうヤツに限ってろくでもないヤツであることが多く、皆さんが大いに迷惑を被ってきたことも承知です。
「詩的表現を理解するなんて、やなこった!」
という方は多いでしょう。だいたい私自身が詩人に困らされてきた人間ですから
「なんで俺が詩人のためにワザワザこんなことやらなきゃいけないんだよォ!」
と怒り心頭で書いており、頭の血管が破裂しそうなのです。ですから私は詩人を「理解する」なんてことしてあげませんし、皆さんも「理解」なんてする必要ございません。そんなことして「あげる」もんか!じゃあどうするのかというところで「対決」の話です。
 
 
 
私の提案は
「わからねえぞ!」と詩人に文句を言いながら詩を読む
という喧嘩腰の「対決」をすることです。

 今まで我々一般人は詩人の言葉に対して受け身で「なんだろう?」と思うだけの状態でした。「わからない」と質問すると無知をさらけ出すことになり、「人の気持ちがわからないヤツ」と人から馬鹿にされる恐れもあったため我々は「わからない」と言って質問をしませんでした。また、わからないとどう抗議してよいのかわからず、声も上げづらく、「沈黙」という形での抗議しかできませんでした。
 我々が何も言わないために詩人は
「僕はみんなに認められているんだ!」
という勘違いをしてしまいました。なんと呆れたことに、人の気持ちを表現するはずの詩人は自分と自分に似た人の気持ちは分かるくせに、自分とは違う他人の気持ちは全く分からないのでした。「僕はみんなに認められているんだ!」と思い込んだ詩人は調子にのってますます訳のわからない表現を使いだし、我々はますます困る、そんな悪循環に陥っていました。

 
 その悪循環を打破するにはどうしたらよいか?我々が怒って「わからない!」と詩人に言えばよいのです。詩人に対して
「何言ってるかわかんねえよ!俺にわかる言葉で話せよ!」
と、こちらを向かせる努力をするのです。「わからない」ことを恐れる必要はありません。どうせ向こうだってこちらのことを「わからない」のですからお互い様です。むしろ「わからない」と言ってやった方が親切というもので、感謝されてもよいくらいです。そして、今まで無視されてきたという恨みもありますから、怒っちゃいます。「怒り」の表現も大事で、こちらが怒っていることをきちんと伝えないと相手にはわかりません。我々は詩人から無視されてきたという怒る理由がきちんとあるのですから、遠慮せずに怒れます。それに詩人はあまり一般人に相手にされることがないので、怒られると
「ああん、怒られちゃった…」
と案外喜びます。
 

 このブログでは詩人を「理解する」ことはせず、詩人と対決することで詩的表現を一般人にも分かるように変えてしまいます。詩人の用いる詩的表現をこちら側に引きずり込み、日常語で上書きしてやるのです。
 
 

 その試みが『カエルの王さま』の読み解きです。『カエルの王さま』は童話のため話の筋が分かりやすくとっつきやすいと思います。いきなり難しいことをやるのは大変なので簡単なところから始めたいと思い、『カエルの王さま』を選びました。
 
 「簡単なところ」とお書きしましたが、童話の全ての要素が簡単なわけではありません。童話は表現や内容が簡単で面白くはありますが、「わからない」という想いを我々に抱かせるものです。
 大人になって童話を読んでいる方は少ないでしょうから、例えばスタジオジブリのアニメーション映画を思い浮かべてみてください。ジブリ映画には童話を題材にしたものがございますし、オリジナルの童話と言える映画も多いです。だから内容や表現が難解ということはなく、皆さんは映画を面白く観ることができるでしょう。ですが皆さんはジブリの映画を見終わったあとで「結局なんだったんだ?」と言いたくなった、そんな経験はないでしょうか?話の筋や個性的な登場人物は面白いのだけど、なんとなく「わからない」という想いが残る、ジブリの映画はその点で童話と同じです。童話を読み解くことは、ジブリの映画を観て抱く「わからない」という想いを埋めていくことだ、そう考えていただければと思います。



それでは次回から『カエルの王さま』の読み解きに入っていきたいと思います。

※次の記事はこちら

サンタクロースは『いない』のか?

 もう12月で、あと少しで今年も終わってしまいます。私はこの1年はなにもしてこなかったような気がしておりますが、皆さんはいかがでしょうか。充実した1年でしたか?


 今回の話題は
「サンタクロースは『いない』のか?」
です。

 

 12月25日には「クリスマス」というイベントがございます。この日はイエス・キリストの誕生日で、キリスト教圏の国々では家族と共に神様に祈る日だとされています。日本ではなぜか恋人と共に過ごす日ということになっておりますが、キリスト教圏だろうと日本だろうと関係なく子供たちにとっては「サンタクロース」に貰えるプレゼントが大事でしょう。


 「サンタクロース」はクリスマスの夜に世界中の子供たちにプレゼントをくれるという赤い服を着た太ったオジサンです。世界中の子供に分け隔てなくプレゼントをくれる人がいるとはステキな話ではありますが、そんな奇特な方はそうそういるものではないので、子供たちの間ではその実在がしばしば疑われます。
「サンタクロースは本当は存在しないのではないか?プレゼントを持ってくるのは実は親で、親が自分のことを子供だと思って騙しているのではないか?」
と。先日どこかの神父さんだか牧師さんだかが「サンタクロースはいない」と子供に言い放って謝罪に追い込まれていましたが、それほど子供にとっては重要な問題なのですね。


 サンタクロースが「いる」と信じる子供と「いない」と考える子供の二者に別れると思いますが、私はどちらの子供も何か勘違いをしているんじゃないかと思います。


 その勘違いとは、「現実」と「願望」を混同していることです。
 

 サンタクロースが「いない」派の言い分を想像してみます。家族でも友達でもない子供に気前よくプレゼントをくれるやつがいるわけない、人は自分の得にもならない慈善事業なんかしないものだ、もし無償でプレゼントをくれるやつがいたとして、そいつは怪しいやつだ、そんなやつからのプレゼントを期待するなんて、サンタクロースは「いる」派のやつらは幼稚だな、といったところでしょうか。
 
 一方サンタクロースは「いる」派の人の言い分はこうです。サンタさんはいるに決まってるじゃない、クリスマスにはいつもプレゼントがもらえるし、お父さんとお母さんもそれはサンタさんからのプレゼントだっていうし、疑う理由なんてないでしょう?それにサンタさんはみんなのうちにも来るっていうし、先生たちもいるって言うし、絵本にもサンタさんの姿が描いてあるし、やっぱり本当にいるんだよ、と。
 

 どちらももっともな言い分ですが、相手の言いたいことを考えずに自分の言いたいことだけをわめいている点において、やはり子供の勘違いと言えましょう。

 
 「いない」派の勘違いは、「『いる』派はサンタクロースを『現実に存在する』と主張している」と考えていることです。
 サンタクロースは「いたらいいなあ…」という「願望」です。「願望」は「現実に存在しないものを求める気持ち」です。「現実」は人の気持ちに都合よくできてはいません。そのため「現実」ばかり見つめていたら嫌になってしまいます。だから辛い現実の中で前を向いていきるために「願望」が必要とされます。
 「いる」派の子供は「サンタクロースがいたらいいなあ…」と思いたい、その気持ちが大事なんだと言っているだけなんです。だから「いない」派の子供がいくら「サンタクロースは現実に存在しない」といったところで、「いる」派の子供に「現実なんて私の気持ちと関係ないじゃないの?わたしが『いたらいいなあ…』と思ったらそれは存在するの!」とはねつけられてしまいます。
 
 一方「いる」派の勘違いは、「いない」派の子供のことを「『サンタクロースがいたらいいなあ…』という願望を理解しない野暮天だ」とハナからバカにして決めつけていることです。
 「いない」派の子供は何も「こうだったらいいなあ…」という子供の願望が分からないわけでも否定しているわけでもありません。
 「いない」派の子供は「大人」を尊敬しています。そして「大人」が生きている「現実」という場所は、ボケッとしていたら騙されたり奪われたりする恐ろしい所らしい、と思っています。だから自分も「現実」に負けないだけの立派な「大人」になろうと考えています。そんな子供は「現実」に対抗できるだけの力を身に付けてからでないと「願望」を表明できません。「現実」に対抗できない人間の「願望」など、幼稚に見えるだけですから。


 
 私の結論は
「サンタクロースは責任感を持った大人が語る限りにおいて存在する」です。
 「願望」しか語らない大人は無責任です。「現実」を突き付けられると「それは俺の仕事じゃない」とばかりにケツを捲って逃げ出します。一方で「現実」しか語らない大人は、自分がなんのために生きているのかわからなくなって虚しさを感じています。
 
 「現実」と「願望」の二者択一ではなく、辛い現実を生きつつ願望を胸に抱き、少しでも実現していく、この生き方をしている大人にだけ「サンタクロースはいる」と語る資格があるのです。


 
皆さんも私もそんな大人になれることを期待して宣言したいと思います。



サンタクロースは本当にいる!

『鬼平』と『マダオ』ー男の凋落ー

 今年もあと少しで終わってしまう12月ではございますが、皆様いかがお過ごしでしょうか?

 先日、歌舞伎俳優の中村吉右衛門さんが亡くなりました。この方は歌舞伎界の大御所です。重厚な演技が持ち味で、時代劇を得意とする俳優さんでした。テレビドラマにも出演することがあり、主演を務めた『鬼平犯科帳(おにへいはんかちょう)』は大変な人気を博しました。私は中村吉右衛門さんが好きで、TSUTAYAで『鬼平犯科帳』のDVDを借りて視聴しますし、何回か吉右衛門さんの歌舞伎の舞台に足を運んだこともありますので、もうその演技を見ることができないと思いますと大変残念です。


 今回は中村吉右衛門さんにちなみ、『鬼平犯科帳』の主人公「鬼平」と『銀魂(ぎんたま)』に登場する脇役「マダオ」について、「マダオは落ちぶれた鬼平である」というお話をしようと思います。



 若い人の中には『鬼平犯科帳』がどういう話か分からないという方もいらっしゃると思いますので、まずは粗筋からお話しします。

 
 時は江戸時代中頃、浅間山大噴火や天候不順により天明の大飢饉が発生、経済不安が起こり打ち壊しも頻発していました。田沼意次失脚ののち老中松平定信寛政の改革を始めるも世情は不穏なまま、江戸の町では犯罪が増加・凶悪化の一途をたどっておりました。そんな状況下、特殊警察火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)長官に就任した旗本の長谷川平蔵宣以(はせがわへいぞうのぶため)は江戸の町を荒らし回る盗賊たちを厳しく取り締まり、盗賊たちから鬼の平蔵、通称「鬼平」と呼ばれ恐れられるのでした。鬼平の活躍を移り変わる江戸の風情と共に描いた捕物帖、それが『鬼平犯科帳』です。

 『鬼平犯科帳』はもともと雑誌「オール読物」で1968年から連載されていた池波正太郎さんの時代小説です。1969年からたびたびテレビドラマ化され、中村吉右衛門さんが演じたのは1989年開始のシリーズです。先日亡くなったさいとうたかをさんがマンガ化していて、2017年にはアニメ化もされました。このように長い間多くの人に愛されている物語なのですね。

 
 「鬼平」とは上で書いた通り「鬼の平蔵」の略称で「平蔵」とは「長谷川平蔵宣以」のことです。長谷川平蔵宣似は江戸時代に実在した旗本で、実際に火付盗賊改方の長官を務めていました。
 主な功績として、寛政元年関東地方を荒らしまわっていた盗賊、神道徳次郎(しんとうとくじろう)一味を捕らえたこと、寛政3年に江戸市中で強盗・強姦を繰り返していた盗賊団の首領・葵小僧を逮捕したことがあります。また、石川島人足寄場を設立し、犯罪者の社会復帰を支援したことでも有名です。石川島人足寄場については日本史の教科書にも書かれているのでご存じの方もいらっしゃるかと思います。
 上司や同僚からはあまり好かれていなかったようですが、その人柄により江戸の庶民から「本所の平蔵さま」「今大岡」などと呼ばれて親しまれていたようです。
 以上のように実在の長谷川平蔵は「勇猛果敢で人情味あふれる豪傑」だったと思わせる記録が残る人物ですが、小説もドラマもマンガもそのイメージをもとに長谷川平蔵を描いています。テレビドラマ『鬼平犯科帳』の中で中村吉右衛門さんはイメージ通りに長谷川平蔵を演じました。そのため長谷川平蔵は「勇猛果敢で人情味あふれる豪傑」というイメージが世の中に広く知れ渡りました。


 
 さて、既に「『勇猛果敢で人情味あふれる豪傑』がなんだって『マダオ』なんかと関係あるんだ?」と困惑されている方もいらっしゃると思いますが、先を焦らずに『銀魂』の説明もしようと思います。

 『銀魂』の粗筋は以下のようなものです。

時は江戸時代、宇宙人である天人(あまんと)諸族との攘夷戦争に敗れて開国させられた日本では侍が滅亡、傀儡と化した幕府統治下で人々は天人の圧迫を受けて暮らしておりました。しかし江戸の街には侍の魂を忘れず己の誇りを守りながら生きている人々が僅かながら存在しておりました。そんな侍の1人であるかつての攘夷志士坂田銀時(さかたぎんとき)、姉と共に父の残した剣術道場を守る志村新八(しむらしんぱち)、天人の夜兎族(やとぞく)であり怪力の少女神楽(かぐら)、この三人がかぶき町を舞台に江戸で起こる事件を解決していくSF人情お笑い時代劇、それが『銀魂』です。

 
 『銀魂』は2004年から「週刊少年ジャンプ」で連載されていた少年マンガです。2006年にはアニメ化もされています。割りと若い人に人気のあるお話ですから、支持者の年齢層が高めの『鬼平犯科帳』とは一見なんの関係もないように思えます。しかし関係あります。『銀魂』に登場する脇役「マダオ」がそのカギとなる人物です。
 

 
 「マダオ」とは何かといいますと、これは『銀魂』に登場する長谷川泰三(はせがわたいぞう)という人物に付けられたあだ名で「まるでダメなオッサン」の略称です。
 

 長谷川泰三は幕府の貿易局局長として登場します。銀時・新八・神楽の働くなんでも屋万屋(よろずや)にやって来た泰三は、天人ハタ王子の逃げ出したペットを探すよう銀時たちに依頼します。実はこのペットというのが宇宙から持ち込まれた危険な怪獣で、ハタ王子の元を逃げ出したあとは暴れて江戸の町を破壊していたのでした。この「ペット」を捕まえようとする銀時たちではありましたが、狂暴なため取り押さえるのは困難、新八も食べられそうになってしまい、銀時は怪獣を倒そうとします。しかし泰三はそんな銀時を制止します。制止する理由は何かというと、ペットを傷つけて天人の機嫌を損ねたらどんな報復措置をとられるかわからない、多少江戸の町が破壊されようが江戸の町人が死のうが我慢するべきだ、というものでした。本来なら危険物の持ち込みを制止しなくてはならなかった貿易局の局長である泰三は、天人に対して毅然と対応できない自分の意気地のなさを隠すために「大人の理屈」を持ち出して新八を、ひいては江戸市民を見捨てようとするのです。しかし侍である銀時はそのような保身の言葉には耳を貸さず、報復覚悟で怪獣を倒し新八を救います。銀時の覚悟に感銘を受けた泰三は誇りを取り戻し、横暴な態度をとるハタ王子を殴り飛ばします。しかし理由はなんであれ暴力は暴力ですので、泰三は貿易局をクビになってしまいます。その後無職となった泰三が公園のベンチで天を仰いでいたところ、神楽から「まるでダメなオッサン」略して「マダオ」と命名されるのです。

 

 さて、この「マダオ」というあだ名ですが、なんだかよくわかりません。
 
 「オッサン」はよいでしょう。泰三は外見からしてそれほど歳をとっているようには見えませんが、若い娘さんである神楽からしたら充分「オッサン」といってよいほどの貫禄を備えていますから。
 「まるで」はある物事を別の物事に例える比喩表現です。通常「~のようだ」という言葉が伴い、例えば「酔っ払った父は、まるでゆでダコのように赤くなっていた」という使われ方をします。ですから「まるでダメなオッサン」は「まるでダメなオッサンのようだ」の「ようだ」を省略した形です。「まるでダメなオッサンのようだ」と言うと、泰三は「ダメなオッサン」そのものではなく「ダメなオッサン」に似た何かである、ということになります。


 
 では泰三が似ているという「ダメなオッサン」の「ダメ」とはなんなのでしょうか。


 泰三が無職になって天を仰いでいた時につけられたあだ名だから、一見すると「ダメ」は「無職であること」を指すように思えます。なるほど、「無職」だったら「ダメ」と言われるかもしれません。人は何らかの職業や役割といった仕事を持って生きるものです。「無職」には職も役割もない、したがって仕事をしていないので、人としてどうなのでしょうか?しかも泰三には頑張って次の仕事を見つけようという様子が見えず、公園でいじけているだけなのです。これはもう「ダメ」と言われてしかるべき状態です。

 
 しかし「ダメ」はどうも「無職であること」を指しているわけではないようです。というのも、泰三はマンガ『銀魂』のなかであまり「無職」の状態にはならないからです。
 『銀魂』に何度も登場する泰三は基本的に頑張り屋さんです。貿易局をクビになったあと一瞬無職になっていじけるのですが、すぐタクシードライバーの職に就きます。タクシードライバーは銀時が持ち込んだトラブルのせいですぐクビになり、その後も職に就いては銀時のせいで何度もクビになるのですが、そのたびに新たな職に就いています。働くことが嫌いなわけではなさそうですし、クビになってもめげずに職探しをしています。どうも泰三は「無職」であることを「ダメ」と言われているのではないようです。



 それでは「ダメ」とは一体何なのでしょうか?
 実は「ダメ」とは
「男としての誇りを持てない」
ことを指しているのです。


 
 泰三は銀時に感化されて一瞬誇りを取り戻しました。だから横暴なハタ王子を殴り飛ばして制し、貿易局局長として天人に毅然とした態度をとることが可能になったのです。そして暴力を振るったために泰三は貿易局をクビになり、公園で空を仰ぐ羽目になります。この時の泰三は誇りを失っています。でも泰三はすぐに仕事を探し出してまた誇りを取り戻そうとする、そういう男です。だからこそ神楽は泰三に「ダメなオッサン」ではなく「『まるで』ダメなオッサン」というあだ名を付け、泰三が「完全に誇りを捨てたオッサンではなくそれに似た何かである」と表現したのです。

 

 既にお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、長谷川泰三長谷川平蔵は同一人物です。二人とも江戸時代に存在する「長谷川○ゾウ」です。長谷川平蔵の名はテレビドラマ『鬼平犯科帳』で広く世に知れ渡っていますから、後から描かれた『銀魂』の登場人物である長谷川泰三は当然長谷川平蔵をモデルとしています。
 
 

 長谷川泰三長谷川平蔵を念頭に産み出されて、「豪傑」である「鬼平」が「まるでダメなオッサン」である「マダオ」になってしまった。なんでそんなことになってしまったのかと言いますと、「現代に誇りをもって生きられる男なんていない」という男の嘆きを代弁するためですね。

 現代では「世の人々のために働く」ことがあまり称賛されません。豊かな時代で、生きることの大変さが自覚されにくくなったためです。ですから「世の人々のために働く」ことを誇りに思って生きていると、「おまえ、なに古臭いこといってんの?バカじゃないの?」と嘲笑されかねません。
 戦前から地続きである昭和の内はまだ「世の人々のために働く」ことは尊敬されるべきことでありましたが、バブル景気の狂騒のなか突入した平成にはもうそんな誇りは忘れられてしまいました。だからこそ平成元年である1989年に中村吉右衛門主演の『鬼平犯科帳』が始まったのであり、「世の人々のために働く男とはこういうカッコいい男のことだ」と理想が掲げられたのでしょう。しかしその後「鬼平」になることができた男はおらず、誇りを失った「マダオ」が登場するのです。


 くだらないマンガの道化師にもこんな悲しい背景があるということをお伝えしたところで今回のブログを締め括りたいと思います。


 
……ですが、最後に一言。

 「マダオ」は「まるでダメなオッサン」です。まだ完全に「ダメ」ではないのです。そして誇りを取り戻そうと懸命に足掻いています。そんな男に簡単に「ダメ」なんて言ってはいけませんね。
 
 「マダオ」が誇りを取り戻せる日が来ることを信じて今回のブログを終わりたいと思います。

『ポルノグラフィティ』は『ヘンタイ』なのか?ーひとは結構勝手な理解をするー

 寒さが身に染みるようになり冬の到来を感じるこの頃ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか?お身体に気を付けていただきたいものと存じます。

 少し前に女優の長谷川京子さんとロックバンド「ポルノグラフィティ」のギタリスト新藤晴一さんの離婚が報じられました。その報道でふと私が以前「ポルノグラフィティ」について考えていたことを思いだしましたので、ここに書いてみたいと思います。

その内容は
「『ポルノグラフィティ』は『ヘンタイ』なのか?」で、
結論は
「人は結構勝手な理解をする」です。
いきなり人様をヘンタイ呼ばわりするとは随分なことですが、まあ、お読みください。



 ポルノグラフィティは私が小学校高学年の時に当時の若者の間で流行り始めたロックバンドですが、その登場に私は驚きました。
 この「驚きました」は通常だと「その音楽性に」という意味になるところですが、違います。「当時の若者」の中に小学生は入りませんから、小学生である私は当然「当時の若者」の中にはいません。したがってポルノグラフィティのことはよくわかりません。そもそも音楽に興味がなかったので、「音楽性」などというもの自体私に関係ないものでした。
 
 私がポルノグラフィティの何に驚いたのかというと
「『ポルノ』などというヘンタイ的な名を冠するグループが公然と表を闊歩している」ことに、です。


 

 私が小学校高学年の時は「児童ポルノ」という言葉が日本で知られるようになった時期でもあります。児童ポルノが問題となり、禁止する法律が作られ、制定される、そのことが話題になり、テレビや新聞で報道されていました。
 小学生の私は報道を見聞きして

「なぜ、『エロ』ではなく『ポルノ』という言葉が使われるのだろうか?」

と疑問を抱きました。私にとって「エロ」は馴染みのある言葉でしたが「ポルノ」は新しい言葉でした。私は「わざわざ新しい言葉を使うのであったら今までの言葉とは何か違う意味を持つはずだ」と考えるような子供でした。だから「エロ」と「ポルノ」の違いが気になったのです。

 
 小学生が「エロ」に馴染みがあることを不思議に思う方もいらっしゃるかもしれません。しかしちょっと考えてみれば不思議でもなんでもありません。小学生の周りにはエロが溢れています。
 例えばマンガ『ドラえもん』です。主人公のび太はよく同級生しずかちゃんの家のお風呂に乱入します。また、マンガ『クレヨンしんちゃん』の主人公しんのすけの両親ひろしとみさえは、夜中の「プロレスごっこ」をしんのすけに覗かれます。
 大人向けマンガが家庭に無防備に置かれていたら、暇な子供は勝手に読みます。私の家にも父親買ったマンガが書庫にたくさん置かれていて、私はそれらを読んでいました。池波正太郎(いけなみしょうたろう)原作さいとうたかを作画の『鬼平犯科帳(おにへいはんかちょう)』や『剣客商売(けんかくしょうばい)』、ジョージ秋山の『浮浪雲(はぐれぐも)』などがあって、それらにはエロい場面がたくさん出てきます。
 また、テレビで放映される洋画にはベッドシーンが出てきます。親と一緒にそのシーンを見るのは気まずいですが、テレビを消したりチャンネルを変えたりする方がかえって意識してしまうと考えたのでしょうか、はたまた映画に集中して子供がその場にいることを忘れてしまっているのか、母親は平然と見続けていましたので、私も一緒になってベッドシーンを見ていました。
 こんな風に、小学生の周りには公然とエロがたくさんありますので、当時の小学生である私がエロに馴染んでいても不思議はございません。
 
 
 
 例え小学生の周りにエロがたくさんあったとして、「エロ」と「ポルノ」の違いを気にするだろうか、そう訝しむ方がいらっしゃるかもしれませんので、そちらについてもお書きします。
 
 小学生の私は自宅で得られるエロだけでなく、友達の家にあるマンガからもエロを吸収しておりました。
 
 少し断っておきますが、私はエロいマンガを探して読んでいたわけではなく、お話が好きでマンガを読んでいました。面白いお話が好きで、その中にエロが出てくれば、それもお話の大事な部分だと思って受け入れていた、ただそれだけです。

 友達の家のマンガに話を戻しますが、友達の家で見つけたマンガの中で特に面白かったものに『シティハンター』があります。これはスイーパー(掃除屋、始末人)冴羽リョウ(リョウはけものへんに僚のつくりを合わせた漢字)が相棒の香(かおり)と共にその銃の腕によって裏社会の事件を解決していくマンガです。基本的に劇画であるため冴羽リョウは強くてカッコよく人情味があるヒーローなのですが、大変なスケベという欠点があります。若いお姉ちゃんを見ては鼻の下を伸ばし、しょっちゅう股間にテントを張っては
「りょうちゃん、もっこり!」
などと叫び、依頼人の美女に夜這いをかけたり刑事の冴子に「依頼料はもっこり一発だ!」と迫ったりして香に100トンハンマーのお仕置きを食らいます。性描写そのものはありませんが、「香の監視がなかったらその先の行為があったのだろう」と強く思わせるような描き方です。
 昔の小学生だったら主人公がカッコよさとスケベさの両方を備えていたら困ったでしょう。強くてカッコいいところは好きなんだけど、露骨にスケベだとこの人のことを「好きだ」と言いづらいな、と。しかし時は平成です。この『シティハンター』は私が読んでいた頃には既に連載を終えていたのですが、連載していたのはなんと週刊少年ジャンプです。このマンガは全国の男の子の間に「エロ」を公然と存在させていたのです。「エロ」はもう子どもにたいしても開かれる時代になっていました。そのことを知っていた私は「カッコいい男はもっこりするものだ」と理解しました。私は『シティハンター』というお話が好きだったので、カッコよさとスケベさの矛盾などというものにこだわらず、そこに描かれるもの全てが好きでした。だから「エロいことは欠点というよりむしろ美点だ」と、昔からしたら転倒した価値観を受け入れました。
 ついでに言うと、私も名前が「りょう」なので、
「僕も冴羽リョウみたいなカッコいいもっこりにならないといけないな」
などとわけのわからないことを考えていました。
 

 『シティハンター』の数あるお話の中で特に印象深かったものに、冴羽リョウ貞操帯を着ける回がありました。ハンバーガーショップの若い店員の女の子とデートすることになったリョウですが、下心丸出しで手を出すことが予想されたため、香によって鉄の貞操帯を着けられてしまいます。これで何もできなくなったリョウですが、デート中に興奮して何度ももっこりしてしまいます。しかし下半身は貞操帯でガチガチに固められていますから、もっこりするたびに股間が痛い!そしてリョウの興奮が最高潮に達したとき、なんともっこりが鉄の貞操帯を突き破り、リョウは股間に大怪我を負ってしまうのでした。
 このお話を読んだ私は「痛い」と思って股間を押さえ込み、脂汗を流すような悪寒に襲われましたが、同時に「すごい…」と思って冴羽リョウに対する尊敬の念も覚えました。
 
 
 こんな風に私はマンガが好きで、そこに描かれるエロも好きだったので、「エロいのはよいことだ」と思っていました。だからこそ「ポルノ」という新しい言葉を耳にしたときに、「それはエロとはどう違うんだ?」とこだわったのです。



 
 「児童ポルノ」という言葉を知った私は最初に「子供の裸を見たがる大人はヘンタイだ」と思いました。そして「ただのヘンタイは別に悪いものでもない」と思っていた私は「子供の裸が映っている写真やら映像やらを製作して売ったり買ったりするヘンタイは悪いやつだ」と考えました。だから私はまず「エロはよいもの、ポルノは悪いもの」と考えました。
 しかし「児童ポルノ」という言葉は「児童ではないポルノ」の存在をも暗に示しています。その事に気づいた私は「ポルノ」という言葉がどういう場合に使われるのかを考えました。その結果は、単に女や男の裸が描かれた絵や写真を指す場合には「ポルノ」を用い、物語がある男女の裸を指す場合には「エロ」を用いるのだ、というものでした。「エロ」は日常で使われる言葉ですが、「ポルノ」は日常的には使われません。むしろ「ポルノ」は秘密の悪事のように囁かれています。だから「エロ」は人と共有できる楽しいもの、「ポルノ」は自分一人だけの後ろ暗いもの、私はそう考えました。そして
「一人の世界にとじ込もって人の裸をみているなんて、ポルノはやっぱりヘンタイのものだ」
という結論に至りました。
 

 

 
 長くなったのでそろそろ何の話をしていたか忘れてしまった方もいるかと思いますが、このブログの話題はポルノグラフィティです。ここでようやく本題に戻ります。

 

 「ポルノグラフィティ」というロックバンドの存在を知った私が「『ポルノ』などというヘンタイ的な名を冠するグループが公然と表を闊歩している」ことに驚いたのは、私の「ポルノ」という言葉に対する理解のためでした。私は自ら「ポルノ」であると公言しているロックバンドが堂々とテレビに出たりCDを出したりしていることを嫌だと思い、また「それを許している世間ってのは、一体どうなっているんだ?」と訝しみました。小学生の私からしたら、「エロ」ではない「ポルノ」などというヘンタイは、存在していてもよいけれど、本屋かビデオ屋の一角にあるアダルトコーナーにひっそりと存在するべきものでした。それがなぜ昼間から堂々と存在するのだろうか?その疑問は解消されないまま私の中に残り、謎が解けたのは「若者」になってからでした。


 


 20代の頃の私は暇でした。あまりにも暇でやることがなく、暇潰しに色々な音楽CDを聞いていました。ある時「そういえば、小学生の時に流行っていたポルノグラフィティの曲ってよく知らないな」と思い、ポルノグラフィティのCDを聴いてみたことがありました。ポルノグラフィティの曲をいくつか聴いた私は
「全然ヘンタイじゃないじゃないか!」
と驚きました。例えば『ヒトリノ夜』という曲ですが、その歌詞の内容は「周りに流されずに自分の想いを大切にして生きていけ!」というものです。また『サボテン』という曲は女の気持ちを考えてこなかった男の後悔を歌っています。その他にも『アポロ』『メリッサ』『サウダージ』『ハネウマライダー』など人気の曲がありますが、どれもまともな内容です。「ポルノ」という名を冠しているからヘンタイ的な曲を歌っているに違いないと思ってましたが、どうも様子が違います。
 

 私のポルノグラフィティに対する理解は間違っているのではないか、そう思った私はスマートフォンを使って「ポルノグラフィティ」という言葉について調べてみました。すると「ポルノグラフィティ」とは英語で「ワイセツな落書き」という意味でした。


 「ワイセツな落書き」とは、若者が公衆便所やトンネルなど人目につかないところに書く・描く落書きのことです。それらは何らかの想いを抱えて書いた・描いた当人にとっては意味を持つものでしょうが、境遇の異なる他人には関係がなく、世間一般的には「クダラナイもの」です。
 若きロックバンドというものは曲を作り、演奏し、歌うことで胸に抱いた想いを表現しようとしますが、その想いはなかなか人に理解されないものです。その点で若いロックバンドと「ワイセツな落書き」は同じです。だから人からなかなか理解されなかったロックバンドは
「そうだよ、どうせ俺らのやってることなんて便所の落書きみたいにクダラナイことさ!」
と不貞腐れ、挙げ句の果てに開き直って自ら「ポルノグラフィティ」を名乗るようになったのです。


 こう思いいたってようやく私の「ポルノグラフィティはヘンタイだ」という勘違いは解消されました。そして「ポルノグラフィティ」は「人からなかなか理解されない想いをめげずに表現している若者」なのだという理解が訪れました。「ヘンタイ」どころか「立派」です。私は勝手に「ヘンタイ」だと思って忌避していたポルノグラフィティに対して申し訳なく思い、反省しました。

 こうしてポルノグラフィティと和解した私は
ポルノグラフィティは立派なんだ。俺も頑張って立派なもっこりりょうちゃんにならないといけないな」
と、やっぱりよくわからない勘違いを新たに始めてしまうのでした。






今回の内容は
「『ポルノグラフィティ』は『ヘンタイ』なのか?」で、
結論は
「人は結構勝手な理解をする」でした。


 私と同じくみなさんも勝手な理解をしながら生きていらっしゃるかもしれません。なにかを見聞きしたときに少しでも違和感を覚えたら、調べたり、人に聞いたり、自分で考えてみたりすることをお勧めします。きっとそこには面白い発見があるはずですよ。

「さむい」がわからないー頭と心で「わかる」ことー

もうすっかり暖かくなって、いよいよ春になったというこの頃です。私も上着をコートからジャケットに切り替えました。

毎回私はブログの冒頭でそのときの天気や気温の話を書きますが、それはなぜなのかというのが今回の話題です。



私は「さむい」がわからない人間でした。



 私は幼稚園児のとき、一年中どの季節でもでも半袖短パンでした。真冬でもです。私がこどもの頃住んでいたのは新潟ですから、冬は当然寒いはずです。それなのになぜ私が真冬でも半袖短パンだったのかというと、熱かったからです。自分の体がいつでも火照っていて、私は常に「あつい、あつい」と言っていました。
 自分の体の熱さばかりが気になっていたので、体の外側にある気温、夏の暑さや冬の寒さがわかりません。従って真冬に長袖長ズボンを身に付ける必要もわかりませんでした。

 そんな私ですが、小学生になると冬に長袖を着て長ズボンを履くようになりました。これは私が寒さを感じるようになったからではなく、母親に嫌な顔をされていることに気付いたからです。
 私は寒さを感じることはありませんでしたが、「さむい」とはどういうことかを頭では理解していました。そして一般的に寒いときには厚着をするものだということも知っていました。だから寒さがわからない自分、そしてその事を隠そうともしない自分は世間からバカだと思われていて、その事を母親は嫌がっているのだ、私はそう思いました。わざわざ世間からバカだと思われる必要はないし、母親から嫌な顔をされる必要もない、そう思った私は冬には長袖長ズボンを身に付けるようになりました。


 しかし私は「さむい」を頭で理解しているだけで、心から「さむい」と思うようになったわけではありませんでした。「さむい」が心でわかったのは30歳を過ぎてからでした。


 20代の頃、私はやることがなく、暇さえあればいつも散歩をしていました。おもに千葉県の市川や船橋、松戸などを散歩していましたが、東京都の江戸川区にある葛西臨海公園にもたまにいきました。葛西臨海公園には花畑があって、春には菜の花、秋にはコスモスが咲きます。
 30歳を過ぎてから散歩で葛西臨海公園に行ったことがあるという話を知り合いにしていた私は、ふと「そういえば、花畑が夏と冬にはどうなっているか知らないな」と思いました。なぜ知らないのかと考えてみたら、夏と冬は葛西臨海公園に行ったことがないからでした。そしてもっとよく考えてみたら、そもそも夏と冬はあまり散歩をしていないことに気付きました。それはなぜかと考えたときに、「夏は暑くて冬は寒いからだ」という結論に至りました。
 その事がわかって私は「俺も寒いと熱いがわかるようになったんだ」とよろこび、その後はやたらと人に天気の話やら気温の話やらをするようになりました。



「何当たり前のことがわかって喜んでいるんだ」とお思いになる方がほとんどだと思いますが、これは私にとっては大きな成長だったのです。


 世の中には色々な人がいて色々な価値観があり人同士はなかなかわかりあえない、そんな嘆きを聞くことがあります。でもそんな嘆きをいう人たちだってそのわかりあえない相手と「さむい」ことは共有できます。暑さ寒さを感じるということは人としての当たり前の感覚ですから。

「今日はさむいですね」
「ええ、本当にさむいですね」

といった会話が可能です。しかし私の場合は、

「今日はさむいですね」
「……え、あ、……ああ、さむいですね!」

という会話になります。
 初めの『……』は、「さむいですね」と言われてもピンと来ないから戸惑っているところです。『え、あ』の部分は「こういうときは何か返事をしないといけないのだった」と気付いた反応です。次の『……』は「何て言おうか」と悩んでいるところです。結局『ああ』のところで「さむいですね」のおうむ返しをすればよいのだとわかるのですが、返事が遅れたことに焦って変に力が入ります。それが最後の『!』です。
 「世の中には色々な人がいて色々な価値観があり人同士はなかなかわかりあえない」どころの話ではありません。人としての基本的な感覚、「さむい」や「あつい」すら人と共有できないのです。いわんや価値観をや、です。「人と共有できない」の度合いが違います。


 こどもの頃の私は「さむい」がわからなくても平気でしたが、成長するにつれて「自分は当たり前のことがわからない」と悩むようになっていました。上に書いたように人との会話が噛み合わなくて困っていたからです。そのため私は「当たり前のことが当たり前にわかるようになる」を目標としてたてていて、これを少しでも達成しようとしていました。そんな私が30を過ぎて遂に「さむい」がわかるようになったのです。この喜びといったらありません。




私がブログの冒頭で天気の話や気温の話を書くわけは、「さむい」や「あつい」を頭で考えて言うのでなく、心から感じて言うことができるようになった喜びの表れです。みなさま、どうか毎回お付き合いくださればと存じます。




ところで、私は「皆さんは当然『さむい』が心からわかっている」という前提で書いてきましたが、本当にそうでしょうか?1度よく考えてみることをお勧めします。人と何かを共有できているという思い込みにすがる臆病者より、人と共有できていないことを嘆くことができる人の方が成長しますからね。それでは。

なぜ少女が泣くと雨が降るのか?

冬のはじめのこの時期、みなさまいかがお過ごしでしょうか?
新型コロナウイルスの流行で思うように外出できず、ご自宅でお過ごしの方も多いかと存じます。そんなときには映画やドラマのDVDを見たり、マンガや小説を読んだりする機会も多いかと思いますが、鑑賞した作品が「よくわからない」と思われたことはありませんか?

 
 鑑賞した作品の全体あるいは一部によくわからない表現がある、また別の作品を鑑賞してもよくわからないところが、そしてまた別の作品をみてもやっぱり・・・
 「わからない」が重なって「自分には物語を理解するだけのセンスがないのではないか?」と思って落ち込んでしまう、そんな経験はありませんか?

 こういった方は男性に多いです。男性は物事を「感情」ではなく「論理」で捉えがちのため、「感情」の領域にある物語を捉えることが苦手なのです。
 苦手ではありますが、男性だって物語を楽しみたいと思っていますから、鑑賞した作品に「わからない」ところが多いと、「わかりたくてもわかることができない」という悔しい思いをします。



 今回は「自分には物語を理解するだけのセンスがないのではないか?」と思っている方に向けて、その「センス」を磨く方法をお話ししようと思います。



(※今回は長いので時間のあるときにお読みください)




方法は3つです。
①「論理」に自信をもつこと
②因果関係を見誤らないこと
③人を疑うこと



ここでは「少女が泣くと雨が降る」というシーンに沿って3つの方法を説明します。



 

 冬のはじめの寒い日、少女が街外れの一本杉の下に1人で立っていました。杉の幹に寄りかかっている少女は浮かない顔です。
 両親は仲が悪くいつも喧嘩ばかりしています。そのせいで少女はあまり笑わない子供になってしまい、暗すぎる彼女には学校で友達ができません。唯一優しくしてくれたおばあちゃんは今年の夏に死んでしまいました。
 今日も休日だというのに両親は朝から大喧嘩、たまらず家を飛び出したはよいものの、行くアテもなく、あっちをフラフラこっちをフラフラ、行き着いた先がこの一本杉でした。少女はもう生きるのが嫌になっていましたが、そんな嘆きを受け止めてくれる人はおらず、ただ一人仏頂面をするしかないのでした。そんな少女の気持ちを知ってか、空は灰色の雲であふれ、暗く沈痛な面持ちです。痛いほどに冷たい風も吹き付けてきます。
 ふと、少女が街の方に目をやると、クリスマスに向けて飾り立てられた商店街とそこを行き交う人々の様子が見えました。きらびやかな街の中を家族連れや恋人たちが幸せを見せつけながら歩いています。それを見て少女は思います、どうして自分だけが幸せではないのだろう、自分は不幸なのにどうして誰も優しく声を掛けてはくれないのだろう、と。そう思った途端にホロリホロリと涙が止まらなくなりました。止めようとしても涙はあとからあとから溢れてきます。悲しみが天にまで届いたか、ポツリポツリと雨が降りだし、やがてザーザー本降りとなりました。雨はしばらくやみそうにもないのでした・・・



 

 
 この後の展開が気になる方もいらっしゃるかもしれませんが、少女マンガだと王子さまが現れて二人であらゆる困難を乗り越え幸せになることになっていますから、少女の先行きは大丈夫です。人の心配より今は「センス」を磨く方法に専念しましょう。


 

まずは
①「論理」に自信をもつこと
です。
 
 
 上のお話しの中で問題となる部分は
「悲しみが天にまで届いたか、ポツリポツリと雨が降りだし、やがてザーザー本降りとなりました。」
の箇所です。ここを読んだあなたはどう思ったでしょうか?

「ふーん」とさして気にもせずに流してしまったか、「人1人の気分で天候が変わってたまるか!」と怒ってしまったか、「人1人の気分で天候が変わるわけはないのだけれど、それはこのお話を書いている人にも当然わかっているだろうし…きっとみんなにはわかるけれどボクのセンスでは理解できない何かがあるんだ、ああ、どうしよう」とオロオロしてしまったか、どれかでしょう。多分最後の「ああ、どうしよう」ではありませんか?


いけません!そんなことでどうします?
人の気分で天候などという物理的な現実がどうこうできるはずないじゃありませんか!
非論理に付け入る隙を与えてはなりません!

まずあなたに必要なのは
「人1人の気分で天候が変わってたまるか!」
と怒ることです。論理的である自分に自信を持ってください。



と、叱咤激励をしたところで、
②因果関係を見誤らないこと
です。

 
 あなたがオロオロしてしまう原因は2つあります。1つは「少女が泣く→雨が降る」という間違った因果関係を発見してしまったこと、もう1つは、その因果関係を「みんな」が認めていると思い込んだことです。

 
 お訊きしますが、少女が泣いたことが原因で雨が降るということがあるでしょうか?ありえませんね?まず、認めましょう、少女が泣いたことが原因で雨が降るということはありませんね?いいですね?
 
 それではあなたが気になっていることにいきますよ。あなたは
「でも『悲しみが天にまで届いたか、ポツリポツリと雨が降りだし』って書いてあるよ。この書き方だと『少女の悲しみが雨を降らせた』以外に考えようがないじゃないか。そりゃあボクだってそんなこと現実にはないってことぐらい知ってるよ?でもこれはお話だしさ、物理的な現実を持ち出すのは野暮なのかもしれないし、きっとボクにセンスがないのがいけないんだよ…」
と言いたいのでしょう?違いますか?


バカッ!
トンマ!
意気地無し!
「お話」がなんです!この現実と関係のない夢の国を描いただけの「お話」なんかに存在意義はありません!全ての「お話」はこの現実に関係あるべきなんです!だから「お話」の方が「現実とは関係ありませんよ?」って顔をしていたら、「ウソだ!」と言って現実に引き込めばいいんです。ビビるんじゃないよ!



 また叱咤激励したところで説明です。
 上のお話を読むと「少女が泣く→雨が降りだす」という因果関係を読み取ってしまいそうになりますが、これは間違いで、「雨が降りそうな天候→少女が泣く」の順序が正しいのです。


 センスに自信のないみなさんも、天気がよいと気分がよいし天気が悪いと気分がよくない、ということはわかりますね。で、天気が悪くて気分がよくない、そんなときには普段は抑えていた「悲しみ」や「さみしさ」といった負の感情が溢れて泣いてしまう、これもおかしくないですね。幸せそうな人々を見ちゃってもいたし。そしてもともと少女はつらい日々を送っていたから、いつ泣き出してもおかしくはなかった、これもわかりますね?つまり、


「少女はいつ泣いてもおかしくない状態だった」(原因)
+「悪い天候」&「街の光景」(きっかけ)
→「少女が泣く」(結果)
「そのうちに雨も降ってきた」(悪い天候に付随する出来事)


なのです。「雨が降る」ことは実は少女が泣くこととあまり関係ないのです。わかりましたか?



「理屈はわかったよ?理屈は。でも、でも『悲しみが天にまで届いたか、ポツリポツリと雨が降りだし』って書いてあるよ。少女は悲しかったかもしれないけど、このお話の書き手は冷静なはずでしょ?少女を客観的に見てこのお話を書いているんだよね?それなら変なこと書かないはずだよ。やっぱり『少女の悲しみが雨を降らせた』んだよ。きっとボクにはわからないだけでみんなはこれが正しいってことがわかってるんだよ。だいたい『少女が泣くから雨が降るなんておかしい』なんてこと言っている野暮なやつはボクしかいないし…」


ああ、もう、やだっ!しつこいっ!そんなんだからお前は野暮って言われるんだよ!
「みんな」って誰?その「みんな」はそんなに正しいの?お前が正しくて「みんな」が間違っているかもしれないじゃないか?「みんな」に自分の考えを話したの?話してないでしょ?やっぱり…結局お前は「みんなと違うことを言うと笑われるかも、嫌われるかも」ってビクビクオドオドしている事無かれ主義の意気地無しなんだよ!



と、勝手に盛り上がったところで
③人を疑うこと
です。誰のことを疑うのかというと「みんな」と「書き手」のことをです。
先程私はこう言いました。


・・・あなたがオロオロしてしまう原因は2つあります。1つは「少女が泣く→雨が降る」という間違った因果関係を発見してしまったこと、もう1つは、その因果関係を「みんな」が認めていると思い込んだことです。・・・


前半についてはもう説明しましたが、後半がまだです。


お訊きしますが、あなたは「少女が泣くから雨が降るなんておかしい」と考えはしたと思いますが、その疑問を誰かに話して明快な回答を得られたことが一度でもありましたか?おそらく誰にも話したことがないか、話したことがあったとしても「そんなこと誰も考えないよ。君は考えすぎなんだよ」なんて言われてションボリしてしまったかのどちらかでしょう?違いますか?あっているでしょう?

 もしそうだったらあなたの「少女が泣くから雨が降るなんておかしい」という考えはまだ間違っていると決まってはいません。それなのに自分は間違っていると決めつけてしまう、これはおかしいです。
 あなたは「そんなこと誰も考えないよ。君は考えすぎなんだよ」と答えた相手(おそらく女)を追及すべきだったんです。「考えすぎなんかじゃない。やっぱりおかしいもの。君はどう思うんだ?教えてくれ。」と。でもしなかった、なぜなら「そんな暑苦しいこと言ったら嫌われちゃうかも」と思ったからですね。だから私はあなたのことを「事無かれ主義の意気地無し」と言ったのです。


 さて、問題の「みんな」です。まず「みんな」とは誰のことでしょう?「たかし」でもなく「よしこ」でもなく、「みんな」です。
 結論から言うと「みんな」なんていません。あなたが頭の中で作り出したオバケです。
 
 先程も言いましたがあなたは「少女が泣くから雨が降るなんておかしい」というあなたの考えを人に話していません。そこであなたはこの考えを「よしこ」に話すことにしました。なぜあなたは「よしこ」を選んだのかと言いますと、「自分よりセンスがよいはずだ」とセンスに関しては「よしこ」を信頼しているからです。
 あなたは「よしこ」にあなたの考えを話す、すると「そんなこと誰も考えないよ。君は考えすぎなんだよ」という答えが返ってきた。そしてあなたは「ああやっぱり、ボクはセンスが悪いんだ」と思ってショックを受けてしまった。ただ、「よしこ」一人の意見だけで自分のセンスのなさを決めてしまうのは根拠に乏しいと考えたあなたは、他の人にも聞こうと思いました。しかし、「よしこ」に自分のセンスの悪さをさらけ出してしまったときのショックが忘れられず、他の人に聞くのが怖くなってしまった。「じゃあ、もう『みんな』がボクのセンスの悪さを知っているということにしてしまおう」と思ったあなたは「みんな」という存在しないオバケを産み出した。これが「みんな」の正体です。


 「みんな」は便利です。あなたが何かを人に尋ねて確認しなくてはならないとき、特に人に聞きづらいことを聞かなくてはならないときに、この「みんな」はあらかじめ「お前は間違っている」と言ってくれます。あなたは「みんな」が「間違っている」と言うのをいいことに、実際に人に尋ねることをしない。そしてあなたは自分のセンスのなさを人にさらけ出す危険を犯すこと無く「自分が間違っている」という結論を出して安心していられます。
 あなたのセンスが悪く、物語を理解することができなかったのはこれが原因です。この「みんな」というオバケをやっつけないことにはあなたのセンスはよくなることがありません。



 それではどうしたらこのオバケをやっつけられるのかと言いますと、「『よしこ』は大したことがないのかもしれない」と考えて「よしこ」ともっとよく話し合えばよいのです。「よしこ」を疑うのです。
 「そんなことできない」とお思いですか?「『よしこ』のセンスが自分より上だということは確かなのだから、『よしこ』のセンスを疑うなんて思い上がった行為だ」と思いますか?
 私はなにも「よしこ」の「センス」を疑え、なんて言っていないのです。「よしこ」の「親切さ」を疑え、と言っているのです。



 「よしこ」のセンスは確実にあなたより上でしょう。なにしろあなたがセンスを信頼しているのですから。そこは正しい。
 しかしあなたはお人好しのため、「よしこ」を始めとする他人は「親切」だと思っている。他人というものは自分が困っていたらこちらからの詳しい説明もなしに勝手になにもかも察してくれて的確な答えを与えてくれる、もしくは力になれないのなら「力になれない」とハッキリ言ってくれる、そう思っている。そこが間違っているのです。
 

 他人はなにもかも察してくれるほど能力が高くもなければ、あなたになにもかも説明してくれるほど親切でもありません。だから自分の考えを人に話すときには「わかってるのかな?」と疑って、しつこく確認をする必要がありますし、相手の話によくわからないところがあったら「それはどういうことなの?」と尋ねなくてはなりません。これは相手に失礼なことでもなんでもありません。世の中では当たり前に行われていることですから、どんどんやっちゃって平気です。今度からは確認を徹底していきましょう。
 ただし、きちんと自分の考えを話せるようになるには時間がかかりますし、相手に的確な質問をすることも難しいので、うまくいかない期間があります。年単位であります。この我慢の時間には耐えるしかありません。
しかし耐えて力をつけた暁には「みんな」というオバケは消えていますので、頑張ってください。



 最後に「みんな」の真ん中にデンと居座っている「お話の書き手」をやっつけちゃいましょう。
 「書き手(作り手)」はあなたにとって権威です。小説やマンガのように本の形になって出版されたもの、あるいは映画館で上映される映画やテレビで放映されるドラマ、または劇場で上演される演劇といったものは、「きちんとしたもの」に見えます。「きちんとしたもの」は正しいもので、まともな頭を持っている人に理解できるように作られているはずだ、あなたはそのように思っています。


 しかし私のこれまでの話からわかったことと思いますが、そんなわけありません。

 
 人は自分の欲に従って生きているものですから、お話の「書き手(作り手)」だって作りたいものを作りたいように作っています。だから「お話」はわかる人がわかるようにしか作られていないのです。「書き手(作り手)」は「よしこ」と同じでそんなに能力が高くもなければ親切でもないのです。「見る人全員が理解できるように作ろう」なんて立派なこと考えて作っている人なんていません。断言します。一人もいません。


 ですから作者の意向なんか気にせず、こっちだって勝手に見ればよいのです。「このシーンでヒロインが何を考えているのかわからない」とか「あの衣装はハデだな」とか「あの俳優の目付きがこわい」とか「主題歌がステキ」とか、自分の感想を持てばよいのです。そういったことを重ねていけば自然とセンスは身に付きます。
 「わからない」があっても、その「わからない」を気にしながら生活していけば、そのうち「わかった!」という時が来ます。なにしろお話は人の「感情」に関するもので、「論理的」なあなたにもきちんと感情はあるのですから。




今回は長くなってしまいましたが、これでおしまいです。みなさんが「論理的」であることを崩さず、それでいて豊かな「感情」をもつ、そんな人間になれることをお祈り申し上げます。

ここまで読んでくださりありがとうございました。

“I can fly”は「翔べらぁ!」と訳すー英語の助動詞についてー

前回、英語の過去形についてお話ししましたが、ついでに助動詞についてもお話ししようと思います。

今回も私が中学生の時の話から始めます。私は中学生の時に「助動詞ってヘンだ」とおもっていました。


 中学1年生のときに英語の授業で助動詞canを習いました。canは「~できる」と訳されるもので、人の能力を表します。例えば

①I can fly.
(私は飛ぶことができます。)
②I can speak English.
(私は英語が話せます。)
のように使います。

 しかし一方で、「許可を求める、お願いをする」ときにも使われます。中学の教科書だと多くは疑問文の形で出てきますが、例えば

③Can I come with you?
(ご一緒してもよろしいですか?)
④Can you help me?
(手伝ってくれませんか?)

 これら“can”の用法を習った私は「どうして能力と許可とお願いが同じ助動詞で表現されるんだ?」と不思議に思いました。「不思議に思った」というより、1つの言葉に色々な意味があって、時と場合に応じて使い分けなくてはならないことが面倒だったから、いちゃもんをつけただけです。
 

 そんなわたしですから「全部『能力』で訳してやる!」と思って試してみました。

①´Can I come with you?
(私にはあなたとご一緒するだけの力があるでしょうか?)
②´Can you help me?
(あなたには私を助けるだけの力がありますか?)

 試しては見ましたが、おかしなことになりました。
 ①´の訳は自分の能力を他人に訪ねていますが、こんなセリフが使われる状況が思い付きません。弱虫の男の子が勇者に「私の旅についてこないか?」と問われて「僕にできるかなあ?」と自信なさげに答える、というお話の世界の状況ならありそうですが。
 ②´の訳は相手の能力を尋ねています。しかし、やっぱりヘンです。「あなたには私を助けるだけの力がありますか?」は「果たしてこの私を『助ける』などということができますかね?あなたごときに!」という上から目線のセリフです。人にものを頼む態度ではありません。

 “can”を全て「能力」で訳すことに失敗した私は「うまくいかないな」と悔しくはありましたが「まあいいや」で済ませました。




 “can”はそれで済みましたが、中学2年生の時に私は“will”でまた引っ掛かりました。“will”は「未来の表現」の項目で習いましたが、「未来の表現」には以下の2通りがあります。

⑤I am going to visit Kyoto next month.
(私は来月京都を訪ねる予定です。)
⑥I will visit Kyoto next month.
(私は来月京都を訪ねるつもりだ。)

 be going to は未来の予定の表現で、willも未来の予定を表す助動詞です。「どっちもおんなじなのか?」と思った私ですが、そのとき先生は「be going toは確定した未来を表すが、willは未確定の未来を表す」と教えてくれました。「be going to」の方は実現することが決まっていて、「will」の方は実現するかどうかわからないということです。「同じことをどうして2通りで表現するんだ」と思った私ですが、“can”の時の失敗で懲りていたので、モヤモヤしてはいたものの、「『未確定の未来』なんて、アメリカ人もあいまいなことを言うんだな」くらいの感想で済ませ、おとなしくしていました。



 
 それから20年近く経った私の心境の変化については前回書きましたので今回は省略しますが、とにかく「心」だったり「気持ち」という観点を持つようになった私は、「助動詞は気持ちを表すときに使われる」と最近になって思い付きました。


 それはまず“will”の方からわかりました。“will”は助動詞ではありますが、名詞だと「意志」という意味を持ちます。これを知った私は、be going toはなんの気持ちも込めない「予定」を表し、willは「行きたいから行くんだ」という表現なのだと思いました。そうすると、先ほどの訳のニュアンスが変わってきます。

⑤I am going to visit Kyoto next month.
(私は来月京都を訪ねる予定です。)

 be going toはこの例文の場合、「別にいきたいわけではないけど出張で行かなくてはならない」とか「休みの日は家で休んでいたいのだけれど、家族が行きたいって言うから仕方なく行く」とかいったニュアンスがでます。

⑥I will visit Kyoto next month.
(私は来月京都を訪ねるつもりだ。)

 willはこの例文の場合、「前から京都に行きたくて自分で旅行の計画をたてた」とか「京都ってどんなところかわからないけど、家族でお出掛けするから楽しみ」とかいったニュアンスが出るでしょう。ですから「私は来月京都を訪ねるつもりだ。」より「来月ね、京都に行くんだよ!」とでも訳した方が良さそうですね。


 willとbe going toの違いについてこう考えた私は、canにも似たような仲間がいたことを思い出しました。be able toです。


 be able toはcanと同様に「~できる」と訳します。例えば

He is able to swim very fast.
(彼はとても速く泳ぐことができます。)
I was able to catch the last train.
(終電に乗ることが出来た。)

という風に使います。私はbe able toとcanを比べてみて、「be able toは事実を表すが、canは気持ちを表す」と考えました。



 それではcanの「気持ち」を前面に押し出した訳をつくってみます。まずは③④許可・お願いです。

③Can I come with you?
(ご一緒してもよろしいですか?)
④Can you help me?
(手伝ってくれませんか?)

 ③は「私がご一緒してもあなたは不快ではありませんか?」とか「私がご一緒したらあなたは喜んでくれますか?」とか訳せます。④は「あなたは私のために力を貸してもよいと思ってますか?」だとか、「あなたは私のためにあなたの時間を割くだけのお気持ちがありますか?」だとか訳すとよいでしょう(すこしくどい訳になりますが)。


 それでは①②の能力を表す方のcanはどうでしょうか?こちらはbe able toと並べるとその違いがよくわかりますので、並べます。

①I can fly.
(私は飛ぶことができます。)
⑦I am able to fly.
(私は飛ぶことができます。)

②I can speak English.
(私は英語が話せます。)
⑧I am able to speak English.
(私は英語が話せます。)

 先に②と⑧についてです。⑧は「英語が話せる」という事実を表すので、訳はそのままです。ただ、⑧を言った場合、何らかの英語の資格を持っていたり、英語を使って仕事をした経験があったりという裏打ちが必要です。
 それに対して②は気持ちですので「わたし、英語話せるよ」とか「ボク、英語話せるもん!」とか訳すとよいでしょう。この場合、実際には英語を話せなくてもかまいません。「英語を使う人とお話しするんだ、きっとできるさ!」と本人が思っていさえすれば言えます。


 次に①と⑦です。⑦は事実を表すので、やっぱり訳はそのままです。ただ、「飛ぶ能力」を持つ人間が現実に存在するわけありませんから、SFマンガやヒーローものの映画のセリフに限定されます。
 ①は気持ちですので、「翔べらぁ!」とでも訳すとよいでしょう。こちらも現実で言う機会はなさそうです。実際に飛べなくてもこのセリフを言うことはできますが、実際に崖から飛んだら墜落して死んでしまうのでやめた方がよいでしょう。




いかがでしたか?

 英語の本を読むときや洋画を見るとき、また実際に英語を使う外国人と話すとき等には「助動詞は気持ちを表す」ということを意識してみると、新たな発見があるかもしれません。
 また学生さんは英語のテストのときに「助動詞は気持ちを表す」ことを意識して問題を解いてみてください。I can fly.を「翔べらぁ!」と訳したら減点されるかもしれませんが、英語の先生にウケることは確実です。多少の減点は覚悟の上で先生を笑わせてやりましょう。

その方が楽しく生きることができるでしょうから。